第8章 第6話 In the moonlight◆◇
青さん白さんたちが去った27管区は、以前よりだだっ広くなったような気がした。
戻ってきたエトワール先輩は、いなかった期間の出来事について話してくれようとはしない。
でも、モフコ先輩やロベリアさんは事情を知っているみたいだった。
何となく大きな問題を抱えてるみたいだから、私も触れないことにした。
そうこうしているうちに、やってきた。
今宵は満月、メグの旅立ちの日だ。
私の神殿の天窓を開け放ち、大きく地上に接近した月を見上げる。
夜空は快晴で、暗闇に慣れた目では昼間のように月が明るかった。
祭壇の上の花瓶には、真っ赤で鮮やかな花ばかり選ばれて、抱えきれないほど大きな花束が活けてある。朝一番にメグが花畑から摘んできて私にくれたんだ。
ありったけの感謝と祈りを込めたと言って。彼女なりの餞別のつもりなんだろう。
モフコ先輩が、気を利かせてきれいな花瓶に活けてくれた。
手入れをすれば切り花も長持ちするんだよ。
そう言って……私が手で持っていたら、神気ですぐぼろぼろに朽ちてしまうから、そうならないようにとの配慮だった。モフコ先輩のそういうさりげない気配りに、私は本当に救われている。
『メグ行っちゃうね』
頭の上のモフコ先輩が仰る。私は、そうですね、とゆっくりと頷く。
『満月の夜を選ぶなんて、伊藤プロマネらしいよね。ロマンチストっていうか』
竹取物語みたい、何だかさ……。
と、モフコ先輩もまた、伊藤さんに負けず劣らずのロマンチストなコメントを仰った。
異世界に帰るって意味では、そうだ。
でも、これは悲劇ではないし、そうであってほしくない。
かぐや姫は月の薬を舐めて人間的な感情をなくしてしまったっていうけど、……まあ、しいていえば私とこの世界で過ごしたこれまでの記憶もなくなってしまったけれど、それを抜きにしてもメグはむしろ人として成熟したと思うし、強くなったと思う。
だから私はこう返す。
『旅立ちの日には、明るい日を、と思ったのではないかと思いますよ。伊藤プロマネは』
本当のところは、どうなんだろうな。
私はもしかすると、今日の訪れを待ち遠しく思っていたのかもしれない。
27管区世界ではもう彼女の顔を見ることができなくなるのは辛いけれど、傷ついた彼女が安全な場所へと帰り、彼女の現実における人生を再始動させる第一歩となる日だ。
『そっか』
頭の上から私の肩に乗りかえた毛玉状態のモフコ先輩は、くすっとモフ毛で私の頬をくすぐった。
『メグを見習って、次のステージを目指してみるかな……私も』
うん? どういう意味なんだろう。それって
『転職でもするんですか、先輩』
そうは言ったけど、なんとなく分かる。
先輩があれほど避けていた悪役(ランク3)をやろうとしてるんじゃないかって。
モフコ先輩が構築士としてのランクアップを図ろうとしているということは、間違いないと思う。
『赤井さんには ないしょ。でも、独りだけのんびりしてるのもいけないかなって思ったんだ』
皆さん、色々今後のこと考えてるんだろうなー。
4月になったら転勤や異動もあるだろうし。
ヤクシャさんやロベリアさんたちもずっと一緒にいてくれるってわけでもないだろうし。
特にヤクシャさんなんて、いつ甲種一級の選抜受かってもおかしくなさそうだ。
私はここにずっといるけれど、こうやって色んな人との出会いと別れがあるんだろうな。
でもまた、……まだ見ぬ新しい出会いもある、か。
『赤井君、もう時間だが。メグに何か言うことはないのかね』
神殿の拭き掃除をしていたエトワール先輩が私に尋ねる。
エトワール先輩は、戻ってきてくださった方だ。
『ええ、挨拶なら午前中にしました。私からこれ以上言うことはないです』
彼女の過ごすこの世界での最後のひとときを、邪魔だけはしたくなかった。
私にまつわる記憶を失った彼女に、私がかける言葉はうわっつらだけのもので響かないだろうから。
