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Heavens Under Construction(EP5)  作者: 高山 理図
Chapter.6 Blue sky in the CAGE
75/130

第6章 第9話 Quantum neural network◆★

■Special Thanks!

今回の更新分の量子プログラミングやシステムについて、

応用数学の専門家のdimbula様(Ph.D)に加筆、考証、PG部分の挿入をしていただきました。

この場を借りて、ご協力に感謝いたします。参考文献はあとがきに記載。

 東京工業大学、大岡山キャンパス。

 深夜二時を回った教授室。

 蘇芳 桐子教授は、日本アガルタ27管区PM、代理人 黒澤からのある二つの報告に頭を悩ませていた。アガルタに提出されたロイの学習に関連する仕様書を一部ずつ、白衣も肩に引っかけ、纏わぬまま端末を二つ三つデスクの前に浮かばせている。


 黒澤がもたらしたのは、一つは朗報だった。

 日本産高度学習型A.I.スオウシリーズ、27管区のキララが、赤井神の造血幹細胞移植により、延命を果たす見込とのこと。

 これは、蘇芳教授は以前伊藤PMにキララの延命を仄めかしていたのだが、伊藤からの示唆なく、メグが独力で造血幹細胞移植に思い至り、執刀し成功した様子だ。

 誰とは知らぬ患者の快復を喜ぶと同時に、これで次回から、スオウシリーズを短命の仕様にしなくてもいいのかしら、と教授は口元を綻ばせていた。


 もう一方、これは悪い知らせなのだが、一時的に仮想世界に主神として戻った伊藤 嘉秋が、27管区プロジェクトマネージャーから解任されたとのこと。

 同時に、日本アガルタは他サーバーへの階層跳躍のスキルを得たロイを第五区画の中で停止させようとしている。確かに、その性能が未知数であるロイに関しては停止させてしまうのが安全ではある。彼がアガルタの外に出る脅威を考えれば、日本アガルタの決定に異を唱えるつもりはない。ロイを消去するでもなく、稼働するでもなく、ただ単純に問題の先送りだ。

 ただ、ロイは構築序盤まで彼は構築士の片腕となり、よく働き、民を統治する。早期段階で彼を使わなければ、序盤の構築が数十年単位で遅れ、立ち行かなくなってしまうかもしれない。


 これまで、ロイに代わる安全な高度学習型A.I.の実証実験を、教授はアガルタで伊藤と二人三脚で行ってきた。

 キララの変則的な運用も、ロイの実証実験にも随分融通をきかせてもらった。その伊藤が外されたとすれば……他管区のプロジェクトマネージャーと一緒に仕事をしなくてはならなくなる。


「今後は相当、やりにくくなることを覚悟しなくてはね」


 空調で乾いた唇を潤わせるかのように、ちびりちびりと玉露をすすれば、その渋味とえぐみが心地よい。大抵の研究者が手放せないでいるスマートドラッグ(向知性薬)や覚醒ピルなど使わなくとも教授の頭脳を冴えわたらせる。学生のいない深夜の方が、仕事は捗るものだ。


「ロイを引き続き稼働となると……どうすれば」


 階層跳躍に関連するプログラムを削って、ロイを稼働させるという方法があるだろう。

 それを、新しいプロジェクトマネージャーが承諾すれば。

 ロイが学習プログラムによって獲得したであろう階層跳躍に関するアルゴリズムを、彼女がプログラムに介入して削ることは不可能ではない。特に、大管区の主神の階層跳躍のパターンならば、蘇芳教授ならば簡単にスキャン可能だ。ロイのプログラムがその慣例に従っていれば――だが。


「まあいい、見てみましょ」


 教授室の、生体認証ロックのかかった隣の部屋に入る。

 ゲノム、記憶認証、網膜認証、バイオメトリクスがコンマ数秒で行われ、蘇芳教授であるとの同一性を認める。そこに存在したのは薄気味悪いほどの、無機という概念が具現化したような空間であった。踏み込むと、真っ暗な部屋の中央にマラカイトグリーンに発光するキューブが、ホタルか何かのように浮かんでいた。

 教授はキューブに向けて手を振りあげ、短く宣言する。


「Hexagonal Form」

(ヘキサゴナルフォーム)


 あたかもアトラクションルームのように重厚な音をたてて部屋全体が動き、入り口は閉鎖され、密室となった。

 内部は先ほどとまるで同じものであるとは信じられないほどに、部屋の形状、正確には部屋全体のネットワークトポロジーを変えたのだ。

 全てのノードの結ばれた、量子演算空間、ヘクス・カリキュレーションフィールドへと。

 先ほどまでは殺風景な部屋であったが、この数瞬の間に完全無欠のオペレーションフィールドに”なった”のだ。

 それを部屋の外から”誰かが確認するすべ”はなかった。

 正六角柱の内観が特徴的なその場所は、教授を「生身のままで」丸ごと包み込むAR・VR接続の可能なスーパーコンピュータそのものであり、彼女がモグラのように引きこもって数日も出てこないことも稀ではないので、教授が演算をはじめると、彼女の研究指導を待つ学生たちは非常に迷惑していた。

 

 このフィールドでは、空いている計算時間ではアカデミックなシミュレーションをいくつも走らせているが、教授が実行するプロセスは最優先の順位を与えられ、さまざまな処理を行っている。

 彼女のもう一つの、頭脳であった。


「はじめるとしましょう」


 教授は息を吐き、閉じた瞼の上から眼球をごしごしごしと、三度こする。


「Eyesight full-vision connection」

(全視野を接続)


