第7章 第6話 Dark hive◇★
ジェレミー・シャンクス構築士は、とあるホテルの高層階の一室で残り有給日数を数えた。
欠勤扱いになっているに違いないが、ああ、これではもしかして仕事をクビになってしまわないか? などと考えてみても仕方がない。
とにかく、彼の家族には連絡を取れたが、職場への報告が遅れているということは痛手だった。
あの日以来、彼は沙織や内調職員と共に居場所を転々としている。ホテル暮らしもくたびれてきた。
「そろそろ私も復職したいんだがなあ……伊藤PMならばっさりクビを切りかねないし。どうにかならないのかね」
「ごめんなさいね、巻き込んでしまって……。DFHに関与する者達を一掃できるまではあなたの安全も確保できないの。早く帰りたいなら、新しい体を用意してもいいけれど。それは希望に適わないでしょう」
「とんでもない!」
顔と身元の割れたまま復職するのが危険だからといって、ボディロンダリングはお断りだ。
一方の東 沙織は先ほどから何やらモバイルを叩きながら、落ち着いた様子で慌ただしく仕事に打ち込んでいる。DFHに関与した国内のほんの一部は内調特別班が検挙に至った。だがそれがテロ組織の構成員全てである筈もなく、同時に米国でメグを襲ったグループの検挙もまだなのだ。
赤井君は、無事にやっとるかなあ……。
ジェレミーは陽気で愉快な同僚のことを懐かしく思い出す。ほんの二週間ばかりログインしていないだけで何年も彼らに会わなかったような気になってしまう。仮想世界の構築士とは、独特の時間感覚の中に生きている。
「そういえば、愛実くんは時期的にもういつ現実世界に出てきてもおかしくない頃だ」
「……そうかしら」
そっけない返事。
「君は妹のことが心配じゃないのか?」
「愛実は当面、現実世界に出られないと思うもの」
帰還には現実世界で愛実を迎える親族が必要だが、厚労省はまだ親族と連絡が取れていないからだ。三親等以内の親族でなければならない。現実世界帰還を控えた愛実の本体は容態が安定しているとの理由で厚労省の特殊施設を備えた病院から国立医療センターの一つに転院させられ、病院の名前も特定した。ネイサンの本体は、邦人ではないのでまだ厚労省で管理されている。いずれにしろセキュリティチェックが厳しく、沙織が素性を明かさない限り両者との面会は不可能だといえた。
「そうなのか。じゃ、伊藤PMの馴化管区で暫く過ごすんじゃないかな。でも厚労省は肉親を捜しているだろうね、名乗り出なくていいのか?」
「叔母がいるから、迎えに行くようにメールを送ってみるわ」
他人事のように無感傷に流す沙織の横顔を、彼はやりきれないといった表情でまじまじと見つめた。
無理をしているのだろうが、彼女の感情だけは読めない。
素民の心を読む仮想世界の使徒エトワールも、現実世界では看破できないのがもどかしい。
「愛実くんやネイサンくんと直接会わないのか?」
「会えないわ」
「一目だけでも、会いたくはないのか?」
彼女の心を見抜くようにゆっくりと問いかけたジェレミーの言葉が何かの引き金となったかのように、沙織はジェレミーから顔をそむけた。
頬に思いがけず涙が伝ったからだ。
彼女は感情を顔に出してしまったことに驚いているようだった。
いつものポーカーフェースを装うにも、瞳は熱くなりすぎて涙を引っ込めることはできそうになかった。そのまま、ジェレミーに背を向ける。
彼女は席を立ち、おもむろにバスルームに向かう。その背中に染み込ませるように、
「もっと君は自分に素直になった方がいい。肩肘を張りすぎだ。君の大切な家族を失う前に、仕事をやめることはできなかったのかね」
「最初は。……最初は功名心もあったわ、仕事への誇りもあった。でも……ええ、今はもうそういう段階にはないの」
ジェレミーに向けた沙織の背中は、小さく小刻みに震えている。
その姿はいつもより小さく、頼りなげで華奢に見えた。
「今私が仕事を辞めたとしても、それで済むものではなくなってしまった……手遅れなの」
世界が穏やかに蝕まれ、壊れてゆくのを沙織は知ってしまったから。それを見過ごすことはもはやできないのだ。自分自身、そして平穏に生きる世界の人々の為にも。何より愛実やネイサンが、彼らの人生を取り戻す為にも――。
「愛実くんに、会いに行くべきだ。一目だけでも」
「だからそれは!」
沙織は涙ぐんだまま、きっと彼を睨み付けるように振り返る。
「何も直接行けとは言っていないだろう。ん?」
ジェレミーの含むところは、つまり間接的な再会であった。
沙織は彼の提案をそのまま受け入れる形で最も小型の盗撮虫を飛ばし、二時間後には愛実の収容されている深夜の病院に潜入した。小さな羽虫は病院のセキュリティシステムを突破し、守衛の目の前を横切り、自動扉の隙間を潜り抜け、ついに愛実の隔離されている個室へと辿り着いた。
沙織の滞在しているホテルからわずか、十数キロの距離。
沙織が乗り越えなければならなかった距離は、こんなにも僅かな隔たりだった。