それより、27管区で出会った彼女と素民たちとの縁を大切にしてほしかった。
今頃、彼女は家族と最後の、本当に最後の別れを惜しんでいる。私の出る幕ではない。
『それに……どうやら最後というわけでもなさそうですし、ね』
私はインフォメーションボードの左端を見た。
伊藤プロジェクトマネージャーの配慮で、東 愛実という、新たなタブができている。
そのタブが活躍することになるのは、彼女がこの管区を去ってからだ。
『まあ、それはそうだろうが……』
エトワール先輩は、何か含むところがあるみたいだ。
そういや、エトワール先輩もメグに何か渡していたっけ。
『少し遅いな。もし、彼女が来なかったら……もう少し出発をずらすつもりはあるのかい?』
エトワール先輩は時間を気にしている。
その時を逃せば、メグが次に27管区を出発できるのは最短でも次の満月だ。
それでもメグが私の神殿に来るまで、現実世界馴化管区へのゲートウェイ開闢シーケンスは進まないよう、現実世界側で制御が入っている。
土壇場になってメグの気持ちが揺らいでもいけないし、彼女の決心が定まらないままで馴化管区に送ることはできない。
さらに、管区間の量子転送回路を開くには相応の調整と同期、補正が必要らしい。
準備をしてみたものの、空振りというのでは困る。
具体的には、経費の無駄ということだった。
『ええ。それは待ちます。ですが、来てくれると思いますよ』
そのために、メグは27管区世界を去るための準備を整えていたのだろうから。
メグが水面下で何かをしているらしいという話は、八雲PMからそれとなく聞いた。
それは構築士にとってと大きな脅威となる行動だろう、というそんな話だ。
八雲PMは、その動きを潰すか知らないふりをして見過ごすか私に判断を委ねると仰った。
私の希望に沿い、アガルタ上層部には口出しさせないと。
明言は避けたけど、問題が起こりそうなら管区を閉鎖しろという話なんだろう。
八雲PMに、この管区への愛着はあまりなさそうだ。
それも頷ける、着任したばかりだし。
エトワール先輩は、もしかしたら八雲PMは私に不祥事を起こさせたいのかもしれない、とも詮索している。どうなんだろうねそのあたりは。
まあ、どっちでもいい。私は私の仕事をしていくだけだ。
こつこつと、着実に。
そんで私は、彼らの行動を看過しようと思った。
結果、この27管区は人間の一般利用者のためには開設できなくなり、変則的運用を余儀なくさせられなくなるかもしれないが、それでもよろしいかと聞かれたけど。
この管区は素民たちと、そして患者さんたちの管区として機能すればいいと思う。
将来、人間を入れたとしても、制限をかけて、27管区世界の自治に従ってもらう。
そういうつもりでいれば、私は素民たちを裏切らなくてよくなる。
他管区のロイたちが暴君と化し、神々に叛逆して処分されたという話を聞いて、どうすれば裏切りを回避できるのか、私はこの世界で何ができるのかってずっと考えていた。
でも気付いたんだ。
裏切るのは、彼らじゃない。
どの世界でも、神が彼らを裏切ったんだ。
完成した世界に現実世界の人間たちを入れてやりたい放題させて、世界創造の立役者である素民を隅に押しやって。
そうじゃないんだ、神が変わらないといけなかったんだ。
何が正しいのかわからないけど、私は最近そんな思いを擁いている。
私が八雲PMにその旨を伝えると、「リスクを分かっていながら好奇心を懐くのも、人間というものですかね」と意味深なことを仰った。
好奇心なんだろうか。
私の彼らに対する思いは、一言では言い表せない複雑なものだ。
そんなやりとりがあってからここ数日。
私は偶然、インフォメーションボードに27管区世界で発生している微妙なノイズが検出されていることに気づいた。
当然、私も見つけたからには周波数を解析する。
暗号化もされていなかったので、簡単に解読できた。
それ、何だったと思う?
無線電波だよ!
27管区に無線が飛んでたんだよ! もうね、感動したよ!