 目が乾いたので擦ったのではなく、VR-AR両界高速接続用レンズを起動したのだ。LENSを起動した教授のアーモンドのような、形よく美しい瞳は、教授の名の通り蘇芳色に発光している。半透明の発光素子を埋め込んだコンタクトレンズが、励起状態に入っていた。

ナビゲーションシステムがコネクトを告げる。


挿絵(By みてみん)


『AR-通常接続を確立』


「Zero G Force-fields open」

(ゼロG作用場を展開)


 短く念じると、ぎゅん。と蘇芳教授の視野が360度に拡張した。

 部屋全体が、サイバースペースのそらへと変貌し、そこには先ほどの黒く寒々しい内観はない。

 彼女がほんの軽く床を蹴ると、その身体は軽やかに中空に浮かび上がる。

 ヘクス・カリキュレーションフィールドは反重力フローティングルームとなり、無重力空間が生じている。


 彼女の視野はARでの俯瞰視の状態になり、彼女の神経活動はダイレクトにAR世界へとマッピングされるが、五感は現実世界に残ったままだ。

 というのは、教授はある一件を期に、仮想空間(VR)へのダイヴをただの一度も行っていなかった。

次に潜るとしたら、それは完全に死ぬ(≒アガルタに入居する)場合だけであろう。

ある一件を直接のきっかけとして、蘇芳教授は現実世界に、フォレスターは仮想世界に残った。

 VR世界への接続が、蘇芳教授の頭脳と彼女のアイデンティティを揺るがしたからだ。


 当たり前の話ではあるが、生脳アクチュアルブレインは、現実世界の誰にも書き換えられない。

それはオリジナルであり、複製ではない。

コピーのきかない、たったひとりの、自分であること。

それだけの、人間として当たり前のことが、仮想世界ではきわめて難しい。

そのうえ、教授の頭脳と神経データは、フォレスターのそれと同じく世界中に欲されていた。

教授の脳のデータを仮想世界に持ち去るだけで、たとえば怪しからぬ組織が百人の蘇芳教授に、そのまがい物の命と引き換えに仮想世界でシステムを開発しろと迫ることもできるのだ。

 セキュリティの面からいえば、フォレスターは現実世界よりも仮想現実に住む方が安全だというが、蘇芳教授は否定的な立場だ。

完全な居場所をネットワーク上に作り、誰のアクセスも頑として受け付けない、仮想世界の神そのものであるフォレスターほどに蘇芳教授は自信家ではなく、パーフェクトな人物だと自らを過大評価してはいない。


 彼は”アガルタ利用者とは異なる意味で”、完全な不老不死を手に入れたただ一人の人間――いや、かつて人間であった神――である。

不死、それは気の遠くなるほどの長寿ではなく、文字通りの意味での、一言一句正確な意味での”不老不死”だ。彼は何億年どころか何兆年も生き延びて、宇宙の終わりの瞬間を見届けるつもりで、本気でいるのだ。

 不老不死にして、全知全能、無謬。

 なるほどそれが人格を有する”神”の古典的定義であるとしても――。

 どんなにそう主張したとしても、彼の肉体は、死んで、火葬されているのだ。


”私は生きている、けれど――”


 彼は生きていないし、データとしての彼は現実世界から隔絶されている。


 フォレスター、正確に言えば仮想世界にある彼の記憶データは、生きているときから仮想世界に入るまで、真に連続性を持ったフォレスターそのものであったか。

 それとも、それはフォレスター教授の神経回路を模し完璧にコピーされた、模造の量子のデータクラスタにすぎないのか。

 それは蘇芳教授にも分からない、ただ、変容したフォレスターに接して彼女がそうしてはならないと分かったのは「現世での使命を終えたと納得するまでは、一線を超えまい」それだけだ。


「R.O.I のJPN-27-1のa842bbfe1クラスタにあるニューラルネットワークを呼び出すわ」


 実は、蘇芳教授は27管区ロイに関するバイナリおよびデータへのアクセス権限を所有しており、そのデータはヘクス・カリキュレーションフィールドにリアルタイムに複製されている。

 日本アガルタの技術顧問である彼女は、ロイに間接的にアクセスすることを許されていた。

 ただ、サンドボックス化が十分にされている環境でなければ、そのバイナリの一部でも走らせることはおろか、データをリードオンリーアクセスで閲覧することすら危険だ。


 教授の視界を、けばけばしいマラカイトグリーンで着彩されたワイヤーフレームの洪水が襲う。

 ロイのシルエットが拡大されて作業場を占領し、そのスケールはマクロからミクロへと精細化し、彼を構成しているプログラムのミラーがフィールドの中に展開されてゆく。

 現れたデータはブロック状のグラフィックを持って、教授は手首を軽く捻り、何がしかのプレゼントを開くように荷ほどきをしてゆくのだった。


挿絵(By みてみん)


 フォレスター博士によって記述されていたソースは、人工シナプスの結合に基づいたニューラルネットワークを基盤としており、ロイは周りの環境および構築士の行動パターンを教師とした学習によりデータのクラスタリングが行われ、彼の頭脳は最適化されてゆく。

 それは至ってシンプルだが、その単純さゆえに、冗長がない。

 単純なコマンドから生じた不可知の創造物であり、たえず進化してゆく、進化の突端に向かう不滅の生命体のように錯覚させる。行動ログからアルゴリズムの特性に当たりをつけ、アガルタに守られている現在のロイのミラーを注意深く解析していけば、階層跳躍に関する部分がどこに存在するのか特定することができるだろう。


