第5章 第11話 Javelin Throw/Men◇★
夕刻を過ぎ、街に光彩が溢れかえると、首都空速道路は次第に混雑しはじめた。
我が家へ急ぐ自家飛行車列やタクシーは蟻の行列のように犇めき合い、渋滞に押し流されてゆく公用車の中には沈鬱とした空気が立ち込めている。首元に白いストールを巻いた冴島 彩奈は背筋を伸ばし、ルーフのドームシールドから空を見上げる。吸い込まれそうな白濁した空に目を奪われながら、柔らかな黒革のシートに背を預けていた。
「あらあ……局長、粉雪ですよ」
地上から空へ、吸い上げては落ちる。
流れ、巡り、水の惑星を潤す。
22世紀の清浄な大気を滑り落ちたこの水は旧世紀のそれとは大きく異なる。
氷晶核がエアロゾルではなく氷核活性細菌であるという点では、限りなく蒸留水に近い。
この時代の夕焼けは赤くなく、黄味が強く勝っている。
昼間の浄化された蒼穹も、レイリー散乱が低いため、群青をしている。今は青空は見えないが。
空気も、水も、文化や情報ですら、ここでは透明で清浄すぎるのだ。
人為的に誘導され、東京全域を白く覆い、接地する瞬間には消えてしまう幻に冴島は情緒を感じない。
まるで仮想世界の構造物。
丁寧に手を加えられた人工の産物として、既定の量だけ降り決められた時間に止む。
時間通りに止まなければ、都知事が都民に謝罪しなければならない、そんな世情だ。
時刻は午後五時半を回り、時速120kmで飛んでゆく街並み。
空駅周辺の雑踏。
人々の足元に伸びる長い影の黒。
頭上を駆け抜ける流線形をした満員電車のライトのシアン。
羽毛逆立て都心の公園のビオトープで川底をついばむ、シラサギの白。
網状に建設された多目的エレベータが展開する、半透明のエアフィールド。
超高層オフィスビル間を連絡し、都庁と霞ヶ関を中心にハブ状に連結された多段空中回廊の透明迷彩。
天空を行き交う都民はスカイウォーカーだ。
ここは、旧世紀の橙色の世界に住んでいた人間が未来予想の中で掃いて捨てるほどに書き連ねた、薄汚れ陰惨としたディストピアなどではなく、彼らが青色の時間の中に最初に描いた、希望に満ちた未来かもしれない。
しかし今や限りなく神に近づいた人間は、氾濫する情報にも脳を加速度的に適応させ、
並列化された共同体を形成し、目醒めながらにして無味無臭で灰色の夢を見ているのだ。
赤井構築士から現実世界帰還拒否のメールを受け、大阪都にあるアガルタ関西施設での定例会合で内調竹原に直接辞退の旨を伝えた死後福祉局 局長の円山は、冴島とともに東京に戻る途中だった。公用車の車中に、アガルタ高官が二名。
円山は頭をかかえるように両手で頭頂部の白髪頭を撫でつけ、首裏で両手を組んだ。
沸々とした苛立ちを押し殺しているかのように見えた。
「一体、この国で何が起ころうというんだ」
「赤井構築士が現実帰還を拒否したことで、何か大変な事態に発展しそうですか」
冴島は、きまり悪そうに咳払いをした。
冴島は赤井の決断を全面的に支持していたが、省益を著しく損なったであろうことは明らかだったからだ。
自動運転に切り替えた二人きりの車内のフロントガラスには、先ほどからニュースが流れっぱなしになっていた。
ここ数年、アガルタの話題がトップニュースとして取り上げられる機会がとみに増えた。
今日も天皇陛下や皇族のアガルタ利用に関する動静を伝えている。
一般管区か、皇室専用アガルタか。
皇室典範再改正も視野に入れた議論が、国会や討論番組で繰り広げられていた。
それらの議論の中心に、赤井構築士が関与しているということを彼らは微塵も知らずに、だ。
立体映像の中で熱弁を振るう、仮想世界の構築を退化への序曲だと憂う保守派の有識者、様々な立場からの無責任な意見を述べるパネリスト、弁明に回る与野党の政治家たち。
彼らは云う。
堕落を望む者、人生を終えたいと願う者、生きる希望を捨てた者、仮想世界に夢を見出す者は隠居し、「異世界」に居住する。
それらは数多くの社会問題を解決したが、同時に人々の人生観や死生観を不安定にしたと。
生きる意欲に満ちた人材は現実世界に残り、安息を必要とする者は逝く。
ある種世界規模で行われる社会保障費とエネルギーコスト削減政策、結果的には選民政策であるのかもしれない。
その功罪の評価はまだ、終わっていない。
資源は生者の為に利用され、現実世界は若く意欲のある者達の生産活動の場となる。
アガルタ利用者がこの調子で増加した場合、現実世界人口は減少し、国家財政は五年後に黒字に転じるだろうとの見通しだ。