愛実はこんなに近くにまで帰ってきていたのだ。しかしそれは、二年もの歳月を必要とした遠い道のりだった。
清潔で新しいが薄暗い照明の病室に小さな盗撮虫を滑り込ませ、沙織はカメラの感度を上げる。個室のベッドに横たわる患者がフレームインしてくる。――彼女だ。
跳ねあがった心臓の鼓動をおさえつつ、指先で巧みに盗撮虫を操り、患者の足下から顔へと近づいてゆく。
沙織は目の奥が痛んで、片手をそっと額に当てた。
艶めいた黒髪、長いまつげ、ほっそりとした顎のライン、優しく引き結ばれた唇。紛れもなく……沙織が捜し続けてきた、彼女の実の妹。東 愛実そのひとだった。
「愛実くんか?」
「変わらないわ……あのときのまま。愛実の時間は切り取られたまま、凍りついているのね」
沙織は悔しさを滲ませながら呟いた。側で声をかければ今にも目を覚ましそうな。そしてあの懐かしい声でおはよう、お姉ちゃん、なんて……。
”もう、そんな言葉をかけてもらう資格はない。私は彼女の姉でいる資格なんてないもの――”
沙織は思わず、盗撮虫と視覚連結したモニタの前で何も掴むことのできないその手をもたげる。
ただ、ただ抱きしめてあげたい。
「ごめんね……愛実、ごめんなさい。私がもっと強ければ……あなたを守れたのに」
うわごとのようにそう言いながらいつまでも空気を撫でる少女のその手を、ジェレミーは複雑な面持ちで見守っていた。
「もう、自分を責めなくていいんじゃないかね。彼女の心の時間は動きはじめているよ、今も。アガルタで、ネイサンくんと共にね」
正確に言えばメグは、愛実という人格ではない。
それでもジェレミーは彼女が仮想世界の中で必死に生き、自らの足で立ち上がろうとしていると知っている。
「アガルタの神が、彼女を君の元に連れ戻してくれる。願いを叶えてくれるさ」
「……そう、祈っているわ。いつか全てが終わって、愛実が私を赦してくれるなら」
「そうしたら君は、きちんと彼女の傍でおかえりと言うんだよ」
沙織は顔をデスクに伏せたまま彼の言葉に応じ小さく頷くと、羽虫は名残惜しそうに病室を飛び去った。
病院のスタッフは誰一人として、彼女らの再会に気付いた者はなかった。
*
『はい、次の人』
私は一晩中の戦闘でくたびれ果てた素民に数時間の仮眠を取ってもらった後、その間に大急ぎで用意した自分の血清を接種する作業に追われていた。接種ついでに祝福して神通力もチャージしてる、昨日はちょっと力を使いすぎたから。昨日目の当たりにした効果を、既に接種を受けたネスト民の皆さんだけでなく、他のまだ接種うけてない人たちに広めるためだ。そんなすぐ回復力が上がるもんかって? 当日免疫ができるかは個人差があると思うしちょっと遅い気もするけど、てか普通に考えたら一日で効果なんて出ないと思うけどネスト民の前例があるから何ともいえない。
ところでこの血清って真面目な話、副作用とかないんだろうか? と不安になってヤクシャさんロベリアさんに伺ってみたら。
『長寿になったりするぐらいではないのでしょうか』
『何か問題があったら至宙儀の性能で何とかすればいいっしょ、万能の神具なんすから』
とそれぞれ仰った。まあいいか、ネスト民何ともないっぽいし。
『ちくっとしますよ~』
モフコ先輩が造ってくれた使い捨てのシリンジの先についた針に、先端恐怖でビクビクしてる人もちらほら。
「ちくっとってどのくらい? つねったぐらいですか?」
注射怖くて逃亡したモンジャ民はイヤンさんが捕獲して連れてきてくれてる。お察しの通り、やや強引に。いや別に強制じゃないんだけど、効果がはっきりしてるから皆受けといたほうがいい。
「思ってたより痛くなかった」
タコヤキ民は数名しか並んでくれなかった。昨日は割と普通に話してたと思ったけど、昨晩、派手にやりすぎちゃったからか今日は何だかよそよそしい、むしろ怯えられてる。
邪神しかいなかったタコヤキには神を慕ったり信じるという文化がなく、彼らの”神”という存在に対する感情は恐怖だけだ。昨夜の戦いで私も完全に邪神と同類と思われてるっぽいから、私がタコヤキ民の味方だとは彼らも分かってくれてるんだけど、邪神っぽい私の血清なんてとんでもない! 祝福されるのも何か生理的に無理! って心境なんだろーね、ちょっぴりへこむ。
ロベリアさん、ヤクシャさんと手分けして素民たちに注射を打ち、表向き何も変わらず素民に接しながらも頭の中を占領しているのはメグの居場所についてだ。
ロベリアさんの言うよう、ニセモノの腕を置いていくってことはメグは無事なんだと思うけど、攫われたメグの恐怖といったら想像を絶する。
心理的なトラウマにならなければいいけど。
そう思うとメグの無事な姿を見るまで、メグを取り戻すまで、向こうも仕事とはいえ水埜さんに対しては私も平静ではいられない。
邪神がいるっていうポンデリン湖に連れてかれたのかなあ。ポンデリン湖の中とかにメグを連れて行かれてたらどうすりゃいんだろ、構築士は素潜りして行けばいいけど素民の皆さんは一体……と悩んでいたら注射針が素民の腕を貫通してたーっ!
