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第4章 第12話 Inside CABINET INTELLIGENCE AND RESEARCH OFFICE★

 夜の東京赤坂。高級料亭 まつゑ荘にて。


 都会のコンクリートジャングルの中にひっそりと佇む、政治家や財界人、官僚御用達のこの店は、古式ゆかしき日本の美の中に近代の趣きが融合している。

 日本庭園を一望する離れの数奇屋風個室。

 本座敷にて、八名の黒服の一団が会合を行っていた。

 彼らは内閣情報調査室、通称内調ないちょうの職員のうち生え抜き(プロパー)にあたる者たちだ。

 内調の所在地は霞ヶ関の総理府庁舎内なのだが、特に憚られる機密性の高い内容の話は外部で行われる機会も多い。


 さて、その場には聊か不似合いな制服姿の女子高校生。

 その彼女が何故か、上座側にいる。

 彼女は斜向かいの男と時折言葉を交わしていたが、表情はどことなく曇っていた。

 彼女はどこのご令嬢なのかしら……と、和服姿の仲居たちが勘繰り、不自然な光景を横目に見ながら黙々と給仕する。

 目利きの厳しい板前の旬の食材をふんだんに使い、素材の良さが引き立たされた料理がずらりと並び、鯛や伊勢えびの活け作りも運ばれてくる。


 仲居たちの姿が消えると、立派な掛け軸の前にいた白い顎鬚を豊かにたくわえたグレーのスーツの老紳士が、ビールの入ったグラスを手に取り口を開いた。

 内調No.2 プロパーにして次長の竹原たけはら 義一ぎいちである。


「先ずは東くん。厚労省アガルタプロジェクトからの復職おめでとう、そして任務ご苦労様。内調のみならず厚労省にも十分な成果があったようで、相互に益のある素晴らしい仕事をしてくれた。一言、コメントをもらってもよいかね」


 東はウーロン茶のグラスを取って立ち上がり、復職の挨拶の言葉を述べる。


「昨日より四年ぶりに内調に復帰する運びとなりました、東 沙織です。室員の皆様にはまた色々ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、職務に際しては粉骨砕身の覚悟ですので、よろしくお願いいたします」

「乾杯! お疲れ様」

「お疲れ様」


 乾杯の発声とともに東にグラスを合わせ、黒服たちは杯を乾す。

 東は未成年の設定を忠実に守り、律儀にウーロン茶を飲んだ。


「女子高生のいでたちだからといって、誰も見ていないよ。一杯だけでも飲んだらどうだろう」

「いいえ結構です」


  酒を勧められても、彼女はぴしゃりと撥ね付ける。

 叩けば金属音がするのではないかというほどの、筋金入りの堅物だ。

 彼女は以前から魅力的な容姿をしていたが、このとっつきにくい性格が災いして男をよせつけない。

 ましてや今となっては、女子高生を口説こうなどという気を起こす者はいない。


「早速で悪いが、これを読んでくれ。話はそれからにしよう」


 東は隣席の黒服にビールをお酌をしていた手を止める。

 竹原が多機能携帯端末を料理を避けてそっと卓上に置くと、投影モードを選択。東は大きく出現した立体映像の電子新聞を斜め読みにする。いかにもセンセーショナルな見出しが飛び込んできた。


「読み上げてくれ。皆にも聞かせてほしい」

「はい次長。読み上げます。


 アガルタの日本人構築士が世界初の快挙。

 人類医療技術、ついに夢の全疾患克服へ――。


【記事】

 医療技術完成の妨げとなっていた最後の難関が、厚生労働省プロジェクトチームにより遂に陥落した。従来の治療法では脳損傷を受けた人間の脳細胞を医学的に治療・復元することは可能であったが、記憶を修復することはできなかった。

 厚生労働省では、仮想死後世界アガルタに治験患者の破損した記憶を転送し仮想世界内でリハビリテーションを実施する取組みを行ってきた。その成果として、脳領域の4割を損傷した22歳の女性脳機能障害患者の記憶を完全に修復したと発表した。


 仮想下リハビリテーション治療(VRT)を成功させたのは厚労省の甲種一級構築士。

 構築士の氏名、経歴は明かさないとしている。

 治療を受けた女性患者はさ来月にも社会復帰できる見込み。このほか、アガルタで治療中の三十名の同疾患患者の治療経過も順調で、今後は症例数を増やし、仮想世界内での精神治療技術の更なる実証を目指している。

