第5章 第7話 Faith, prayer, wish◆
アガルタ第28管区 神聖エルド帝国 巫女王コハクが目覚めると、温かい気配に満たされていた。
純白の衣、そして銀糸のように輝く髪が、光を纏いきらきらと揺れる。
コハクがよく見慣れたものだ。
コハクは総身で白の女神に擁かれていると気付き、どうしてよいものと頭がのぼせる。
彼女は先ほどまで27管区、ネスト城の廃坑に量子転送に失敗しバグの塊として横たわっていたところを、至宙儀の千里眼によって発見され、赤井神の神殿に再転送後、完全にプログラム構成が修復され現在に至る。
彼女は至宙儀による転送前、形を失ったバグと成り果てて一寸先も見えない闇に同化しても、いっしんに白の女神と、彼女の世界を想っていた。
コハクはいつでも、白椋の為にどうとでもなる覚悟はできていた。
女神が今日死んでくれと言えば喜んで死にたいのだ、自分のためではなく女神の為に使う命だ。
こんな状態で死んでしまったら……過去から受け継いできた一族の想いを、民たちの想い、女神への祈りを、この代で途絶えさせてしまう。
自分の為に死ぬことは許されないと、幼いころから聞かされてきた。
騎士は王と民の為に、王は民と巫女王のために、そしてスオウは女神と民の為に死ぬのだ。
スオウの一族は、白の女神の為に死ぬ定めだ、それが一族にとって、勿論自らにとっても最善の在り方だ。私はまだ死ねない。身体はなくなっても、絶対に死んではならないのだとコハクは思った。
女神は憐れみ深い慈母であるが、ときに残酷な存在だと知っている。
この身体は、女神への信仰で束ねられている。
もし、コハクがここで命絶えてしまったなら、女神は嘆くかもしれないが、新しいスオウを創るだろう。
女神はスオウの一族を、身代わり、生贄とするために傍近くに置いてきたのだ。
新しくても、古くても、違うスオウでも女神は構わない。
それがコハクでなくても構わない……コハクには分かっていた。
”めがみさま……私はここにいます。御覧になっておいででしょうか。ここにいます!”
声は出せなくなっても、形はなくなっても、祈りは届くだろうか。
声は枯れたのならばと。
音のない透明な声で、祈った。何度も何度も。
そして、祈りは届いたのかもしれない。
どこからともなく暖かく柔らかな光が差し込んで、黄金色の煌めきがコハクを包み込んだのだ。そしてコハクは優しく引き戻された。
暗闇から光あふれる世界に戻された悦び、彼女が愛してやまぬ白の女神の何と眩いことだろうか。
「はわわわ、めめめめがみさま! わ、私っ、ありがとうございますっ!」
『コハク。よく……よくぞ無事でいてくれました』
コハクがこれほどまでに女神に強く擁かれたのは初めてかもしれない、女神の神体は優しくて、温かくて、天上に咲く気高い華のような可憐さがある。
どこまでも完全な神通力に包まれ、コハクは離してもらえない。
コハクはただ光悦にあり力を抜いて、身も心も女神に所有される喜びを噛みしめた。
コハクの頬を一筋の涙が伝った。
この時間が永遠に続けばいい。
でも、戻ってきたのは私でよかったでしょうか、私でなくてもよかったでしょうか。
一瞬、そんなことを思ったが、彼女の祝福を受けると心地よくて骨抜きにされてどうでもよくなってしまった。
そんなときだった
『よかった、無事のようですね。違和感などはありませんか?』
聞き覚えぬ、青年の声が聞こえた。
その声は人のものではなく、音を経ずコハクの脳髄を侵してくる。
透き通っていた、穢れなき信号だった。
だがコハクは、この声を知らない。
これは神の勅声というもの。
人間の魂を鷲掴みにし、救い、狂わせるもの。
”誰……勅声だなんて”
コハクの澄んだ桃色の瞳が本能的に凛々しく眇められる。
無言のうちに腰に提げた聖剣の柄に右手を撫でるように滑らせる。