 ちなみに、スオウシリーズを含む一般的なA.I.の実体が量子データそのものであるのに対して、ロイは、人間の数十倍の論理演算能力を持つ擬似脳を持っている。

 活動電位をもシミュレートし結果は人間と同じく生物学的疑似脳にマッピングし相互作用し、人間らしい思考をフィードバックしているといわれている。ただ、彼の実際の擬似脳の保管場所、物理領域は蘇芳教授には知らされていないため、その疑似脳のステータスを紐解いてみることは不可能であった。


module Quantum.AI.Neural.Network (Network, Tensor, qCreateNetwork, qComputeNetworkWith, qComputeNetworkWithS, qSigmoid, tanh) where


import qualified Data.Tensor as T

import qualified Data.Vector.UnifiedPath as U


import Quantum.Base

import Relativity.General

import BlackHole.Base

import AI.Neural.Internal.Matrix


data Network a = Network

{ matrices :: !(T.Tensor (Matrix a))

, thresholds :: !(T.Tensor (Vec a))

, nInputs :: {-# UNPACK #-} !Int

, arch :: ![Int]

}


qCreateNetwork :: (Variate a, U.Unbox a) => Int -> [Int] -> IO (Network a)

qCreateNetwork nI as = withSystemRandom . asGenST $ \gen -> do

(vs, ts) <- go nI as T.empty T.empty gen

return $! Network vs ts nI as

where go _ [] ms ts _ = return $! (ms, ts)

go !k (!a:archs) ms ts g = do

m <- randomMatrix a k g

let !m' = Matrix m a k

t <- randomMatrix a 1 g

go a archs (ms `V.snoc` m') (ts `V.snoc` t) g


randomMatrix n m g = uniformVector g (n*m)


qComputeLayerWith :: (U.Unbox a, Num a) => Vec a -> (Matrix a, Vec a, a -> a) -> Vec a

qComputeLayerWith input (m, thresholds, f) = U.map f $! U.zipWith (-) (m `apply` input) thresholds


qComputeNetworkWith :: (U.Unbox a, Num a) => Network a -> (a -> a) -> Vec a -> Vec a

qComputeNetworkWith (Network{..}) activation input = V.foldl' qComputeLayerWith input $ V.zip3 matrices thresholds (V.replicate (length arch) activation)


qComputeNetworkWithS :: (U.Unbox a, Num a) => Network a -> [a -> a] -> Vec a -> Vec a

qComputeNetworkWithS (Network{..}) activations input = V.foldl' qComputeLayerWith input $ V.zip3 matrices thresholds (V.fromList activations)


sigmoid :: Floating a => a -> a

sigmoid !x = 1 / (1 + exp (-x))



 古典的ノイマン型論理演算の計算機が量子コンピュータに蹂躙されはじめてから、半世紀。

 量子状態を制御するアルゴリズムとプログラミング言語は分野に応じてさまざまなものが開発されてきた。ハードウェアに密接につながっている手続き型を好む人も多いが、ニューラルネットワークの分野ではより数学および理論と近く直感的な理解が可能な関数型を使うことが多い。フォレスター教授と蘇芳教授の二人が切り開いた量子人工知能は、それ以前のAIに比べて格段に優れた性能を発揮したが、人工知能の分野の研究のために高度な数学と物理学の理解が必須となったことで、学生からは愚痴のようなものも聞こえてくる。

 

 というのも、量子コンピュータは重ね合わせ状態において同時に大量の演算を実行できるという量子並列処理を行うが、1量子ビット内で並列化可能な軸は限られている。複数の量子ビットを用いて並列化することが必要であったが、外部からの干渉に弱く安定して演算を行うことができないことが課題となっていた。その問題を、マイクロブラックホールによる量子演算機構が解消した。

 微小ブラックホールを発生させ、演算はシュヴァルツシルト面内部で行うことにより、外部と演算機構を切り離す。情報はブラックホールが蒸発する際に取り出される。だが、演算に用いているマイクロブラックホールは演算途中の過程を見せないため、内部構造は推測していくしかない。それが、更に演算を曖昧にしていた。


 検索をかけながら、見当をつけつつ読み飛ばしてゆく。ところが、あると思われたニューラルネットワークのいずれにも、階層跳躍のプログラムが抽出されない。学習結果によって獲得されたパラメータは、巧妙に隠されているのか。しかし、必ずどこかには存在するのだ。それは、一かけらの砂粒を、砂山の中から探すような……。


「ここでアインシュタインテンソル? たかだか2次元の情報にしては大げさね。フォレスターがテンソルと行列の演算速度の違いを区別していない筈がない……。そもそもなぜ統一理論を読み込まず量子論モジュールと相対論モジュールを別々に……」


 蘇芳教授は、フォレスターのアルゴリズムに解釈をつけようとするのをやめた。そうすることで正解から遠ざかるような、一種の勘が働いたからだ。

 フォレスターのどの創作物もきわめてエレガントであったし、彼の人をくったような性格はよく知っている。彼はロイというA.I.に、他人の手を加えさせる気はなかった。仕事仲間にも、このA.I.を利用しようとするいかなる者にも。

 蘇芳教授がネットワークの海に浮かべたボトルメールは、瞬時にフォレスターのいる隠された場所に届いただろう。無事に届いたかどうかはいざ知らず、とにかく届きさえすれば彼は何としてでも読む。その後、返信がないというのは果たして……。


