第179羽
フォルスに召喚されて現れたのは、ゆったりとしたシンプルな服に身を包んだ長い銀髪の少女だった。
透き通るように白い肌と彫刻を思わせる整ったかんばせ。
今は閉じられているそのまぶたを開くと、涼しげな薄い水色の瞳があらわになることを俺は知っている。
「ティア……!」
ティアルトリス・ラトア・フォルテイム。
俺のアシスタントを自称する、天然チート娘だ。
この異常事態が発生した初日、過剰魔力にあてられて意識不明の状態に陥ったため実家に送り届けたはず。
どうしてそのティアがここにいるのか。
いや、どうしてフォルスに召喚されたのか。
空間のねじれから現れたティアは、横になったままの格好でふわりと地面に降りてくる。
目が閉じられていることからも、おそらく意識はまだないのだろう。
どこからともなく現れた植物の蔓がティアの体に巻き付いていく。
無理やり体を起こされた形のティアが、意識もないまま宙に吊り下げられる。
その喉元へそっとフォルスの神器が突きつけられた。
「なんのつもりだ……、フォルス!」
明確な意図を感じさせるその行動に、それでも俺は叫ばずにはいられない。
「ずっと友人のふりをして観察を続けた結果、兄上の一番大事なものを見つけることが出来たんだよね。いや、結構わかりやすくて助かったけど」
「人質とでも言うつもりか……!」
「ハハハハハ! 創造主ともあろう者がずいぶんな取り乱しようだね。そんなにこの人間が大事かい、兄上?」
「何を……!」
「しょせんは数多生み出した命のひとつだろう? 創造主にとってたかだか人間のひとり、そこまで固執する必要なんて本来無いのに」
哀れむようなフォルスの視線が俺に突き刺さる。
「記憶と能力を封じたあげく人間として暮らし続けて考えまで人間っぽくなっちゃったんだね。昔の兄上なら穏やかな顔で『いたずらに生命を傷つけるべきではない』とか諭してくるところだろうに」
確かに俺は人間に染まりすぎたかもしれない。
ティアはあくまでも創造主として愛でるべき人間という種の一個体でしかないのだろう。
しかし人間として生きてきた俺の記憶と感情がそれを強く否定する。
どっちが正しいとかじゃない。
今の俺はフォルスに腹を立てているし、ティアをしょせん数多く存在する人間のひとりだと切り捨てることなど出来ない。
ああ、まったくお前は優秀な弟だよ。
的確に俺の弱点を見抜き、こうして効果的に使っている。
腹が立つほど抜け目がない。
だがいくら神とはいえ、眷属でもなければ契約しているわけでもない対象をそうそう簡単に召喚などできないはずだ。
ティアがフォルスの眷属だったなどとはさすがに思えない。
「……なぜお前がティアを召喚できる?」
「ああ、それ? アヤさんから指示された仕事にかこつけて、フォルテイム家の屋敷全体を対象範囲にした召喚陣をこっそり潜ませておいたんだよ。意識がないから抵抗も無いしね」
ちっ。
そういうそつの無いところも用意周到なところも、敵対する今となってはやっかいなだけだ。
「で、どうする?」
「どうするってのは、どういう意味でだ?」
「大人しくしていてくれるなら、ティアさんにも危害を加えないけど」
フォルスらしからぬ馬鹿げた提案を俺は鼻で笑う。
「ハッ! 何かと思えばとぼけたことを。俺に邪魔するなって、お前の目的はこの世界を崩壊させることなんだろ? だったら最後にはどのみちティア自身も消えちまうってことじゃないか。人質の意味あんのか、それ?」
「もちろんないね」
「……俺をおちょくってんのか?」
即答するフォルスにちょっとムカついてきた。
「だけど少なくともこうしてティアさんがこっちの手にある間は、兄上もうかつに動けないでしょ?」
だがその言葉を否定することも俺には出来ない。
理性ではティアひとりと世界の命運を天秤にかけることなど出来ないと分かっていても、人間として生きてきたレバルト個人の感情がそれを許してはくれなかった。