『ああっ、ごめんなさい!』
むきーっと怒るモンジャ民、平謝る私。
『赤井神様、上の空じゃ変なとこ刺してあぶないすよー。まあ、上の空な理由は分かりますけど』
ヤクシャさんが苦笑し、ロベリアさんは何も言わないながら心配そうに見てる。あああおふたりは真面目にやってるのに私だけ動揺しまくってて。
「あかいかみさまそんなんで大丈夫かー? しっかりしてくれよもー」
えっ、イヤンさんに心配されるほどじゃないと思うんだけど。
『だ、大丈夫ですよ!』
「お疲れなのでは。お顔を洗ってさっぱりされてはいかがでしょう」
ヒカリが気をきかせて桶にタオルと、洗顔セットを持ってきてくれてた。そういやヒカリが神官をしてくれるようになってから、私の朝はとっても快適。寝坊しないように起こしてくれるわ寝癖とかついてたらこっそり直してくれるわ。折角なので手早く顔を洗って布で拭いている間に、モンジャ民の声が聞こえてくる。
「メグが今朝から行方不明なんだって、だからかみさまメグのこと考えてるんだよ」
「え、メグが!? それでか、そりゃそうなるな」
もろバレしてた! そして恥ずかしい!
『おや』
注射待ちの列の終わりのほうに、ナズをはじめ、バル、マチ、カイ……つまりメグの家族が並んでた。
『どうしましたか』
「私たちもタコヤキにメグを捜しに行かせてください。戦えないかもしれないけど、一緒に捜すことぐらいはできると思います」
メグがいなくなって、居てもたってもいられないんです。お願いしますと、何やら固い決意で腕をまくり突きだすバルと、困る私。この家族ってナズとカイが人間患者さんたちだから危険なので連れていけない、どう説得すれば。
『タコヤキへの同行は選りすぐりの戦士の方々にお願いしているのです、何があるか分かりません。危険が伴います』
「危険なのは、どこにいても誰にとっても同じでしょう。私達だけ安全な場所にというわけにもいきません、わが娘のことですから」
とバルが言えば、ナズは別の可能性を心配して狼狽してる。どうして黙って出て行ったんだと悔しげだ。
「ロイみたいに旅に出たってことはないですよね? ロイの時も急でした」
『ロイさんの時とは違って、家にメグさんの荷物はあるでしょう? メグさんがあなた方に黙って旅立つなんてありえませんよ』
安心させるようににっこり笑顔で励ますとナズは真顔で
「じゃ、どこにいるんです?」
そう言われると弱い。説得に失敗し仕方なく昼だけ同行してもらうことにした。
注射が終わるとモンジャ、グランダ、ネスト連合軍と捜索隊の全員に集まってもらい、タコヤキの地図を前に作戦を立てる。
『今日は夜間の拠点を各所に造りつつ、ポンデリン湖まで行ってみましょう。禁書の捜索は後に回し、邪神の眷属となった人々が夜間に動けないように、半物質武器で動きを止めることを優先します』
本当は今日にでも邪神の神殿に乗り込みたいところなんだけど、禁書も捜せてないし素民たちの安全を考えて二日がかりの攻略にしようと思う。タコヤキの人々も自発的に手伝ってくれるみたいだ。
「邪神の神殿には乗り込まないんですか? 長期化すると皆が消耗しそうです」
首をかしげるヤスさん。
『退路を確保していないと夜間になり大型眷属に囲まれてしまう可能性があります。そうなっては逃げることができませんから、ここは慎重にいきましょう』
ロベリアさんも全面的に同意して補足してくれた。彼女は割と手堅くいく人なんだろうと思う、ヤクシャさんはあまり口出ししない。まだ第三区画だから楽勝モードなんだろう。
「やれやれ、もう一晩あの戦いが待ってるのか」
「もう一晩で済めばいいけどさ、どうなるんだか」
モンジャの漁師さんに薄っすら疲労の色が見える。戦闘大好きなグランダ兵士さんたちも二晩連続の死闘は勘弁してほしそうだ。
というわけで私たちは作戦通りにモンジャを出発した。モフコ先輩は残って、引き続き素民達と共に夜間の備えをしてくださる。全員が数人ずつシツジに乗り禁書を捜しながら、そして道端で倒れている棘の刺さった人たちに半物質武器を刺しつつ北上し、タコヤキの更に内陸の方を目指す。
メンターイコ町の隣のイクラ村に差し掛かったあたりで、タコヤキの主な産業は農林業と酪農なだけあって平地には畑や果樹園が広がり、傾斜には農場がパッチワーク状に形成されていた。
『見事な大規模農場ですね』
大規模農場と灌漑技術はグランダやネストより圧倒的に進んでいる模様。カルーア湖沿岸では漁業も盛んだそうだ。山のなだらかな斜面の緑の映える農場に緑色の大型家畜が放牧されていた。目を凝らさないと緑に緑で擬態しまくりだ。鳴き声はモヒーンとか聞こえてくる。早速、イクラ村の若手村長さんに聞いてみる。
『イクラ村の村長さん、お名前は』
「サササ、サーモンといいますのや、お、お、お見知りおきをですのや」
あら、何かシャイな人だな。イクラ村のサーモンさんとか、名前が覚えやすくて助かるよ。