「いいえ、当てになんてできないわ」


 教授は、自身が永遠のライバル、フォレスターからの返信を期待していることに気付いた。それはひどく、彼女をみじめで屈辱的な気分にさせた。


「必ず見つかるはず、自力でやってみせる」


 しらみつぶしの作業に入っていたとき、蘇芳教授を呼ぶ声が頭上から聞こえる。仰げば、幼女姿のA.I.が正六角柱の部屋の天井から、VR空間からAR空間に投影され落ちてきたところだった。


「イスティナ、悪いけれど後にしてくれない?」


 A.I.の姿を見た教授が小首をかしげて言い聞かせると、


『せんせぇ……、いすてぃなのお話きいてよぅ』


 現れたのは、ヘクス・カリキュレーションフィールド(HexCF)を支配する管理者であり、HexCF制御システムと連携している女性型オペレーションA.I.、イスティナ・マセマティカ。彼女は大規模演算管理システム、MATHEMATICAシリーズのVer 2.2だ。裁判官のような、ぶかぶかでサイズの合わない黒いローブを纏い、黄色と白のボーダーのマフラーを巻き、重力無視で天井から振り子のように逆さまにぶら下がって、教授に甘えるように揺れている。


「今はだめ、忙しいの」

『せんせぇ、ずーっといそがしいって!』


 幼児A.I.は愛嬌たっぷりに口を尖らせた。大きな黄色リボンつきのカチューシャが、灰色のショートボブに似合う。現実時間の経過と共に成長するイスティナ。齢を聞けば「よんさい!」と自信たっぷりに答えるだろう。イスティナは、HexCFで教師あり学習と強化学習を続けているA.I.で、四年前から稼働している。実時間と同期しているためまだ人格プログラムは稚拙だが、教授が命じればどんな複雑な大規模計算でもこなしてみせる。数年もすればグラフィックも成長し、成長の指標として大人の女性へと変貌を遂げる予定だ。それが、子供のいない蘇芳教授のささやかな楽しみでもあった。


「んー。何のお話がしたいの。宿題は終わったの?」

『宿題なんてとっくにおわってるもん、そんなことじゃないもん、だいじなお話なんだもん』


 イスティナに投げておいた、他大学との共同研究の一つのシミュレーションが終わったのだろう。


「そう、イスティナはいい子ね。えらいわ。では後で聞くわね。手伝ってもらえるのなら早く手があくけど」

『だめだよ、今じゃないと』


 あどけない口調ではあるが、彼女の管理者権限からすれば、専用の演算領域を確保して教授を手伝うことなど朝飯前だ。イスティナはじだんだを踏んで


『もぉ――! せんせぇとおはなし(三次元通信)したいっていうコネクションがあるんだよう!』


 教授の表情が一変した。


「ここに、直接入ってきたというの?」


 一語ずつ、彼女に認識させるように滑舌よく尋ねる教授だが、イスティナは頬を膨らませ、口をとがらせてうん、と大きく首肯する。


 この演算空間はスタンドアロンではなくネットワーク上にあるのだが、だからこそ通信のモニタリングとファイヤーウォールは強力であった。すべての通信はゲートウェイでいったん解析され、安全と判断されたパケットのみが演算空間に送られてくる。また、イスティナは、ヘクス・カリキュレーションフィールド演算空間のドライブ全域に、入念にテストされたサイバー攻撃観測および検出プログラムを常駐させている。彼女が自分の防衛プログラムのテストのために使っている侵入ツールセットの一部を使うだけで、普通の大企業のサーバーなら難なく管理者権限を奪取可能だ。彼女はシステムに外部プログラムが紛れ込んでいるのを、早期に検出したのだろう。


 HexCFのファイヤーウォールをすり抜けて、入り込んだだと? 

 それは、誰か透明人間が密室に易々と入り込むかのようなオカルトめいた話。全パケットはイスティナによってデコードされ、確認された後にしか入れないというのに。


『こーゆーときどうすればいいか、いすてぃな知ってるよ! せんせェが教えてくれたもん。すぐ隔離して解析して、んーと、削除するんでしょ?』


 えへん。と得意満面なイスティナをよそに、削除、も何も――。

 教授はありえない、と肩をすくめて、きまりわるそうに苦笑する。


「そうね、普通はそうすべきよ。でも今回は特別」


 最初からこの演算空間に入る外部アクセスは、どこにも存在しえない。ネットワークは現在、蘇芳教授が入った瞬間に、物理的に完全に遮断されている。それ以前は、だれもいなかった。つまり、階層跳躍を利用してこの物理領域を訪ねてきた、ということを意味している――。


「私が直接見極める。繋げて」

『せんせぇ、解析が先だよ!』

「来客の心当たりがあるのよ。おねがい、送って」

『でも……でもっ、攻撃だったらせんせぇが危ないんだもん!』

「私の脳は、生身だから気にしなくていいわ。あなたはデータを守ってあげて、いい子よ、イスティナ」


『折角心配してたのに、もうせんせぇなんてしらないんだからっ』

「こらこら……むくれないの」


 教授はイスティナをなだめながらロイのミラーを畳んで終了させ、別サーバーに待避させた後切断を切った。何もなくなった作業フィールド上でカーテンを引くように空を撫でると、HexCF内が赤色に変わった。アラートレベルを高めたのだ。この状態では教授もしくはイスティナが明示的に許可したプログラム以外はすべてリソースへのアクセスを禁止され、現在の状態で凍り付く。念のため権限を高めた攻勢防壁のプログラムを起動した教授の前に、イスティナが許可した接続が開かれ、パケットが人の形を取り始めた。