抜くべきか……抜いたからには生命を以て贖う覚悟を決める、万全ではない状態で勝てるのか。
正体のわからない者を切り伏せるには不利な態勢だ。
女神の神体が間に入り、戦闘態勢に入ることができない。
女神の安全を第一に、彼我との力の差を天秤にかける。場に満ちた神通力は殆ど感じられない。錆びつきかけていた霊感を研ぎ澄ませて、巫女としての第六感を呼び起こす。
この場で強い神通力は、どこにも感じない。
それは白椋の神通力が枯れていることを意味した。
恐れ戦くほど偉大な力に満ちていた彼女が、何をされてこうなったのだろう、あまりに弱体化しすぎて見る影もない。すぐ近くにいる、勅声を持つ青年が女神に何かしたのだろうか。
そうに違いない、女神を蹂躙するなど……そう思うとかっと顔が熱くなり、脈がどくどくと速くなり怒りが込み上げてくる。女神は彼から侮辱を受けただろうか……そう思うと、頭がおかしくなりそうだ。
『あーあー、何かや~な予感するよ白ちゃん? 自分とこのスオウちゃんは自分で御してな~』
もう一つ、今度は異なる勅声。
神らしからぬ軽薄な言いぐさと語調。
これは何だ? コハクは更に混乱の度合いを深める。
ただはっきりしているのは、白椋に擁かれ死角となって見えないが、人ならざる者が二体、女神の傍にいるということだ。神気のような気配が女神の他に二つも……。
邪神か……? いや、邪神ではない、邪神の声は穢れていてすぐに区別がつく。
音もなく、腰から聖剣を抜き剣になけなしの巫力を通じるイメージをたくわえる。
力を失ってしまったことが今更のように悔やまれる。
白椋から与えられた神通力は尽きていても、彼女の身体に僅かな巫力は残されている。
コハクの信奉するのは偉大にして正統なる豊穣神、白の女神、ただ一柱だけ。
この身にあるだけの信仰を束ねて、剣とするだけ。
”……めがみさまをお守りしなくては。私が”
手によく馴染んだ聖剣は両手剣のロングソードで、スオウ一族にいずれの代も形見として代々伝えられたものだ。女神の加護は剣の宝玉の中に蓄積し、彼らの血も涙も魂すらも吸っている。
コハクの剣技は、火炎を操り結界を使うものだ。
神通力を基本とした巫力に頼っており、となると巫力が足りない。
磨き上げた聖剣は刀身が長くて、女神に擁かれた状態からは抜けないのだ。
左手を後ろ手にした状態で、鞘を押さえた。
抜刀した後の戦術を脳裏で組み立てる。
すると
『コハク。この方々に剣を向けてはなりません』
抜刀しようとしていた右手首を、背後からそっと女神に抑え込まれた。
細い手首を握られたまま、女神は横抱きにしていたコハクを優しく床に降ろす。
そして、コハクの両肩に手を添え後ろを振り返らせた。
そこは見知らぬ新しい神殿であって、純白の白衣を着た二人の青年と、桃色の装束に着飾った一人の女性がコハクを囲んでいた。全員、人ならざる者だ分かる。
女神は彼らに脅されているのだろうか。
立ちすくんでいても油断せず、神経を尖らせていると。
『この子はわたしの巫女の、コハクと申します。コハク、この方々はお前を助けてくださったのです。現在わたしたちは赤の神の世界にいます、ここは異世界です。したがって、この世界の主神はこちらにあらせられる赤の神様です。失礼があってはいけませんよ』
「えっ……」
『ようこそ、コハクさんですね。白椋神とゆっくり滞在して帰ってくださいね』
”この世界”の主だという白衣の青年は、女神とは異なり赤い色彩を持っていた。
コハクは半信半疑で、女神を振り返り、また向き直っておずおずと黙礼をする。
赤い神に頭を垂れたのは、女神が背中をそっと押して礼をするよう促したからだ。
しかしコハクは、異教の神に頭を下げるということは信仰を汚されているような気がした。
女神が赤い神に頭を下げているのも、気に入らなかった。
「失礼いたしました、助けていただいて感謝いたします赤の神様。めがみさま、ここにはいられません、帰りましょう」