『アガルタは隠居生活には魅力的ですが、皮肉なものではありますね。国に、死んで下さいと言われているようなものですから』
『いずれにしても人類の長寿命化は社会に歪みを残すことになりました。SOMAの接種にはもっと慎重になってもよかったのでは』
『その当時は誰もそれを予測できなかったのですし、国民に信を問いました。SOMAの接種をやめたところで、長寿命化は遺伝するようになったんですから』
口を挟む与党の女性議員。紫ぶちの眼鏡をかけているが、視力が悪いわけではなく資料参照用の眼鏡型デバイスで、答弁の資料をストックしていたりする。
『技術的にはSOMAの遺伝を阻害することで元に戻すことはできる筈です。私たちの生理的平均寿命が百歳を切っていた頃に戻れますよ……ただ、そのことに目を背けている。国民は受け入れられますか?』
その点には、誰も触れなかった。
だから戻れないのだ。
……かつて、歴史上の権力者たちが不老不死の妙薬を求め足掻いてきたように。アガルタが構築されるまでは誰も、来世の存在を心の底から認めてはいなかったから。
痛い部分を指摘され、一様に口を閉ざす出演者たちを論破するかのように、
『いかがですか。誰も、短命になりたいとは言わないでしょう? だから長寿命化とアガルタ、両輪ありきで考えないといけないんです。そして日本の皇族も、海外では王族も利用するという話になっているんです。北欧では既に一部の王族が身元を隠して一般管区に入居しておられます。責任転嫁をしていても仕方がないでしょう、問題は既に次段階に入っています、それで』
『討論の途中ですが、ここでお時間となってしまいました。次週もこのテーマでお届けしたいと思います』
どう見ても二十歳代にしか見えない、没個性的な面立ちをした六十歳代の男性司会者が、強引に番組を打ち切った。
確実に逝ける来世として、死に脅かされることなく永遠を過ごすことのできるアガルタを手にした今。
皮肉なもので、長寿命化と人口増加に歯止めをかけることが可能となりつつある。
アガルタ利用者の入居時平均年齢は男性64.2歳、女性61.1歳。
長寿命化前の平均寿命より短いのだ。
アガルタを将来利用しようと計画している国民は実に八割にも上り、さらに利用率を上げれば、全国民の平均寿命をこの水準に落とし込むこともできる。
現世に残った国民は不老で百歳まで勤労できる肉体を持ち、熟練労働者として納税しつづける。
しかし旧世紀を振り返って見れば、人類長寿命化のプロセスは拙速で、強引であった。
今を遡ること一世紀あまり前、人類長寿命化は前世紀の先進国における少子高齢化を起因とするGDPに対する医療費の圧迫の解消、発展途上国と低所得者層の医療弱者への救済策として、人為的な手法で引き起こされた。
疾病を治療する費用が莫大であるというのなら、人を病にしなければいいのだ。
公衆衛生、および予防医学分野からの、至極尤もな発想である。
2027年、米国FDAで承認されたSOMA(疾患治療関連酵素群、染色体維持ユニット、DNA修復関連酵素群、dsRNA多種標的万能ワクチン)と呼ばれる万能予防接種がWHOで認可されたことを受け、世界各国で次々とSOMA予防接種が法制化された。
自然界の摂理に反したけもの道を、人類は自ら突き進み始めたのだ。
2020年以降に出生した世界人口の約90%が法令によって7歳までにSOMA予防接種を受けた。
また、成人に対しての接種も積極的に行われた。
この結果、悪性腫瘍を含む三大成人病、感染症、遺伝関連疾患は完全に人類によって駆逐され、人が病で死ぬ長き時代の終焉を迎える。
人々は歓喜に酔いしれた。
SOMAの創薬は比較的安価であり、感染症予防ワクチンと共に接種することができた。
SOMAの普及によってまず発展途上国の幼児死亡率が減少し、生存曲線は右へ右へと傾ぎ、世界的な少産少死から多産少死へ推移した。
排卵の温存や遺伝的劣化の修復の結果、妊娠可能期間の大幅な延長によって先進国の少子化も解消され、あらゆる出生問題を解消したかに見えた。
そう、SOMAが予期せぬ作用を持たなければ――。
というのは――このSOMAが胎盤を介し75%の確率で次世代に伝播するばかりか、産子に遺伝することが判明した。
つまり、SOMAを接種した女性の産んだ大多数の子供は母親と同じく疾患抵抗性も持つが、老化が起こらず長寿化するようになったのである。
この問題は、動物実験では検証できなかったものだった。
警鐘を鳴らした有識者たちもいたが異端視され、各国政府によって押し切られた結果のことだ。
2133年現在。
