表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Heavens Under Construction(EP5)  作者: 高山 理図
Chapter.7 TAKOYAKI
92/130

第7章 第13話 Come again◆

 塔の中から現れ、ポンデリン湖の周辺を地響きをたてのたうつ巨大な不可視の触手。

 赤井たちは触手に圧殺されるのかと警戒したが、特に素民たちを狙って攻撃しているのではなく、その破壊衝動にまかせて荒れ狂っているかのようだった。

 異形を眺めながら、赤井は意味深な言葉を口走っていた。


『さっき一瞬、夕焼けが見えましたよね』

『夕焼けなんて見えてないよ!』


 モフコが素民たちを庇いながら赤井に聞き返すが、赤井は目を見開き、口を半開きに開けている。赤井は水埜がそんな特性を持たせた異形を放ってきた理由を、探ろうとしているようだった。


『だいたい、もう日没になってるじゃない』


 モフコが突っ込むのも無理はない。既にとっぷりと日は暮れ夜中にさしかかり、そして赤井の仕掛けていた 水素の燃焼光が灯火のように起動しているだけだ。

 ああ、そういう意味ではなくて、と赤井は首を振る。


『夕焼けというのは色のことです。あれが見えたら水は水でも、液体ではなくて超臨界流体の状態なんですよ』


 その“見えない、高熱で、なおかつインフォメーションボードで捕捉できない可溶性の触手”は、超臨界水の条件を満たしている。赤井はそう推察した。

 赤井に手がかりを与えたのは、それが透明化する直前の色の変化と、熱風だ。真っ暗になった状態が無数の泡の乱反射。そして、波長の短い光が散乱することによって橙色になった時点が臨界蛋白光の発生の瞬間、次に、液体と気体の差がなくなり透明になった。大きな手がかりとして、燃焼光を通してその色が見えたのは赤井にとって運がよかった。

 最後の時点で、異形は完成したのだろう。

 確実に来るであろう素民たちからの「ちょーりんかいなんとかって何?」という質問を待つまでもなく、


『はいはい。超臨界流体というのはですね、高温、高圧で液体と気体の中間的な性質を持ちます。しかし驚くようなことではありません、この現象はとても身近に起こっているもので、空気もある意味そうです。このような状態での相図は……』


 誰に解説をしているのか分からないが、赤井はこの危機的状況のさなか、解説をはじめなければ気がすまない性質のようである。


『特に水は分解力が高く、短時間で何でも溶かす、ということでよろしいですね!』


 そして話が長くなりそうだと察知したロベリアが、やんわり遮る。気付かない赤井もおめでたいが、モンジャ民以外の素民にはこの程度の説明で十分なのだ。


「そんなの習ったっけ?」

「ならってないなー」


 イヤン、ソミオにソミタのモンジャ民の三人は、青空学級で習った覚えがないと言い張っている。


『あなたがたにもちゃんと教えましたよね』


 同じく触手から目を離さず返答した赤井は笑顔だったが、その横顔には少しばかり哀愁が漂っていた。


「液体、気体、固体の全部の性質を持つんだっけ」


 三人の中ではもっとも記憶力がましだと思われたソミオですら、割とうろ覚えだった。


『それは三重点ですね』

「あかいかみさまのおもいちがいだろー」


 赤井が嘆くよう、いつの世も、講義というのは不心得者の学生に寝られてしまうもののようである。試験にも出したのに……と赤井は不甲斐ない。ロイメグならばきちんと「習いました」と答えてくれるだろうに、と遺憾だ。


『これが終わったら補習ですよ!』


 赤井はそんなことを言っているが、三人とも補習などうやむやにしてしまいたかった。とはいえ一見、文明レベルの低そうに見えるモンジャ民の教育水準は実は高く、数学系にはすこぶる強い。基礎ができていないと判明したなら、補習が待ち構えている。変な部分で教育に力が入っているのだ。


