【第五十話】堕ちた風
「まさか……ッ!」
「その、まさかだ」
その声がすると同時。悠牙は背後から槍の様な七本の銀の尾に貫かれた。その六本は彼の体を貫いており、一本は後頭部へと刺さりそのまま額へ貫通している。七本が引き抜かれると、彼は崩れる様に膝をついた。だが目は堂林に向けられている。
「分身に……刀を、持たせる、なんてね……」
「頭、ぶち抜かれ……ても、くたばらねぇ、かァ……五穀噛、並の生命、力とは……このこと、だなァ」
悠牙は何か言い返そうとしたが、咳き込んで血を吐き出しただけだった。そして彼は額から流れる血を拭うとゆっくり立ち上がったのだ。彼は堂林に向き合う。その細い目には死の色が見えない。
それにはさすがの堂林も驚きを表情に浮かべたがすぐに尾を伸ばし、分身に持たせていた自らの刀を尾で巻き付ける様にして拾い、手に取った。彼の左腕は二の腕の先が無く、血が滴り落ちてしまっている。そして切り飛ばされた左腕は青白くなり転がっていた。
悠牙は細い目を見開いて、口元を吊り上げる。
「五穀噛ねぇ……言って、くれる、じゃない」
その言葉と同時。力なく垂れていた彼の金の尾が細くなり鋭利に尖ったのだ。
「僕だけ、穴だらけなんて……不公平、だよね?」
そして尾の先は真っ直ぐに堂林に向けられる。次の瞬間。
目にも止まらぬ速さで。金の尾が彼に襲いかかったのだ。
彼は片手に持った刀を用いて躱すが。みるみる傷が増えていく。
それでも上体を左右に逸らし畳み掛ける様な攻撃を避けていく。
だが片腕で、しかも右足を負傷した状態では避けきることなど不可能だった。
「ッ……ぅ"……!」
「これで、お相子……だね」
八本の金の尾が堂林を貫いたのだ。血が金の尾を伝い地面に斑点を描く。彼の口からはごぼりと血が溢れ止まる気配はない。悠牙はそんな彼の姿に満足気に笑う。そして尾を引き抜いた。
崩れそうになる体を堂林は刀を地面に突き刺し、それに体重をかけるようにして堪える。その目には諦めの色も死の色もなかった。顔は苦しそうに歪んではいるが、口が裂けているおかげで笑っているように見える。
悠牙の顔が驚いたように目をすっと見開く。彼も笑ってはいるが息が切れ、その笑には疲労が垣間見えていた。
「一ついい? 君、なんで……あの、出来損ない、の僕の弟に……こだわるの?」
「……雪なんぞのため、じゃねぇ……。てめぇが、気に入らねぇ……それだけだァ……」
「僕何も、してないのに……。僕は、可愛い弟、の血を……飲み干したい、だけ……なのに……。君、性格、悪い……ね」
「知って、らァ……んな、こと」
「まあ、いいや。君は……地獄で、指咥えて見てて、よ……! 俺が九尾、になるのを、ね……!」
「九尾に、なるのは、この俺……だ……!」
二人は同時に地を蹴った。二つの影は交差し別れる。月夜に血飛沫が高く上がったのだった。
「宗志! 宗志!」
時は少しばかり遡る。白臣は本堂の分厚い鉄の扉をずっと叩き続け、宗志の名を呼び続けていた。虚しく彼女の声が本堂の暗闇の中で響く。分厚い鉄の扉のせいで外の様子が全く分からない。外で何が起こっているのか、宗志が無事であるのか、全く分からなかった。
彼女の隣で雪は泣きぐずっている。悠牙に血を吸われ最初はぐったりとしていた雪だったが、今は回復している様だった。手足にある釘を打たれた時の傷も、少しづつではあるが治り始めている。
「はきゅ……! どうばやち、様……だいじょうぶ、かな……? どうばやち、様に、会いたいよぉ……」
「……大丈夫だよ、あの男なら」
「てんぐのそうちは……だいじょうぶ、なの……」
「……大丈夫、でいて欲しい」
祈る様な声音で白臣はそう言った。扉に耳を当ててみても、外の様子が把握出来そうにない。泣きじゃくっている雪の頭を彼女が撫でた時。