SOMA第二世代と呼ばれる長寿化した人々は全世界で60%以上を占め、現在もなお増え続けている。
SOMAの接種を拒んだ老齢者は旧世紀のうちに死亡し、現代では老人らしい老人――腰が曲がり、皺のあり、歯の抜けた――このような人々に日本で遭遇する機会は滅多にない。
ひとたび不老長寿命を経験してしまうと、元の状態に戻すのは困難をきわめた。
各国政府は人権団体などの活動や国民の強い反発によってSOMAの接種を中止することが困難となった。SOMAを接種をしないと寿命が確実に短縮されるとなれば、一度手に入れた不老長寿を手放したいと考える人間が殆どいなかったということは、各国で実施された国民投票によって明らかだった。
果ては宗教者や環境保護団体ですら延命を望んできた。
そんな経緯があって――
「今から話すことは、伊藤には言ってくれるなよ」
円山はシートに深く背を預け、 腹の底から溜息を吐き出す。円山もまた、アガルタ絡みの懸案を多く抱えている。一つ一つ片付かない仕事と、今回のことで増えた悩み事に疲れ果てているのだろう。
「ええ口が裂けても。それに伊藤はまた仮想世界に潜るようですので、そちらで手一杯でしょう」
「やれやれ、夫婦だというのに他人事のようだな」
「では局長も奥様にアガルタのことをお話になるのですか? 仕事と夫婦関係は別のものです」
冴島は涼やかな目元を細めて上品に微笑む。
どうやら円山が妻に仕事内容の詳細を打ち明けたこともなかった様子だ。
「伊藤はそのうち人間やめるんじゃないか」
「それならそれで好きにしろと、常々申しております。それに私たちは仮想世界で出会い、私は神様であった主人に惚れて結婚しましたのよ。ずっとそのままだったって構いませんわ」
「君という嫁はまったく、男の肝を潰すな」
創世神・天御中主神のアバターに、相転星(SCM-STAR)。
一流の道具を扱う一流の構築士。
管区開闢は順調に進み、プロジェクトマネージャーとしての仕事にも支障はないだろう。
冴島は伊藤がどこにいようと「元気で」さえいれば、頓着しないようだった。
「それはともかく、赤井構築士の件ですが、彼は単純に彼の意向を示しただけです。皇族専用管区へ回す構築士は彼でなくても構わないでしょう。彼が固辞したとて、局長が内調から何か言われる謂れはありませんわ」
冴島はつんと口をとがらせ、控えめに脚を組み替える。
肉感的な白いブーツに包まれた形のよい脚が、グレーのコート下から蠱惑的にすらりと伸びた。
「そういう話だと思っていたんだが……それじゃ済まないんだよ」
円山はカードサイズの複合モバイルを懐から取り出し、 次の予定までに暫く時間があることを確認すると、おもむろに切り出した。
冴島の口のかたさを、信頼してのことだ。
「結論から言うと、内調が赤井を120億で引き抜きたがっていたのは、皇族管区絡みの問題ではなかった。竹原と直接話して分かった」
「はあ……では何に絡んだ問題です?」
「クーデターだ。……アガルタの構築士が利用されようとしている。特に、赤井構築士は格好の標的とされている。だそうだ」
いつも物静かかつ聡明で人当たりの良い円山だが、またしても頭を抱え込んでしまった。
時代錯誤も甚だしい単語が飛びだし、冴島も思わず失笑してしまう。
「クーデターですか。誇張ではなくて、ですか」
「陳腐きわまりないが、誇張ではないそうだ」
では構築士たちを守るのが厚労省の仕事ではないか、こちらは万全の警備体制で臨んでいる、……冴島は決然としている。
「厚労省あるいは政府中枢に、その加担者が少なからず潜んでいるとしたら? 一体誰が守るんだ、彼らを。冴島君……いつの世にも狂気じみた事を本気で考える馬鹿な輩が、世の中にはいるんだ」
円山はもともと赤ら顔だったのだが、今日はすっかり血の気がひいているように見えた。
「想像してくれ。もし……アガルタの神々が、現実世界に存在したら」
その空気は、瞬時に冴島にも伝染する。
「局長、一体何を仰っているのですか……」
冴島は円山に指示されたように、冷静に考えてみる……名実ともに日本アガルタ最強のアバター、天御中主神、宇宙をすら開闢する彼が現実世界に出たらどうなる。
演算性能は人類を遥かに超越し、超能力を持ち、人心をいともたやすく看破、掌握し屈服させ、半実体の神体は天空を舞い、量子転送を駆使し空間を跳び越え、死なず、文明を灰燼に変える。
それは、仮想世界だからこそ存在を許される、万能にして究極の生命体。
アバター性能を現実世界で完全には再現できなかったとしても、一個体レベルで核兵器の威力をはるかに凌ぐサイボーグとなりうることは確実視される。