コハクは心細くなって、礼もそこそこに女神に帰ろうと促す。
『あっはは、つっても次、帰りのゲートが開くのはしばらく後だぜ。君かわぃ~ね、そういうツンデレで従順なところ。ま、俺のスオウちゃんも素直でかわぃ~けどね! 会うたびに刺されっけど!』
彼の隣の青髪の青年も、にやにやと笑っている。
この類の白衣を着ることができるのは神だけなので、彼も神なのであろうか。
コハクからすれば軽々しくとてもそうは見えないが、確かに神通力らしきものを纏っている。
白衣の構造、帯の装飾を見るに、白椋や赤い神より華美なものを身に着けている。
白椋より格上の神かもしれない。
『コハクちゃんっていうんだー! ピンク髪萌え~! ねえねえ赤井さん、この子キララと会わせちゃおうよ、スオウ一族同士絶対面白いことになるよ!』
『面白いか面白くないかで判断するのやめてくださいよ……血の気の多いキララさんが挑みかかってくるかもしれませんよ』
赤い神が桃色の衣装を着た女性に苦言を呈しているらしかった。
しかしコハクは聞き逃さなかった。
「スオウ……一族? スオウ一族の末裔は私だけですっ!」
私が正統な継承者なのだ、もしスオウの名を名乗っている者がいるというのなら、どちらが本物のスオウかをその剣に問わなくてはならない。
と、コハクは精いっぱい強がってみせる。
しん、と神殿の内部は静まり返った。
すると背後から、白椋の穏やかな声が聞こえてくる。
『この世界にはこの世界の、スオウの者がいるのですよ。張り合う必要はありません、お前はお前のままでよいのですよ』
「ほ、ほぇ?」
コハクのA.I.の情報処理能力が限界を超えたようだった。
さしもの応用型A.I.も、異世界という概念は理解できないのだ。
逆に言えば、蘇芳教授が”異世界”に思いを巡らせることのないよう、制御を加えていると言える。
それはコハクにとって、精神的な安定を得るために必要だったのかもしれない。
『でもせっかくなので、あとでキララさんに会ってみますか? キララさんも、友達がいた方がいいと思うんです』
何かを思いついたように赤い神が誘った。
『ええ、それはぜひ。一緒に会いに行きましょうね、コハク。お前にも同年代の友が必要でしょう』
「え、ええっ?! で、でもめがみさまがそう仰られるのなら……」
トントン拍子で話が決まってしまって、コハクは戸惑いで桃色の眉毛をハの字にし、白椋の顔色を窺ったりしている。
コハクは思った、この世界はとても居心地が悪い。
早く元の世界に、白椋が唯一神たるあの世界に帰りたい。
『あ、そういえばロイさんとメグさん、外に出てもらったままでした。呼んできますね。コハクさんのことも紹介しましょう』
ロイ……!? 暴君ロイ!? その名を聞いてコハクは総毛立った。
白の女神に凶刃を向け、その存在を消ええぬ傷として刻み付けた忌まわしき不老の暴君。
女神はロイとの死闘の後、完膚なきまでに傷つけられ、十年も意識を失っていたのだ。
あの暴君がいる世界なのか……すぐ扉を隔てた場所に、暴君ロイがいるのか!? コハクの心はざわざわと揺れた。神をも脅かしそのやんごとなき神血を流させたという、伝説に聞く暴君の名。
この場にいる三柱は神通力が枯れている、きっと束になっても勝てないだろう。
赤い神は”神殺し”を成そうとした暴君の存在を知らないのか、コハクは女神を仰ぎ、絞り出すような声で問うた。
「めがみさま、ロイというのはあの……暴君の。名前の同じ違うロイなのでしょうか」
コハクが恐怖を張り付かせた表情をしているのを見た赤い神が
『会ってみればわかりますよ。あなたの世界のロイとは違う青年です』
彼はコハクにそう語りかけ、コハクの言葉も待たぬうちにゆっくりと大門の扉を開いた。
***
神殿の中庭の果実のなる木の下、神殿を締め出されたロイは物思いにふけっていた。