『なるほど、よろしくサーモンさん。あれは何ですか? あの、緑色の動物は』
「あ、あれ? よく見つけました、あ、あれはギウバですのや。ギウバ牧場は何故か無事ですのや」
邪神とその眷属はタコヤキの人々のみを襲撃するけど、家畜や畑は襲撃を免れたみたい。ギウバは馬と牛をミックスしたような顔でトナカイみたいな角が生えてる、そして毛を緑色にした感じだよ。名前は牛馬からきたんだろう。肉にして美味、おっとりとして力持ちな性格から、畑作の主要な労働力らしい。
なるほど、牛馬耕ならぬギウバ耕でこれだけ広大な農地を開拓できたわけだ。シツジは機動力はあるけどどっちかっていうと力仕事は向いてないから、ギウバが普及すると皆の暮らしも楽になるかもしれない。モンジャ民は美味しいと聞いて早くもその味を想像してヨダレが出てる。
皆で楽しく妄想を膨らませてたら、他の家畜の牧場も見えてきた。
『では、あれは』
羽毛の生えた小型のピンク色の家畜(何かアヒルに似てる)がわんさといる牧場だ。羽根は小さくて、飛べる感じじゃない。
「あれはアヒノレですのや。肉と卵が美味ですのや」
アヒルからきたのか……水埜さん、基本的に現実世界のモノのもじりで名前決めてるっぽいけど、私に負けず劣らずネーミングセンスひどくないか?
ともあれ、メンターイコ町、イクラ村、カズノッコ町と順に、タコヤキを北上するにつれ気温が下がり、遠景の山々は冠雪していた。
『標高が高くなったからか、寒くなってきましたね』
「ポンデリン湖はもっと冷えますのや」
谷合の集落は家々が密集している地域もあれば、長屋状になっているレンガ造りの建物もある。地域ごとに屋根の色が違う、地域色ってやつだ。メンターイコでは赤、イクラ村はオレンジ、カズノッコ町は黄色……といった具合。魚卵の色を反映してるみたいだ。邪神の眷属による被害は、内陸地になるほど激しくなり街は荒らされ放題で見るにたえない状態になってる。北上するにつれ、メンターイコ町と違って街に倒れている犠牲者は殆ど見なくなった。つまりそれは犠牲者たちは既に邪神の眷属と化しポンデリン湖に潜んでいるってことだ、ぞっとするよ。
カズノッコを抜けキャビアン町に入ったところで、ようやく邪神の眠る氷河湖、ポンデリン湖が見えてきた。夏場には雪解け氷で運び出された鉱物を含んだ湖水が陽光を散乱してエメラルドグリーン色をしている筈だけど、春先なので氷も浮いている。
短時間で随分遠くまで来たもんだよ、シツジの機動力のおかげだね。
『神様、早く捜索を開始しないと、戻るまでに時間がかかり日没となります』
ロベリアさんが時間を気にしてるけど、今日神殿に総攻撃という選択肢はない。
禁書がないからだ。撤退一択だろう、でもその前に私はやっておきたいことがある。あれ……みんな頭を押さえてるんだけど。
『どうしましたか、皆さん』
「邪神の力の影響が強すぎて、頭が痛くなってきましたのや。今は耐えられますが、夜間ここにいるとどうなるもんか……」
あー確かマヨが言っていたよ、ここ数年星辰の位置が変わって邪神の神殿から力が漏れ出してきていて、ポンデリン湖の周辺の人々が夜間に精神汚染され、湖におびき寄せられて引きずり込まれてるって……素民はあまり長時間、ここにいない方がよさそうだ。私達は何も感じないけど。ナズとカイは無言で歯を喰いしばっている、子供にはきついだろう。
『これで少しは和らぐでしょうか』
ロベリアさんが大気を介し民にアトモスフィアを送り祝福すると、いくらか頭痛は抑えられたようだ。いいなー。私もそれ、早くできるようになりたい。とにかく、急がないと彼らが精神的に削られちゃう。
『キャビアン町長さん、いらっしゃいますか』
「わしですのや、バケットと言いますのや」
民族衣装っぽい黒い短パンをはいた初老のおじさん、バケットさんが緊張しながら手を挙げた。関係ないけどキャビアとバケットって合うよね。カズノッコ町長も呼ぶと、バケットさんと同じシツジに乗った品のよさそうな黄色いシンプルなドレスを着た初老のおばちゃんも手を挙げた。
「カズノッコ町長は私です、マツマエと申します」
数の子といえば松前漬だよね。この捜索隊にはタコヤキの各町長さん(メンターイコ町、イクラ村、カズノッコ町、キャビアン町)全員が参加してくれてる。
『このポンデリン湖は氷河湖のようですが、水位の変動が激しかったり、危険だったりはしませんでしたか?』
氷河湖ってのは、文字通り氷河が岩や何かにせき止められて湖を形成してるものだから、雨が降るたびに水位が上昇したり、夏場になると雪解け水で水量が増えて決壊したりだとか色々と災害も多いんだよ。景観はきれいだけど、現地住民にとって危険な場所である場合も多い。
「よくこの湖は氾濫を起こして、下流域の町が洪水に見舞われたりします。それが、何か?」
額の汗をふきながら答えるマツマエさん。こんな涼しいのに、暑がりなのかなこのヒト?