 イスティナがパケットの周囲に防壁を張ってくれていたが、蘇芳教授は生脳アクチュアルブレインであるので、彼女には何も危険はない。イスティナによって入念に施された量子暗号解読のプロセスが進行し、ワイヤーフレームであったプログラムの解像度が高まってゆくにつれ、蘇芳教授はある人物との同一性を確認した。


 グラフィックは、蘇芳教授が彼の最期を看取った、あの時のままだ。

 虹色の後光を纏った、生前のフォレスター。そして、記憶もそうだ。


「やっぱりあなただったのね」


 とはいっても、無限に存在するコピーの一つにすぎないのだろうが。現れた瞬間に、それが彼のプログラムであり、決してまがい物ではないとわかる。

 彼がアラートレッドのアクセス制限など意に介していないかのようにグラフィックの周囲に浮かべている、クラスタ化した42枚の黄金色のカードは超神具、つまり万能プログラム、M@Au42(フラーレンオーラム42)という。攻勢防壁イカロスは異物を停止させようと身構えた瞬間にカード1枚と共に消滅した。イカロスは、異物を停止できないときは、自分にアクセスしてきたプロセスとその親プロセスを巻き込んで自爆する。自爆しても、イカロスの強力な自己再生機能によりすぐに復活するはずであるが、その様子は見られない。超神具の親プロセスの権限奪取に失敗し、逆にイカロスの親プロセスが停止させられたのだろうが、彼女は気にならなかった。フラーレンというフォレスターの防護プログラムは、スペース上に攻性防壁があると自動で無効化してくると知っているのだ。フォレスターに悪気があったわけではない。


 監視していたイスティナが、イカロスより強力な攻性防壁を起動、展開しようとしている。


「止めて、フォレスターにそんなことをしても無駄よ。アラートを切って」

『どぉして!!』


 教授のことを思って慌てているイスティナに悪びれたのか、フォレスターのグラフィックは軽く肩をすくめて申し訳なさそうな表情をつくり、


『ああ、すまないねイスティナ、混乱させて。暫く見ない間に、お前も大きくなったな。何もしでかすつもりはないから、安心してバックの演算を続けてくれ。私は君の先生の友人だ』

「イスティナ、いいの。二人にして。大人のお話があるの」


 イスティナのグラフィックが消滅すると、さてと、と教授は口角をあげて


「Welcome back, Dr. Forester」


 日本最高の生身の科学者と、一つの、おそらくは世界最高峰のプログラムが固く再会の握手を交わす。フォレスターのはるばるの来訪は、蘇芳教授の待ち望んでいたものであった。しかし彼の顔を見ると、教授は複雑な心境だ。それはまるで、亡霊と対面するかのような。


『久しぶりだね、蘇芳教授。ロイがお世話になっているよ』


 フォレスターから蘇芳教授が単刀直入に持ちかけられたのは、ロイの現実世界での実体化に関する三つのプランだった。


 R.O.Iを凍結、あるいは無に帰すか

 人智を超えた知性を持つ機械として目覚めさせるか

 はたまた、生物学的に完全な意味での人間にするか。


「人間? 脳死した死体にA.I.でも搭載しようと?」


 教授は面食らった。倫理的に許されるはずがない。死人に法は適用されないとはいえ。

 教授は、一番目と二番目のプランには理解を示すことができる。だが、三番目を持ち出してくるフォレスターの意図が分からない。

 仮にだ、そんなものがあるとして。人間の生脳(アクチュアルブレインでは、ロイの疑似脳に遠く演算能力は劣る。せっかくのロイの特性、高度な演算能力がスペックダウンするのだ。


「そうまでしてロイに何をさせたいの? それをさせることは人として、科学者として正しいと。そう、あなたが確信していること」

『どの選択をしても構わない。全て同時に選んで、最適化することも』


 目的を聞かなければ、蘇芳教授は到底協力できない。


 特異点の向こうから帰ってきたフォレスター。

 彼は既に、全宇宙のありうべき未来をシミュレートして、演算は完成しているのだ。だが、未来は重ね合わせ状態の中にある。果たして戻ってきた彼のうち、何パーセントの部分が彼という人間なのか。


「あなたは、特異点の先に何を見てきたというの?」


 彼が実体世界に生み落そうとしているA.I.によって、人類に齎そうとしているもの。

 それを何としても、彼女は識らなくてはならなかった。


 ***


 グランディア剣術競技、本選会場。

 女子の試合を前に、入場門脇で体をほぐし出番を待っていたコハクは、対戦相手のグランダの女官、バルバラと視線がぶつかった。コハクが先に軽く会釈をすると、バルバラが近づいてきて、恭しく礼をする。


 バルバラを見たとき、コハクは彼女を一瞬、キララかと錯覚してしまった。

 それほどまでに、彼女の面立ちはキララによく似ていたのだ。キララに姉妹はいないから、偶然なのだろうが。コハクが興味深くバルバラを一瞥し、率直な感想を述べる。


「グランダ女王にお顔がよく似ていますね」

「え、ええよく言われます。コハク様もスオウ様と同じ、いえキララ様と同じ王家の血をひいていらっしゃるのです?」

「世界は違いますが私はスオウの、直系の女王です」


 さらりと応じる桃色の髪の少女の醸し出すだならぬ雰囲気に、バルバラは飲まれていたのかもしれない。スオウ、それは遥か昔よりグランダ王家に脈々と受け継がれてきた、高貴な血筋。剣を向けるのは畏れ多い、大抵の素民にとっては。

