第9章 第1話 The story of Spring 2134◆
日本アガルタ30管区・2134年4月8日、午前10時すぎ。
メグは期待と不安で胸をいっぱいにして、北海道は札幌市内に突っ立っていた。
気温は11度。日差しは暖かだが、東京と違ってまだまだ肌寒い。
ソメイヨシノの蕾も固く、満開には遠い。
伊藤の転移術で、メグは札幌の中心部の大通公園にまで送ってきてもらったのだ。
大学のガイダンスは午後2時から始まるので、早めに大学に着いて講義室などを確認しておきたい。
伊藤のはからいで、メグは2年次からの獣医学部への復学となる。現実世界の彼女は3年生ではあったのだが、記憶がどこまで回復しているか定かではない部分があり、復習の意味を兼ねて、少し余裕をもって2年次からのほうがよいだろう、ということになった。
「一人で目的地まで着けるかな」
伊藤と別れ、徒歩で一人になれば心細くなる。大学の場所、講義室までの道のりはモバイルに地図とナビが入っているし、困ったことがあれば伊藤がすぐ駆けつけてきてくれる、道路交通規制もナビが教えてくれるし、もしくはモバイルで応答してくれるとはいっても、やはりそわそわとするばかりで落ち着かない。
札幌は観光地だからかAR表示が充実していて、そこかしこで観光案内のポップが出てきて楽しい。メグは散策を兼ねてモバイルに案内を任せながらつかの間の札幌市内の観光を楽しむ。
東京ほどではないがやはり近代的な高層ビル群の立ち並ぶ札幌市の中心部、札幌のシンボルともいえる大通公園をぶらりと歩く。春の野外イベントが催され、フリーマーケットが多数出店していた。活発に交わされる人々の声、街のにぎわい。
30管区の素民たちのライフスタイルは、現代日本人たちとさほど文化的な齟齬はないと、伊藤に聞いている。伊藤がその時その時に現れる誤差に文化補正のバイアスをかけているからだ。それでも、毎年の流行などは現実世界とは微妙に違う。札幌の街の出店と人々の雰囲気は、モンジャ集落や神殿前の市場のそれとあまり変わらないな、とメグは懐かしくなって微笑んだ。人々の生活があって、文化が生まれる。それは、地球でもアガルタでも同じ。
「あっ……」
メグは大学への路を往く途中、ある場所に吸い寄せられた。重要文化財・札幌市時計台、正式名称「旧札幌農学校演武場」へと。
ビルの谷間の緑の中に埋もれるようにひっそりと存在するそれ。長い間、時が止まったかのように錯覚される白く瀟洒な建物。その前に立ったとたんに、ざあ、と突風がメグの足元を流れた。
「ここ、知ってる……」
メグは目を見開いて、驚きを飲み込んだ。
この時計台のグラフィックとARの観光案内は、現実世界の時計台の完全かつ精巧なコピーだ。現実世界においても、歴史的遺産は優先的にデータベース化されているため、伊藤はそのデータを引っ張ってきて利用している。
「何度も来た……気がする」
建物自体は目立つものではない、ただ、不思議と興味をひいたのだ。
見入られるというのだろうか。モバイルのナビにガイドのポップが浮かんでいたので、夢中になってARガイドの説明を聞く。
歴史現存する日本最古の時計台は、200余年を経た今でも、正確な時を刻み続けていた。
(ほら、昼間よりよっぽど幻想的に見えると思うんだ)
耳元で、かすかに青年の声が聞こえた。
はっ、と、彼女は瞳を見開く。
ざわざわと木々が心地よくさざめく音が聞こえている。
ただの幻聴、にしてはその音質はクリアだ。
メグが半信半疑でいると、声は続いた。
(ここは昼間にちょっと立ち寄る場所ではなくて、雪の降る真夜中に来てじっくり向かい合う場所だと思うんだよ)
