魔法少女は推理なんてしない
弱り目に祟り目とはよく言ったのものだ。だがいまは目をどこにやるべきか、ということを考えなくてはいけない。それは僕――松戸孝介の目の前にいる彼女のせいである。
彼女は何層ものふわふわした短いミニスカートに胸元が大きく開いたレオタードのような服を身に付けていた。手には宝石なのかガラスなのかわからないモノをあしらった装飾過多のステッキを握っている。彼女は魔法少女と呼ぶのがピッタリであったが、胸のふくらみだけがあまりに立派で少女と呼ぶのが相応しいか僕には分からなかった。
「あなたのお困りを解決! 恋と熱情の戦士マジカル✩アリア登場なのデス」
彼女はそう名乗ると僕に微笑んだ。僕は彼女の顔を見るべきか。胸を見るべきか。それとも脚を見るべきなのか困った。僕が視線を泳がせているのに気づいたのかアリアは胸元を両手で押さえると「エッチなのデス」とじっとこちらに軽蔑の眼差しを向けた。
「いや、そんなことはない。っていうか君は何者なんだ?」
「マジカル✩アリアなのデス」
アリアは目元でピースを作るとポーズをとってもう一度名乗った。だけど、僕は彼女を知らないし、それどころではないのだ。僕と彼女の間には男性が横たわっている。彼の顔は青白く変色し生気はない。はっきり言えば死んでいるのだ。
「ごめん。それはそうなんだろうけど……。それよりもこの死体だよ」
その死体は僕が講師を務める四之山大学の研究棟と講義棟の間にある小さな中庭に寝そべっている。おりからの雪で死体は半ば埋もれている。わずかに見える顔と服装からそれは僕の上司である近藤教授だと分かる。頭まわりの雪だけがピンク色に見えるのは、彼の頭から吹き出した血のせいだ。教授の頭は不自然に凹んでいる。おそらく撲殺だろう。
「ヤッちゃいましたね。孝介センセーも教授のパワハラに耐えられなくなったクチなのデスか?」
「やってない。僕は教授を殺してない!」
「えー、絶対ヤってる感じデス」
彼女はそう言ってステッキで足元を指す。ゴテゴテといろいろな飾りのついた棒の先には二つの足跡が研究棟から続いている。一つは教授の足元へ、もう一つは僕の足元まで続いている。他に足あとはない。つまり、この中庭を歩いたのは僕と教授しかいないのだ。
「それでも僕はやってない!」
「孝介センセー、魔法少女の私がやってきたからには安心してほしいのデス。魔法の力でお困りを解決するデスよ」
彼女はそう言って微笑んだが僕はとても安心できなかった。なぜかといえば、この寒空のしたでいきなり現れた魔法少女を名乗る人間を信じられるほど僕は人間ができていない。仮に彼女が本物の魔法少女だとして魔法で解決とはどういう方法なのか分からない。
「君が近藤教授を生き返らせてくれるというの?」
僕が訊ねると彼女は頭を左右にふった。
「そんなの出来るわけないじゃないデスか。私は魔法少女デスよ。出来ることといえばこれデス」
彼女は手にしていたステッキをブンブンと振り回す。それはバトントワリングのように優雅に回転させたり、宙に飛ばしてキャッチするようなものではなく鈍器を振り回すような豪快な動きだった。風切り音が耳に響く。
「これって?」
「魔法少女といえば? 謎の光線攻撃デスよ」
彼女は小首をかしげ、ステッキを空に向けた。雪がちらつく空にネオンサインのように明るいピンクの光が奔る。目が眩むほどの閃光と熱量が玩具のようなステッキから吹き出していた。
「嘘だろ?」
「これが魔法の力デス! さっこれで死体を塵芥にまで分解して完全犯罪するのデス」
可愛らしく微笑む彼女の口から出る言葉は、あきらかに違法性を含んでいた。僕は落ち着きを取り戻そうと深く息を吸った。心拍数は急上昇中だ。とても落ち着けやしない。それでも考えなければならない。
「魔法少女ってこんなものだっけ?」
「あれれ? 孝介センセーはご存知ないデスか? 魔法少女と言えば古今東西不思議なステッキを握り締め、敵対する勢力を怪光線で薙ぎ払うものデス」
頭を抱えながら僕は深い溜息を吐いた。
どうしてこんなことになったのか?