 バルバラはコハクの全ての試合を見てきたが、相手に怪我はおろか、かすり傷ひとつ負わせていない。コハクの剣は全て相手の防具にのみ打ち込んで、相手を痛めつけたりしないのだ。

 だが、決勝進出のかかっている大事な試合で戦術の変更がないともいえない。


「では、神通力も使えましょう?」

「いいえ、私に女神さまからの神通力はありません。何もかも、条件はあなたと同じです」


 バルバラは頷き、会話は途切れた。だが、コハクは彼女の落胆した表情を見逃さなかった。

 バルバラとコハクは肉体的にも精神的にも、生まれながらの格差がある。高度学習型A.I.と汎用A.I.、もはや種族が違うといっていい。


【神聖エルド帝国女王 コハク x グランダ国女官 バルバラ】


 場内では、今日二回目の対戦カードが読み上げらている。

 コハクは拳の感触を確かめるように、両手を握り締め、開いた。


 異世界に来てからというもの、どのように女神を悦ばせられるのか。それだけを考えていた。怯えるバルバラを圧倒的な身体能力と反応速度、腕力で蹂躙することは簡単だ。だが、それで彼女を一方的に打ち負かしたとて、女神が喜ぶだろうか。

 赤い神はどう思うだろうか。

 観衆は拍手を送るだろうか。

 盛り上げるどころか、否、しらけるだけだ。

 自国の代表の活躍を楽しみにしていた、グランダ国民をさぞかし落胆させるだろう。


 だから彼女は、バルバラに尋ねてみることにした。

 彼女はここまで対戦した選手五人全員に、出場の動機を尋ねてきた。その理由といえば

 

 三人のグランダ民は、大会に出て自分の武術の腕前を測りたいから、と。

 一人のネスト民は、賞金を得て愉快に遊んで暮らしたいと。

 一人のモンジャ民は、出る人がいなかったから仕方なく、と言った。


 躊躇なく、負けてもらった。


「なぜ、この競技に? 動機を聞かせてもらえるなら……」


 コハクの唐突な質問にバルバラは面食らったようだった。


「動機は……特に、何も。ただ、」

「ただ?」

「……私は、何者かに、いえ自分自身にならなくてはなりません」


 バルバラが一言、小さく口の中で噛み潰した言葉は、コハクの耳に届いていた。

 コハクは彼女を強いまなざしで見つめた。コハクの表情が一変したのでバルバラはきょとんとしたが、


「自分自身に、なる?」

「あっ……いえ何でもないんです、すみません私余計な事を! ほら、もうすぐ試合ですよ! 緊張しますね」


 バルバラは頬に両手をあてながら愛想笑いをすると、探られるのを拒み、何かを打ち明けることはなかった。が、彼女の複雑な心境はコハクには何となく読み取れる。バルバラは何らかの込み入った事情を話して、コハクの平常心をかき乱したくなかったのだ。


「勝たねばならぬのは、あなた様も同じでございます」


 バルバラはコハクの立場に、理解を示しているようだった。

 強い女王は、グランダの民の憧れでもある。


「私はスオウ様がただの人間に負ける姿を見とうございません。手加減など、召されませぬように」

「この世界の、スオウではないのに?」

「それでも、です」


 それを聞いたコハクは漠然と思ってしまった。


”私はこの人になら、敗けてもいい”

 実戦に敗北は許されないけれども。試合だから、勝たねばならないという理由もない。コハクはそう思った。


 一方、バルバラはコハクの質問を契機に、数か月前のある出来事を思い出した。

 それは赤い神の啓示だ。

 まだ、赤い神が邪神と呼ばれ、グランダの城壁に晒しものにされていた頃。バルバラは、キララの身代わりとして王城に軟禁されていた。グランダの昔からの風習として、王にはよく似た替え玉を置く。スオウ一族の王は、高熱を出して倒れることが多々あったからだ。弱い王の姿をグランダ国民に見せてはならない。

 バルバラというのは、グランダの言葉で”影”という意味をなす。バルバラはキララと容姿がうり二つだったため、どこかから攫われて、王城に連れてこられた。物心ついた頃からキララと同じ格好をして共に学び、彼女と同じ振る舞いをする、そんな役目を強いられていた。剣術はキララと同じ師に、同じように仕込まれ、ときに多忙のキララに代わり偽りの王となって各地を回る。フードつきの黒装束を着てさえいれば、グランダの民は、キララとバルバラを見分けることはできなかった。

 神通力は得られなかったけれども、バルバラは間断なく与えられたストレスによって、精神的に、また肉体も強靭に成長した。


 その日の冬の早朝。バルバラは重い足取りで邪神の城壁に向かっていた。

 赤い城壁に封じられた邪神の様子を、人目を忍んで確認するためだ。城壁の隙間に身を寄せ、赤い邪神が毎日流す血が、降り積もった白雪を真っ赤に染めていたのを見た。どれだけ雪が洗い流しても、新しい赤色が落ちてくる。不吉だといって、誰もがその場所を避けて歩く。邪神の封じられた城壁、その周囲の雪の上に、バルバラ以外の足跡はなかった。