「ティアに手を出すなら、こっちもそれなりに考えがあるぞ」
心の底から怒りがわき上がる。
苛立ちと敵意を隠しもせず、恫喝めいた口調で俺がそう告げるとフォルスはため息混じりにつぶやいた。
「人間ひとりにどうしてそこまでこだわるんだか」
まるで哀れむような言葉を俺に投げつける。
「この世界を正常化する未来よりもこんな小娘の方が大事なんだね。兄上は」
「……」
どっちが大事かとかいう問題じゃないだろうが。
『私と仕事、どっちが大事なの?』とか実際に言う女もいるらしいけど、そんなの同じ物差しで比べるもんじゃねえっての。
俺にとってはティアもフォルスも人間たちも、この世界の未来だって、みんな大事なことに変わりはない。
そんなことも分からないのか、この愚弟は。
「だんまり? ふうん、僕とはもう口も利きたくないってこと? つれないなあ」
俺の沈黙を曲解したフォルスがおどけてみせたのも短い間のこと。
木もれ日のような笑顔を浮かべて意味ありげなことを口にした。
「でもまあ、すぐに考えも変わると思うけど」
「……何を企んでる?」
「僕がなんのためにティアさんを召喚したと思う?」
形の良いティアの顎をフォルスが右手の人さし指で軽く持ち上げる。
触るんじゃねえよ。
「単に兄上の動きを封じるために呼び出したとでも思った?」
「違うってのか?」
「じゃあ、答えを見せてあげるね」
フォルスがそう口にするなり、すぐそばの空間が歪みを生み出す。
また何か召喚するつもりなのかと警戒する俺の目に、予想外の光景が映し出される。
空間の歪みは鏡のような光沢のある平面を形作った。
その色は次第に澄んでいき、やがて何かを映しはじめる。
「何を……?」
フォルスの意図するところが分からない。
鏡面の向こうに映し出されたのはどこかのリビングらしき風景だ。
ふたり掛けのソファーにローテーブル。
どこの家庭にもあるような一般的なリビング……いや。
あのクッションの形と壁紙の色、なんだか見覚えがあるぞ?
『えっ! 何だこれ!?』
『お父さん、立体映信のスイッチ入れた?』
『俺は知らないぞ』
突然だったらしい不審な現象に、リビングからであろう声がこちらにも届いてくる。
……なんだか聞き覚えのある声だ。
『あっ、ルイちゃんダメよ! 危ないから近付かないで!』
『ンー?』
鏡面の向こう側からどんぐりのような瞳がこちらを覗き込む。
サラサラヘアの希少種ゴブリン、ルイだ。
向こうからもこちらの様子が見えているらしく、ルイとそれを止めようとしていたラーラの母親の姿が全身映っている。
ということは、向こうに見えているのはラーラの家か?
『ンー!』
ルイの目が捕らわれているティアを見つけた。
植物の蔓で全身を拘束され、宙に吊り上げられた形のティア。
そのそばには片手でティアの首に剣を押し当て、もう一方の人さし指で顎を引き上げているフォルスの姿。
どう見てもティアの危機であることは一目瞭然だ。
『ンー! ンー!』
今ではすっかりティアに懐き、ことあるごとに甘えているルイである。
この状況を目にして大人しくしていられるはずがない。
『ああっ! ルイちゃん待って!』
ラーラの母親の腕を振り払い、ルイは鏡面へ向けて駆け出した。
いや、こちらから見れば飛び込んできたという方が正しいか。
普通の鏡ならルイが頭をぶつけて額のコブをさらに膨らませるだけだが、あの鏡面はフォルスが作りだした空間の歪み。
当然物理的にぶつかるはずもない。
「ンー!」
鏡面をすり抜けたルイが空間を跳躍してこの場に現れた。
すぐさまティアに駆け寄ろうとするルイだったが、その小さな体をすぐさまかっさらうイケメンの細マッチョな腕。
誰の腕かは言うまでもないだろう。フォルスだ。
「ンー!」
その腕から逃れようともがくルイだが、あの幼児体型にそんな力があるわけもない。
くそっ、ティアを召喚したのはこのためだったのか!