 厚生労働省 円山まるやま 新一しんいち死後福祉局長は『世界に先駆けて、待望の治療成果を発表できた。これで実質的に全ての疾患の治癒が可能となった。まだ治験段階だが、治療指針を早急にまとめ、医療現場にノウハウを還元したい』と述べた。治療成果は米ネイチャー誌に掲載される……とあります」

 記事の音読を終えた東は、竹原に体ごと向き直った。


「大した業績じゃないか。ひとまず東くんの感想を聞きたい」


 竹原次長は、実年齢二十九歳という若さで既に情報員として十分なキャリアを積み重ねてきた東を信頼し、一目置いている。

 東は内調プロパーだが、日本の諜報・防諜能力を強化するためアメリカ中央情報局(CIA)で半年間のトレーニングを受けて帰国した、三人の特命情報員のうち一人だ。

 留学期間は半年とはいえ、訓練はヴァーチャルで行われたため、実際の養成期間は五年間。

 十二ヶ国語を操り、細腕で銃火器はもとよりヘリや戦車まで扱う。

 つまり彼女の精神年齢は、三十四歳。

 彼女は内調の機密情報を守る為に様々な姿と偽名を使い分けているが、内調では東 沙織を名乗っている。

 今も本来の肉体を捨て、常備している自身の体細胞クローンに記憶を移植し肉体年齢十七歳の少女へと変貌したうえ、整形手術を施していた。


 女であることを捨て、人であることをも放棄しつつある、変幻自在の情報員だ。


 確か、彼女の体は三体目のクローンだといったか。

 やりすぎだ、体を損なうな。

 と竹原が諌めても聞かなかった。

 彼女はプロだった。仕事において完璧を求め、自身もそう在ろうと修羅の道を歩む。

 彼女の素顔は、竹原以外の殆どの室員にも知られていない。

 東は、柔らかそうな艶のあるストレートの長髪をするりと指先で弄びながら記事を再読している。


「私の口からはコメントを差し控えます、私の業績ではございませんし。それに、目的のためとはいえ赤井構築士には惨いことをしてしまいました。彼の血が流れ、彼の苦痛のうえに打ち立てた成果です」


 東は困惑したように電子新聞から視線をはぐらかし身をのけぞると、重苦しい雰囲気の中でずず、とウーロン茶を飲み干した。

 竹原次長は、深刻な表情で腕組みをして瞑目する。


「そうか。しかしそういうわけなんだ。厚労省がこの一件を大々的に表沙汰にしてしまったよ。動かれてはならない各方面への牽制のつもりだろうが」


 内調が組織をあげて追っているのは、謎のDFH計画というものの全容解明だった。

 それは簡単にまとめると、日本の国体を転覆させうる前代未聞のクーデター計画である。本来は公安の担当案件なのだが、公安内部にこの計画に関与する人間が複数いるとの疑いがあるため、政府によって直属の少数精鋭特命班が組織され、何とか未遂に終わらせようと奔走しているのだった。


 27管区サイバーテロのごたごたで、厚労省内にもDFH計画の遂行者、協力者は複数いるとの裏付けがとれた。

 調査を終えた東が厚労省内のDFH計画加担者に気取られず職場離脱する為には、解雇されて当然と頷ける、分かりやすい罪状が必要だった。

 彼女は何らかの不祥事を起こさなければならなかったが、その不祥事作りに赤井を利用しようと東が考えついたのは、つい最近のことだ。


 東はアガルタのシステム自体に不具合を起こさせる不祥事を望まなかったし、警察沙汰になる犯罪を起こして前科持ちとなるのは都合が悪い。

 それでいくと、アガルタの構築士を虐待するという不祥事は、アガルタの機密性とデジタル化された構築士の人格の有する”人権”の曖昧さ故に刑事事件にならないが、人道的観点から必ず懲戒解雇処分となり厚労省を離職できる、東の切りうるカードのうち最良の手札であったともいえる。