記憶転送技術を用いて肉体から自我を移す。
そして、アバターを現実世界で再現するための技術は、核を、量子を、熱を、生身で扱うことができる……そう、意味した。
円山は首を左右に振り、悪夢でも見ているような顔をしている。
脆弱な人間の肉体。
高度なロボティクス。
次世代サイボーグ技術の融合。
それらを結び付けるクロスリンカーが、アガルタが厳密に管理し独占している記憶転送技術である。
現実世界に流出したらどうなる? 円山はそう言うのだ。
「しかし、完全な記憶転送技術は流出していません。管理は行き届いています」
「そうだよ。だからどうしても、人格を損なわずアガルタに記憶転送された構築士のデータが必要なんだ。彼らは、”完全な自我”を強化義体に移そうとしているわけなんだから」
冴島は息を飲む。
クーデターの標的とされている人物を特定しつつあったからだ。
冴島の諒解を察した円山は話を続ける。
「奴らは神になろうとしているんだ。この現実世界において……。その過程で天皇家も狙われていた……」
天照大御神を皇祖神とし、紀元前7世紀から二千年日本国を統治してきたとされる王朝、天皇家。
かつて幾度となく利用されてきたように、担がれるのか、あるいは廃されるか。
「奴らが最も必要としている、人間の人格を維持したまま神のアバターに乗った構築士の情報は――」
「局長……それは……」
「そう、彼しかいないんだよ」
思わず小さく悲鳴をあげた冴島は、円山が先ほど頭を抱えていた心情を解した。
「分かっている。万が一があってはいけない、赤井構築士の家族、友人、係累らを緊急に保護しなければならない」
手遅れでなければいいが。
だから内調は、赤井構築士を仮想世界から引き揚げさせるのが根本的解決に繋がると判断したのだ。
真偽のほどはともかく、話を聞けば内調に理があった。
そう、赤井をログアウトさせて人間に戻してしまえばいい。
肉体と記憶が別々に切り離されていなければ、記憶だけを奪うことはできない。
そうなれば誘拐されて再ログインをさせたところで、二度とその状態は再現されないだろう。
彼の、ログインしたままのデータが狙われているのだ。
「赤井構築士を一刻も早く現実世界に戻さなければ」
「……その情報の真贋を、検証してからにしましょう」
やっとそう返した冴島も、今度は異を唱えることはできなかった。
*
【アガルタ第二十七管区 第3433日目 アガルタ歴9年 3月11日】
【総居住者数 2881名 総信頼率 99%】
全国のお茶の間の皆様見てる!? 赤井です。
こちらはグランディア第一日目、槍投げ、男子の模様をお届けしています。
構築士皆でビールと枝豆食べながら観戦したい気分。
アツアツのモンジャも一緒にね。
どこまで話したっけ。
前回、さらっと発表した王族の婚活の件? あー、あれマジです。
もともと女系王族であるグランダの巫女王は強い子孫をもうける為、グランダ最強の戦士を王配として迎えるしきたりがあったそうで、18歳のキララも伝統にのっとってお婿さん募集を始めるんだそうだ。大体、20歳ぐらいまでに王配を見つけないといけないし、グランダ国民もキララのお婿さんが決まるのを心待ちにしてるらしい。
キララさん曰く、「国内最強の戦士より世界最強の戦士の方が強いに決まっておる!」
とのことで、今回のグランディアの優勝者に求婚するつもりらしい。
相手の顔も見てないのにそんな単純でいいのか?
で、この大会で優勝者が出るのは避けられないわけで、キララの王配も10日間で決まっちゃう。
だから私は密かに、”既婚者が優勝しますように~既婚者~! 既婚者こい~!”と祈ってる。
まあ仮に求婚したとしても、断られる可能性もあるけどね。
そっちのパターンも怖い。
断った人、キララ命なグランダ兵にフルボッコ確実。
さらに、ネスト王女ミシカまでも来年までには国の伝統でお婿さん見つけないといけないって理由で、お忍びで婚活してるんだ。
婚活ブームは大いに結構!
子孫繁栄で管区が発展するのは嬉しいけど、誰もが心から幸せになってほしい気持ちが一番だよ。
そんな波乱含みの大会なのはともかく、今はグランダ勢が開催国の意地にかけて(?)現代オリンピックレベルな戦いを繰り広げてるところ。
グランダの重装歩兵部隊ヌーベル副隊長の第一回目の投擲が、40.3シン(75m)をマークし、会場は大盛り上がり。
ん? あれ、よく見たらヌーベル隊長、肩に薬草入りの包帯巻いてテーピングしてる。
練習しすぎで肩痛めてるじゃないですか頑張りすぎですよ。
本調子じゃなくてあの飛距離かよ!