鉄の扉が動いたのだ。
「宗志……? ……!」
扉が人ひとり分ほど開いた。そこに立っていたのは悠牙の分身であったのだ。雪へと手を伸ばす分身の腕を白臣は咄嗟に払うと、雪を抱えて分身と距離を取った。分身はじりじりと近づいてくる。彼女もじりじりとさがって行く。
その時、白臣は目を見開いた。その分身の後ろの光景を彼女の翡翠色の目は捉えたのである。
そこには本堂の扉の前で倒れている宗志の姿があったのだ。
「宗志……!」
白臣の呼びかけにも宗志はぴくりとも動かない。分身は相変わらずにんまりとした笑を浮かべたまま彼女に近づいてくる。彼女もさがっていたが、その足が止まってしまう。
壁にぶつかってしまったのだ。彼女と分身の距離は縮まっていく。彼女は雪を自分の背中に隠すようにすると、刀を抜いた。分身は一定の距離を取り足を止める。静かな睨み合う。
次の瞬間。分身が飛びかかってきたのだ。その速さは弓矢の様である。
かろうじて白臣は刀の動きを牽制するが。
不意に膝蹴りを腹に撃ち込まれる。彼女の体は容易く傾いてしまう。
その隙を容赦のない分身の回し蹴りが入る。彼女の体は横に飛ばされ転がってしまう。刀は手から抜けてしまう。
「やだぁ……来ないでぇっ……! やだぁ!」
怯える雪に分身はゆっくりと近づいていく。
白臣は刀ももたずその分身に体当たりをした。不意打ちをくらった分身は少しばかりさがる。彼女は雪を抱き抱える様にして背を向けた。ちらりと彼女が後ろを向くと刀を振り上げる分身の姿。彼女が固く目を瞑ったその時だった。
分身の首が転がったかと思うと紫色の炎となって消えてしまったのだ。その後ろにいたのは……。
「宗志!」
白臣の名を呼ばれ宗志は安心させるかの様に微かに口元を上げて見せた。だが彼は立つのがやっとの状況であり、今にも崩れてしまいそうなのを刀を杖にするようにし、なんとか堪えている。その刹那。
「……ッ……!」
「宗志……!」
突如、宗志の背中に巨大な手裏剣が突き刺さったのだ。
その衝撃で彼は膝をついてしまう。白臣が本堂の外に視線をやると、まだ二体の分身がいたのだ。それらはもう本堂の入口付近まで来ている。
宗志は血まみれの体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。今にもその体は崩れてしまいそうである。それでもちらりと白臣に視線をやり、口元を微かに上げた。
「さが、ってろ……」
「無理だよ……!」
「無理でも、殺る……しかねぇ、だろうが……」
刀を握るのもやっとの状態で宗志はそう言って見せた。
そして二体の分身が本堂の中に足を踏み入れた瞬間。
巨大な手裏剣やクナイが襲いかかったのだ。それを回避し白臣に叫んだ。
「餓鬼抱えて、伏せて、ろ……!」
宗志は彼女達の前に立つ。そして風を切り裂く刃を避ける。
分身が突っ込んで来た勢いを利用して突き刺す。しかし致命傷ではない。
その時。横から分身が彼の間合いに入り込む。そして刀が振り下ろされる。
それを刀で萎そうとする、が。宗志の刀が逆に弾かれてしまう。
その拍子に刀が手から抜け弧を描く様にして転がってしまった。
刀は今まさに振り下ろされようとしている。脇差しを抜く間もない、そんな時だ。
咄嗟に白臣が動いた。彼女は宗志を突き飛ばしたのだ。
「ハク――ッ!」
宗志の声が本堂に響く。刀は彼女の目前まで迫っている。もうダメだ、と彼女は固く目を瞑った。
しかし、いつまで経っても痛みが襲ってこない。恐る恐る白臣が目を開けると、目前まで迫っていた刀が紫色の炎へと変わっていたのだ。それは刀だけではない。分身自体も紫色の炎へと変わってしまっている。