「モンジャの民は大変そうだな。グランダでは学びたくない者は学ばなくてよいのだ」


 呪術と帝王学らしきものは習ったが、あまり勉学の得意でないキララは、ある意味モンジャに生まれつかなくてよかったとの感想を懐いていた。高度学習型A.I.でありながら勉強嫌いとは何事か、と蘇芳教授が嘆くであろう発言である。


『もー。教えた教えてない、言い合ってる場合じゃないんだけどね。ねーロベリアちゃん』


 ツッコミ担当のモフコがロベリアと二人して呆れている。


『とにかく、当たると人体は分解されるので、当たらないでくださいということです。以上!』


 赤井はやややけくそ気味に一言でまとめた。

 赤井の仮説が正しいとすると、有機物は分解され金属類も腐食されるということになる。ちなみに、赤井が亜臨界ではなく超臨界領域だと判断した根拠は、温度と分解速度による。異形が不可視であるためインフォメーションボードに捕捉できず正確な数値は分からないが、赤井は見当をつけて


”温度は700℃近傍、気圧は30~40MPa程度でしょうね。その条件であれば、分解時間は一分以内に収まるでしょうが”


 と云う。それを加味しても加水分解反応が短時間すぎるので、アトモスフィアを通じているからだろうと彼は推測する。分解産物はガスの中に溶け込み、気相は常に蒸発させていると見られる。


『反応が続いてるな。何か触媒でも入ってますかね……』


 などとぶつぶつ言いながら赤井の口が先ほどからだらしなく開いているのは化学平衡組成を概算し、反応物を推測しているのだとロベリアは看破によって分かるが、計算はとにかく、素民は避難させなければならない。

 素民に触手が触れた瞬間に、勝敗は決まる。この異形とは素民は戦えないようにできている、また、物理結界が使えないため、ロベリアもモフコも赤井ですらも、素民たちを守れない。虐殺されるだけだ。


『あなた方は下がって、できるだけ遠くに逃げてください。これは人ではどうやっても相手にはなりません、撤退は恥ではありません。こういう場面では、私たちに任せてください』


 赤井の判断の遅さに痺れを切らしたロベリアが、素民に避難指示を出そうとしたが、赤井は


『そうですね……ただもう少し待っていれば、反応系内の有機物濃度がもっと上がれば反応が鈍り、分解物の再重合が起こる筈ですよ』


 要は、その時が来るまで触手に当たらなければいいのだ、と赤井は言う。


『なにも遠くまで逃げなくても、避難場所でしたら、ほら』


 赤井は、湖水が干上がりむき出しになったポンデリン湖の湖畔の、岩肌の隙間を示した。触手は先ほどから有機物は溶かすが、岩盤を抉ってはこないので、そのような場所は避難するに適している。


『ですが皆さん、それより私の心配は別にありましてね。……地盤への振動が強すぎます』


 赤井は別の大きな懸念材料を打ち明けた。触手は暴れ狂っているように見えながら、やはり先ほどから素民も赤井も攻撃してはこない。被害を受けて現在進行形で消滅しているのは、湖畔のゴーストタウン化した集落や山林。これの意味するところはつまり……


『確かに』


 ロベリアも小さく頷く。湖一帯の地盤は水を多く含んだ砂状のそれだ。このような地盤に強い振動を加えると液状化が起こり、ポンデリン湖沿岸の集落は液状化した土壌に飲み込まれ、甚大な被害を受けるだろう。区画解放後の復興を考えると、これ以上の被害は避けたいものだ。


”ロベリアさん、一つ聞いてみるんですが、当たり前ですがエネルギーコアは視えませんけどあの透明触手の中にあるんですよね”

”アバターではなく疑似生命体ですから、あの流体の中に必ず存在します”


 アガルタ全管区で共通して、そういうシステムになっている。悪役構築士の操るクリーチャーは、必ずエネルギーコアを仕込んで稼動させるのだ、というか、そうしないと動かない。ロベリアは、構築士の間では常識だが構築マニュアルを持たない赤井の知らない事項を、さぐりさぐり告げる。