「勇み足ではないかと、私は思いますよ。公表することによって国内への牽制にはなりますが、国外から狙われる場合もあります」


 計画の全容は東が概ね掴みつつある。

しかし後一歩、情報が揃わず決め手に欠けている。

東は何かを隠している、赤井構築士にまつわる何か重大な事実を。

竹原は漠然とそう感じた。

 赤井を守りたいがゆえのことなのか――赤井という男に、どんな秘密が隠されているのか。

 先ずは外堀から、と竹原は質問を投げかける。


「伊藤は、DFH計画に勘付いているのか?」

「いいえ、おそらくは何も。伊藤PMはアガルタ内のことに腐心しておられますよ。かねてよりアガルタの医学利用を目指しておられたので、たいそう喜んでおられました」

「狙われそうなのはその構築士だけか。……では合法的に仮想世界を出てもらって、赤井の肉体をこちらで匿おう。いくらだ。その男の報酬ねだんは? 生涯給与総額で構わない」


 甲種一級構築士の正規報酬は退職金込みで概算50億。

 しかし赤井の場合、各国からの維持士としての青田買いも熾烈化しており、維持士を務めるとすれば生涯給与総額は120億は下らないと黒服が概算した。


「では120億で獲得しろ」


 竹原は更に強気で大風呂敷を広げて見せる。

 予算はどこから拠出するのだろうと課長が息を呑むが、竹原はお構いなしだ。


「総理に執行委任された、三年分の機密費を用意している。折角だから、内調で働いてもらおうか」


 東はぴくり、と耳を欹てた。

 赤井をアガルタから出す……赤井をDFH計画に利用される危険性を思えば、確かにそれは国益のためでもある。

 しかし、赤井の助けを待っている者がいる。

 彼は回復を諦めかけていた難治性疾患患者とその家族に必要とされているのだ。


 彼という公人を、厚労省から取り上げては いけない。


「しかし……治療が軌道に乗るまで、彼をアガルタから引き剥がすのは好ましくないかと考えます……」


 東は必死に、竹原を説得できる材料をさがした。

 予算執行権を握る竹原がやるぞと言えば、何でもできる立場にあるのだ。

 アガルタの神を殺し、人間に落して買い取ることだって……。


「アガルタ再生速を上げて、きりのいいところまでやってもらえばいい。考えてもみろ、千年も箱庭に監禁されて50億ばかり。一方、こちらの待遇は休暇もあるし家にも帰れる、プライベートも好きにすればいい。一定の成果を出したのち、赤井を買い上げ、厚労省死後福祉局は新しい構築士を二人雇えばいい。円山には話を通しておく。快諾してくれるだろう」

「しかし、赤井構築士を引き抜くとなると、構築中の管区をリセットすることになりますので、初期化費用と賠償金を支払わなければなりません。すると120億ではききませんよ。しかも彼の管区には……」


 竹原はそれでもそれでもと理屈を並べたて、赤井の引き抜きを思いとどまらせようとする東の話の腰を折った。


「東くん。どうした、君らしくない。勘違いしてはいかんぞ? いいか」

「いついかなる場合も、国益が第一優先だ」


 東はそれ以上、何も反論できなかった。


 ***


 中央大陸の主峰の山頂に、サヴァレー大神殿という巨大建造物がある。

 大神殿の主は青の神 蒼雲そううん、アガルタ二十九管区を統治する唯一神だ。


 神殿の中央に聳え立つ純白の聖塔は凡そ六百メートル。

 塔全体を覆いつくす強力な神聖結界のため、人間には不可侵の聖域である。

 現在、青の神は塔の頂上に引き篭もり、その強大な神通力で彼を仰ぐ民たちに等しく恩寵を与えながら世界を支え、聖塔の中で深き眠りについている、と伝説ではそう語り継がれてきた――。