声を聞いた途端、混沌の渦の中に落ちてゆくように、大量の映像記憶が彼女の脳裏にフラッシュバックする。
その日。
雪夜の時計台は、昼間の古ぼけた外観が嘘のように、青白く美しく輝いて見違えたのを覚えている。人通りのない街路に降り積もる白雪に埋もれた静寂に包まれて、とても清らかなもののように見えた。
彼はごく日常の何気ない風景を、時間の変化や視点の移動によって唯一無二の素晴らしいものに生まれ変わらせる。小さな奇跡を起こせるのだと、当時の愛実は思っていた。彼の生まれながらに持った感性は、それが彼にとってどんなさりげないことであっても、あの頃、傷ついた愛実を何度も癒し、救ってくれたような気がした。
「うん……うん。私もね。そう思うよ」
断片化されていた彼との思い出が、彼とゆかりのある場所を踏むことで、少しずつ、少しずつ取り戻されてくる。そうしているうち、30管区の中で過ぎてゆく月日が傷を癒してくれると、今の愛実は信じることができた。
雪夜の光景は遠ざかり、メグはただ朝の札幌の雑踏の片隅に立っている。フワッ、と飛空車の風圧にコートの裾が風を孕む。メグはコツコツと靴音を響かせて時計台を通り過ぎ、モバイルをバッグにおさめ、バッグをきゅっと肩にかけなおすと、風を感じながら一歩、二歩と駆け出した。
もうナビはいらない。懐かしいあの日々は、心の中に大切にしまい込まれていたのだから。
吹き抜ける暖かな風を全身に感じながら、自信と勇気を胸に、しっかりと顔を上げて。記憶の扉を開け放ち……メグはその場所を、一心不乱に目指すのだった。
通称北大と呼ばれる国立大学法人 H大学。そこは札幌市北区に広い敷地面積を誇るメインキャンパスがあり、理・工・医・歯・薬・農・獣・水産・法・文・経・教育と幅広い学部・大学院を持つ、国内有数の重要研究・教育拠点である。
この大学の特色のひとつでもある、国内最大規模の獣医学部こそが、メグが在籍していた学部だ。獣医学部は30年前に、6年制から4年制となった。医療機器の発展や、動物用万能薬を用いた投薬技術の確立に支えられたものである。メグは、当時3年生だった。
札幌駅方面から南門へ突っ切り、北大構内に入った。門を入ってすぐ、なだらかに広がる中央ローンの芝生帯は、まだ霜枯れてはいるが新緑の気配がする。さらさらと音をたててせせらぐ構内の小川に出会い、再び胸がざわつくのを感じて歩調を緩めた。
「ここも……っ!」
ここで仲のいい友達と一緒に座って、何かを食べて笑い合って、ふざけあって……膝まで水につかって、とメグは思い起こす。
その時、メグの背後で、おかしそうに腹を抱えて笑っていたのは。
(やっぱり、桔平くんとも一緒だったな……)
「ああ、ここも……」
どの風景を見ても、何かが記憶に僅かに引っかかる。
その小さな記憶の棘を辿れば、鮮やかに浮かび上がる光景。
例えば文学部の裏にあるテニスコート。
真夏の早朝、桔平と二人でコートを借り切って汗を流し、ベンチで話し込んだ。些細なことで小さなケンカになって、それでもすぐに仲直りして。
また笑って、朝食のパンを分け合った。真夏の日差しと、喉を潤したスポーツドリンクの冷たさがよみがえる。
例えば中央の学生食堂。
構内を一望できる日当たりのよいテラスには、多くの学生が勉強をしたり、友達と話し込んでいる。
(ああ、ここの食堂の学食は学内で一番美味しいんだ……私達は長い長い行列に並んで、次の講義の時間を気にしながら、今日は何を食べようと頭を悩ませていたっけ。あのあたりで、甘いものを食べながら一緒に勉強してた)
例えば冬芽がほころびはじめた銀杏並木。
北13条門の方角だ。学生たちがせわしなく、慌しそうに往来している。
(ああ、これも。この木は紅葉ではなくて黄葉する、って言うんだよね?)