そしてそれらは人形ですら無くなってしまい、そのまま消えてしまったのだった。二体の分身が消えてしまい本堂は静まり返っている。白臣はやっとことを理解し、へなへなと座りこんだ。
いつから降っていたのだろう。外はいつの間にか激しい雨が振り、地面を、木々を、そして本堂の屋根を打ち叩いていた。雨音が本堂の中に大きく響いている。今まで気づかなかったのが不思議に思えてしまう程の大きな音だ。
それほどまでに殺気で張り詰めていたのである。気だるそうに宗志は首を回し、血を吐き出してから白臣へと視線を向けた。
「お前は……! 何で……んな無茶、ばっか……すんだ……よ……! 死にてぇ、のか!」
「無茶は君の方だろ! そんなに僕が信用ならないのか!」
「あの、なあ……! お前は、ただの……人間、だろうが……!」
「……分かってるよ。僕がその場にいたら無事じゃ済まなかったことくらい。分かってるよ……。君が僕の為を思ってしてくれたことぐらい。分かってる。……ごめん。それと、ありがとう」
白臣は小さくなってしまってそう言った。彼女は理解していた。宗志が自分のことを思ってしてくれたことも、宗志が自らの傷など全く厭わないのに、自分の過擦り傷を大袈裟と言っても過言じゃないくらい気にしてしまうところも。
それでも彼女は傷だらけになる宗志を見るのが辛かった。いや、辛いという言葉より、痛いという言葉の方が相応しいと、そんなことを彼女は思う。
宗志の傷や痛みを分けて欲しいと彼女は切に思っていたのだ。そして自分の無力さに胸を裂かれるほど痛んでいたのだった。そんな思いを押しやって、彼女は泣きじゃくっている雪をなだめながら彼に寄って行く。
「酷い怪我……早く手当しなくちゃ」
「ん」
まず白臣は宗志の背中に突き刺さっている巨大な手裏剣をゆっくり引き抜いた。痛むのか、宗志は小さく顔を顰める。
そして彼女は転がってしまっている自らの刀を鞘に納めてから、落ちている宗志の刀を拾うと彼に手渡した。それを彼は礼を言って受け取る。
その時だ。本堂の入口の方で喉の奥を鳴らす様な笑い声が響いたのである。
「ぼろ雑巾みてぇな様だなァ、宗志」
「……てめぇこそ、笑いすぎて口裂けちまったのか」
刺々しい視線で宗志はそう吐き捨てた。そこに立っていたのは堂林である。雨に濡れたのだろう、彼はずぶ濡れになっており黒紫色の髪から雫が滴り落ちていた。足を引きずる様にして本堂の中に入ってくる。
そんな彼に雪は泣きじゃくりながら飛びついた。
「どうばやち様ぁああ――っ! うで、うでがぁあ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「勘違いすんじゃねぇよ。腕が一本ねぇぐれぇじゃねぇと、あの化け狐と殺り合うには物足りねぇからよォ。捨ててやったまでのことだ」
舌打ちをして堂林は濡れた髪をかき上げた。雪は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら堂林の足に抱きついている。
「てめぇ、汚れんだろうが。離れろ」
「どうばやち様っ、オレのために……! オレのために! ありがとうございますぅっ!」
「離れろって言ってんのが聞こえねぇのか」
「どうばやち様っ! 良かった、良かったよぉお!」
「てめぇ! 俺の着物で鼻かむたァ、殺されてぇのか? あ"ぁ"?」
堂林の拳骨が頭に落とされても、雪はしがみついて離れなかった。それを白臣が微笑ましそうに眺め、ほっと胸を撫で下ろしたその時だ。
突如笑い声が聞こえたのである。それは本堂の中にいた四人の誰のものでもない。その笑い声は雨の音にかき消されることがなく、やけにはっきりと聞こえた。
いや、聞こえたと言うよりは脳に直接届いているような。そんな笑い声だった。そして、それは四人全員が聞き覚えのあるものだったのである。