負傷してるなら治してあげたいけど、私ヌーベルさんに嫌われてるってか命狙われてるっぽいから祝福させてもらえない。
『ロベリアさん。申し訳ないんですが、ちょっと頼まれてもらえますか』
『はい……わが主よ。このロベリアに何なりと御命令を』
ロベリアさん、背筋をただして私の顔に穴が開くほど見てくる。
澄み切った強い視線に私もたじたじだ。
もっと肩の力抜きましょうよ、エトワール先輩なんて新聞読み始めましたしモフコ先輩は私の頭の上在住の不定形生物やってますよ。
『お手数ですが、今記録出したヌーベル副隊長さんが肩を痛めてるようなので、治してあげてくれませんか? 私は彼に嫌われてて近づかせてもらえなくて。調子が悪くて記録が出せないと不本意だと思うんです』
『さっすが赤井さん、おせっかいなうえ回りくどいとはっ!』
毛玉先輩。
いい加減私の頭から選手を応援したり私に野次飛ばしたりするのやめてくれませんかね。
『かしこまりました』
ロベリアさん女性だから邪険にはされなさそうだ。
お使いに行って下さったロベリアさんは、ぱたたた、と、銀の風切羽の混じった白翼を羽ばたかせて帰ってきました。
女の子らしい飛び方だと思ったら、女使徒の翼って小ぶりなのな、懸命に羽ばたいてる感じがかわいい。
そりゃ蒼さんも速攻ナンパしますよね。
丁寧に断られてましたが。
真面目なロベリアさんはささっと片膝をつき頭を垂れて
『これしきのことで神の眷属の力に頼るのは卑怯だと言われました。己の持てる力だけで大会に臨みたいと。抑えつけて無理に治療することはできますが、いかがなされますか』
凛とした声が落ち着いていて綺麗だ。
『うーん、真の武人ですねえ。ご苦労様ですロベリアさん、やめておきましょう』
『また、何なりと』
ロベリアさんでもダメなら、白椋さんでも蒼雲さんでもダメだろうね。
『だめだよーそんな反抗期真っ盛りの子に”たけしー、お弁当忘れたから母ちゃん学校までもってきたわよー!”みたいな余計なことしたら。よしんば内心ありがたいと思ったとしても、うっせーくんなうぜえんだよ! ってなっちゃうでしょー。逆効果逆効果! 小さな親切大きなお世話! ある程度ほっとかないと』
『何ですかモフコ先輩そのたとえは』
白さんは思い当たる節があったらしく、くすくすと笑っている。
すみませんね、私お節介で。
『んん? ヌーベルはまだあんなこと言ってるのかね』
にゅっと横から顔を出すエトワール先輩。
新聞読んでても元担当官区のことは気になるんですね。
『武人一族として張り切って鍛えたのが仇になった。もっと融通の利く設定にすればよかったよ』
ヌーベルさんは邪神ギメノグレアヌスから太古の昔、スオウ一族とともに武術を授けられた武家一族の末裔って設定なんだ。
だからギメノなんちゃらが邪神だと分かってても、気持ちが切り替えられない。
キララはすっかり私になびいちゃってるけど。
唸る私を励ますように先輩神、白椋さんは
『やはり基点区画と敵対関係にあった区画については、なかなか融和が難しいのです。私も区画解放した当初の信頼率は最低でしたし、融和状態になるまで百年はかかりました。振り返れば、赤井神へのこの時点での信頼率は驚異的に高いので、むしろ些事にとらわれ、大局を見失いませぬよう』
白さんは元気出して下さいと、安心させるように深く頷いてくださる。
ちなみに、白さんの巫女のコハクはメグやナズと一緒で、この場にはいない。
白さんの勧めで、明日は大会にも参加してくれるらしい。
キララにはまだコハクを紹介してない、キララも主催者として忙しそうだったから。
うーん、私ついこないだまで邪神扱いだったし、彼らグランダ兵は邪神の襲来を想定して日々鍛錬してきた手前気持ちを切り替えられない、気持ちは分かる。
ヌーベルさんに会うと殺気がビシビシ伝わってくる。
憎くてたまらないんだろうね。
アンチがいてくれても全然いいんだ、けど……分かり合えるなら、私も彼もその方がいい。
『白椋さんの世界では、区画解放時に戦争をしたのですよね。こういうこともありましたか』
活躍は聞きましたよ西園さんから。
私がモンジャ民と戯れていた頃、あなたと青さんは強大な律令国家を創り上げて軍を組織しこれに備えていたんですよね。すると白さんは視線を外し
『ええ、マニュアルの通りに。次の区画解放までに軍事力を強化し無血制圧を目指すのがセオリーです。それでも、やはり数百名の犠牲者を出してしまいました。戦争の傷と家族を失った憎しみは簡単には癒えません、時間という薬が必要でした』
『そ……そうだったんですか』
『赤井神。あなたは憎まれていると思っておられるようですが、戦争を経験しなかったこの世界で憎しみは生じていません。まだ誰も、あなたを憎んではいないようですよ。それは信頼率としてあらわれています』
そうなのかな? 確かにモンジャとグランダは戦争をしなかったから区画解放時の戦争犠牲者はゼロだったし、民たちは殺し合いをしていないから、兵士はともかく民間レベルでは交流ができてる。
『わたしたちは決して、”正義の神”ではいられませんでしたよ。だから、あなたが正義の道を貫けるか、非常に興味があります』
寂しそうに呟いた白さんの言葉からは、私の知らない過去を抱えているように感じた。
『この管区はまだ、人間とAIの居住地を分けていないようですが』
『分けるつもりはないです。人もA.I.もここでは平等です』
『いえ……人とA.I.は……一つ処にはいられません』
え、それどういう意味?