 ところが……少なくとも幾十年は眠りの時にあるとされていた青の神が、いかにも気安くはたき起こされた。

 29管区アガルタ歴289年の夏、それはよく晴れた日の早朝のこと。

 彼の担当官、川添かわぞえ 瑞希みずきによって。


 彼はまだ85年しか寝ていない。

 予定より随分短いが、担当官が起きろと言えば起きなければならない。

 一度目覚め、そそくさと二度寝をしようとしたところ、現実世界側からクリック一つで擬似脳に覚醒シグナル(アラーム)をぶち込まれた。

 頭の中で不快に鳴り響くアラーム。

 何故か着信音は黒電話だ。

 こうなっては起床するより仕方がない。


『あぁ眠い。まだ起こさないでくれよぅ……』


 彼はにゃむにゃむ言っている。

 幾十万もの民を統べ、畏怖され崇められる創造神も川添担当官には形無しである。

 摩天楼の最上階にある、贅を尽くした絢爛豪華な青の神の寝室は白一色に統一され、彼の民からのクリスタル貢物の調度品で埋め尽くされている。

 360度の眺望を見渡す部屋の中央に置かれた広いベッドには最高級の羽毛が敷き詰められ、羽毛の中に埋もれる形で横になっていた。


『あー……分かった、起きる起きます! アラーム止めて!』


 ぷるぷると震える指先でスクエアを描く。

 長方形で呼び出すべきインフォメーションボードが台形になったが、彼は少しも意に介さず大あくびをひとつ。

 空より濃く、海より深い青き色彩を持つ神。

 コバルトブルーの短髪が、神殿内に差しこんでくる朝日に反射して煌めきヴィヴィッドに眩しい。

 整った鼻筋と薄い唇、透明感のある瑞々しい白い肌は若くシャープな印象を与え、決して不快感を懐かせず、誰しも見惚れてしまうほど整っている。

 手足の長い長身を見栄えよく見せる筋肉質な神体は、彼の民から集められた信頼によって神通力に漲り、きらきらと輝いている。

 彼のアバターの造形は申し分なく美しいと、川添も認めるところだ。


 但し、その口を開かなければ……


『んあぁ……瑞希ちゃんおはよ。!?……俺、寝違えてら』


 首を斜めに傾けたまま、蒼雲は半笑いでひらひらと手を振り、寝転がりつつ腰の辺りをぽりぽり掻いたかと思えば、寝癖のついた前髪をいじりながらゴロゴロとインフォメーションボードの奥の担当官を覗き込む。

 インフォメーションボードの越しの川添補佐官は思い切り顔をしかめ、両手を突き出して青年の視界を遮る。

 現実世界側でディスプレイのモニタを手で覆い隠しているのだろう。

 川添は二十五歳の補佐官で、入省四年目のシングルマザー。

 ベージュのパンツスーツを着て、パーマのかかった茶髪をおだんごにして頭頂でふわっとまとめ、前髪を編み込みにして横に流している。

 黄色のフレームのついたお洒落な眼鏡を鼻でかけ、現代風の美女だ。

 服装はカジュアルだが、彼女の仕事ぶりは意外に真面目だったりする。


『まず、白衣を着て。人の話は起きて聞く! あと、髪をちゃらちゃらいじらない!』

『別にいいじゃん俺グラフィックなんだし、ちゃんと素民と話すときは服着るよ。それに俺男じゃねーの。エロスの欠片もねーじゃん見てよ、股間つるっつるよ? 見たい? やめて瑞希ちゃんのスケベ! 啓介君に言いつけちゃる!』


 85年の眠りから覚めた割にはよく動くその口をいっそ喉ごと潰して塞いでしまいたいが、川添補佐官は突っ込みを入れる気力も起こらない。

 ちなみに啓介というのは、川添の一人息子だったりする。

 啓介をダシに、川添は蒼雲に何かとからかわれる。

 そう、このセクハラ紛いのたわ言を垂れ流す青年が、主神役をやっているのだから川添の苦労がたえないのである。

 アガルタでは男神には女性補佐官を、女神には男性補佐官を宛がうのが通例だが、今からでも遅くないから年配の男性担当官についてもらってこっぴどく叱られるべきだ、と川添が真剣に上層部に抗議したい気持ちをこらえてもう数カ月が経つ。


『少しは神としての品格を持ちなさい。どこに全裸で寝る神がいますか。眠りにつく時も油断せず、誰に見られても恥ずかしくないように。……どうしてこんな子供に言い聞かせるようなことを言わなくてはいけないのでしょう? 情けなくなりますよ』