そのときも、ほんの一瞬だけ。
イチョウが舞い落ちる黄金色の並木がその場に重なって見えるのだった。
例えば大野池の一面に広がる睡蓮も。
そこはさながら極楽浄土のようだ。カラフルな羽毛のマガモたちが、優雅に水面を泳ぎ水底をついばんでいる。ウッドデッキを歩きながら、メグは柔らかく反射する水面に懐かしそうに目を細めるのだった。
「……っ!」
疑いもなく幸福だった思い出と、同じだけ心抉られてゆく喪失感。
浮かんでは消えてゆく記憶の残渣。遠ざかった時間。
「ちょっと君! 弓道部はいりませんかー?」
柔道着に弓道着、あるいは何かのコスプレ衣装に身を包み、鮮やかなプラカードを持った新入生サークル勧誘の一団を横目に、中央道路をつきぬけ構内の突き当たりまで一直線に、息を弾ませてひた走って、図書館も理学部も、獣医学部も抜けて……アメフト場を横切り、彼女は馬場のあたりで力尽きて立ち止まった。
思い出がとめどなく零れてくる場所でありながら……
どこに行っても、どれだけ探しても、どれだけ記憶を重ね合わせても。
彼はいないのだ、ここには。
たとえ地球世界に戻っても、同じ場所に行っても。
もう彼は愛実のいない時間を重ね、大学を卒業し、就職してしまっている。
「はぁっ……はぁ……っ」
乱れた息をようやくのことで整える。
慣れない靴で構内のメインストリートを南北に2キロ近くも走って、体はほてっていた。
(どこにいるの、君は……!)
一人ぼっちで、取り残された気分だ。我慢しようと思っていたのに、じわりと涙がにじむ。とりとめもなく、空に向かって叫びたくなったのをぐっとこらえた。
そんなときだった。
「こんちはー、入部希望の人でしょ? あ、ちょっと? あなた可愛いじゃん……!」
不意に、真正面の馬場からメグは大きな声で呼びかけられた。
真っ赤にほてった頬を恥ずかしく思いながら顔を上げると、ナチュラル系のワンピースにデニムを穿いた、金髪の学生が歩み寄ってきた。耳にはピアス穴がたくさんあいていて、個性的な雰囲気の子だ。
「こ、こんにちは!」
「ここ、馬術部。入部希望者でしょ~? 分かるよ、分かる~! 馬乗りたいって顔してるもん!」
メグはキップのいい、姉御肌の女子大生の素民と出会った。
「2回生の、メ……じゃなくて、東です」
あやうく彼女はメグと名乗るところだった。うっかりメグと名乗ってしまわないよう、家では「東 愛実」と名乗る予行演習をしたのが、板につかなくて生かされていない。
「2年なんだー。何かぱっと見初々しくて、きょろきょろして新入生みたいだったから! 私は斎木みなみ、よろしくね。いいよ、2年からでも入れるからね、うちの部活。馬、乗ってみたい? 乗ってみたいでしょ? ね? じゃーやってみようよ!」
有無を言わせる雰囲気ではなかった。勧誘活動に必死なのだろう。そういえば馬術部の勧誘の一団もさっきのメインストリート上で見かけたな、とメグは思い出す。馬のかぶりものをかぶった人たちが、一生懸命ビラを配っていたっけ。
「時間、あるんでしょ?」
「はい……」
メグは斎木に言われるがまま、装具と手袋を貸してもらって身につけた。彼女はメグが装具をつけている間に、斎木はもう馬を馬場に連れてきていた。メグを逃がしてはなるものか、と顔に書いてあるようだった。美しく手入れのされた栗毛の馬に、メグは悠然と見下ろされる。
「北斗ちゃんだよ。名前呼んであげて」
「ほくとちゃん!」
ぶるん、と白馬は首を振って、鼻息を吐く。どうやらご機嫌のようだ。
「北斗ちゃん、サラブレッドだから背が高いんだ、乗るときは踏み台使うといいよ」
「あ、いけます。乗れそうです」
メグは踏み台を使わず、いわゆる飛び乗りという方法で軽々と馬にまたがる。それを見た斎木は、パチパチと拍手喝采だ。