その笑い声に雪は酷く怯えた様に顔を歪め、他の三人は険しい顔をして神経を尖らせた。宗志は堂林に視線を向ける。
「てめぇ、化け狐殺し損ねたのか」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、てめぇみてぇなヘマをこの俺がするわけあるめぇ。俺ァ、確実に首を落としてやった」
だが笑い声は一向に途切れることは無い。堂林は刀に手をかけて怒鳴った。
「化け狐! どんな仕掛けか知らねぇが、殺られてぇなら出てきやがれ!」
堂林の声が本堂に響いたその時。笑い声が止まったのだ。そして、声が鼓膜を揺らす前に脳に直接届いたのである。
――いやだなあ。殺られるもなにも、僕はもう死んでるよ。堂林くんのせいでね。
けらけらとした笑い声が四人の脳内に響いた。相変わらず雨は激しく降っているのにも関わらず、その声は鮮明に届いている。それは奇妙な感覚であった。
――卑しい人間もどきに殺られるなんて狐羅尼神様に合わせる顔がないよ。僕こそが九尾になるに相応しい妖狐だったのに……!
激しい怒りが込められた声。それを声と表現して良いのかは四人のうち誰にも分からなかった。雪は完全に怯えきってしまい、堂林の足に更に強くしがみつく。
堂林は虚空を射殺す様な視線を飛ばす。まるでそこに悠牙がいるかのように。
――だけど、僕が伝説となるのはこれからだよ。純血の妖狐の力に、君達はそしてこの世界は、ひれ伏すしかないのだから……!
狂ったような笑い声がそれぞれの頭の中で直接響く。雪は今にも泣きだしそうな顔で耳を両手で塞いだ。が、とうとう泣き出してしまった。
「ゆうが兄さまの声がするよぉ……! 耳塞いでるのにぃ……!」
「……念、ってやつかァ。おっちんでも眠ることもできないなんざ憐れな野郎だ。……んなことより、てめぇ。いつまでひっついてやがる」
「どうばやち様ぁ……ゆうが兄さまは、本当にこわい人なんですぅ……! 死んじゃうよぉ……たくさんの人が……死んじゃうよぉ……」
「てめぇ、何を訳分からねぇことを――」
――雪の言う通りさ。
その様な言葉が四人の脳に流れ込む。そしてあの狂った笑い声はぴたりと止まり聞こえなくなってしまったのだ。激しい雨音だけが本堂に響いている。その時だ。
激しい爆音が四人を襲ったのである。雷が耳元で落ちたような、耳をつんざく様な音だ。世界が壊れる音、常世と現世の条理が砕かれる音だった。
そしてその音が止んだ時、再び狂ったような笑い声がしたのだ。
――終わりだよぉおお! もうおしまいだよぉぉおおおお!
止まることのない笑い声。堂林は忌々しそうに舌打ちをした。
「何訳の分からねぇことを、ぬかしてやがる」
「……ゆうが兄さまは怒ってる……わらってるけど……怒ってるんです……!」
「あァ? 笑ってようが怒ってようが、死人に何が出来るってんだァ?」
「妖狐ぞくにはでんせつがありますっ。狐羅尼神様にえらばれた者が九尾になることができると。そしてでんせつには続きがあるんですっ」
「続きィ?」
はい、と頷くと雪は酷く怯えきった顔でゆっくりと言葉を続ける。
「ゆうが兄さまは九尾おちしたんですっ」
「九尾堕ちだァ?」
「はい……っ。九尾になるちからはあったのに、狐羅尼神様にえらばれなかった妖狐はしんでから、九尾となった妖狐がつかえる術をつかううことができるんですっ」
「九尾が使える術ったァ……死者の蘇生か」
「はいっ。だけど……」
雪は体を震わせて堂林に更に強くしがみついた。そして弱々しい声音で続ける。
「九尾おちした妖狐はしんだ人やようかいを生きかえらせることができるんですけど……それはただ、めいれいの通りにうごく、あやつり人形です」
――その通り。説明ご苦労さま。……僕が蘇生させるのはね、……この島にいる全ての妖狐さ!