私はアガルタの世界のなかで人間とA.I.の接し方に差別したことはないし、これからも変わらない。
問いただして真意を汲み取ろうとする私に、
『ほーら、競技を見ようよ赤井さん。キララの旦那が決まるかもしれないんだよー』
『……まああれだ、ヌーベルは私に任せてくれ』
モフコ先輩とエトワール先輩が変なタイミングで話を遮った。何かあるのかな。
その後、後がないネストの御家人たちは、アルミニウム合金の軽量化された槍のおかげもあって、次々と現実世界単位に換算して平均五十メートル台の好記録をマーク。
観客席に飛んで行った槍も何本かあったけど、結界の守りがあるから心配なし。
ただ、槍投げって踏切前で投げるんだけど、投げた後に踏み切り出ちゃう人がちらほら。
気持ちも体も前にいっちゃうんだよね。
だから踏切より結構前で減速しないといけない、ところがそれが難しい。
ネスト御家人たちの、国の威信にかけての快進撃のあと、満を持してパズ王子の登場。
本人は出る気なかったみたいだけど、国一番の剛腕だからとりあえず出ろ、ってことで父パウルさんに強引に誘われたようだ。
パズさんの一投目は特徴的だった。
この競技は回転投法はダメだけど、フォームは自由だ。
ほかの選手たちは走りながらできるだけ速度つけ速度に乗せて投げてたけど、パズさんはあまり速度を出さず踏切手前で急ブレーキをかけて、膝にしっかり力を蓄えてからそれを一気に放つようなフォームだった。だからブレーキかけた反動で力が槍に伝わりやすくなり、もともと肩が強かったこともあって、飛距離がぐんと伸びた。
ネスト、グランダ勢の猛者の健闘にモンジャがやや劣勢になってきた中。
モンジャ民たちの期待を背負い、例のモンジャの狩人兄弟、弟ソミタの槍投げの投擲の順番が回ってきた。
大きく手を振り、この寒い中を半裸で大応援団にこたえる野生児ソミタ。さっきは勢い余って暴投しちゃったけど、ぶっちゃけ優勝候補だ。
彼ら専業狩人は大会になんて興味なさそうだったのに何で参加したのかと思えば、弟ソミタはヤスさんの「いしのモリがさいきょうであることをしょうめいする」ためにやってきたらしい。そんなに石の銛が好きならと、彼らには私、イシモリって姓を与えてみました。素民にあげる名前ぐらい、ネタに走ってもいいよね。
弟、ソミタ・イシモリは「はじめ」の掛け声とともに槍を構えはするけど、なかなか投げようとしない。別に時間制限はないけど、何を躊躇っているんだろう。彼は競技場のフィールドにたなびく大会旗を見つめてる。この旗のデザインはナズがやってくれたもので、赤地に五輪ピックじゃなくて三輪ピックになってる。ナズは現実世界の人間だから似ちゃうのは仕方ない。
……ソミタは追い風なのを気にしてるのかな。
風の台地に住むネスト民選手は無風か追い風のときに狙って投げてた、追い風の方が風に飛距離を伸ばしてもらえそうだからね。でも、彼は向かい風を待ってる。目つきの悪い三白眼のままおもむろに走り始めた彼は、比較的銛の後端を握っている。その歩幅とタイミングを軽やかなクロスステップで合わせ、捩じった腰のトルクを体重移動で銛に伝え、射出角をやや低めに、日々の狩猟で鍛えた腰を武器に、力を蓄えて送り出す。無駄のない動作で。
踏切音と共にびゅん、と空気を割く音が騒がしい競技場内でも明瞭に聞こえ、迷いのない軌跡を描いて飛んでゆく。向かい風の空気抵抗を僅かな上昇力として利用しているんだ。
投擲後もソミタは無表情だったけど、いつも通りという絶好調のコンディションだった。
銛は案の定、競技場の観客席があった場所に突き刺さった。モフコ先輩に観客席を改造してもらっててよかったよ。
「49.4シン(92メートル)……です!」
『うわっ! そみたんやっちゃった!』
モフコ先輩が驚いて跳びあがった。ぽふん、と私の頭の上に着地する。
続く兄のソミオは、普段は近接戦の狩りが得意だ。遠距離から攻撃する弟にこそ及びはしなかったけど、47.3シンもの大記録をスコアボードに叩き付けた。こうしてソミタとソミオが暫定一位、二位に躍り出る。初回にしてまさかのハイレベルな戦いに、誰が優勝してもおかしくない状況になった。
トリで登場したのはヤスさん。モンジャの始祖にして元狩人、石を削って獣を狩るための銛を創った人。
彼は帰ってきた――。石の銛ではなく、鉄の槍をしっかりとその手に携えて。彼の槍は紡錘形で、いわゆるジャベリンに似ている。狩りをする必要がないので、敢えて刃を外して臨んでるみたいだ。槍の重心を整える為に外したんだろう。
ヤスさんは道具にこだわるけど、執着はしない。
ソミタも本当は知っていた筈だし、ヤスさんも教えただろうと思う……石の銛、つまり柄材に木を使った銛は、よくしなり、手に馴染み、獣との戦いに適するけど、投擲時の柄材にかかる振動には強くない――と。だから全力で投擲するわけにはいかず、投射角にも制限がある。より振動に強いのは、金属の銛なんだ。私は教えたわけじゃないけど、ヤスさんは知っている。