「わー、運動神経いいんだね! びっくりした、新体操経験者とか?! じゃあね、怖くない? 姿勢はこうで、手綱こうやって握るんだよ。ぴんと張ってね」
メグは地上で柵の上にまたがってお手本を見せる斎木を見ながら、見よう見まねで手綱を握った。斎木の指導は分かりやすくて、メグはすぐに飲み込むことができた。
「さっそく馬、歩かせてみよう」
言われた通り腹のあたりを軽くキックをして歩きはじめる。メグは、たったそれだけで歩くだなんて、よく訓練されているんだなと感心した。重心を後ろへ移動させると、馬は減速する。その様子をそわそわしながら見守っていた斎木は目を丸くして、
「あれ? もしかして本当に馬術やってた? 素人とは思えないよ?」
「ウマではないんですが、似たような感じのを」
とはいっても、27管区最凶の大型肉食獣エドのアイの背に鞍もつけず乗って、毎日のように山野や草原を駆け回っていた。
馬の何倍もの機動力を持つシツジも、鞍もつけず乗り回して……などとは言えもせず。
アイもシツジも可愛かったけど、馬もかわいいな。とメグは馬の首筋を撫でた。大型動物と触れ合うと、27管区のことが懐かしくなる。メグは夢中になって、常歩から駈歩で巧みに馬を操り、馬場を走らせる。
メグの表情は輝き、生き生きとしてみえた。どう見ても熟練者としか思えない。
そしてその間一貫してメグの騎乗姿勢は崩れず、うろたえもしなかった。
斎木はますます口を大きく開け、唖然としていた。さすが、馬術部に向かって息を切らせて走ってきた、やる気満々の入部希望者なだけのことはあるな、と。
メグはひとしきり北斗ちゃんを走らせると、満足して斎木のもとに馬を近づけ、ひらりと鮮やかに飛び降りる。着地も決まっていた、ふらりともしない。ぱちぱちと、斎木はもはやお世辞なしの惜しみのない拍手を送る。
「何かびっくりするほど自己流っぽいけど、それはそれとして上手いじゃん! ね、これも何かの縁だよ、馬術部入りなよ! 友達も増えるよ。自己流じゃなくてちゃんと型通りの馬術を教えてあげるから。あ、もう私達友達でいいからね?」
「え……、っと」
メグはまくし立てられて、あっという間に入部に向けて押し切られそうになってしまった。
「もう、サークルは気になってるところがあるので!」
「えー? 全然いいよ、かけもちしなよー」
「うーん……考えてみますー」
メグはのらりくらりとぼかした。
サークル活動にうつつを抜かしていて、勉強についていけるかと気になったからだ。
斎木が”北斗ちゃん”の手入れをしている間、斎木とメグは互いに自己紹介をし雑談する。
「へー。天文同好会が気になってるのー? あれって活動、夜がメインなんでしょ、昼間は馬術部やりなよ。まあ、無理にとは言わないし気が向いたら新歓コンパ来てくれたらいいよ。何て呼べばいい? マナミでいい?」
話をトントンと進められ、戸惑いながらも、メグははい、と頷く。
「これからの予定は? 学食行こ、ご馳走するよ! もう12時半だし。お腹すかない?」
ご飯をタダでおごってくれるのはサークル勧誘の一種だ、ということはさすがに鈍くさいメグにも分かった。それだけに、おごられていいものか、どうしようかと悩む。
「え……いえ、そんな、わるいです」
「遠慮しないで! あ、それから敬語はやめてね、同学年なんだから」
「じゃ、おごらなくていいから、普通にご飯食べる感じにしない?」
貸し借りはなしだ。あと、斎木の希望通り、敬語もやめてみた。
「ハイハイ。んじゃ、いこっか。もー限界、私はらへり」
そのままの足で学食のテラスへ向かう。
学内を一望する見晴らしのよい場所に席をとり、ランチついでに斎木と話し込んだ。
はじめてできた学友に、メグは緊張の糸が緩むのを感じていた。異世界の人間と話題がかみ合うかどうか、友達ができるかどうか昨日は気がかりで眠れなかったのだ。斎木のおかげで、萎縮していた心がほぐれた。