今日は朝からついてなかった。
大学行きのバスが雪のせいで遅れたおかげで近藤教授から「弛んでいる。雪が降っているのだからバスが遅れることくらい容易に思いつくだろう」とクドクドと小言をもらい。二限講義の前に『根暗ちゃん』とあだ名をつけている女生徒からしつこいくらいの質問攻めにあった。彼女が真面目な生徒であることを認めるのだが、長い髪が顔の大半を隠しているのとぼそぼそと喋る姿がどうにも気味が悪い。もう少し愛想よくできないか、と言いたいのだがセクハラと訴えられたらせっかくの講師の仕事をクビになりそうで言えやしない。
二限と三限の講義を無事に乗り切り、学食で遅めの昼食を食べていると、四回生の生徒がひどく卑屈な顔でやってきた。緑色の髪を染めた彼は確か軽音楽部に所属していた記憶がある。僕の講義は去年も受けていたが出席日数が足りなくて不可となっている。何事かと聞くとインフルエンザで前回と前々回の授業を休んだ、という。
僕の講義は出席点が八割、期末レポートの二割で評価をする。つまり授業をすべて出ていれば、それだけで単位が取れることになっている。だが、大学生というのはちょくちょく講義を自主休講するものだ。僕もそうだった。
だから休んだ分はレポートで取返して欲しいのだが、サボりが多くなるとそれさえも難しい。
「病欠なら、診断書を出してくれればいい」
そう言うと彼は愛想笑いを浮かべて「ないんです。でもマジでインフルでした」と僕に顔を近づけた。こういう場合、多くの場合は嘘である。僕は手にしていたスプーンを置くと彼に診断書がないと無理だと伝えた。
「え、でもインフルだったんです! 先生の授業は必修で落とすと留年なんです。だからお願いします」
なにをお願いするというのか。
僕は彼が納得するまで病欠について説明するはめになった。彼は最後にありったけの恨み言をぶちまけて去っていったが、僕も熱々だったカレーは冷えてしまったことについて文句を言いたかった。冷めきったカレーを無理やり胃袋に押し込み、食堂を出て研究棟へ向かう。途中、用務員のおじさんが凍結防止の凍結防止剤を運んでいるのを見た。この寒いなかご苦労なことだ。
研究棟に入ると近藤教授にあった。「これから昼食ですか?」と尋ねると教授は不機嫌そうな様子で「学部の月次会だ。十七時には終わるだろうがゼミ生の指導は君の方でやっておいてくれ」と命令を発した。僕は自分の研究に割ける時間が目減りしたことに心の中で落胆した。
教授はノートパソコンを小脇に抱えて足早に総務部や会議室がある本館へ消えていった。
一月は大学において一番忙しい時期だ。
一つに入試がある。入試前になると講師の多くは試験官や周辺の誘導に駆り出される。さらに事前説明会や打ち合わせの会議がぽこぽこと入るのだ。
二つ目には卒論だ。これは学部によって卒業制作であったり卒業論文であったりするが僕の所属する心理学部ではもっぱらが論文である。この論文というのが厄介なものでレポートと論文の違いが分からない学生が少なからずいる。
レポートは指導されたことに関する感想や今後の展望を自由に書けばいい。だが、論文はまず仮説を立ててそれを証明するための実験や調査を実施。得られた結果の考察を行わなければならない。驚かされることに希に実験も調査もせず感想文を提出しに来る生徒がいるのだ。そういう生徒の指導となるとマンツーマンになりひどく労力を要する。
おかげでこの時期は自分の研究よりも外のことに時間を割かれることになる。
とはいえ、近藤教授の傘下にある講師としては彼の命令は絶対だ。拒否権はない。研究棟の階段を重い足取りでのぼる。三階に上がってすぐの研究室の扉を開けると修士課程の生徒が二人パソコンに向かっている。
「お疲れさま、修士もそろそろ発表会だろ?」
ふたりの生徒のうちボサボサの髪をした男子生徒が答える。名前を確か菊池と言っただろうか。見た目に反して几帳面な性格な彼はデータ解析に強い。いい研究者になるかもしれない。
「僕らはまだM1(修士課程一年)ですから会場設営だけです。それよりも五月の学会発表ですよ」
「ああ、関西学会。あれは身内の懇親会みたいなもんだ。どーんと恥をかくといい」
「松戸先生、それはひどいですよ。どうせなら新人賞取ってこいくらいは言ってください」
男子生徒が明るい声を出しているが、隣にいる女性はひどく疲れた様子で指だけを動かしていた。僕は手の動きだけで男子生徒を呼び寄せると耳元で「彼女どうしたの?」と訊ねた。彼は卓上からペンとメモ用紙を取り上げると、読みにくい癖字で『近藤教授から追加実験をしろって怒られた』と書いた。
五月まではあと四ヶ月あるとは言え、大学はこれから試験期間に入り長い春休みに入る。追加実験に必要になる実験参加者を集めるのは容易ではない。
それに彼女の研究は色彩の閾値に関するものだったはずだ。人間の目は同じ赤でも明暗や濃薄を区別することができる。ゆえに同じ赤でも、深紅や銀朱、茜など様々な呼び名を作ることになったのだ。彼女の研究はその差を計測するものだ。そのため刺激を提示する際の照明の光量にまで気を払わなければならない。彼女に同情したが講師という最下級の地位にある僕には出来ることは少なかった。
