第15話 朝の初仕事
着替えを済ませ、厨房を通りにホール集まる。
セッカさん、店長、そしてスズメさん──全員がそこにいた。
「ということで、初くんが『りうか』に加わってくれました〜。皆、優しく業務を教えてねぇ〜」
「はいッス!」
元気よく返事したのはセッカさんだけだった。スズメさんは、腕を組んでそっぽを向く。
「じゃあ、僕とセッカは、朝の仕込みやってるから、テーブルとかやっといて〜」
その言葉を残して二人は厨房に消えた。残されたのは、僕とスズメさん。空気が、刺すように冷たい。
「……変なことしたら殺すから…」
まるで息を吸うように、脅しの言葉を吐く。怖かった。
笑う余裕もなく、ただ「はい…」とだけ答えた。
スズメさんはカウンターの横にある扉を指差す。
「そこのトイレに掃除用具あるから取ってきて」
言われるままにドアを開く。洗面台と二つの扉。なんとなく左を開けると、バケツ、雑巾、モップが出迎えた。
───こうして、僕の「初仕事」が始まった。
朝の掃除は単純だが、終わりがなかった。
雑巾を絞り、テーブルの脚を拭き、また雑巾を洗う。
だが──本当の地獄は、開店のベルとともに始まった。
「いらっしゃいませ〜!」
扉が開くたびに、世界が加速する。客は波のように押し寄せ、メニュー表を指さしながら次々と注文し
てくる。
注文を聞き取るだけで頭がいっぱいになる。伝票を書く手が震える。
「すみません、もう一度……」と言えば、客の眉がひそむ。
厨房からはセッカさんがやって来た。
「落ち着いて行けば大丈夫ッスよ。先にドリンク決めさせると流れが楽ッス!」
とにかく手を動かす。
焦ると、レジ操作までおかしくなった。金額を打ち間違えてしまう。
周囲の客がざわめき、顔が燃えるように熱くなる。
すぐに店長が現れ、明るい声で場を収めた。
「すみませ〜ん!こちらでお直ししますね〜!」
その笑顔に救われたのか、客も笑って許してくれた。
昼が近づくと、戦場は本格化する。食器の音、オーダーの叫び、フライパンの焼ける音。
視界のすべてが忙しさに溶けていく
スズメさんは無駄のない動きで接客をこなし、セッカさんは笑顔で厨房とホールを行き来し、店長は全体を指揮していた。僕だけが、空回りしていた。
それでも、午後には少しずつリズムが掴めてきた。
腕が痛くても、止まれない。
───働くって、こんなに大変なのか…。
気づけば、店は閉店時間になっていた。静まり返ったホールで、皿を洗い、床を磨き、
翌日の仕込みを少しだけ進める。
指先が痛い。それでも、不思議と悪い気はしなかった。
ニート歴八年。文字通り死ぬ気で働いた。無為に過ごした時間とは違う疲労が、確かに、胸の奥に残っていた。
「今日はよくやったよ〜。慣れたらもっとできるから、無理せずにね〜。」
ドバト店長の声が、最後の蛍光灯の下で柔らかく響く。
一つだけ確かなことがあるのは、終わったときの疲労は、無為に過ごした日々のそれとは違う重みがあった。
店長が最後の明かりを消す前に、ふわりと言う。
セッカさんは僕の肩を軽く叩いて、
「明日も頑張りましょうッス!」と笑った。
スズメさんは腕を組んで、一度だけこちらを見て、短く言った。
「次は、もっとしっかりやって」
その声に、思わず背筋が伸びた。
今日一日で何かが変わったわけではない。だが、自分が「動いた」という事実が確かにあった。