「へー、マナミって獣医学部なの!? 知らなかったわー! てか、いなかったよね前。私も獣医学部2年なんだけどさ! 会ったことないよ?」
「私、今年から編入なんだ。だから誰も知らないと思う。みなみちゃんと友達になれて嬉しい」
「何で? 今までどこの学部にいたの?」
「え? ちょっとね……色々あって。ごめんね」
ふーん、と斎木は納得のいかない顔をして口をとがらせていた。
何を話したところで、信じてもらえないだろう。そう思ったメグは、えへへと笑ってごまかす。
「マナミさ、それはいいんだけど。さっき何で泣いてたの?」
カップ入りコーヒーをストローでちゅーっと飲み干しながら、斎木はさらりと尋ねてきた。
「何? 私、泣いてないよ。元気!」
メグは無理に明るい表情をしてみせるが、斎木はしかめつらをして首を振る。
「泣いてたよ、私見たもん。なに、彼氏とでも別れた? だから声かけたんだ、何かほっとけなくてさ」
別れてないんだけど……そんな感じ、なのかな。とメグは頭によぎったが、笑ってごまかした。
その曖昧な反応をみた斎木は、面白がってかまをかけてきた。
「どこの学部よ、その彼氏? うちの学生でしょ?」
「んー」
「工学部? 待って、当てるから。理学部!?」
「……う、うん、でもここにはいないから。もう、卒業したんだって」
そっかー春は別れの季節よねー、でもきっといい出会いもあるよー、などと言って斎木はメグを励ました。
「今からガイダンスあるじゃん、一緒に出よ? マナミのこと仲のいい子にも紹介するよ。皆いい子たちだよ。男友達もいるよ、皆イケメンだし新しい彼氏さがしなよ」
「わ、嬉しい! いいの?」
新しい彼氏を捜すのが目当てではないのだが、そう聞こえてしまったかと気付いてメグは赤面した。
「もちろんだよ、友達だって言ったじゃん」
新学期最初のガイダンスに出席すべく、獣医学部の学生たちが大講義室にわらわらと集まってくる。ガイダンスだけは、オンライン受講は不可だ。メグは斎木の友達グループに顔つなぎをしてもらって学友になり、連絡先も交換した。面倒見のよく気さくな斎木と最初に出会ったことに、メグは大いに感謝をした。
大講義室でのガイダンスが始まるなり、メグの隣に座っていた斎木はそそくさと寝る態勢に入り、大あくびをはじめた。メグはそれとは対照的に背筋を伸ばし、教授の話に熱心に耳を傾ける。授業や実習についていけるだろうか、1学年繰り下がっているとはいえ、無理なのでは……そう思うとメグは気が重くなる。
休憩時間、シラバスと照らし合わせて、メグは頭を抱えていた。単位の取得の方法がさっぱり分からない。今の自分に、あとどれだけの単位が必要なのかすらも。
「ごめん、みなみちゃん。シラバスの見方がわからないの、教えてもらえる?」
教授のガイダンスは聞いていたのだが、余りにも耳慣れない言葉ばかりで、頭に入ってこなかったのだ。
「ん? 何で? 1年のときと同じでしょ。てかオンライン上に単位取得アプリあるよ、どれが足りてないか確認してみなよ。ネットから入ってみて、1年のときみたいにやればいいんだよ」
「あのね……わからないの。私、記憶がなくなってて」
メグはここにきてすっかり白状するしかなかった。学生課に問い合わせれば良いのだが、その辺りの事情もすっかり忘れている。メグが小声でかいつまんで話すと、斎木は目をぱちくりとする。
「記憶? 病院行けば治るでしょ、いまどき。復元だって簡単なんだし」
「ううん……治らないほどひどいやつだったみたいなの」
「へーっ!? うそでしょ! 大事故かなんか? 聞いたことないよそんなの」
メグにだって何が起きたのかは分からない。事故に遭ったのかどうかすらも。伊藤も教えてはくれなかった。
