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女の子になれる機械  作者: 半ノ木ゆか
第三話 海へ行こう
12/25

#12 空色のビキニ

 図書館は冷房が効いていた。ゲートを抜け、吹抜を見上げる。各階の棚に、本が所狭しと並んでいる。


 積み重ねた本の前で、白い表紙のノートを開く。入門書を捲りながら、僕は思った。


「MtF」は「Male to(男性から) Female(女性へ)」の略。身体的性は男性、性自認は女性――つまり、シュシュちゃんはMtFだ。


 一人で頷き、言葉をノートに書き留めてゆく。


「シュシュちゃんが初めて性別を意識したのって、幾つの時?」


 シュシュの病室にお邪魔して、僕は訊ねた。彼女が天井を見上げて言う。


「幼稚園の時だよ。私はいつも女の子と遊んでて――」


 ノートを捲り、彼女の言葉を書き留める。


 面談室で、新宮医師にネットでの論文の探し方を教えてもらった。サイトの検索窓に言葉を入力し、釦を押す。星の数ほどの文献がスマホの画面に表示された。


 彼女がパソコンを見せて言う。


「この論文は英語ですが、かすみさんの学力でも読める筈ですよ。シュシュさんや朝顔さんと同じ悩みを抱える人たちに、聞取調査をしています。あなたの経験と比べてみて下さいね」


 僕は、紹介された別の論文を開いた。ハッとして、新宮医師を見遣る。膝に乗せていた白いノートが落ちそうになる。


 執筆者の欄に「NIIMIYA Emi」と書かれていた。


「それが私の原点なの」


 彼女は「そうそう」と、思い出したように言った。


「その論文に、『五つ目の性別』について書かれている所があります。あなたの本当になりたいものを知る、手がかりになる筈です」




 エスカレーター脇のソファーで、僕たち三人は額を集めていた。海水浴場の写真が僕のスマホに表示されている。朝顔が言った。


「私、月曜日から五日間家に帰るの。だから今週末がいい」


「僕も二人も、土曜日は面談だよね」


 シュシュが勢いよく立ち上がる。


「じゃあ、日曜日に行こう!」


 わくわくしながら駅ビルのファッションフロアを歩く。今度の海水浴で着る水着を買いに来たんだ。


 朝顔は女の子の体で、中性的な服を着ている。僕たちは立ち止った。男女の水着売場が通路を挟んで向い合っている。


「朝顔ちゃんはどっちの水着にするの?」


 シュシュが二つの売場を見比べながら言った。朝顔は少し考えて、自分の臍の辺りに触れた。みるみるうちに男の子の姿になる。僕は目を瞬たかせた。


「両方買っておくよ」と言って、彼は男性用水着の売場へ歩いていった。


 シュシュと一緒に女性用の水着を見る。彼女は一つを手に取り、楽しそうに言った。


「わたし、今までは人前で泳ぐの苦手だったの。だけど、こうやって好きな水着を選べるなら、海に行くのもうきうきするね」


「僕も。こんなに色々あるなんて知らなかった」


 店内を見渡し、微笑む。


 男性の着る物は、女性の物に比べて形の種類が少いと思う。水着は特にそうだ。僕にはそれがつまらなかった。


 目の前には、様々な色や形の水着が飾られている。上下が分れている物、繋がっている物。肩を出す物、出さない物。ズボンのような形の物、スカートのような形の物。――それぞれに名前があるんだろうけど、僕はまだ知らない。