『この湖から流れる川の水を、飲用水、生活用水にもしておられると?』
「他に川がないもんで、ポンデリン湖からの水に頼らざるを得ませんのや」
『ポンデリン湖の水を、全て抜いてしまおうと思います。ほんの一日か二日ですが、構いませんか』
「うへえっ!?」
捜索隊に動揺が広がる。
この湖はカルーア湖までとはいかなくとも、対岸が霞むくらいの広さがあるからだ。
「ええっ、この湖の水を全部、ですか? いくら何でも……ご、ご冗談でしょう?」
『冗談ではなく本気です。邪神とその眷属は日光が苦手のようですから、氷河湖の水を抜き、昼間のうちに水中に潜む眷属に陽の光を当ててみてはどうかと思ったのです』
氷河湖って魚とか生物が基本いないから、カルーア湖と違って水を抜くのに生態系を破壊するだとか、そういう配慮はしなくていい。邪神の眷属と化した元人間の犠牲者にも太陽光あてて平気なのかって話もあるけど、今朝メンターイコから押し寄せた元人間の眷属たちは日光を浴びても特に問題なさそうだったしいいだろう。
「ポンデリン湖の水を抜くというのは、下流へ放流するということですか!?」
「やめてくれ、大洪水になりますのや。俺たちの家と畑が流されてしまいますのや……!」
『放流はしません。湖水を干上がらせます。無論、邪神を倒した後は湖の水は元のように戻しますので安心してください』
生活用水にしてるなら、例え素民が全員避難しているといったって畑に水を引いて利用している筈だ。数日も水源を断って作物を枯らすわけにはいかない。
「そ、それなら構いませんのや。しかし、どうやって」
『湖水を分解し、分解物を夜間に上空で燃焼させ、太陽の代わりに邪神の神殿を照らそうと思うのです』
「はあ……湖水を分解する? はあ?」
驚くやら馬鹿にするやら、はっきりしない顔になってるよマツマエさん。水を分解すると言って分かってくれるのは、ナズとモンジャ民の一部ぐらいか。
『まあ、見ていてください』
邪神が陽光に弱いというなら、太陽の質量の70%は水素だから水を分解してヘリウムを混ぜ水素の燃焼光で試してみる価値はある。太陽の放射光の主な組成は可視光線と赤外線、紫外線だ。UVA, UVBはともかく、UVCなんて邪神のぬめっとした皮膚に当てたら割と猛毒なのかもしれない。夜間にも燃焼し続けてれば、もしかしたら昼間と同じように邪神とその眷属を弱体化させられるんじゃないかと思ってね。
んで、更に……
【物質構築: Al(s)、純度:100%、表面蒸着: MgF₂】
ポンデリン湖の周囲を取り囲む山の頂に一つずつ、超巨大アルミニウム板を複数浮遊させ設置。
ついでに表面をMgF₂で蒸着し単層コーティングし、反射率を増強させる。
太陽光を全反射して邪神の神殿めがけて照射する太陽鏡だ。表面反射鏡のアルミニウムミラーは短波長から長波長までカバーして反射してくれるんだよ。
一体太陽光の何が邪神を弱体化させるのかよく分かんないから、とりあえず全反射に近い状態にしとく。そういや現実世界でもヨーロッパの高緯度地方で日照不足の谷合の地域とか、山腹に巨大鏡を設置して太陽光を取り入れたりしてるよね。燃焼光を集めて夜間も神殿を照らし続ける、何てクリーンなエネルギー! アガルタだって時代はエコだよ。この鏡は後で使うんだ。
『神様の御業は、とてもユニークで見ていて楽しいですね』
ロベリアさんがふわりと目を細めた。
褒められてるのかけなされてるのか分からないけど、今日も癒されてますロベリアさんの聖母のような微笑みに。
『基本、ケミカルっすよねえ』
使徒さんや同期神の皆さんのおかげで、私も色々と知識もできることも増えたからね。
この一年で気付いたんだけど、構築ってかなり自由度が高くて創造性のある楽しい仕事なんだよね。突き詰めて言えば無からの物質合成と物質消滅・分解スキルだから、神通力さえあれば至宙儀まで万能とはいかなくても割と何でもやろうと思えばできる。高分子入力を必要としない無機化合物とかには特に強い。人体などの高分子有機化合物にはすこぶる弱いけど。
てなわけで私は最近構築が楽しい、何を作ろうかなと考えている時間がワクワクと楽しい。インフォメーションボードを開きつつ、大きく息を吐く。ポンデリン湖全域に隈なく神通力を浸透させてゆく。