音質はダメダメだけど、二地点できちんと通信はできてる。
でも誰が無線通信なんて教えたんだ? と悩んで メグか! とひらめく。
ナズかとも思ったけど、彼はまだそれほど記憶が戻ってるわけじゃない。
工科大生のナズの方がこういうことにかけてはポテンシャル高いんだけど、メグも基礎的なことは知ってる。
教わった原理をもとにロイがいろいろ試行錯誤してやってんのか。
あくまでも推測だけど。
それに、私が聞いた通信の全ては、ロイとメグの声でやりとりをしていた。
ちなみにそんな無線電波に乗せた秘密の通信の内容はというと、お昼ごはんはエド肉の焼肉、夜は野菜炒め、おやつはメケメケ、というクソどうでもいい内容で私は脱力した。
もーあの子らってば…… まあそういうところが、可愛げがあるってもの。
八雲PMの言っていた、彼らが水面下でやってることってこれか、そう思ったよ。
ぶっちゃけ想定の範囲内だ、私は彼らが電気に手を出そうとしたときから、こうなることは分かっていた。
それにしてもいいよね!
楽しそうだなー電子工作。私も学生時代の夏休みとかで、どっぷりハマってやったもんだよ。
彼らに交ざって私も色々作りたい。
デジタル時計とか、オーディオ作ったり、ソーラー発電パネル作ったり……でもだめか、わざわざ私に内緒でやってんのか。
私に妨害されると思うのかな。
むしろ一緒になって色々無線機器作りたいんだけどな。
まあ彼らの主体性に任せないと。
メグの去ったあとは、ロイがひとりで段取りつけてやっていくのかな。
一人でやってるうちに、色々と思い詰めないといいんだけど。
はー……ロイとも素民たちとも、私は彼らの味方でこそあれ、敵対なんてしたくないんだけどなぁ。
いつになったら、彼らの計画を教えてくれるのかな。なんて思う。
全面的に協力するつもりなんだけど……今はそっとしとこう。
メグには日没になったら、一人で神殿に来てくださいと言っている。
そういやメグを行かせまいとしていたのか、今日一日、ロイはメグにぴったりと寄り添っていた。
ロイは私に対して特に神経を尖らせているようだったから、私は午前中にメグが神殿に来てくれたのを除いては、出発間際の彼女には近づかなかったし、声もかけなかった。
メグの旅立ちのことを知らされていたのは、素民ではとうとうメグの家族と、それからロイしかいないはずだ。
こういう形でメグがこの世界を去ることになったのは、私がそういう選択をしたからだ。
というのは、メグ、つまり高次脳機能障害から回復した最初の患者さんが現実世界に帰還する際、
使用していたアバターから彼女の意識だけを分離させ、アバターは遺体として27管区に残すか、
どこか遠い場所へ旅立ってしまったと説明して、アバターごと27管区から旅立たせるか。
平たく言えば、仮想世界の死をもって帰還とするか、否か。
……という選択をしなければならなかった。そしてその選択は、管区主神である私に一任された。
私はほとほと悩んだ。
メグのアバターはもう、現実世界に戻る彼女には必要のないものだ。
彼女が死去したとすれば、残された家族や友人らは彼女の遺体を弔い、葬送することができ、悼むこともできる。
それはとても深い悲しみを齎すとしても、素民たちの心の整理をつけることができる。
でも、メグがいなくなってしまったら。家族も友人たちも彼女を諦めることができない。
彼女の帰りを待ち続けることになるかもしれない。
どっちがいいんだろう。
どちらを選んだとしても、メグの旅立ち、あるいは死は、素民たちに大きな動揺と私への反発を残す。
それで、私はメグが新たな世界へ旅立つという筋立てに決めた。
そちらのほうが、メグにも彼女の家族のためにも、よりふさわしいと思った。
メグは家族との別れを済ませてくるだろう。
彼女はもう二度と、ナズやマチやバルやカイには会えない。
今生の別れとなる。納得いかないだろう、場合によっては……いや、場合によらなくても、私を恨んでいる頃かもしれない。