「ヤスさんだぞ……引退してたヤスさんだ! 引退して漁師になったヤスさんだ」
「おれたちのヤスさんがかえってきた!」
「やっつけちまえ、ヤスさん!」
モンジャ民はヤスさんの復活に大興奮。やっぱり、皆は槍を握ったヤスさんを見たかったんだ……。私も久しぶりのその姿に、ぐっとくるものがある。
私は目を細め、素民がたった九人しかいなかった頃を思い出す。彼が銛を握り続けた日々を。
私たちの集落には当時、大人の男性はバルさんとハクさんと、ヤスさんの三人しかいなかった。私は一番体格のよかったヤスさんに、一人で狩りをする方法や、罠の仕掛け方を教えた。彼は「けものとたたかうのは怖い」と言ったけど、狩人になり、生きるか死ぬかの危険な目にも遭い、エドの大群に追いかけられたり、数えきれないほどの怪我もして、数多くの獣たちとたった一人で戦い抜いた。モンジャの民の食糧を獲るために……そんなヤスさんだ。
九年前……私がヤスさんと初めて狩りに出た頃。
当時、採集と畑作で原始生活を始めた私たち。作物の収量は不安定で、作物ができてもすぐに食べてしまったし、長期保存もできなかったので、彼らはなかなかお腹を満たすことはできなかった。私は採集と農業の補助として狩りや漁をすることを提案したけれど、素民たちは拒否反応を見せた。
ヤスさんは私に、「かみさま、あなたはどうして何もたべない、ころさないのに俺たちにだけ生きた動物をころさせて食わせようとするんですか。あなたがころしたくないように、俺たちもころしたくない、動物だって生きたいだろう、俺たちも生きたいように。野菜と果物だけ食べて生きていくべきだ」、そう言って、素民たちもヤスさんに賛同した。肉や魚を食べなくても生きてゆくことはできる、あなたがたが望まないならそうしなくていい、私は答えた。
でも、素民たちは定住していたから、毎日歩き回れる範囲に必ず果実が転がっているわけじゃない。皆は食べ物を探し回っている間に体力を奪われ、食うや食わずの生活で飢えていた。お腹をすかせた子供たちが、食べられない草や毒のある実を食べて吐きだしたり、空腹を紛らわせるために水を飲んでお腹をふくらせたりしてた。
それをずっと辛そうに見ていたヤスさんが、ある日。
「かみさま、狩りをしたいんだ」と、私に申し出てきた。「俺たちは、ナズのぶんまで生きなきゃいけない」、彼は葛藤を飲み干して、誰もやりたがらない危ない仕事を引き受けた。そして、「狩りをするのは俺だけでいい、大人全員で行って帰って来れなかったら、子供たちだけが残ってしまう。俺は家族がいないから、いなくなってもいいんだ。俺が一人でやる」と、他の大人たちに伝えたようだった。大人たちはそれを諾した。
ヤスさんはこしらえた石の銛を数本、力強く握りしめて、私と一緒に狩りに出た。
初日。草原のはずれで、大型の草食獣の群れに遭遇した。近づこうとすると、獣たちは大群で逃げだしてしまった。それきり、日が暮れるまで捜しても、獲物はみつからなかった。私と彼のふたりは手ぶらで、肩を落として帰った。私たちは狩りの難しさをなめていた。狩りの得意な肉食獣だって、獲物が獲れず餓死することがあるんだ……。殺生を禁じられている私が狩ることはできない。歩き続けるヤスさんを、ただ見守ることしかできなかった。
次の日も、その次の日も、私はヤスさんに付き添って狩りに出た。
その間、一匹も仕留めることができなかったけど、日に日に、大型の獣の活動する時間帯や水飲み場などが分かってきた。しかしせっかく見つけても、近づこうとすると気付かれて逃げる。そこでヤスさんは獣に近づかず、物陰に身を潜め、背後から獣に銛を投げた、それが運よく当たった。中型犬ほどのサイズの獣が苦しがって大暴れしていたから、ヤスさんは躊躇いながらも銛で殴って殺した。彼は震える声で、死んだ獲物に「祝福してやってくれ」と言ったので、私は彼の望み通りにした。その日、素民たちは初めて獣の肉を口にした。よく火を通し、塩をまぶした肉は想像以上においしくて、腹もちのいい食べ物だと彼らは知った。「これからは獣に感謝して、肉も食べよう」と、ヤスさんは言った。その日を境に、彼は集落でたったひとりの狩人になった。
狩りに出るヤスさんの石の銛は投げると割れたり壊れたから、何度も新たな銛を造りなおす。
彼は石の刃のついた銛を造り……造っては投げる。そのうち……粗製濫造だった銛はしなりすぎないよう一本一本流線形に洗練され、彼の日々の経験に基づいて機能的に最適化していった。狩りが終わると私は獲物を祝福し、集落まで運んであげた。彼の仕留める獲物は私が見上げるほど大きくなり、投擲の際に痛めた腰をさすりさすり歩く彼をねぎらいながら獲物を運んだ。