狂った笑い声が四人の脳を揺らした。恍惚とした表情をした悠牙の姿が自然と頭に浮かんでしまう。
――眠る者達よ! 我は求める。漆黒となりし現世に安楽を! 汝らの眼に映る穢れた血を、愚かな長の血族を天に捧げよ!
叫び狂った声。それと共に地響きが鳴り、ぐらりと地面が大きく揺れた。
――光栄に思ってよね。君たちには妖狐族の手によって眠りにつくことができるんだから。……永遠のね。さあ、今度こそお別れだよ。上で君たちの死に顔を拝ませてもらうとするよぉおおお……!
そしてその狂った声は聞こえなくなった。その時だ。雪が本堂の外を指さした。
「見て! あそこに……!」
「あれは……!」
流石に宗志も堂林も驚きを隠せないようだった。広場の入口である門の付近に大量の妖狐達がいたのである。土砂降りの中、彼らは真っ直ぐにこちらに向かっている。
遠目ではあるが、その妖狐達は手がない者や、腹に巨大な穴が空いてしまっている者、更には首がない者さえいた。恐らく島にある妖狐の死体に魂が再び戻ったということなのだろうと白臣は考える。
首がある者はみな白目を剥いてしまっており、正気ではないのは明らかだった。
宗志は苛立たしげに舌打ちをする。
「次から次へと。今日はとんだ厄日だ」
四人は意識を張り詰めたまま本堂の外に出た。妖狐達はもう広場の中に入ってきている。宗志と堂林はそれぞれ白臣と雪の前に立ち、前方を見据えた。
異様な夜だった。雨は容赦なく降り注ぐ。だが雨雲は月を避けるようにして流れていく。月明かりが妖しく水溜りに映る。雨はその水溜りの月を砕く様に激しく降っていた。水溜りに映る月が歪んでしまっているように見える。
宗志も堂林も今にも倒れてしまっても不自然でないほど、傷だらけであった。少しつつけば体勢を崩してしまいそうなほど足はぐらついてしまっていたのである。
それでも彼らは刀に手をかけていた。そして宗志が歯を食いしばり抜刀しようとした時だ。それを堂林が抑えて制止したのである。訳が分からないと言うように宗志は刺々しい顔つきをした。
「てめぇ、どういうつもりだ」
「ぼろ雑巾みてぇなてめぇがいちゃ足で纏いだ。さっさと汝を飲みやがれ。そして雪と女でも担いで、ここからずらかるんだなァ」
「……てめぇはどうすんだよ」
「俺ァ、暇つぶしがてらここの化け狐どもと遊んでやらァ。半日もすりゃあ、あの化け狐にもってかれた尾も再生するだろうよ」
「……てめぇ、死ぬ気か」
ちらりと宗志は隣にいる堂林に目をやる。もう妖狐達は四人の間合いにおり、いつ飛びかかってきてもおかしくない状況だった。異様な殺気が充満し妖狐達も彼らの様子を窺っている。一触即発の空気の中で堂林は喉の奥を鳴らす様な笑い声を上げた。
「俺は死なねぇよ。それに八尾は水面を歩いて渡る事ができる。そいつらがこの島を出りゃ、それこそ地獄だぜ。……ま、それはそれで面白れぇけどな」
「……お前……片腕で何が出来るってんだよ」
「てめぇと俺じゃあ出来が違げぇもんでなァ。八尾を皆殺ししてから俺ァずらかるとするぜ。この世界を統べるのは、地獄にしていいのは、人間でも死に損ないの化け狐でもねぇ。……この俺だ」
「じゃあ、オレも……! オレもどうばやち様と……! いっしょにいるっ……!」
その時だ。二人の妖狐が襲いかかった。堂林は刀を抜くと同時に一体の腕を切り落とす。
そして間髪を入れず。銀の尾で二人まとめて薙ぎ払った。
「何ちんたらしてやがる! 早くうせろ!」