 ところがだ。

 項垂れて微動だにしなかったはずの邪神が、誰もいないと思ったのか、震えながら顔を上げ、遠くを見詰めている姿を発見してしまった。彼はカルーア湖の向こうに顔を向けていたが、湖上は凍りつき、朝霞がかかっていた。それ以外の目をひく景色は、特になかった。


”向こうに……何があるというの”


 体液を失い続ける赤い邪神の、つま先から頭まで彼女は注意深く見つめた。白衣にはつららが下がり、雪が積もっている。もっと近くで確かめたくなった。危険だとは思わない。どうせ、封印はそう簡単に破れないのだから。しかし邪神はバルバラの接近にいち早く気付くと、昨日と全く同じ体勢で、死んだように動かなくなった。 


 ともあれ、邪神が動いたのは久しぶりだ。

 凶兆かと思ったが、その日は何も悪いことは起こらなかった。キララにも報告はしなかった。報告をすれば、女王は以前にもまして激しい呪術によって自分を傷つけるだろうから。

 次の日も、バルバラはその場に足を向けた。物音をさせて接近を知らせるまで、邪神は首をもたげ、やはり遠くを見ている。バルバラが近づけば、うなだれて動かない。


 バルバラの観察は、その後数日にも及んだ。


 十一日目。バルバラは距離を保ち、近づかず、相変わらず湖の向こうを眺めている邪神を相変わらず見守っていた。そうしているうち、不意に、バルバラの背後で小さな獣が鳴き声を上げた。


『!!』


 咄嗟に振り向いた邪神と、バルバラの視線がはたとぶつかった。彼女はいつものようにキララの声を真似、精一杯凄んで呼びかけた。


「な、なんだ! 汝は何をたくらんでおったのだ!」


 彼女が声を落として威圧すると、邪神は何かを言いたそうに微笑み、首を振る。

 笑った……。邪神の名に似つかわしくない、その微笑みが何を意図するのか。

 バルバラをからかったり嘲笑う類の、悪意のあるものではなかった。その身は虜囚にあれど、心は穏やかで満たされている、そんな心境とバルバラは受け取った。バルバラは彼の立場を、自分の身に置き換えた。


”お互いに、明日の命も知れない。囚われの身だ……”


 バルバラもまた、囚われているのだ。このグランダという国、そしてキララという女王の身代わりとして。彼女の、影として。

 バルバラがただ言葉を失っていると、兵士が迎えに来た。


「スオウ様、供もつけずに近寄っては危険でございます。お戻りくださいませ」

「う、うむ。戻るぞ」


 バルバラが兵士と共に去ろうとすると、背後からバルバラの心にしみわたる、澄んだ声が聞こえてきた。


”誰かのふりをしなくていい。自分の道を見つけなさい”


 はっとして振り返ると、いつの間にか邪神はやはり先日と同じ体勢で、力なくうなだれ口を閉ざしていた。最初から、その状態でいたかのように。足を止めたバルバラに兵士が不思議そうに首を傾げる。


「どうか、なされましたか」

「いや、なんでもない」


 その後、バルバラはカルーアの向こうに何があって、赤い神があのとき何を思って、一点を見詰めていたかを知ることになった。ギメノグレアヌスを滅ぼした後、モンジャ・グランダの守り神として民に受け入れられた彼の祝福を受けた時、赤い神はバルバラの事を覚えている、と言った。

 何を、とは言わず、赤い神はバルバラに問いを投げかけた。


『それで、あなたは見つけることができましたか?』


 その意図を知っていたバルバラは、見つからない、と首を振った。


「私はもともと、スオウ様の身代わりとしてしか、生きる価値がありません。今はもう、スオウ様も私を必要としていない。自分の道を失いました」


『あなたは、いつか何者かにならないといけません』


 赤い神はバルバラに優しく祝福を与えながら、耳元でささやいた。


『ほかならぬ、あなた自身に』


 そして――バルバラは今日、晴れの舞台に立つことにしたのだ。

 彼女はもう、陰を生きることをやめようと思った。そうしたかった。

 カコンという木こりの負傷を手当するために競技場に降りてきていた、赤い神がバルバラとコハクを見ていた。一つ、互いに何かを確かめ合うように大きく頷く。

 小さな勇気も、大きな緊張も、赤い神には見透かされているのだろう。バルバラは、自分の持っているものすべてを捨て去るのではなく、大切に持っていようと思った。過去を肯定し、新しい自分を手に入れるために。剣技はバルバラの持つ一つの個性だ。自分の中にあって、切り離せないもの。


 自分自身のもの。


「互いに武器を」


 バルバラは片手剣を選んだ。グランダでは女子はダガーナイフのような短剣を双剣で使うか、ファルシオンのような片手剣をシールドと共に使うのが一般的だ。コハクはバルバラが武器を選んだのを見届た後、長剣を選び、虹色に輝くそれを抜く。バルバラはコハクの長剣を見て、更にもう一本、短剣を選んだ。双剣で戦うようだ。武器は複数持って戦っていいというルールだ。予備の剣かしらと、コハクは特に気にしなかった。


「コハクさま、先ほどの質問、一つ理由がございました」

「それは?」


 長剣を握りながら、コハクは耳を傾ける。


「私は、本当の名前が欲しいのです」


 男子試合の熱気もさめやらぬなか、満員の競技場の中央の白いステージに二人の女子選手は歩み出る。

 バルバラは、目の前の相手に剣を向けた。スオウ一族に、剣を向けたのだ。甘くほろ苦い背徳感に、手が震えた。

 それは、バルバラの心に思わぬ高揚を齎した。片手剣は右手に、左手に携えた短剣は、まだ鞘から抜かない。


「はじめ!」


 最初からトップスピードで、右横から胴部を薙ぎ払うように、バルバラはコハクに切りかかった。その速度に、コハクははっと息をのむ。


「速っ!」


 コハクは力強く柄を握り、攻撃を物打の部分で打って弾く。が、予測済みの防御線は素早く切り返され、バルバラは左上段から切り伏せるように打ちこんでくる。剣は十字に交差し、コハクは攻撃を受けとめて流す。ビイン、と剣が共鳴した音が聞こえるとともに、コハクの拳が痺れ、感覚を失っていた。


”こんなっ……人間相手なのに!”