『見えないということは、あの流体の全てに溶けているということでいいんですよね』

『そうです。ですが』


 流体を、どうやって仕留めるつもりだ。ロベリアが聞き返そうとしたときだった


『わかりました!』


 そう言うが早いか、赤井は突如として勝負に打って出た。

 超臨界流体であるならば、気圧、温度、そのいずれかの条件を下げれば流体は亜臨界となり、反応性に乏しくなる。だから


『じゃあ、分離しますね!』


 赤井は大真面目にそう告げると、すばやく異形の触手の中心と思われる位置に転移をかける。有機物を蒸発せしめる灼熱をものともせず、真正面に陣取ると、神杖で異形の見えない本体を貫通した。それと同時に赤井は流体の触手に捕まり、そのまま流体の内部に取り込まれようとしていた。が、身を引き裂かれんばかりの激痛、そして体液という体液が沸騰しそうな熱量を感じていても、彼の神体は熱と気圧によって分解されることはなかった。


 彼が無謀かつ短絡的とも見える行動を取ったのは、自身の体組成が有機体ではなく、加水分解を受けないことを熟知していたからだ。

 

『何やってんの! 杖で刺したって効かないって!』


 モフコの絶叫が空しく響く中、


『ここからです』


 何事かを企む赤井は、杖の片側から、中に存在した細かな、多孔質の空洞へと流体を導く。丁度、風船に排気弁を取り付けるように。流体が杖の内部を通過する間に穏やかに大気圧まで減圧する。それとともに杖全体を冷却し、超臨界水を廃水として杖の逆端から取り出す。分解された有機物は水相である排水に溶け込んだまま、水蒸気となり大気中に拡散してゆく。

 つまり減圧後、杖をかませ排水を除去し、異形の形成する嚢の中に残ったのは……理論的にはエネルギーコアを含んだガスだ。赤井は貫通させた神杖の端に白衣をかぶせ、さらに減圧する。だんだんと異形の体積は目減りして、あれよあれよという間にその姿は消えてしまった。赤井は嚢の中の内容物を減圧によって絞りきると、


『はい、おしまい!』


 白衣の中に怪しく輝く青い粘液を手際よく包み込み、団子状にまとめたそれを両手で力を込め握りつぶした。彼の手の中にあるものは、あれほどの猛威をふるった異形のエネルギーコアそのものだ。


『よし』


 赤井がさっぱりした表情で両手をパンパンと打ち払い、ロベリアが肩の力を抜いて剣をおろし、モフコが大きなため息をつくと、赤井のすることをあっけにとられながら見守っていた素民たちも、おぼろげながら勝利の気配を読み取った。


 だが――。

 三名の構築士のインフォメーションボードに、区画解放のアナウンスは現れなかった。


『まぁだ、だよ』


 地を這うような声が、えづくような吐息とともに聞こえた。赤井の耳のすぐ裏からだ。それは少年の声のような、あるいは老人のような、声質の定まらないくぐもった、恐るべきものだった。



 *



 日本、神奈川県平塚市の某地区。

 旧い長屋門の向こうに位置する母屋を目指して、男性二人連れがぶらり、ぶらりと歩んでいた。 立派な門構えを見れば、そこが旧庄屋屋敷の神坂家だと分かるだろう。


「では、私はここで」


 長屋門の前で足を止め、年配のグレーのスーツを着たノーネクタイの男が、ちょいと濃紺のスーツの猫背の青年に頭を下げる。この男は青年のボディーガードだった。


「はいーどうもぉー。明日はお迎えいいですからぁー」


 そのまま二度と来なくていい、という本心が、青年の態度からあからさまに滲み出ていた。


「ああ、はい。ですがまた、外出をなさるようでしたら……」


 お迎えに参りますので。そう言い残し、男は青年を送ってきた飛空車の方向へ歩み去った。


「くそー寄り道もできゃしねー。サンマーメン食って帰ろうかと思ってたのによぉ」


 先ほどのボディーガードが、青年が家に入るまでこちらを見ているので、彼に向けてひらりと手を振り、おとなしく帰宅することにした。だいたい、お迎えも何も、飛空車は自動運転なのだ。セキュリティさえ行き届いていれば(大抵どのメーカーの車に乗ったとしても、行き届いている)、異状があるや否やものの数秒で警察に車内映像とともに通報が入り、空から駆けつけた警察監視システムに包囲されることだろう。