彼が現役だった頃を知るモンジャの民の誰もがヤスさんを慕い、その節くれだった手に感謝を惜しまない。
ヤスさんが狩人になって、もう誰も飢えなくてよくなった。
狩りを成功させて必ず帰ってこなければいけないヤスさんは、相当な精神的重荷を負っていただろう。モンジャの皆が、腹をすかせて待っていて、狩人は彼一人だったから。彼らに明日も食べさせるために、ヤスさんは危険な狩りから安全に帰らなければいけなかった。だから彼は獣を深追いをせず、無茶をしない。愚直なまでに慎重だ。獲物に近づきすぎず、手に余る動物は絶対に狩らない、エドもしかりだ。正面からを極力避け、遠くから標的を狙う。確実に。その一投に、魂を込めて。
草原で狩りをするヤスさんの銛は、グランダやネストで大量生産されている近接で戦うための槍とは構造が違う。可能な限り速く遠くに飛び、その自重で静かに突き刺さる。遠距離の標的を素早く仕留めることに特化した銛となった。
その銛の構造の美しさとヤスさんの生き様に、ソミタが惚れ込んだ。
ヤスさんは今、フィールドの遠くを見つめている。ソミタの銛の刺さった、さらに一回り遠くを。
彼は唇を噛み、紡錘形をした鉄の槍の最も膨らんだ部分に布をぐるぐると巻きつけた。重心を後ろに傾け、布のグリップをしっかりと握る。そして彼は見えない獲物に狙いすます。
風向きは、向かい風であることを感じている。追い風で獣の後ろに立つ狩人はいない。彼の教えは、弟子のソミオとソミタにしっかりと伝えられていた。
「はじめ!」
合図とともに音も立てず、流れるように右足から狩りを始める。軽やかに、体幹で空間を紗に削ぎ切り交差するように自然な踏切動作。助走速度は十分、槍を乗せた腕をぐぐっと引き、助走のスピードを殺さず投擲動作に移行する。腰に回転を加えず、しかし体幹をしならせ、真っ直ぐ槍に魂を載せる。腰から肩へ、肘へから手首へ。減速によって蓄えられたベクトルが体幹から上肢へと伝わり、ばねのように大きな筋肉から小さなそれへ、つかえることなく移動する。彼は脱力しながら渾身の力を込めて、歯を喰いしばる。
指先にまで神経を尖らせて手首をスナップさせ、槍を全身に載せ押し出すように最大速度で一気に射出し、腕を振りぬいた。
彼が腰を痛めながら編み出した、彼だけの投擲フォーム。それは彼に守る家族ができて狩りをやめたといえど、身体の芯に深く深く、刻みつけられてきた。彼の技術が完成した全貌を、私は知っている。
遠くから一撃で頭部を仕留めてきた彼の集中力、彼の一投が、積み重ねた時間が、他の追随を許さない確固としたものであると。
ヤスさんの槍はどの選手の放ったそれより鋭いアーチを描き、向かい風に押し上げられながら低空飛行で飛ぶ。無数の人々の視線を集め、見る間に飛距離は伸び、冷たい陽光の中を飛び魚のように鋭く閃いて。彼が意図したであろう場所に、つと、と小さな音を立て深々と突き刺さっていた。彼は宙に浮きつんのめった身体が地に激突しないよう右手をつき、軽やかに着地した。踏切の数センチ手前で止まった。
「54.3シン(101メートル)……です!」
彼の試技をその目に焼き付けたスタジアムを埋め尽くす素民たちは絶句し、モンジャ民は無我夢中でヤスさんの名を呼ぶ。ヤスさんは胸いっぱいに空気を吸い込み、小さく一言「……やった」と照れくさそうに手を振って彼らにこたえた。
日はとっぷりと傾き、渡る風がフィールドを一周した頃。
一回目に続き全ての選手の二投目の試技が終わり、槍投げの優勝者が決した。
今大会初めての表彰式。運営スタッフが二回の投擲記録を合計し、下位から順に記録を読み上げる。どの選手にも、全素民たちから惜しみない拍手が送られた。ヌーベルさん、ソミオとソミタ、パズさんたちの名が次々に呼ばれ、彼らは参加記念品の入った袋を受け取った。何が入ってるかはお楽しみ。
最後に大歓声の中を、スタジアム中央の表彰台の梯子を踏みしめて私の前に上ってきたのは……。
割れた顎が特徴的な、逞しい肉体で穏やかな性格の青年素民。勿論、ヤスさんだ。
『ヤスさん。長い経験と技術のたまものですね、あなたの栄誉を心から称えます』
そう言って手作りの勝者の冠を頭の上に載せてあげると、ヤスさんは困ったような顔をしてこう言ったんだ。
「かみさま、俺は槍を投げて、これまで心からいい気分になったことは一度もなかったんだ」
『……ええ』
それは、はじめから彼を見てきた私が一番よく分かっている。
「でもな。今日は、なんだかとてもいい気分だよ」
ヤスさんは手にした槍を撫で、ぎこちなく微笑んだ。
第一回 グランディア世界競技祭典。第一日目。槍投げ、男子。
優勝者はモンジャ集落の、はじまりの狩人。
ヤス・ハント。
その名は競技場中央の柱に、輝かしく刻まれた。