理不尽さに怒っているかもしれない。
ロベリアさんとヤクシャさんが今、彼女を自宅にまで迎えに行っている。
別れを済ませたら、そろそろこっちへ来る頃だ。
耳を澄ませていると、静かなノックの音が聞こえた。
そしてロベリアさんが勝手口にしている小門を、ゆっくりと開いた。メグも一緒だ。
「赤い神様、おまたせしました」
支度を整えて、メグがやってきた。
家族やロイはメグを連れていかせまいと抵抗したかもしれないし、黙って見送ってくれたのかもしれないが、多分ヤクシャさんにたしなめられているか、返り討ちにされてるかも。
ヤクシャさんが戻ってこないところをみると、メグの家族は前者でロイは後者かな。
といって、私もメグに直接何度か言っているように、無理に彼女を送り出すつもりはない。
彼女にその覚悟ができないなら、まだ待ってもいい。
決心が鈍っているようでしたら無理には連れてこなくていいです、と使徒のお二人には伝えていた。未練が残るのではよくない。でも来たということは、メグは今日行くと決めたようだった。
『もう、これで準備はよいですか』
私は、あまり暗くならないように彼女に笑いかける。
メグは一瞬困ったような顔をして、それでも、気丈にも頷いた。
「はい。もう、行きます。行こうと思いました」
『ご家族には?』
「しっかりと説明をしてきました。言葉は尽くしました、ただ一言も、私がいなくなることを許してはくれませんでしたけど」
ただ、伝えるのは一方的だったという。
目の周りが赤く腫れているのが、彼らとの胸の詰まるような離別のひとときを偲ばせる。
可哀想なことをさせたな、お互いにこれほどなく傷ついただろうな、と私も心苦しい。
「あの……最後に祝福を、してもらいたいんです」
うん? ……うん。
『よいですよ』
彼女が祝福をして欲しいと言うので、私は今ある限りの力を使って祝福を授けた。
私の神力の効果が仮想世界に限定されるのは分かっている。
それでも現実世界にまで祝福の影響を及ぼすことができればいいなんて、今まで考えてもみなかったことを願った。
現実世界に出た彼女がこれからもずっと、健やかで幸福で実り多い人生を歩み、
大切な誰かと出会うことができ、悲しみは最小限に。
そんな願いを込めて、彼女に最後の抱擁をした。時間はそう長くはなかった筈だ。
メグは私の白衣をぎゅっと掴んで目を閉じていた。そして
「たくさん。たくさん、お世話になりました、赤い神様。あなたのおかげで、今の私があります」
メグは私の手を両手で握り締めた。
そして握り締めたその手を、祈るように彼女の額につける。私もその手を握り返す。
何て言えば、いいんだろうな。
『また、私の力が必要でしたら、呼んでくださいね。必ず』
それが直接でなくても、心の中であっても、呼ばれなかったとしても、別にいいから。
さようならと言うのも、違う気がしたんだ。
(……お疲れ様。先に戻っててよ。俺もいつか……遅くなるかもしれないけど、必ず戻るから)
私がメグに言いたかったのは、こんなところだ。
「はい、いつでも呼ばせてもらいます。きてくださいますか? 心の中にでもいいので」
メグは大きくひとつ、こくりと頷いた。
『いつでも』
私がそう応えると、インフォメーションボードが明滅を始めた。管区スタッフの間で目配せをする。
いよいよ始まる、始まってしまう。
ほかならぬ彼女の、たったひとりの旅立ちが。
【 管区間干渉、量子転送ゲートを開きます。管区間架橋シーケンスを開始 】
今回、彼女を伊藤さんのいる30管区に送るための転送方式は、アバターを分解転送しない方法だ。
私たち構築士は多少乱暴に転送しても構築マニュアルがあって精神安定化されているから困らないけど、メグは耐性のない元患者、極力ストレスをかけないようにと伊藤さんが配慮してくれた結果だ。
今回のメグの擬似脳の移管について、伊藤さんとは緊密に連携をとっている。
彼の配慮はひたすら、ありがたい。