 だからまったくといって、彼がボディガードに送迎をしてもらうことに、気休め以上の防犯上の意味はない。

 青年が気を滅入らせていたところ、


【おっ帰りなさいませ健太様っ。4時間24分ぶりの御帰宅ですねぇっ!】


 長屋門の前に立つと、旧世紀では表札に相当する部分にホームセキュリティシステムのウィンドウ画面が立ち上がり、バイオメトリクスから神坂家の家族だと認識した、メイド風のロリ金髪碧眼のデジタルオペレーターが、愛想よく……というより慣れ慣れしく青年 健太に話しかける。少し小ばかにしているように見えるのは、気のせいだと健太は思いたい。人間がA.I.に馬鹿にされるなど、気分もよろしくないし、考えたくもないのである。


「いちいち時間言わなくてもいんじゃね? 傷心でしょ。皆、昼食べてる?」

【これは失礼しちゃいましたぁ。皆さまおそろいで、昼食を召し上がっておいでですよぉ?】


 くるりんと白いフリルのついた、フレンチメイド式のスカートを翻し、ターンをしてわざとらしい笑顔を作るオペレータのメアリィに、健太は苦言を呈する。


「お前さぁ、最近ご主人さまに向かってチャラ過ぎねーか」


 が、このように主人をなめきった口の利き方になるよう”学習”させたのは健太その人なのだ。しかし当人にはとんと自覚がないようだった。


【じゃあ、黙ってますぅ。また御用のときは呼んでくださいねっ!】


 ぺろりと舌を出したオペレータにも健太はいちいち神経を逆撫でされる思いだ。最近のセキュリティオペレータはどのメーカーのソフトも、あざとすぎるのだ。まったくけしからん風潮だ、と健太は思う。


「あーもーいい、消えろ。まさにとんぼ返りだろうなぁ」


 門扉が自動開錠され、青年、神坂 健太は屋敷の内部に足を踏み入れる。屋敷の池の錦鯉が優雅に水紋をなびかせ、水上に浮かぶおしどりの夫婦がそぞろに餌をついばんでいた。豪邸仕様の神坂家の日本庭園に、目もくれず健太はずかずか歩く。


「たっだいまぁ」


 気の抜けたような声が、だだっ広い玄関に響いた。神坂家は江戸時代からの庄屋屋敷の風情をそのまま現代に伝え、地元の小中学生が社会科見学に来るような由緒ある邸宅なのだが、何かと不便なこともあり、リフォームによってネットワーク電化され近代化を果たしている。玄関の広さ、廊下の長さときたら、訪問者に内装だけ見せて旅館だとうそぶいても誰も違和感を覚えないだろう。


 健太の行先を最初から分かっているかのように、自動で各室に繋がる扉が開閉し、間接照明が照らされる。健太が足取り重く歩いていると、外廊下に沿い連なる和室の襖が開き、家人ではない二人組の男が顔を覗かせた。


「おかえりなさい。健太さん」


 男のうちの一人、いかつい方が、健太をつま先から頭までじろりと見上げて一言声をかける。


「ただいま、帰りましたぁ」


 健太は面白くなさそうに口を尖らせながら、帰宅を報告する。とはいっても彼らは健太の持つモバイルの座標トレース記録から、健太の行動を逐一把握していた筈だった。というわけで健太は家を出てから帰宅するまでの間、彼らに常時監視下に置かれるのをたまらなく窮屈に感じていた。


「特に、変わったことはありませんでしたか」

「特に、って?」


 この二人組は警察だ。捜査も兼ねて交代で神坂家の警護を行っている。今は手があいていたのか、昼食を取っていたらしい。老舗有名店の、中華幕の内弁当が座卓に載っているのが見えた。いい弁当食べてんだな。と健太は羨むと同時に、空腹で腹の虫が鳴きそうだったと思い出す。