「そうみたいなんだ」
メグはしょんぼりと肩を落とし、力なく頷いた。
「へー。何か、色々あったんだねぇ……皆には内緒にしとくね」
ショックを受けないように家族が知らせなかったのかな、と斎木は勘ぐった。でも、復学許可は出ている、その程度には回復しているのだろう。
「でもよかったね、今は調子よさそうじゃない! 生きててよかったねぇ……死んだら一巻の終わりだんね」
情にもろい斎木は、愛実に同情を寄せて涙ぐんでいるらしかった。
「そうだね。今、こうして生きていることに、感謝しているんだ」
「誰に?」
「……神様たち、かな」
ここまでこれたのは、神様たちのおかげだ。
そして赤い神様の世界の、みんなのおかげだ。メグは心からそう思う。
「神様ねぇ……いるのかもねぇ、もしかしたら。私、そういうのあまり信じてないんだけど。マナミにはいるのかも?」
メグは斎木に気付かれないよう、僅かに口を引き結んだ。
この世界にも、見えないだけで神様はいるんだよ、とメグは微笑む。
でも、斎木はそれを知らないのだ。
(まだだ……まだこの世界を経由して、私は地球に戻らないといけないんだ)
斎木みなみは、この世界で生まれ、伊藤に生かされ、幸福に人生を終え、彼女の夢を叶えて死んでゆくのだろう。この世界もまた、地球世界のコピーであるということを知らないまま。
生きているって、何なんだろうな。現実って、何なんだろうな。メグはふとそんなことを思った。
地球に戻って、何もかもが元通りになったとして。
果たしてその世界も”見えない神様”に管理されているんだろうか。世界は何重にも入れ子構造のようになっていて……そんな憶測も禁じえない。
夢から夢を渡り歩いているようで、足元が覚束なくなっているような気がした。
この夢のような世界を、最初に誰が考えたんだろう。とメグは思う。
生と死のは境にあって。どう見ても現実でしかないのに、現実ではない。
全ては、心の中の世界だ。
「何とかなるよ。一緒に卒業しよ! また、分からないことあったらいつでも教えてあげるよ。あ、でも条件があるよ」
斎木はそんなことを言って、片目をぱちんとつぶり、いたずらっぽい顔をしてみせる。
「馬術部に入ってくれるならね、まあ、入らなくてもいいけど?」
メグはくすりと微笑んだ。
「ありがとう、入るよ、みなみちゃん」
斎木はすかさず入部届を差し出してきた。ちゃっかりしている。
メグは、今度は迷わず受け取った。
***
日本アガルタ27管区、グランダ国。
総石造りで天井の高く広いホール空間、王城内大会議場。
27管区素民たちの代表を一堂に集め、第一回 国際議会が一週間にわたって開催されようとしていた。
第一回では、大まかな国際協力の枠組みを定めるという目的だ。
議場内には多くの素民の姿がある。公聴も許可されているからだ。定員があるため抽選に当たった「意識高い系」の素民や、見物目的の者たちがわらわらと押しかけてきていた。密室議会にしたくない、という主催者の意向だ。開会に先立ち、各国代表者が一言ずつ挨拶をし、議長を選出した。
議長は、国家間の利益相反なく公正中立であることを期し、赤い神の神殿で巫女をつとめる、ヒカリが選ばれた。
次に、国際会議の年2度の開催を決め、世界貿易調整会議、世界保健管理機構、世界工業開発機構、世界通貨調整機構などの下部組織が次々と立ち上がった。
これらの議決を行ったのち、各国が持ち寄った議案を議会に諮る。最初の議案は、各国で膨れ上がる人口問題についてだ。カラバシュ島の難民を受け入れてからというもの、各国に人があふれかえっている。食糧難などはまだ起こっていないが、治安は若干の悪化をみせている。治安強化のための対策が講じられ、防犯のための国際組織も発足した。