『いや、だから人間こねーもんここ。結界あるし』


 矜持というものを説いてきた担当官の説教を耳にタコが出来るほど聴いたはずの青年が、一度だって補佐官の言うことを聞いてくれたためしはない。

 ただ、彼は残念なことに構築士としては優秀だったのだ。

 彼は統治能力においては他の構築士たちより頭ひとつとびぬけ、野心旺盛な性格もあって次々と区画を解放し周辺の国々を支配下に置き、強烈なリーダーシップを発揮している。

 素民はただ彼に信頼を寄せ、彼を賛美し信仰を捧げ続ければ彼の威光によって平和な世が訪れるのだ。ますます人心は惹きつけられ、彼はめきめきと実力をつけた。

 とりわけ大した苦労もなく。

 彼ほど気楽に構築を進めている神はないのではないか、と川添補佐官は総括する。


 彼にとって構築とは、天下統一ゲームのようなものでしかない。

 ただ、素民相手にはそれでよくとも、管区開設を迎え人間の利用者がやってくる頃には、そうも言ってはいられなくなる。

 彼は維持士を希望しているが困ったことに、彼には維持士として最も重視されるといっていい神としての聖性やありがたみが欠落している。

 信仰の対象になりうるかというと、もう論外なのだ。

 全ては彼の、下品でチャラすぎる性格が災いしている。

 ああ……赤井神の半分でも彼に神としての品格があれば……と補佐官は頭が痛い。

 とはいえ蒼雲も彼なりに素民の前ではある程度演技をしているつもりのようだが、全身からこれでもかと漂うチャラさをカモフラージュできたものではなかった。

 構築の腕はよくても、神を演じる演技力とセンスがないのだ。

 言葉の選び方ひとつをとってもそう、赤井と違って素民の心に響く話もできない。

 折角の説法も漫談になってしまう。

 こればかりは如何ともし難い、生来のものである。

 聖性を維持するためには喋らないほうがいいのではないかと思うぐらいだ。


『俺、現実世界では寝るとき全裸派だったからもう全裸じゃないと寝れないわけ。分かる? それやめろ言われても安眠妨害なわけよ。それに全裸が駄目っても古代ギリシャの神々なんて割とマッパじゃん。何が駄目なの。もうジェダイ服もとっくに飽きたし、リニューアルしてほしいよ』


 しぶしぶ、といったようにジェダイ服と揶揄した純白の装束を全裸の神体に着つける蒼雲。

 見事なまでの猫背だ。


『ほら猫背! まだ直ってないの?!』

『あーはいはい。85年ぶりの寝起きだから猫背にもなるよ』


  白衣はハイロードの一張羅であり、仕事着でもある。

 これを着なければ、人の服を着られない彼は全裸で過ごさなければならなくなる。

 彼の衣装は帯つきの着物のようなインナーに、だぼっとしたフードつきの長いローブ。

 彼の言うように、どこぞの古いSF映画の登場人物のコスチュームに似ていた。

 彼をデザインしたアガルタ二 十九管区のグラフィッカーの趣味なのだろうが。

 彼は室内の聖泉で顔をばしゃばしゃ洗いさっぱりとすると、白衣で顔を拭いながら要件を尋ねる。


『で、何か用? 瑞希ちゃん』

『まず私の下の名前で呼ばないで。そして勤務中ですよ、真面目にやりなさい』


 何なら怒るのも疲れてきた補佐官である。

 しかしその反応を楽しむように、蒼雲は再びベッドに寝転がってニヤニヤとしながら頬杖をつき


『やっぱ久々の瑞希ちゃんはかわぃーね。顔真っ赤にして怒ってるの、すげー俺好みなんだ。頬がりんごみたいでおいしそうだしさ。外出たら、結婚する? 啓介君もパパがいた方が喜ぶしさ? 俺、これ持ってるよー?』


 人差し指と親指を合わせて、マルを作ってその中から川添を覗き込む。

 金を持っていると言いたいのだ。

 人の話を聞かない癖とちゃらちゃらと貧乏ゆすりをする癖も、さっぱり直っていない。


『どれだけお金を積まれても、あなたと一緒になるなど願い下げです。あなたと話すと疲れます、生気を搾り取られるような? あなた疫病神か貧乏神みたいですよ……もう通信をきりましょうか』