「御帰宅が早かったもので、何かあったのかと思いまして」


 昼間っぱらから帰ってきてどうした――そんな視線に耐えられず、健太はとっとと白状する。


「いえ、特に何もありませんね。会社から、当面の在宅勤務の指示が出た以外は」


 隠してもどうせばれると織り込み済みなので、もごもごと歯切れ悪く報告して、健太は顎を突き出すようにぺこりと二人に頭を下げた。気まずそうに顔を見合わせる警察官に気の利いたフォローをされないうち、彼は背を向け家族のもとへ向かう。


「腹減ったー。気を取り直してメシでも食うべ」


 家族の集う広い茶の間の扉が開くと、炊きたての白米の湯気に、筑前煮や味噌汁、煮魚のにおいが立ち込め、昼食の支度が整っていた。父博史、母朋絵、祖母香澄の三人が無垢の一枚板の座敷机について、御櫃からごはんをよそっていたところだった。帰宅を想定されていなかった健太の食事は用意されていないが、健太はそんなことはおかまいなしだ。


「あら健太。どうしたの、早退? 調子でも悪くなった?」


 オレンジの花柄のエプロンをつけたままの母 朋絵が口をVの字にしながら、しゅるしゅると乱暴にネクタイを緩める健太に尋ねる。とはいえ、万能薬も質のよいエナジードリンクもあるこのご時世。体調不良で会社を早退、というのは、一般的には認められない。上司に万能薬、時にはエナジードリンクを机の上に置かれ、「これでも飲んで頑張れ」で終わることだ。専業主婦の朋絵はそんな事情も知らないようだ。


「お昼食べられる? ありあわせでよければ用意するけど」

「何かあるなら、それもらおうかな」


 健太はスーツを座椅子にかける。

 父 博史と祖母 香澄の間にどかりと腰をおろし、両手で顔を洗うようにごしごしと拭いながら、おもむろに話を切り出した。


「俺さ、今日から暫く会社行かなくていいんだって」

「遂にクビになったか?!」


 父博史が口をあんぐりと開き、そう口走ってしまって、失言だったときまり悪そうな顔をして、箸をおく。茶を啜ろうとしていた祖母 香澄も、一口だけつけて湯呑を戻す。


「いや、クビでなくて在宅勤務。とはいっても仕事もらってないから、自宅待機かなぁ」


 一応訂正したが、大した変更点はない。


「よかったじゃない?! 在宅ワークだべ!」


 事情を理解していない朋絵は、湯呑を新たに出し、健太にかぶせ茶を淹れる。


「お前、何かやらかしたべ?」


 博史が心配そうに探りをいれる。


「別に、何もしてねーし。俺は何も……」


 その原因は兄 桔平にあった。

 しかし、在宅勤務命令の理由が兄の桔平に絡んだものだとは、健太としても何となく口に出したくはなかった。何やら兄に命の危険が及んでいて、それに神坂家が巻き込まれている……。兄がいかなる状況に置かれているのか、家族は何も把握できていないだけに。家族全員がもどかしい思いを抱えながら、つとめて彼のことを思い出さないよう、淡々と日々を過ごしていた。


「桔平のことで、何か言われたんだべ?」


 長い沈黙ののち、博史が、言葉が見つからないといったように困惑顔で尋ねる。


「兄ちゃん……、今何してんだろうなあ」


 神坂 健太は、ごく普通の商社の会社員である。その彼にここ最近、四六時中、社の内外を問わず身辺警護がつけられたため、会社内では腫物扱いを受けていた。また、営業職だというのに顧客にも会えない日々が続いた。仕方なく営業の担当を代わってもらったり、事務仕事をこなしたりと、彼なりにやり過ごしてきたが、健太に実質的戦力外通告―つまり自宅待機命令が出されたのは、半ば当然の流れだった。会社側としても扱いに困り、苦肉の策というところのようだ。変な理由をつけて解雇と言われないだけましだが、それでも、会社には来ないでほしいということのようだった。