「あ、分かったみたいだね」
俺の思考を表情から読み取ったフォルスが、消えていく空間の歪みを背にしながら頼んでもいない解説を始める。
「いくら僕でもルイを直接召喚するのは無理だからね。でも開いた空間へ本人が飛び込んでくれば召喚するのと同じだろう? ティアさんにはそのための好餌になってもらったんだ」
召喚が無理とみて、ルイ本人の意志でこちらへ来るように仕向けた。
つまりはそういうことだ。
ティアに対するルイの懐きようを考えれば確かに有効な手段だ。
餌にするのは俺やラーラでも良かったのだろう。
だが俺を捕らえるのはまず無理だし、ラーラは月明かりの一族が守りを固めている。
意識を失ったティアを召喚するのが一番手っ取り早くて確実だったというわけだ。
まずいな。
俺の背中を冷たい汗がひとすじだけ流れ落ちた。
何故もっと早くフォルスの狙いに気が付かなかったのか、後悔の念が俺を襲う。
「お父様」
フォルスを睨む俺にクロ子が声をかけてくる。
どうやらフォルスが呼び出した神獣たちは全て排除が完了したようだ。
「あれは……ティアさんとルイ?」
同じくやって来たアヤがティアとルイの姿を見て驚いていた。
そうすると、当然ながら残った面子もこちらにやってくる。
エンジはともかくラーラがあの状況を目にしたら――。
「ル、ルイ! フォルさん、ルイが嫌がってます! 放してください!」
当然騒ぎはじめるに決まっている。
「クロ子、悪いがラーラが突っ込んじまう前に押さえておいてくれるか?」
「お任せくださいお父様!」
いろいろと残念な使徒だが、理由も聞かずに指示へ従ってくれるのはありがたい。
放っておいたらまず間違いなくラーラがフォルスに突撃していく未来しか見えないからな。
「何故ここにティアさんとルイが?」
残ったアヤが当然の疑問を口にする。
「フォルスの切り札だそうだ」
「あのふたりがですか?」
「ああ。面倒なジョーカー切ってきやがったよ」
ルイはなおもフォルスの手から逃れようともがいている。
こっちはこっちでクロ子を振りほどこうとラーラがもがいているけど。
「元気が良いね。もっとも、その元気もいつまで続くかな」
暴れるルイを片手で持ちながら、フォルスがどこからかひと振りのダガーを取り出す。
そのまま何の予備動作もなくフォルスがダガーをルイの腕に突き立てる。
「ンンー!」
「ルイィィィ!」
響きわたるルイの悲鳴とラーラの声。
同時にそんなものが気にならないくらいの異変が発生した。
「な、なんっすか!?」
エンジがうろたえるのも当然だろう。
なぜなら今、俺たちの立っている地面全体がとんでもない揺れを起こしていたからだ。
「じ、地震!?」
さすがのアヤも事態が飲み込めないでいる。
立っていられなくなったエンジがひざをつき、それでもふらついて四つんばいになる。それくらいの揺れだ。
俺の家にいるとき発生した地震なんて比べものにならないほど、まるで世界全体がねじれていくような激しさを見せている。
空気がきしみ、大地がねじれ、音と光が四散する。世界が悲鳴をあげていた。
「か、神様……これは一体?」
「ルイだ。ルイが傷つけられて苦しんでいるんだ」
「ルイ……が?」
「俺がその力をリンシャンへ封じていたように、ローザが俺の個人端末を依り代にしたように、この世界自体も形代を持っている」
フォルスがこの世界を崩壊させたいのなら、異元結節点を使って世界規模の魔力暴走なんて起こさなくても、ルイひとりを殺せばいい話だ。
いや、考えてみればいつもルイのそばには俺がいた。
さすがのフォルスも俺の目が届かないところでルイをなんとかするのは無理と考えていたのかもしれない。
なんせ世界そのものの形代だからな。
耐久性だけは無駄に高いはずだ。
上位古白竜のブレスが直撃しても一発じゃ死にはしないだろう。
「だけど形代は世界のバックアップであると共に表裏を成す存在だ。どちらかが傷つけば当然もう一方も傷つく」
「それが、あの子だと?」
「ああ」
今目の前で刺されたルイと世界の悲鳴が連動しているのはそのためだ。