ちなみに、27管区の現在の国家勢力図は、モンジャ集落:1万人、ユーバリ特区:4万人、タコヤキ共和国:5万人、グランダ国:3万人、ネスト:2万人、カラバシュ:8万人である。富裕国とされるのは技術立国でもあるモンジャ、グランダ、ネストと続き、多くの人口を抱え経済状況の厳しい貧困国はユーバリ、カラバシュ、タコヤキである。特に、邪神によって蹂躙されていたタコヤキは全土が壊滅状態で、復興財源にも困窮していた。
ロイはメグの悲願であった、人種・身分を問わず無償で受けられる基礎・高等教育機関の創設を強く要求し、国際教育機関を創設した。しかしユーバリ、タコヤキ、カラバシュは区画解放後の復興に人材や資金を要し経済的な負担が大きいため、直接の国益にならないと難色を示し、資金拠出は努力目標とするという文言にとどめた。ロイはモンジャは小さいながら豊かな集落であることを鑑みて、モンジャの貧困国への国際援助負担額を多くし、その代わりに議会での発言権を強めるという手法をとった。同様にグランダもこれに倣い、多額の資金拠出を行った。あわせて、貧困国の失業者の出稼ぎや就業斡旋にも、国際的な枠組みの中で取り組んでゆく、という方針を決めた。
国家を超えた自由闊達な意見交換により、議場は盛り上がりを見せはじめていた。
ロイはそれに乗じて、さらに踏み込んだ提案を行う。
「技術開発分野では、5年以内にネスト水力発電所を稼動し、10年以内にこの大陸全土に電気を供給します。そのための計画は資料に記してありますように……」
発電所の建設計画の草案は、ロイがメグと共に練り上げたものだ。また、ネストの滝を利用するため、事前にネストのパウル王にも根回しをしておいた。発電システム、送電システムはまだメグと共に詰めてある。
「……また、高度な治療を行う医学者や薬学者、薬草栽培者、電気の安定供給とともに、高度な工業技術者の養成も急がれます」
次々と出されるロイの提案に、各国代表者たちは途中からついていけなかった。彼の発想はあまりにも急進的で、素民のさしあたりの生活を守るものではないように見えた。
「一言よいか」
グランダ国の代表から、手が上がった。ヒカリが振ると、キララだ。
「何をそんなに焦っているのだ? モンジャの長よ。技術開発は各国の復興が終わってからでもよかろう。あれもこれもと一度に手をだせば、大きな混乱が生じる。それに、ここにいる殆どの者は、貴殿の提案の半分も理解できてはおらん」
キララがずばりと、議員たちを代弁して意見を述べた。ロイがこの世界の発展を急がせるのには何か、長期的な戦略や思惑があってのことだろうか、と思わないでもなかったが……。ロイは包み隠さず、シンプルにこう述べた。
「平たく言うと、独立と自衛のためです。自分たちの身は、自分たちで守るためです」
「ばかばかしい」
カラバシュの代表の一人が、聞こえよがしの独り言を言った。国際会議など茶番だ、といわんばかりだ。それを、タコヤキの代表がたしなめる。
「ご存知のように、この大陸の人口は急増しました。赤い神様はこれまでのように一人一人に目をかけてくださることが難しくなります」
神様がたに頼りきりではいけない、だから人民は神様に依存しすぎず、独立しなければいけない、そのための自治であり、そのための工業開発なのだ、とロイは言う。
「モンジャ集落に、メグという女がいました。知っている者も多いでしょう。しかし、彼女はもう、今はいません」
「何だと……メグが……どこへ行った!?」
キララの表情が一変した。ヒカリも、パウルも唾をのんだ。モンジャ集落の中で、メグが失踪したというのは緘口令を敷いていたのだが、彼はついにそれを明かす羽目になった。
「行き先は知らないのか!」
「彼女は異世界から来て、異世界に戻りました。異世界は実在します」
「一体、何なんだ……」