次々と飛びかかる妖狐を斬り倒しながら堂林はそう怒鳴った。宗志は静かに頷くと、懐から巾着袋を取り出し中にある薄橙色の丸薬である汝を口の中に放る。
白臣は返り血と自らの血で赤く染りながらも、妖狐達と刀を交えている堂林の背中を見てから、心配そうな顔して宗志を見た。彼女の顔は不安げな色で染まっている。宗志の背中にはもう黒ぐろとした翼が生えていた。
「宗志、いいの……?」
「……ああ」
「やっぱり――」
「いいんだ」
はっきりと宗志はそう言うと、迷いが残る白臣の体を脇に抱え、泣きじゃくっている雪の袴の腰板を無理矢理掴むと持ち上げた。
「いやだ! いやだぁぁあああ――! はなせ! はなしてよぉおおおお! どうばやち様と! どうばやち様といっしょにいるぅぅううう!」
雪は宗志の手からのがれようと、手足を滅茶苦茶に動かして暴れている。それを構うことなく彼は黒い翼を羽ばたかせた。風を巻き起こし、二人を抱えた彼の足は地面から離れたかと思うと、そのまま空を登っていく。
雨が押し戻そうとするかの様に宗志を打ち叩く。それでも彼は空高く翔けていった。
「どうばやち様ぁぁあああああ――!」
その雪の涙の叫び声が響いた。雪の瞳から零れる雫は雨に混じり島に落ちていく。
遠くなっていく宗志達を見届けて、堂林は小さくほんの小さく笑ったのだった。
宗志達が島を出てからどれくらいの時間、飛んでいたのだろう。雨に打たれながらも宗志は翼を力強く羽ばたかせ続けていた。白臣が後ろを振り返ると狐茅渟島がどんどん小さくなっていき、もうほとんど見えなくなってしまっている。そして、それと同時に陸地へと近づいていく。
雪はというと衝撃のあまりに気を失ってしまったようで、今は固く瞼を閉じてしまっている。
宗志は速度を落とさず空を翔ける。そして一刻ほど飛び続けていると、徐々ではあるが雨の勢いはやわらぎ、やがて止んでしまった。いつの間にか朝日が夜の闇を消し去ろうとし始めている。
そして陸地までにあと少しという時だ。宗志に異変が起こったのである。
「……ッ……ぁ"……!」
「宗志!」
突然、宗志の羽から羽根が一つ抜けたかと思うとバラバラとものすごい勢いで抜け始めたのである。黒い羽根は抜けると同時に赤黒い煙となり、そして消えてしまう。それと同時に彼の体は体勢を崩し、そのまま海に落ちてしまったのだ。
「……ッ……ぷはっ……! 宗志! 雪ちゃん!」
水面から顔を出した白臣は辺りを見回した。幸い海は彼女の足が届くほどの深さで、水かさも彼女の肩が浸かるかつからないか程度でしかない。彼女はぐったりとしてしまっている宗志に肩を貸し、雪の顔が水に浸かってしまわない様に抱き抱えた。
「宗志、大丈夫……?」
「なん、とか……」
ほとんど声になっていない苦しそうな宗志の声。汝を飲めば、呪いによって失ってしまった力を一時的に取り戻すのと引き換えに、呪いの進度を速めてしまうという堂林の言葉を白臣は思い出していた。
そんな薬を二つを飲んでしまった宗志の体のことを思うと、白臣は不安で堪らなかった。そして、堂林のことも気がかりだった。いくらあの堂林とはいえ、あの島で半日も生存するのは難しいように思えたのである。八尾の妖狐の首を全員取るなんてもってのほかのように感じられたのだ。
そんな不安に飲み込まれている場合じゃない、と白臣はそんな思いを頭から追い払う。そして陸地を目指し、彼女は宗志と雪を気にかけながら、波に押されたり押し戻されたりを繰り返して、ゆっくりと進んでいったのだった。