【分解物質 : 2H₂0 (l)→ 2H₂(g) + O₂(g) 、速度 : 20t/sec、分解開始】
「おおっ!? 何だ湖が!」
プロトコルを開始すると同時に、ポンデリン湖面にだばーっと蜃気楼が立ち上り、陽光を反射し神秘的な雰囲気が醸し出される。これだけ大規模な分解だと神通力削られまくりでさすがに私も消耗するけど、毎秒20トンの水の分解が進むにつれ、水位は目に見えて下降してゆく。分解して出た水素は上空に結界を張り中に溜め込んで、酸素はついでに上空の大気に逃がす。素民には何が起こっているか分からないだろう。水が蒸発したのかなー、ぐらいに思ってるかもしれない、それでいい。
あ、ちなみにもしかしたら皆さん心配してるかもしれないけど、酸素濃度が周囲で一時的に高くなっても大丈夫だよ。そんなに長時間じゃなければ別に人体に悪影響とか起きたりはしない。宇宙飛行士とか100%酸素下で実験したりするしね。ただ、潜水中とかで酸素分圧が高くなる時は中毒になるから危ないよ。
「もう水位が下がってきました!? 嘘だろ……!」
『みなさん、念のため後ろに下がって武器を構えていてください。何か出てくるかもしれません』
追い詰められた眷属が、いきなり水中から攻撃してきたり素民を湖に引き摺りこまれたりするかもしれない。
分解が進む間に、ロベリアさんヤクシャさんがポンデリン湖の周辺を調べてくれていた。
『神様、黄衣の王とメグはポンデリン湖に来てるみたいっすよ』
ヤクシャさんのインフォメーションボードを見ると、対岸の湖の畔に黄衣の王の体液と、傍にメグの髪の毛が落ちていたって。体液の落ちていた方向を見るに、これはどう見ても……。
『湖底に連れて行かれたっぽいすね、勘ですけど。禁書も一緒なんじゃないすかね』
だったら、なおさら湖底の様子を見ないといけない。禁書が見つからなかったとしても、メグだけでも救出できるかもしれない。
んー、何分経ったろう? 神通力を放散し続け分解を進めている間に、水が減ってようやくのことで湖底が見えてきた。犠牲者たちが湖底に犇めいているのかと思いきや、水が引いて岩肌が見えるぐらいで彼らはいない様子だ。しかしポンデリン湖の中央にあったのは、真っ黒な外観の何か気持ち悪いぬめっとした建造物。大きさは三百メートル四方ぐらい、高さはそんなに高くない。くっそー、メグが連れ込まれてたり犠牲者の皆様がいないと分かっていたら、このまま豪快に神殿ごと吹っ飛ばしてしまえばいいのに。中に人質がいるかもしれないので、できない話だ。バケットさんに聞いてみる。
『邪神の神殿はあれで、間違いありませんか?』
「見たのは全員が初めてですが、間違いないと思いますのや」
『もっと大きいのかと思っていました』
『見えている部分は一部で、地下にも構造がありそうですよ』
ロベリアさんが忠告してくださる。
これが邪神の水中神殿なのか……。立方体のブロックが集まって大きな直方体になったようなフォルムだ。何の素材でできてんのかわかんない、壁面にはどろっとした膜に覆われた無数の大型邪神の彫刻、今にも動き出しそうなほどリアルだ。
『眷属たちはどこに行ったのでしょう。神殿の中にいるのでしょうか』
まあ、普通に考えてそうだよね。浮遊して神殿の上空から構造を確認する私。
あれ? ぐるりと回っても神殿の入り口ないけど?
じゃあ大型の邪神の眷属や犠牲者たちってどこから出てきたの? てっきり邪神の神殿っぽいこの立方体の建物の中から出てきたのかと思ってたんだけど。ん? ちょっと待って。水が引いた途端、外壁の彫刻が崩れていくように見えるんだけど。
『あの彫刻って、まさか……』
私はヤバすぎな事に気づく。
皆も薄々気づき始めてるみたいだ。インフォメーションボードでエネルギーコアを解析すると……確定した。
『どうやら昨夜の大型の眷属はこの神殿自体から生まれていたようですね』
……つか、エネルギーコアだらけなんすけどこのブロック状の神殿側面。神殿を破壊しない限り、無限に湧き出てくるよあれ。昨夜一体相手にするにも必死だったからこんなに大量とか勘弁してマジで。
『光を当ててみましょう。皆さん、目に刺激が強すぎますので光を見ないでくださいね』
こんなときは太陽鏡の出番だ! ポンデリン湖山頂に設置したアルミ鏡の角度を全方位から邪神の神殿に向け、太陽光を全反射し照射する。とわーっ、一斉照射――っ!