私は神殿の最奥、至聖所から湖上に繋がる扉を開く。
この扉の向きは神殿の入り口から真反対にあたり、神殿が湖上にせり出している部分だ。
その扉の存在は知っていたけれど、これまでは開いたためしがない。
伊藤さんが神殿の中にこっそり造っていた隠し扉で、普段はびくともしない。
そこが、今夜だけ懐を開く。
軽く力を込めると、扉は事もなく開いた。
すると、目の前には、ガラスのような素材の透明な階段が宙に浮き、空高くまで連なっている。
『ここを進んだら、暫くこの世界には戻って来れませんが、よいですか。メグさん』
ロベリアさんが、最後にメグの同意をとる。
暫く、……というのは出まかせでも気休めでもない。
彼女がここに戻ってこようと思えば、いずれ戻ってこれないこともないだろう。
ただし、それはアガルタゲートウェイの一般利用者としての話で、そのときには私はいないし、メグの家族も友人たちもいない。
それは、彼女にとって馴染みのない異世界となっているだろう。
それを分かった上で、彼女はこの世界を出る。
「行こうと、思います」
彼女がそう心に決め、かみ締めるように言葉を発したときだ。
神殿の西の方角から、透き通った600~700nmあたりの波長の光条がアガルタ世界の隅々にまで差しのべられるように光に満ちた。
凪ぎのカルーア湖を菫色に染めて、茜色のグラデーションを経て、宙色へと抜ける。
息を呑むような美しさは、胸に鈍い痛みを拡散させてゆく。
27管区世界にひときわ輝く大きな満月が、静かに私たちを見下ろしている。
スーパームーンをバックにして、その夜空に、方形の亀裂が走った。
空間はどこへともなく切り取られ、異世界への扉の輪郭が現れる。
ゲートが開かれる。
【 管区間転送ゲート・両界接続完了 】
【 JPN:治験者ID1409の擬似脳を以下の管区に接続、転送します。確認 】
私のボードに、最終決定を聞いてきた。
『確認、許可します』
迷わず、許可を下した。
その後は次々とプロセスの処理情報が現れては消え、洪水のようにボードを駆け抜けてゆく。
夢を見ているように、覚束ない心地だった。
私はもうそのフローを止めることはできない。
【 管区管理者は認証キーを入力してください 】
私は、メグに割り振られたIDを間違えないように注視しながら、主神権限においてセキュリティキーを解除する。
【 ID1409擬似脳ニューラルネットワークを一時解除 】
これで、メグの擬似脳はもう、27管区の管轄管理下から外れたことになる。
【 ID1409バイオメトリクス認証完了 】
【 第27管区から第30管区へのエントリを許可します 】
【 生体時間同期完了・バイタルステータス・擬似脳ステータス・脈拍・血圧・正常 】
【 第30管区ニューラルネットワークを確認。再接続まで120秒 】
メグは私たちに向けてお辞儀をすると、振り向いてゆっくりと歩みを進める。
湖上から月へと向かって伸びる透明な階段を登り始めた。
階段を登りきった先は、27管区と30管区のはざかいだ。
そこは異界。
私たちの言葉はもう、届かない。
彼女は手すりに手を添えながら、こちらを振り向きもせず一歩一歩と踏みしめて階段を登ってゆく。
湖上は吹き降ろされた風に水面が波立ち、ざわめいていた。
清らかな涼風が、上空から吹き込んでくる。
階段の最上段に、大きな純白の扉が現れた。
スーパームーンと重なって、異界の扉は燦然とその輝きを増し、神々しい光輪を備えた人影が中から姿を現した。
【 天御中主神◆◆◆(ID:UNKNOWN)が27管区にログインしました 】
『あれは……』
伊藤プロジェクトマネージャーだ。
天御中主神のアバターに乗り、27管区とのはざかいにメグを迎えに来てくださった。
メグは遠目に見てもびくっとしていたけれど、彼に手を引かれてさらに扉の向こうへ進む。
そしてその姿は透明になり、伊藤さんの気配もかき消えてしまった。
あとに残された扉も段々と透明になって、彼女の踏みしめた階段とともに夜空に溶け込んでいった。