 それを聞いていた祖母 香澄は、何か思うところがあったのだろう。


「家にいてゴロゴロするなら、少しは田畑のことを手伝わせるからな! 明日は6時起きだ、たたき起こすからな!」


 今は、健太に余計なことを考えさせたくなかったのだろう。きつい言葉を浴びせる。


「あー、7時起きならいいべ?」

「こら! 手伝わんか―!」


 聞き取り辛い返事をした健太の言葉をよく聞かないまま、祖母のカミナリがフライングで落ちてしまった。


「いや、まあ、だから畑手伝うって言ってんべ」


 健太の言葉に調子の狂った祖母は博史と顔を見合わせて、鼻息とともに一旦口をつぐむことにしたらしかった。次男だからと、これまで畑の手伝いなどしたことのなかった健太が一体どういった風の吹き回しだ、と家族全員が言葉を失い、健太が会社をクビになることを覚悟していることを暗に察した。


「まあいいわ、いただきます、しましょう」


 朋絵がありあわせを準備して、健太の食事も運んできた。ちなみに料理上手の朋絵は、今やどこの家庭でも普及している万能調理器を使わず、手料理を得意とする。手料理の家庭は、経済状況が厳しい家庭ではたまにそういう場合もあるが、特に神坂家は裕福で高級調理器をいくらでも賄える状況であるにもかかわらず、珍しい家庭事情だ。


「いただきまーす。ばあちゃん、そこの醤油とって」

「健太!」


 父が不自然なまでに明るく溌剌とした声で、健太に呼びかけた。


「とりあえず明日は休め。お前に手伝ってもらわなくとも、父ちゃんはまだ元気だ」


 不器用な父なりの気配りを感じた健太はうん……と小さな声で応じ、茶碗のごはんを口の中にかっこんだ。お昼のテレビ番組が流れるのを見ながら、それぞれ気を取り直して、黙々と昼食を食べ始めた。


「ごちそーさま」


 昼食を終えると、健太は家族団欒もそこそこに自室に戻る。自室といっても、東京に転勤となり、暫く実家に居候をすることになったために家族に都合をつけてもらった部屋だ。神坂家には空き部屋や謎の建物が数多く存在する。中には部屋だけではなく立派な蔵や、何かお宝のありそうな地下の開かずの間、何を祀っているのかすら分からない祠などもあるのだが、健太も全ては把握していない。また、次男であるため家を相続することもなく、それらを知る必要もないかと健太も高をくくっていたふしがあった。

 健太の部屋の手前に位置する、今は使われていない一室の扉が、掃除のために開けられていた。

 今後十年、実家の敷居は跨ぐことのないであろう兄の桔平……彼が就職活動中、一時的に自宅にいた頃に使っていた部屋だ。


 ……健太には厚生労働省で働く二つ違いの兄がいる。

 かつては自慢の兄であり、健太のライバルでもあった。この兄がまた何をやらせても筋がよく、スポーツもでき地頭も良くて不出来な健太の相手にもならず、健太が思春期にやさぐれた原因の一つである。桔平と健太は表面上仲の良い兄弟ということになっていた。弟をかわいがっていた兄は知りもしないだろうが、健太の兄に対する思いには、忸怩たるものがあった。兄には健太なりに幼少時より数々の嫌がらせもしてみたのだが、どうにも天然で飄々と前をゆく兄をやり込めたりすることは一度もできなかった。


 兄 桔平の仕事。

 厚生労働省アガルタゲートウェイの甲種一級構築士といえば、誰もが羨み、押しも押されもせぬスーパー公務員として認知されている。

 しかしその勤務実態は、健太も含め国民にはほぼ知られていないといっていい。

 この特殊かつ謎に包まれた魅力的な職業は、生涯賃金が四十億と高額であるうえに、受験に際し学歴も資格も必要ないこと、すなわち公務員試験の対策が必要ないこと、一般的な就職活動の時期から外れた採用日程が組まれていることから、あわよくばノー勉での一攫千金と名誉の一挙獲得を目指す公務員試験の抜け穴として毎年受験者数が膨れ上がっていた。