「うわー眩しいっ! 目がーっ!」
言ったそばから何故見たのモンジャ民! 暫くすると、壁面の大型邪神の彫刻はずぶずぶと燻り完全に溶け落ちてしまった。しかしその下にも折り重なるように邪神の彫刻が見えている。つか、何で溶けたんだろう、太陽熱か? あ、この設定だとちょっと神殿を加熱しちゃってたか。鏡面に赤外線(IR)カットコーティングをかけて、熱を遮断してみる。黒い邪神の神殿が熱を吸収して炎上しちゃったらいけないからね、中に犠牲者たちがいるかもしれないし。
熱をカットしても光を照射すると同じように溶ける。赤外光以外のどこかの波長がピンポイントで邪神の眷属の弱点なんだろうね、有益な情報を得たよ。
『なかなか効率的な作戦ですね、大規模で自動的に眷属を排除できそうですよ』
ロベリアさんが褒めて下さった、削ったり壊したりせず光で勝手に溶けてくれるなら楽ちんだよね。
かくなるうえは夜になるまでに少しでもこの調子で日光を当てて削っておかないと。
「あ、あれ見てください。もしかして……神殿の入口?」
コハクが指をさした先には、溶けた壁の下に空洞が見え始めていた。うわー、どうしよう入り口があいちゃったよ、何が出るの? それとともに中から大量の水があふれ出した、暫く待ってみたけど、眷属が出てくる様子はない。このまま昼間のうちに突入しちゃう? こんな邪神の眷属でできたような神殿に素民を一緒に連れて行きたくない、でも区画解放のルール的に民と一緒に行動しなければいけないしで悩ましい。
「いきましょう、ここまで来たんだ。今なら体力があるしまだ陽は高い。危なくなれば途中で引き返すこともできる」
グランダのジェロムさんが促す。いつか行かなければならないのなら、今しかないと彼は言う。他の皆の顔を見渡すと異論はなさそうだった、準備とか何もできてないけど。
『途中で引き返せるかどうか、わからないのですよ。神殿の中で夜になってしまえば……』
それは神殿の中で全方位から眷属に囲まれ、絶体絶命を意味する。この大人数の戦士さんたちが、全員生還できるとは思えない。
「状況は明日も同じでしょう、しかも今夜の防衛戦を経た後さらに消耗しているはずです」
言われてみればばそうだけど……。
『わかりました……今から行きましょう』
ここで精鋭に絞るか。集団戦術が奏功しないであろう閉鎖環境で邪神の神殿を攻めるのに、大人数は要らないからね。それより大人数で他の場所を守ってくれた方がいい。
『どなたか、突入に志願する人はいますか?』
「はいはいっ!」
志願してくれた屈強そうな戦士さんたちの中から、私は更にメンタルが強くて眷属相手でも戦えそうな選抜メンバーを引き抜く。一般素民より卓越した実力を持つキララとヒカリ、コハク。女性は外そうかと思ったけど、それは区画解放の趣旨に反するので実力順に平等に選ぶべきですとロベリアさんの意見を飲んでメンバー入り。
他は戦う神官、イヤンさん。モンジャの狩人ソミオにソミタ、グランダ重装歩兵中隊長ジェロムさん、副隊長ヌーベルさん、ネスト御家人、直臣のクワトロさん。タコヤキからはメンターイコ町の若き剣士アオノリさん、キャビアン町の腕利き用心棒、コンソメさん。計11人だ。ヤスさん、ラウルさんは近接戦闘に弱いので今回はメンバーから外した。えーと、あとは
『ロベリアさん。あなたも私と共に来てください』
『はい、喜んでお供させていただきます!』
嬉しそうに背筋と羽根を伸ばし剣を装備するロベリアさんに
『んーじゃ、自分は留守番すかね』
まあ、どっちでもいいすけど。と、ちょっと残念そうに腕組みをしつつ羽根をいじるヤクシャさん。あーすみません、活躍の機会を奪ってしまって。
『ヤクシャさんは、ここにいる皆さんを率いてモンジャに戻り、夜間の守りを固めて下さいますか。もし私たちが夜までに戻らず、この中で一夜を過ごすことになるとしたら』
悩ましいところだけど、カルーア湖全域をカバーして余裕で戦えそうなのはロベリアさんよりヤクシャさんだろう。私はロベリアさん、ヤクシャさん両方と何度も手合わせをしてもらって、ここはヤクシャさんに任せるべきだというのは身に染みて分かっている。
ヤクシャさん、うんざりするほど強いのよマジで……。下手すりゃ水埜さんとか一撃粉砕しちゃうんじゃないだろうか。
『私の代わりに、カルーア湖沿岸の民をお願いします』
『おうっす、赤井神様こそ油断せず気を付けて。何かあったら呼んでください』
使徒は神が永き眠りについている間も神に代わって民を守る、それだけのポテンシャルを持つ存在で、ヤクシャさんはましてや他管区の主神を目指してる上位使徒、彼に任せて間違いないだろう。
「皆、覚悟はいいか? 陽が高いうちに突入だ」
装備を整えたキララには、ほどよい緊張感に満ちている。
『待って。少し……待ってくださいね』
私はたった一つの装備、神杖を握りしめ皆の準備を待っていた間、その視線は一点にくぎ付けになっていた。
邪神の神殿の入り口を注視していて気付いたんだけど、壁面に黒い金属板の直径1メートル大の円盤が掛かっているんだ。ただの円盤なら何とも思わないけど、円盤の上には黒い大小の球体が複数と大きな白い球体が一つ、張り付いている。それが、円盤の上を転がるように少しずつ動いているのよ!