 きっと唇を結び、力を拳に込め直すと痺れた感覚は消える。バルバラはコハクの手の初動の僅かな動きから、先読みして行動する。更にバルバラは体軸を斜めに保ち、コハクからみた”的”を小さくし、攻防に最適かつ安全な姿勢をとっている。左手の短刀は軽く握ったまま、攻撃に参加していない。

 右から、下から、左からと息をつかせぬ連撃。

 切り結んだ攻撃は火花を閃かせ、カウンターは背をかがめてくぐりぬける。コハクの大きく開いた懐に、バルバラが逆手で突きを入れ、下腿に切りつけようとする。コハクは危険を回避すべく大きく跳んで距離を取り、数歩で助走をつけ、飛び込んで攻撃に切り替える。コハクは次々と打ちこまれる全ての剣筋を見切り、剣を弾き、時にバルバラの刃を身体の外へ押し下げて躱す。片手剣の攻撃は、両手剣より軽いが、両手剣より速い。


 バルバラの攻撃は怒涛のラッシュだ。コハクの太腿を鞘のままの短刀で打ち、痛みで態勢を崩させがらあきの懐を狙う。辛くも弾き返したものの、コハクは防戦一方……しかし、


「せっ!」


 バルバラの攻防一体の防御の隙間を見つけ、全体重を乗せて切り下ろした。

 が、接触した刃から跳ね返ってくる反応に、単調な攻撃で誘い込まれたことに気付く。


「なっ、これは!」


 バルバラはいつの間にか短刀を逆手に握り、鞘のまま上段からの攻撃をガードしていた。片手剣が、音もなく空を撫で、コハクのくびれたウェストの防具に勢いよく刺さろうとしていた。コハクは短刀の拘束を解こうと引き上げようとするが、短剣を押しつけられて剣の動きをコントロールされ、動きを封じられている。

 右脇から鈍い痛みを伴う一閃。したたかに喰らった。

 次に、それと同時に短剣の柄をコハクの刃に咥えさせたまま、

 摩擦を利用して抜き放ち、あっという間にコハクの頬を切りつけた。


 同時に、二撃!


「――!?」

「胴に有効 30点、同じく頬に有効 20点。先攻、バルバラ!」


 コハクは頬を擦った。痛みはあるが、血は出ていない。

 恥ずかしさと怒りにかあっと、彼女の頬が紅潮した。そして彼女は、先ほどの考えを翻しこう考えたのだ。


”やっぱりできない。私は負けたくない”


 負けようと思って負けるのと、否応なく負けるのは違うのだ。


 仕切り直し。切り下げて飛びかかたバルバラの剣に、コハクが真っ直ぐに斬りつけて防ぐ。コハクのガードが堅かったので、バルバラは拘束を解いた。カウンターとばかりに斬りかかってくるコハクの攻撃を見極め、バルバラは右肘ごと剣の柄頭を上に向けて刃を下に。一歩踏み込み、剣を受け止めた手首を軟らかに捩じり、コハクの剣を表刃の上を滑らせ受け流す。

 刃が擦れ、しゃっと軽く鋭い音が鳴った。

 バルバラは表情一つ変えず、コハクの首をめがけて片手剣で斬りかかる。が、コハクは頭を下げ、攻撃の回避に成功した。素早く剣を引き寄せ、切りあげようとしたとき、ガツン、とコハクの剣が何かにぶつかり、手首に痛みが走った。

 血の気が引く。鞘に納められていた短刀の、鍔の部分がコハクの長剣の鍔に引っかかっていた。

 コハクの両手を可動域外に捩じり、剣を握る手の握力を殺す。


 剣を奪うのは、何らルール違反ではない。

 コハクの剣が大きな音を立てて舞台に落ちたとき、バルバラは全く無防備となったコハクの胸に片手剣を突きたてていた。


「有効、30点!」


 興奮気味に、審判が吠える。


「っ――!」


 その剣をコハクから抜きながら、バルバラは戦慄するコハクに静かに言い放った。


「神通力こそありませんが、これが、当地のスオウの剣術にございます」


 バルバラの瞬く間の攻撃はコハクを圧倒し、コハクの防具に真紅が咲いている。


「ごゆるりと、ご堪能くださいまし」


 この、キララにそっくりな容貌をした少女を。

 死神とも見まがう冷酷な表情を、美しい、とコハクは思ってしまった。

■参考文献・ソース

1. Lloyd, S., Nature 406 (6799): 1047–1054

2. Kaku Michio(2012)『Phisics of the Future(邦題 2100年の科学ライフ)』

3. hnn by Alp Mestanogullari <[email protected]> 2012

4. NTT技術ジャーナル(2012) 量子コンピュータ研究の最前線

5. Lloyd, S., Programming the Universe: A Quantum Computer Scientist Takes On the Cosmos., March 14, 2006

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