 実はこの甲種一級構築士。応募要件に学歴、経歴不問とあるため、健太も実は冷やかし半分に受験をしたのだが、箸にも棒にもかからなかった。選考結果は、エントリーシート落ち。

 多少なりとも選考を進んでゆけるものと淡い期待をいだいていただけに、門前払いを受け落ち込んでいたところ、丁度兄が恵まれた学歴を持ちながら就職活動で全社一次面接落ちという失態をしでかして、今すぐ農家をしろということだ、と祖母にきつく言われていた頃だった。

 そのタイミングで健太は、おそらくは公務員受験など考えもしていなかった桔平に、甲種一級構築士の受験を強く薦めた。そのときの健太に、桔平の強運と能力をはかってみたくなった気持ちがなかったかというと嘘になる。また、頭のよい兄が自分と一緒に選考に落ちてくれれば胸がすく、という気持ちもあった。


 祖母の言葉と自らの置かれた状況から、農家を継ぐ覚悟を固めつつあった桔平は、健太の薦めに背中を押される形でふらりと日本最難関といわれる公務員試験の受験に挑んだ。そして、その栄えある国家資格に、一発合格を果たしてしまったのだ。そして健太が桔平に対して、さらにコンプレックスを強めたのは言うまでもない。

 その桔平が、初出勤日といえる四月一日を最後に音信不通となってしまった。家族には寮で元気に暮らしているとの説明があったようだが、どうもそれは真にうけてはいけないようだ。十年間、果たして連絡の一本も入れられないほどの危険を伴う職場が日本に存在して、そして連絡を取れない理由があるのか。生きているかどうかも分からないではないか。と、兄を十年間の勤務へ送りだす契機を作った健太は、兄と家族に対して責任を感じていた。


「兄ちゃん、本当に生きてるんかなあ」


 後悔に苛まれ、悪びれながら、健太は桔平の部屋に踏み入る。

 整頓の行き届いた室内には、壁一面に、天体の立体写真がポスターのように丁寧に張ってある。

 それは星座の日周運動をとらえたもの、木星、金星、そして月、名前も知らない星座……所狭しと。プラネタリウムの中に、迷い込んだようだ。飾り棚には、古いプローブ(宇宙探査機)の模型。全くといって何の構造なのか知れない分子模型の数々。

 まったく、凝り性でもあり、几帳面な兄である。


「天文サークルなんて入ってんだよな」


 天文の魅力の分からない健太には、これほどわけの分からないものに無邪気にのめりこめる桔平が、少しだけ羨ましくもあった。そして同じ釜の飯を食った兄弟でこうも違うか、と健太は感心する。

 健太の趣味というと、競馬ぐらいのもので、おまけに頭も悪い。彼自身、どうしようもないクズだという自覚はある。おまけに、人生というものが詰まらなくて退屈で仕方がない。


「へー、彼女なんていたんだ。やることはやってたんだな」


 立体フォトフレームの中、牛が草を食む新緑の牧場の柵に腰をかけ、桔平と元彼女らしき女が楽しそうに笑っていた。


「彼女、可愛いじゃん」


 続けて、彼女と撮影したシーンがいくつかフローの中で立体投影される。彼らの仲睦まじい映像は巨大望遠鏡の前で、レストランで、海辺で、石橋の上で、船の上で、夜空の下で、テーマパークで、大の字になって寝転んで……。季節は移ろい、長い日々を重ねていたことが窺い知れる。健太の知らない女性と、彼女の手をつなぐ幸せそうな兄。