『何だか……妙なものが』
不自然な動きだよ。暫くの間見ているとそれは、ばらばらの円軌道を描いている。至宙儀も軌道を使った駆動システムだったから、この神殿の中で、この円盤の軌道を利用した何かあるんじゃないかと敏感になるんだよね。
それに、マヨが星辰が云々とか言ってたから、もしあれが星座かなんかを模した物なら――。
私は何か嫌な予感というか気になったので、円盤の中の球体の動きをインフォメーションボードでキャプチャさせ、現在時刻と共に記憶させといた。そしてそれぞれの軌道を割り出し、インフォメーションボード上で再現できるようにしとく。神殿の中でも、この円盤が外でどんな動きをしているかを知っておきたいからね。
真っ暗な神殿の中から、何やらうめき声のようなものが聞こえてくる。生臭い風が吹き抜けて行った。
『入りましょうか、気を付けて行きましょう』
午後三時すぎ、私たちは突入を開始した。
選ばれた戦士たちとロベリアさんと共に、いざ先頭を切って邪神の褥へ。
踏み入った神殿は、神殿というよりダンジョンのようになっている。一本道の通路が随分長い間続いていた。踏みしめるとぐにっとした感触が足裏に伝わる濡れた漆黒の床面、壁面からはえもいわれぬ生臭いにおいが漂っていた。
壁面にはところどころ邪神の眷属の彫刻があり、時折痙攣したような動きをしている。まさに生きた壁だ。これが夜になると動き始めると思うと、何としてでも早く攻略してしまいたい。私たちは通路の狭さから、二列になって進む他になかった。
先頭を私が、素民たちはその間を、後ろをロベリアさんが警戒しながら進む。私とロベリアさんは後光を放っているので、照明は皆無だけど、皆の視界はそこそこ確保できている。
「む……?」
クワトロさんが足を止めた。じっと、握りしめた愛用の長剣を見つめている。
『どうしました?』
「神様。通路の壁面にあたった剣が、錆びてゆきます。壁面に触れてはいけない、恐らく、床面にも」
クワトロさんの剣は、柄の部分まで錆びてしまっていた。こえーな水埜さん、入り口で早くも素民の武器を使えなくする気かよ。
『剣をかしてください』
私はクワトロさんから受け取った剣の刃に手を当て、酸素を還元しながらすうっと表面を撫でる。
「おお、ぴかぴかですじゃ! これで戦えます!」
単調な通路を進むこと、数十メートル。床面の色が変わった。千鳥格子状のタイルっぽくなってる……!
赤と、黒の格子模様だ。どっちかだけを踏んで歩けばいいんだろうけど、どっちを踏めばいいのか分からない。
『私が先頭を行きます。皆さん、少し離れていてください』
足だけをそろっと差出し、思い切りよく黒を踏んだ。すると、横壁から無数の突起が出てきた――っ! 瞬間的に足をひっこめたから足は無事だけど、素民だったらやべーよこれ串刺しだよ!
『赤を踏むべきだったのですね』
今度こそと赤い格子を踏むと、ゴトン、と何か天井から音がする。その次の瞬間!
『うおっ!』
ぎゃー天井が落ちてきたよ――!
赤も外れだったのこれ!? 杖を投げ、反射的に天井の重みを受け止める。
重ええええ―――、馬鹿力を自負している私でも支えきれない鬼のような重さ! あ、でもこの仕掛けだと素民たちは赤しか通れねーじゃん。
『早く、皆さん今のうちに通ってください。私にかまわず!』
私、迷宮探索で一番最初に死にそうなモブにありがちなセリフで大真面目に素民達に呼びかける。
『では、神様が支えてくださっている間に行きましょう。赤のみを踏むのですよ!』
「おーかみさまーしんどそうだなーだいじょうぶかー?」
いいからソミタ、ちんたらしてないで走って! あ、でも走ったら黒踏みそうだから急いで歩いて!
「ありがとうございます神様」
なあにクワトロさん、いいってことよ! ロベリアさんを先頭に素民たちは私の支える天井の下を駆け、格子模様の終わった通路部分にまで避難した。
やーみんな避難できてよかったよかった。いやちょっと待ってヨクナイ。
あ、腰にきた。何か腰がぎくって音がした。笑顔がひきつる。
えーと、私はどうやってここを通る? 天井重すぎて一歩も進めないんだけど。
まさか私ここでおいてけぼりとかないよね、ないよね――!?