この先は穢れなき聖域。
神殿に坐すは三柱の神々。
真が、善が、慈愛が彼らの中には凝縮されている。彼らは真理の結晶のような存在だ。
神の庭、その湖畔で水音を聞きながら、澄み切った青い空を見上げる。
地上に這うように生きて、人は憧れを込めて天を仰ぐのだろう。
抜けるような青空から視線を下ろしてゆくと、豊かな水を湛えた穏やかで広大な景色が心を和ませる。その遠景には、カルーア湖の向こうに霞む未知の連峰が見える。
世界はきっと、途方もなく広い。
近くでメグが、三柱の神々に捧げるために彼女が最も大切に育ててきた花を惜しげもなくモンジャの自分の畑から摘んできた、それらを器用に編んで、色とりどりの美しい花輪をつくっていた。
メグは、三柱がここを気に入ってずっといて住まってくれたらいいな、と言っている。
その願いの為の、ささやかな貢物なのだろう。
捧げてもすぐに朽ちるというのに。
メグはふとロイに視線を向けると、と指先を左右にふって、大丈夫? と微笑みかけた。
自分も人一倍不安なくせに、人のことをばかり心配する。
メグはそんな性格だ。
ロイも微笑んで頷き、腕組みをして神の庭の、神樹に背を預ける。
この神樹は、モンジャの地にあったものを、赤い神が神殿に引っ越したときにロイが持って行ってくださいと願ったのだ。
世界が広くなって、モンジャの地がその一部でしかなくなっても、はじまりの地に住まう民を忘れないでいてほしかったから。
それに、モンジャではどれだけ気を付けていても偶に火事が起こる。
燃えてなくならないように。
これはその昔、メグと、ロイと彼の三人で植えたもの。
赤い神が祝福をしたためか、同種の樹より生育するのが早く、9年というごく短期間で大樹になっている。冬でも枯れず青々と茂る、モンジャの民が神と共に生きる証だった。
子供の頃から木陰となり、雨宿りをして、モンジャの民が集まり、赤い神がその木の下でいろいろな話をしてくれた。
ロイは時々、赤い神がいないときも、朝となく夜となくここに来て大樹に背中を預け、散らかった考えとざわつく心をまとめる。
そして未来に思いを馳せる。
メグもこの場所を気に入っていた。
メグによって雑草はきれいに抜かれ、枝振りも美しく整えられて、人々が集いやすいようにされている。
赤い神が木陰で休んでいる姿も、よく見かけた。
ここは安らぎの場所だった。
ロイは切に希う。
彼ら三柱の神々が所有しているものを、いつかこの身に欠片ほどでも宿せるようになりたい。
この先であらゆる知を学び、知識を統御し精神を高めて。
高め続けて彼らの精神に近づいてゆきたいと。
その頂きに立ったとき、世界はどのような眺めだろう。
神の視点とは、どのようなものだろうか。
万物を構成するものに宿る、真理の世界を見ねばならぬ。
そこにあって、完璧に美しくおさまっている世界と、その中に過不足なく位置づけられた人々が世界に在る意味を。
永遠の命を持つ神々に比べると、与えられた時間は悲しいまでに短い。
一生は学ぶには短すぎるし、行動するにも、何を選択すべきか悩まねばならぬほど限られる。
寡い時間を生き、老いぼれて、必死になって獲たものはやがて失われ、命果てることを受け入れなくてはならない。
まだ感覚と精神が澄明でいるうちに、なさねばならないことがある。
今日よりは明日、明日よりはと、一歩一歩と彼らに近づきたいのだ。
何も分からないまま、神々の意図を知らぬまま命果てるのは絶対に嫌だ。
彼は強くそう思っていた。
先ほど、モンジャの集落から赤い神の神殿に移動する前に、メグがアイを家に戻しに行くついでに捜索の終了を集落の民たちに伝えるというので、彼は蒼雲と二人になったのだ。
ロイは待ち時間で、どうしても知りたかったことを青い神に尋ねてみた。
ダメでもともと、だが蒼い神ならば教えてくれるかもしれないという期待も、どこかにはあった。