吹きすさんでいた風は、いつの間にかやんでいた。
【 ID1409転送完了 】
【 天御中主神◆◆◆(ID:UNKNOWN)が27管区をログアウトしました 】
あたりは静けさを取り戻し、スーパームーンという括りを超えた、狂気じみた異常な発光も嘘のようにおさまっていた。
私達、27管区構築士は、彼女の消えた夜空をいつまでも見上げていた。
何を眺めるともなく、ただ彼女がいなくなった事実を噛み締めていた。
彼女がここを去ったことを、私は喜ぶべきなんだ。
そう、波立つ心に言い聞かせた。それでもとめどなく流れる涙に戸惑う。
それが、メグとの別れだった。
私のインフォメーションボードには、こんな表示が残されていた。
【 日本アガルタ第27管区 第一世代住民(始祖)】
【 アバター名:メグ・バル(MEG-VAL)】
【 実名:東 愛実 】
【 患者ID:1409 】
【 帰還者管理番号:1番 】
【 仮想世界年齢20歳・実年齢23歳 】
【 アガルタ27管区滞在日数 4027日目(11年10日目)・完了 】
【 アガルタ30管区滞在日数 1日目・継続 】
急激に私を打ちのめしたのは、喪失感だった。
私は、神殿の中央の一番太い柱に、メグの名を刻みつけた。
旅立っていった人々を、これから旅立つ人々を、私も残された素民も忘れないように、この世界が終わるときまでここに刻んでいこうと決めたんだ。
あと何人の名前が、ここに刻まれてゆくだろう。
彼女の歩んだ後には、いつだって正しくて新しい道ができてゆく。
でも、私の歩んでいるこの道は、正しいだろうか?
***
【 アガルタ第30管区(第2医療特区) 137億2014万3821年 】
【 利用者1名 ステータス・制限稼働状態】
【 天御中主神◆◆◆(ID:UNKNOWN)が30管区にログインしました 】
扉の向こうにメグを誘った神は、赤い神より数段眩く輝いて見えた。
『改めまして、はじめまして。今日から、赤井さんに代わってしばしあなたのお世話をさせていただきます、天御中主……もとい、伊藤 嘉秋と申します』
伊藤は優雅に一礼をしてみせた。
彼……といっても、今は女神の状態である。
長い黒髪を真折で巻いて束ね、 倭文布の帯を締め、白い衣と裳をつけている。首には金の装飾具と、透明な勾玉が輝いていた。
「えーっと……よろしくお願いします、伊藤……女神様?」
何と呼んだら失礼がないのか、メグは戸惑ってしまう。
世界が違うのだから、適応が必要だ。メグはそう肝に銘じる。
『はは、そう見えますか。本当は女性じゃないんですけどね。紛らわしくてすみません。オッサンなんですけどね』
伊藤は客観的に自分の姿を見つめて、気恥ずかしくなったようだ。おどけたように言う伊藤に、メグはどんな反応をしてよいのか分からず、えへへ、と愛想笑いを返す。
オッサンとは自称していても、鈴を振るような美しい女声がする。
「え、でも、私には女神様に見えます」
『あーそうですかー。こりゃまいったな。男神が出るまでダイヴしなおしてこよっかな』
伊藤は、アバターの状態で話しかけるのを居心地悪く感じているようだ。
というのも、日本アガルタ最上級のアカウント、天御中主神◆◆◆のアバターはランダムでアバターの性別が変わる。そういう特殊なアバターに乗っている。
伊藤も不都合を感じて男性神で固定したいと思えど、固定するとアバターのパフォーマンスが落ちる。
設定上どうしようもないことなのだ。
こればかりはくじ引きのようなもので、希望する性別が出るまでログインしなおすしかない。
「女神様でよかったです。安心します」
『おっと、それはよかった。とにかく、伊藤と呼んでいただければ』
というわけで、オッサン系女神の伊藤はそのままでいくことにした。
「はじめまして。伊藤神様」
メグはそう述べて、深く頭をさげた。
こうして、赤い神の世界を離れた、メグの新たな生活が始まった。