 空色のビキニに手を伸ばす。


 可愛い。着てみたいなと思った。素脚を出すのは正直恥しかったけど、男の子の時に着ていた上半身裸の水着より、ずっと素敵だと思った。


「その色が好きなの?」


 シュシュの言葉に、水着を見直す。初めて三人で出掛けた時も、ショーウィンドウの中の、こんな色のワンピースに見とれていたっけ。


「そうかもね」


 僕は口元を緩めた。


「何かお探しですか」


 店員に声を掛けられて、シュシュが答える。


「はい。海に着ていく水着を」


 僕はビキニのハンガーを握ったまま、二人のやり取りを何気なく眺めていた。


 店員が、カラコンをはめた大きな瞳に僕たちの姿を映す。その眼差がどこか作り物っぽくて、僕は言葉にできない不安を感じた。にこりと目を細めて、品物を紹介する。


「十代の()()にはこちらがおすすめですよ。()()校生の方でしたから、この色味も可愛くてお似合だと思うのですが――」


 その時、僕の胸に今まで感じたことのない気持が込み上げた。目の前が真っ暗になるほどの、強烈な切なさだった。動悸と激しい吐気が、畳み掛けるように僕を襲う。


 口を押さえる。


「ごめん。ちょっとトイレ」


 水着を棚に戻して立ち去る。驚いたシュシュが何か言っていたけど、聞こえなかった。男子トイレに駈け込もうとして、通りかかった女性に「女子トイレはこっちですよ」と言われた。


 女子トイレの個室のドアを閉める。膝から崩れ落ち、肩で息をした。戻すことはなかったけど、酸っぱいものが喉の内側に染みて、すっきりしなかった。


 僕は戸惑っていた。汗がお腹を伝う。ワンピースの胸をきゅっと握り、何度も自分に問いかける。


 どうしてこんなに心が痛むの?


 ただ「女子」って言われただけでしょ?


 僕は女の子になりたいんじゃなかったの?




 銭湯の帰り道、朝顔に「どうしたの? むつかしい顔して」と言われた。


「朝顔ちゃん……」


 橋の欄干にもたれて、僕はすがるように話した。胸には白いノートを抱えていた。街の明りが水面に映り、揺らいでいる。


「――そうなんだ」


 朝顔がいつも通り穏やかに笑う。僕は戸惑った。声が上擦る。


「な、なんで笑うの」


「それってきっと、かすみが男の子だってことでしょ」


 祝うように言われて、理解が追い付かなかった。僕の悩んできたことが、音を立てて崩れてゆく。顔がかあっと熱くなった。


 僕の気持に気付かぬまま、朝顔が続ける。


「かすみの心は男の子なんだよ。だから女の子扱いされると、自分を否定されたみたいに感じるんじゃないかな」


 いつもなら心が落ち着く、おっとりした喋り方が、今はじれったい。拳に力がこもる。僕は彼女に裏切られたように感じた。


 ノートを足元に投げ捨てる。


「朝顔ちゃんにそんなこと言われるなんて、思わなかった」


 朝顔が啞然とする。


 彼女の足元で、風がぱらぱらと頁を捲る。長い髪を靡かせながら、僕は夜空に吐き捨てた。


「自分を決めつけられることがどんなに虚しいか、君なら解ってくれると思ったのに……」




 面談中、僕は何気ないふりをして質問した。


「新宮先生は、どうして女の子になれる機械を作ったんですか」


「それはもちろん、性別に悩んでる人たちのためですよ」


 パソコンの鍵盤を叩きながら答える。得意気な表情に、胸がひりひり痛む。気持を押し殺し、微笑みを顔に貼り付けて、念を押す。


「それって、心と体の性別が喰い違ってる人のことですよね」


 新宮医師から笑みが消えた。画面から目を離し、困惑気味に僕を見つめる。つっかえそうになりながら、僕は訊ねた。


「MtFでなくちゃ、女の子になったらいけないんでしょうか」


「まあ……」と驚きの声を漏らす。たった一つの質問で僕を察したみたいだった。彼女が眉尻を下げ、ゆっくりと首を横に振る。


「ごめんなさい。私には答えられないの」


「なってもいいんですよ」という答を期待していたけど、叶わなかった。僕の笑顔が崩れてゆく。泪がぽたりぽたりと落ちて、スカートを濡らす。


 いたわるように、でも付かず離れずの距離で彼女は言った。


「かすみさんの生き方を決めるのは、かすみさん自身なんです。私たちは、そのお手伝いをしているだけですよ」


 こんなお願いをしても彼女は応えてくれない。分り切った上で、それでも僕は言った。


「もう、僕が僕でなくなってもいい。誰か別の人になっちゃってもいいから、女の子になりたいんです」

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