人は何故、生き、そして何故死ぬのだろうか。
あなたがたはどうして人間をそのように創り給うたのか、と。
過去、赤い神にも同じことを尋ねたが、彼は答えてくれなかったのだ。
”それは自ら見出すものだよ”
蒼雲はロイを憐れんだような表情で、不器用に微笑んだ。
赤い神と蒼い神の持つ答えは違って、それと同じように、人間には一人一人違う答えがあるのだという。
随分簡単に言ってくれる、とロイは神々の全能を羨んだ。
”君には他の人間より多く贈り物が与えられ、だからそれだけ背負う荷も多い “
贈り物とは何でしょうかとロイが尋ねると、「時間」だ、と蒼雲は答えた。
ロイは真理に至るまでの時間と解釈した。
真理に辿りつくまでの時間は長いということか、と問うと、君が思っている以上に長いだろうよと蒼雲は頷いた。
それほどまで長い時間がかかるのなら、たどり着く前に命尽き果ててしまうかもしれない、とロイは覚悟しなければならなかった。
”だから君は色々なことを人の何倍も思い悩む。君に与えられたものは大きな翼であるが、受け止める精神がなければ冷たく重い枷でしかない“
いつも思っていた。
ロイをはじめ、はじまりの人々が生きた記憶は赤い神の記憶の中に、その証としての知識は後世の人々の裡に、いつまで焼き付いていられるだろうか。
どれだけ「何か」が残って欲しいと願ったところで、赤い神の創り上げるこの世界が完成する時、そこに何が残っているだろうか。
存在のかけらはあるか?
そして赤い神ははじまりの人々を覚えていてくれるだろうか。
百年後はどうだ。
二百年後は……?
自信などない、残るものがあったとしてもそれは僅かだ。
知識はすぐれた未知のものへと更新され、古いものは簡単に捨て去られ、子孫との血のつながりは薄くなり、生きたという過去の事実だけが赤い神の記憶の中にあるというのでは、……なんと悲しいだろう。
彼は数えきれない人々と出会い、祝福し、全ての人々に慈愛を与えるだろう。
彼は出会い別れた人々を忘れないだろうが、はじまりの人々にも、最後の人々にも平等に接するだろう。
”未来に思いを馳せて悩むことのできる人間は、未来を変えられる人間はほんの一握りなんだ。それはとても大きな贈り物なんだよ”
ならば後世の人々のために、この世界を少しでも住みよい場所にして去ろう。
そして少しでも学び神々に近づき、生きて死ぬ意味を知ることができたら、もうそのときは満たされて幸福のうちに死ぬのだとロイは思った。
はじまりの人々の屍を礎として、後の世の人々は強く逞しい世界を創るだろう。
忘れられても、あとかたもなくなっても、
命が燃え尽きるまでに自身の持てる力で至上の結果を残して去るだけだ。
自分にできることは、自分に与えられた使命はそれだけだ。
それで十分だ。
しかしこの、胸の張り裂けそうな切なさは何だろう。
完成した世界は、どのように使われるのだろう。
だれのために? どのように。
ロイは神槍を杖のようについて立ち上がった。
そして大樹に身を寄せた。
この神樹は、赤い神と共に何千年も生きるのだ。
新しい芽が膨らんでいる。
春になれば、一斉に白い可憐な花を咲かせるだろう。
「今年は、かみさまがいらっしゃるからきれいな白い花が咲くね」
ロイが両手を廻して神樹にしがみついているのに気付いたメグが、ロイを気遣うようにそう言った。
「そうだな……」
自らが死ぬときになったら、この樹の下で死にたいと思った。
肉体は滅びても、還元される物質はこの樹に宿り、根を育み、魂はこの樹に宿り、終わりの人々と赤い神のために、白く美しい花を咲かせるだろうか。
「来年も、再来年も。ずっと咲くだろうな」
ロイは木漏れ日に目を細めた。眩しいのは、陽光ではない。
「……私たちは、あと何回見れるのかな」
メグは寂しそうな笑顔をロイに向ける。