 川添はいい加減、蒼雲の態度にうんざりしているのである。

 まるで倦怠期の夫婦だ。

 まだ九年も一緒に仕事をしなくてはならない仲だというのに。

 しかし蒼雲は懲りていない。


『嘘、何で切るの!? 瑞希ちゃんそりゃないよー俺気持ちよく眠りについていたところを折角起きたげたのに。真面目にやるって! だから要件はなに?』

『赤井構築士の管区の様子が日本アガルタ全管区に配信されています。見ておいた方がいいのではないかと思って起こしたのですよ』


 蒼雲は同期の赤井のことをすっかり忘れているようだ。

 とはいえ、彼にとってはもう二百年以上も昔の話なのだ。

 しかも彼は、赤井の素顔すら見ていない。


『赤ちゃん? 誰の赤ちゃんかはともかくしらねーし。あ、俺隠し子とかいないから』


 大体話の内容を把握しつつも、おちょくったように頭を掻く蒼雲。

 イラっとくる川添補佐官。

 血管の切れる音を聞いて、肩をすぼめる蒼雲。


『誰が赤ちゃんですか! 赤井構築士です。白椋もきちんと見ているそうですよ。少しは赤井さんの演技を見習ってください』

『あー思い出した。あの全然構築が進んでないっていう恥ずかしい落ちこぼれ同期……? てか二百年以上進んでる俺が構築超初心者の何を参考にすればいいっての? 見るのダルいんでパスでも……』


 味噌クソにけなしているうちに川添の頬がますます熟したりんごのように紅潮してきたので、これはまずいと蒼雲も悟り……


『はい見ます! 見ます見ます! 正座して見ます!』


 いくらふざけたところで、蒼雲は川添には勝てないのである。

 川添のクリックひとつで屈服させられる上下関係なのだ。


『あなたには国民の血税を投入されている公務員だという自覚が徹頭徹尾足りません! そんなことだから、誰も癒すことができない。この管区に入った生身の患者様はただ無為に時を潰しただけ。真面目にやって失敗したのならまだしも、そのふざけた態度! 大事な時間をあなたに預けた患者様のご家族に申し訳が立ちませんよ! ライブ中継を見終わったら、反省文を書いてもらいますからね!』


 川添のたまりにたまった不満も爆発するというものである。

 言い過ぎた、と彼女はやや後悔したが、蒼雲には特にこたえている様子はない。


『待ってよー、その言い草だとまるでさ。その赤ちゃんが治療に成功したみたいじゃね? 誰も出来てないんだから少々大目に見てよ、仕方ないっしょ』

『いいから赤井構築士の仕事を見なさい。これは日本アガルタ全構築士に向けて開催されている技術研修会ですよ、学ぶべきはあなたです』


 それを聞いた蒼雲の眉間に一本、きゅっと縦筋が入り青い眉根を寄せた。


『……ありえなくね? 成功したってこと? 世界初じゃんそれ、日本神がやったってすげーよ。俺、治療だけは無理ゲーだと思ってた』


 蒼雲とて腐っても医者である。

 これまで不可能だと考えられてきた治療の見込みが少しでもあると聞けば、医者としての血が騒がないと言えば嘘になる。

 また、攻略すべき目標ができ、張り合いも出てくるというものだ。

 彼の背筋が、珍しく伸びている。

 あの、何事にも適当だった蒼雲が、珍しく刺激を受けているようだ。

 川添は赤井のことを蒼雲に話してよかったと感じた。


『だから起こしたのですよ。やる気スイッチ、入りましたか?』

『入ったどころじゃねーわ。瑞希ちゃん……俺、たしか他管区留学資格あったよな』


 アガルタ内で二百年以上構築時間が経過し、第七区画まで解放した、いわゆる成熟した主神は分身スキルが使えるようになり、本体を担当管区に残したまま分身で仮想世界内を移動することができるようになる。


 この能力の獲得を条件に短期間の他管区留学が認められており、一般開設後のエリアか、構築時間200年以下のエリアに短期滞在することができた。

 他管区留学制度は以前からあり、大抵の構築士たちは一度か二度、他管区に留学するものだ。

 しかし彼らは開設後の管区に留学することはあっても、開設前の未発達な管区にわざわざ留学することはない。


『ちょっくら27管区行ってくる、手続きを頼む』


 そう言って白衣の襟を正した蒼雲は、いつになくいい笑顔をしていた。


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