「ま、どうせ別れたんだろう。逃げられたのかな」


 一時期、桔平が別人になったかのように自暴自棄になった時期があった。

 兄をずたぼろにしたのはこの彼女だったのか、と健太は納得がいく。

 映像の中の彼女は、直接会ってもいないのに嫉妬するほど、輝くばかりの魅力に満ち溢れた美しい女性ひとだった。


「どうでしょうね」


 健太の独り言に答えるように、不意に呼ぶ声がある。驚きに肩をすくめた健太が振り向くと、先ほど健太が入ってきたドアの裏に、長い黒髪をポニーテールに束ねた少女が腕組みをして立っていた。長時間ドアの裏に潜んで、背後から健太を観察していたかのような口調と雰囲気だった。健太の中では、客だとはどうしても思えなかった。泥棒よろしくぴったりとした黒のボディスーツなど着ている。

 健太はその衣装を見て改めて腰が抜けそうになったが、出会ってすぐに彼女がどことなく立体フォトフレームの中の桔平の彼女にそっくりだということに気がついた。さらによく考えると、神坂家は厳重警備中だったことを思い出し、多少は気を持ち直す。


「あんたどちらさま? 何で、ここにいるの?」

「私は公安のものよ」


 少女はにべもなくそう言ったが


「は、はあ……。って、あのねぇ」


 自称 公安警察だというのだが、どう見ても女子高生な外見のせいで健太もその言葉をまともに受け止められない。


「そうね。そういう態度をとられるのも分からないでもないわ、私は東 沙織。肩書きはこういうものです」


 少女は堂々と、掌に載せた身分証(ID)カードを提示する。国家公務員のIDは、モバイルでいつでも照会できるのだ。健太の携帯している小型モバイルでIDをスキャンすると、自動的に公安にリクエストが行き、それが正しい身分証であることが証明された。

 しかし、登録されている身分証の中の本人映像が、実物と微妙に違う。よく似ているが、証明映像のほうが年がいっている。姉の身分証でも借りてきたのだろうか、と、健太が色々な意味で脱力をしていると。


 少女の腰のベルトに拳銃が見えて、健太は開きかけた口をつぐむ。少女の持ち物なのでエアガンだとは思うが、公安ごっこだとはなから決め付けると危険だ。人的、質的に高度にグローバル化された現代日本において、銃の所持は違法であるということを気にしなければ、比較的容易に手に入る。実弾が入っている可能性も多分にあった。


「だいたい、警察ならもううちを警備してくれてるんで……」

「神坂健太さん。今から、一人ずつここにご家族を連れてきていただけますか。保護しますので」


 あたかも段取りはすませてあるかのような口ぶりだった。また、少女の態度は非常に事務的だった。


「保護って何ですか?」


 健太が的を射ない、といった顔で、あまり刺激しないように気をつけながら質問を返す。


「あのね。あなた警察といいましたが、IDを見ましたか?」


 小首をかしげて、少女は健太に尋ねる。その自信に満ちた物言いから、少女が芝居を打っているという可能性は健太の中ではとっくに排除されていた。


「……いえ、でも」


 でも、だとしたら何だというんだ? 家に張り込んで、四六時中交代で警備に勤しんでくれているあの連中は……と、健太は釈然としない。


「メアリィ! 聞いてるか、どうなんだ」


 健太は室内の投影装置に向かってセキュリティシステムのオペレータであるメアリィを鋭く呼んだが、システムは応答しなかった。家の中にいる限り、セキュリティシステムは家人をトレースしているものだ。立ち上がらないということは、誰かにシャットダウンされているという証左である。


「悪いけど、この部屋のセキュリティシステムははずしました。オペレータの目は、あなたの味方とは限りませんからね」

「それは、どういう……」


 何がなんだか、健太にはさっぱり分からない。だが、この自称公安少女の言うことも、存分に怪しい。


「もっとはっきり言いましょうか」


 少女は健太が冗談めかすこともできないほどの、真剣な表情で告げた。


「あなたたち家族は今現在、反社会勢力によってこの家に一ヶ月も監禁されている、ということです」


 健太は知らなかったのだ。

 神坂家の日常は、既に随分と前から、おそらくは兄が甲種一級構築士となったその日から、静かに終わりを告げていたのだということに――。

Special Thanks 

方言チェック、呂彪 弥欷助さま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