「俺たちの運命は、既に神様が定めておられるんだよ。完全なる彼の計画のほんの些細な一部として。教えてはくださらないが、きっと平等に……」
「ロイはいつも未来のことを考えているね。私は怖い。とても怖い……」
メグは人が増えて、世界も広くなって。
赤い神と民の距離がどんどん離れていっているような気がしていた。
そしてメグと赤い神との絆も希薄になってゆくのだろうか。
赤い神が人々に与えられる幸せの量は決まっていて、それを一部の民が独り占めにしてはいけないのだ。
皆が飢えてしまわないように、人数が増えたら小さく分け合わなければならない。
皆を幸せに、誰も苦しまないように、それが彼の思し召しだ。
「かえりたいな。私たちがまだ、子供だった頃……あかいかみさまが、私たちのすぐそばにいてくださった頃に。夢なんて見なかった頃に」
ロイだって、過去に未練がないというわけではない。
しかし……進まなくてはならない、赤い神と共に歩まなければならないのだ。
さもなければ、遅れるものは置いて行かれる。
……一方、メグは寂しく思う。
昨日、何故あんな悪い夢を見てしまったのだろうか……。
メグは夢の中で、桔平という名の青年と恋に落ちた。
異国の衣を着た青年と、毛布を分かち合ってメグと彼は音楽を聴きながら星を眺めていた。
その世界の大地は球体で、空に浮かぶ星のひとつなのだ。
モンジャの草原とよくにた草原に、二人は寝そべっていた。
夜露が頬に冷たかった。
彼は容姿こそ赤い神と似ても似つかなかったが、言葉の端々に、赤い神と似た気配を漂わせていた。そして、赤い神と同じ星の話をして、宇宙の話と未来の話をした。
かみさまが人間だったら、こんな感じだろうか。
メグは確証もないのにそう思ってしまった。
夜が明けるまで、二人は恋人として口づけをかわした。
メグは今朝目覚めて、あんないけない夢を見てしまったのは、神様と心が離れてゆく不安と神様を繋ぎ止めようとした願望なのだろうかと自らを責めた。
神様を恋愛対象として見てはならないと、この世界に生きる民の誰もが分かっている。
そしてメグは赤い神に「そばにいられるだけでいい」と願ったのだ。
それで十分だ。一緒にいられたらそれでいい。
もう、夢なんて見たくない。
先ほど蒼雲神にそう言ってしまったのは、赤い神に対する背徳心からだったのかもしれない。
神様を人のようにみなして、恋愛対象としてしまうなんて。
……それはとても悪いことだ。
もう、あんな夢を見てはいけない。
メグは神殿の庭の砂地に指を滑らせ、異界の文字列を書いた。
この記憶は埋めて土に還してしまおう。
そんな思いで、メグはその上からきれいな白い砂を、少しずつぱらぱらと撒いた。
「もう、夢なんて見ませんように……」
三本の花輪をぎゅっと握りしめて小さく呟いたメグの声が、ロイの耳には聞こえていた。
ロイとメグがそれぞれの思いを懐いていたとき……
『メグさん、ロイさん! お待たせしました、話が終わりましたので中にどうぞ』
大門を開けて、赤い神が神殿の内部に二人を招き入れた。
我知らず、メグは駆けだして彼の腰のあたりにきゅっとしがみ付いた。
赤い神の顔を直視することができなかった。
『え?』
メグがひっしと彼に抱きついて、身じろぎひとつしないのだった。
赤い神は困惑して
『すみません、そ、そんなにお待たせしてしまいましたか? いやはやそれは申し訳ありませんでした』
首をすくめながら、埋め合わせをするように、おずおずとメグに祝福してみる赤井神。
「あかいかみさま、少しこうしていていいですか?」
私たちがいつまでも離れないように。メグは祈った。
『私はどこにも行きませんよ?』
「本当ですか?」
『……えと、その、他に行くあてもありませんし……ずっとあなたがたと共にいますよ』
祝福を終えると、緋色の頭をぽりぽりとかいて『誓います』、と胸に手を置いてそう唱えた。
それがさも当たり前のことのように。