パウルの顔がゆがむ。タコヤキの代表も、カラバシュの議員も、思考停止に陥っていた。
「彼女は去り際に、多くの異世界の技術を伝え残してくれました。これもそのひとつです」
ロイは、議場の隅に設置していた黒い箱を抱えて、議員たちに見せた。なにやら操作をすると、箱の中から音がもれ聞こえてくる。そこから流れてきたのは……国際議会の冒頭挨拶だ。くぐもった音声だが、各国代表の声であるとはっきり判別できる。
「おい、嘘だろ。何か聞こえてくるぞ」
「箱の中から声が!」
箱の中に、小さな人間が入っているわけでもあるまいし。と、彼らは訝る。その原理すら、彼らには想像もつかないだろう。今のロイは、全ての作動原理を説明することができるけれども……説明したところで、一体何人が理解できるだろうか。皆無だ。
キララが驚きのあまり、椅子からずり落ちそうになっていた。
「蓄音機とでも名づけましょうか。この会議の模様を、録音していたものです」
一瞬、水をうったように静まり返る議場内。次に、どんな神通力を使ったのかと、騒然となる。ロイは神通力を使えるということは、素民の間ではよく知られている。しかし、彼はそうではないと、嘆かわしそうに言った。
「俺たちはこれまで、世界の全ては、この大地と海の上に存在するものだと思っていました」
ロイはパチンと、蓄音機の音を止める。
「でも、もし。万が一に」
しん、とした議場内に、ロイの声だけが静かに響き渡る。
「俺たちの文明とは比較にならないほど技術の進んだ異世界文明の軋轢にさらされることになった場合――俺たちは彼らから一体どうみなされ、どう扱われるのでしょうか」
彼は蓄音機を持ち運び、テーブルの上にそっと置く。
「メグは、俺たちとこの世界を守ろうとしてくれていました。それがゆえに、俺たちの肩を持ってくれたがゆえに異世界に呼び戻されてしまったのかもしれません。そしてメグの旅立ちは、赤い神様にも止めらないことでした」
赤い神を超える権限を振るうものが、異世界には存在する。
その構造を知った素民たちは、衝撃を隠せなかった。何故なら、この世界の創造神をもねじ伏せる存在がいるとは、予想だにしなかったものだから……。赤い神がこの世界を守れないかもしれない、そう、予期するには十分だったから――。
「俺たちは赤い神様と共にこの世界で生きてゆく。赤い神様を信じ、彼に寄り添って生きてゆく。それでも、彼の力が及ばなかったときのために」
ロイはこう締めくくった。
「せめて異世界人と対等に話ができるだけの、それだけの準備は整えておきませんか」
深い悲しみと、喪失と、焦燥を押し殺した声で、彼は呼びかけた。
議場の雰囲気は一変する。
初の27管区素民主導の国際会議は、思いもよらない方向に舵を切ることになる。
動揺の広がる彼ら素民たちを、天井の梁の上から見おろすものがいた。
(ふむ……これは怪しからぬ兆候だな)
姿を消し気配を潜めてエトワールは、梁の上で足をぶらぶらさせながら腕組みをし、渋い顔をする。
(困ったものだ。素民たちの啓蒙にはよいのかもしれんが、患者にとってはな……27管区の治験成績は今後、悪化の一途をたどるかもしれん)
素民たち自身が神の支配を是とせず、自らの足で立ち上がろうとしている。
構築11年目の27管区に現れた、急速な進歩の兆し。そのスピードは、ありとあらゆるアガルタのシミュレーションや未来予測を凌駕するものだった。
(ナズが30管区に出るまで、この管区は良好な状態でもちこたえられるだろうか? また、赤井君と素民の関係はどうなるか……)
懸念を残し、エトワールはふわりと梁から飛び降りてドアをすり抜けその場を立ち去ったが、会議に夢中になっている素民たちの中に、エトワールの存在に気づくものはなかった。
しかしロイだけが、エトワールの立ち去った方向に、厳しい視線を向けていた。