ルイは世界であり、世界はルイである。
この世界が生み出した擬似的な生命体であり、世界そのものの形代。それがルイだった。
「ひっそりと人知れず隠れていれば良かったものを、なんでまた俺の前にひょっこり姿を現したんだか」
「神様が万物に慕われるのは仕方ないことでしょう」
それは……喜んで良いものか悪いものか。
よくわからん。
確かに俺の目が届く場所にルイがいたことでフォルスのちょっかいを防げていたのだろうから、結果的には良かったのかもしれない。
俺の知らないところでフォルスがルイを見つけていたら、今頃どうなっていたことか。
「状況は分かりました。私が先行して注意を引きますから、神様はルイを――」
「おっと、変な動きはしないでねアヤさん」
口の動きを読んでいたのか、アヤが言い切る前にフォルスが割り込んできた。
「これのしぶとさは十分織り込み済みさ。だからこそティアさんにはもう少し役に立ってもらわないとね」
フォルスの片手が再び剣を手にする。
その切っ先が向けられているのはティアの首元だ。
「ティアさんのおかげで僕はゆっくりとこれを破壊できる。兄上たちはそこで大人しくしておいてくれるかな?」
「世界が崩壊すると分かっていて、指をくわえて見ているとでも思うの?」
俺のセリフを再現するかのようにアヤが反論する。
「口ではどうとでも言えるだろうけど、世界を救うためならアヤさんはティアさんを見殺しにできるのかな?」
「くっ、そんな言い方……」
「少なくとも兄上は見捨てられないみたいだよ。兄上の意向に逆らってでもティアさんを殺すかい? 使徒アヤ」
アヤがチラリと俺を窺う。
すまん、アヤ。
俺が今ここでティアを諦めれば反撃もできるだろう。
だが神としての理性がそうしろと告げる一方で、人間としての感情がそんなことできるかと声高に訴えている。
イエスともノーとも言えず、俺は沈黙を保っていた。
「そうそう、それで良いんだよ兄上。心配しなくても新しい世界にはティアさんもアヤさんも創ってあげるさ。ラーラやエンジも、なんだったらあのネコも。欠陥のない完全な世界で、今度もまた人間として平和に暮らせば良いよ。そこは約束してあげる」
フォルスは嘘を言っていない。
きっと約束した通り、新しい世界にはティアと瓜二つの容姿を持った人間が生まれるだろう。
生まれ持った魔眼に悩まされることもなく、裕福な家に生まれた女の子として大事に育てられ、その容姿で街行く男たちの視線を集めるのだろう。
もしかしたらフォルスは俺とティアが出会うところまで面倒見てくれるつもりなのかもしれない。
だがその世界で出会うティアは、もはや俺の知っているティアとは違う。
新しい世界で生み出されるティアはその形だけを模倣したただの複製でしかない。
そんなもの、俺は求めちゃいないんだ。
「ンンー!」
なんとか打開策をと考えている間に再びフォルスがルイの体を傷つける。
今度はダガーなんてものじゃない。
ティアへと突きつけていた剣の切っ先がルイの腹部に突き刺さっていた。
「さすがに頑丈だね。この剣でも貫通するのは無理か」
「ンンンーー!」
ルイの叫びに呼応して、世界がさっきよりも激しく震える。
地震どころの話ではなくなっている。空間そのもの、次元そのものが揺れ出していた。
もはやこうなっては魔力の暴走がどうこういうレベルの話じゃない。
異元結節点の影響なんて可愛く思えるほどに魔力の濃淡がめまぐるしく切り替わる。
俺たちの周囲五十メートルほどの距離ですら、まったく魔力の存在しない空間と過剰な魔力が物質化するほどの濃い空間がマーブル模様のように乱れ、入れ替わっていた。
魔力が濃すぎるが故にそれを上手く体外に排出できず、意識を失うまでに至ったのがティアだ。
ならばその魔力が一時的にとはいえ薄くなればどうなるか、言うまでもない。
「ル、ルイ……」
薄くなった魔力によって意識不明の状態から脱し、ルイの悲鳴に呼び覚まされたティアがそのまぶたをゆっくりと開いた。