メグはそれを聞いて微笑むと、少し背伸びをして赤い花を多めに編んだ花輪を赤い神の首に提げた。
この花輪も、赤い神の神気に灼かれて数時間で朽ちてしまうだろう。
人間が彼に捧げることのできる物はなにもない、真心以外には何もない。
花輪は、青い神、白い女神のものもそれぞれ準備していた。
メグをその胸に抱きしめ、彼は些細な幸せを感じながら、赤い神はふと砂地に目を凝らした。
そして彼は思いもよらぬ情報を目にして、あらんかぎり目を見開いた。
この落書きはいつからあったのだろう。
誰が書いたのだろう。
部分部分、上からかけられた砂で隠されているが、彼の神眼で欠けた部分を補完することは容易い。
彼はその名を読んだ。一字ずつ。一字ずつ、視線を左から右へ。
神坂 桔平――。
彼がまだ、アガルタの神ではなく人間だった頃の名がそこにあった。
久々に見た、紛れもない自分の真名。
もし、この文字を書いたのが”彼女”であるのなら。
彼のその文字が意味するものの答えの全てが、この腕の中の存在であると気付いた。
気付いてしまったのだ。
***
「あってはならないことが、起こってしまいましたね……」
伊藤をはじめとする27管区スタッフは、モニタに表示された最新の情報を見て凍り付いていた。
27管区再生速は、かつてないほどにスローペースに抑えられていた。
白椋神、蒼雲神がログインしているからだ。
二神を受け入れた状態で27管区の状態が健全であるかどうか、常にアセスメントを行いながらの運営であった。
だからそれが幸いしたのかもしれない。
彼らは赤井の精神状態を根本から揺るがすであろう変化に気付いてしまった。
赤井の業績が明らかになったころから、伊藤は特別に、そして極秘裏に赤井の”感情の変化”を解析し可視化、データ化するプログラムを実装していた。
赤井は知らなかったかもしれないが、構築士として任じられたときに、赤井の感情を分析するプログラムを付与するとの同意書はとられている。
データ採取に何ら違法性はない。
だから今、赤井の思考は27管区スタッフの全員ではないにしろ、構築士補佐官である数名には筒抜けなのである。
まさか……まさか赤井とメグが、現世において生き別れた恋人同士であったなど。
小説や映画の中での出来事のような、奇蹟の出会いを果たしていたのだと。
その瞬間、彼らは知ってしまったのだ。
「どうしましょうか、伊藤さん」
「ヘタな情けをかけてはいけませんよ」
どうしようかと訊くが、彼らは暗黙のうちに”そうしろ”と言っている。
アガルタの神は人間ではないのだ。
人間的感情を挟んではならない。
特定個人を愛してはならない、俗事に心を揺るがせてはならない、特別な存在でなければならない。
構築時間を巻き戻し、赤井の記憶からその情報を消し去る。
なかったことにしてしまう……それがどう考えても最善なのだ。
彼にはまだ、アガルタの神でいてもらわなければならない。
世界の希望の為に、そしてアガルタの人々の為に。
赤井はメグがそうであると知ったらどうするだろう、メグの現実世界帰還と同時に、構築士であることを投げ出して辞職してしまうかもしれない。
そうでなかったとしても、心ここにあらず、という状況になるかもしれない。
メグを偏愛してしまうかもしれない。
それはアガルタの神の博愛の精神に反する。
かくなるうえは、メグを早急に、帰還はまだ先のこととしても、赤井から引き離さなければならない。既に回復基調にあり、現実世界の全てを思い出そうとしているメグの記憶をいじることはできないのだ。彼女は彼女の名を思い出すだろう、家族を思い出すだろう。
そして、恋人だった青年の顔も、名前も思い出すだろう。
それは避けられないことだ。
ならばどうする。
メグを他管区へ飛ばしてしまうか。
伊藤 嘉秋、アガルタ27管区プロジェクトマネージャーは深刻な決断に迫られていた。