「そうだ。これで何か飲み物でも買ってくるといい。脳には栄養が必要だ」
そう言ってポケットから学食のつり銭を男子生徒に押し付けた。三百八十円のカレーライスのお釣りだから六百二十円はあるだろう。多少高いエナジードリンクでも買うといい。
「先生太っ腹。おい、鹿金。購買行こうぜ」
男子生徒は女生徒の肩を叩くと強引に外へ連れ出した。彼女はパソコンに未練がありそうだったが、軍資金を見て「コーヒーゼリー買いたい」と言って彼についていった。僕はその様子を微笑ましく眺めると研究室の奥になる自分のデスクに座った。
パソコンを起動させてメールを確認する。学会関連の連絡が三件。学内の業務連絡が二件。別の大学で講師になった同期からの近況報告が一件。最後に近藤教授からのメールがあった。中身は簡潔で、英語論文の翻訳を急がせるものと十五時に学部生が卒論を持ってくるから教授がもどるまでにある程度の形に整えるように、というものだった。
時計を見上げるといまの時刻は十四時五十分だった。
さすがにわずかな時間で翻訳を進める気にもなれず。僕は研究室に備え付けられている古いコーヒーメーカーにフィルターとコーヒー豆、水をセットしてスイッチを入れた。十五時までにはカフェインの入った泥水くらいは作れるだろう。
それから十五分くらいして修士課程の二人が戻ってきた。二人は口々に寒い寒いと繰り返した。見れば彼らの肩にはうっすらと雪が積もっている。窓の外を見れば白いものがかなりの勢いで降っていた。
「雪ひどいの?」
「ダメですね。購買室までが八甲田山に思えるくらいです。鹿金の肉まんはこれな」
菊池は購買部のビニール袋から肉まんを取り出すと鹿金に手渡した。コーヒーゼリーは肉まんに化けたらしい。菊池の方は寒いと言いながら大福風のアイスを手にしている。
「先生、コーヒー貰ってもいいですか?」
「一人では持て余してたところだからいいよ」
僕の作ったコーヒーは一人分としてはかなり多かったので彼ら二人が飲んでも支障はない。菊池は棚から紙コップを三つ取り出すとコーヒーをそれぞれに注いだあと机に置いてくれた。
「ありがとう」
「いえいえ、なんせ先生は僕らの防風林ですからね」
「あー、わかるわ。菊池君、私にフレッシュとってよ」
菊池は「それくらい自分でやりなよ」と不平を口にしたが身体はすでにフレッシュのある引き出しの前まで動いている。彼はフレッシュを袋から取り出すと鹿金に投げた。それを片手で受け止めた彼女は「ナイスコントロール」と笑った。
「ちょっと待て。僕は防風林になんてなりたくないぞ」
「でも、助教の大橋先生がメンタルバーストしてもう二ヶ月ですよ。近藤先生の罵詈雑言を僕らに直接浴びろっていうのはひどくないですか?」
近藤教授は優れた研究者である。論文の評価も高いし指導も的確だ。しかし、人格者かどうかと言われれば否である。腹の虫の居所が悪いと無駄に悪態をつく。とくに研究において彼の指導から少しでも外れたことを行うと烈火のごとく暴れる。
研究室では何度となく資料が宙を舞った。
特にその被害にあったのが助教であった大橋先生だ。彼は別の大学で十年ほど講師をしてこの大学に着任した。近藤教授とは学会で面識があるくらいだったらしい。その近藤教授が研究の手法などで口を挟んでくるが彼には耐えられなかった。
僕の知る限り四回の大喧嘩と二回の冷戦を経て大橋先生は精神を病んだ。
おかげで僕は急遽、彼の講義を受継がなければならなかった。
「とは言っても僕のヒエラルヒーは最下層なんだ。君らをかばってなんてやれないよ」
「いえいえ、いてくれるだけで意味がありますから」
この生徒たちは僕のことを護符かなにかと勘違いしているのではないか。そんな疑問が浮かぶが聞かずにおく。知ればろくではないことがある気がする。そんなことを思って時計を見ると時間はすでに十五時二十分だった。近藤教授から連絡のあった学部生はどうしたのか。
とはいえ、教授からのメールには生徒の名前や連絡先は書いてなかった。待つしかない。
ただぼんやり待つというのも芸がないので、論文の翻訳を始める。結構な集中していたな、と思って顔を上げると時刻は十六時前だった。どうやら学生は来ないようだ。だが、卒論の提出はどうするのだろう。期限ギリギリになって不機嫌な近藤教授を見るのは勘弁願いたい。
窓を見ればまだ雪は降り続いている。研究室の向かい側にある講義棟の姿は雪で見えない。
帰りのバスが遅れることを思えばそろそろ帰る方がいいのかもしれない。そんなことを考えていると菊池と鹿金が帰り支度を始めていた。
「帰るのか?」
「ええ、バイトなんです。駅前のファミレス。今度来てくださいよ、ドリンクサービスしますよ」
「サービスもなにも定食にドリンクセットついてるじゃないか」
僕が言うと彼らは「良くご存知で」と言って研究室をあとにした。
人がいなくなると研究室はひどく静かで僕は落ち着かない気持ちになった。こういうときはロックをかける。ほかの人がいるときはできない贅沢だ。激しい音のおかげかキーボードのうえで指が弾む。
ドンドン、研究室の扉をたたく音がした。
僕は音楽を止めると大きな声で「どうぞ」と叫んだ。しばらくの間をはさんで扉がひらいた。
「松戸君。久しぶりだね」
「大橋先生、もうよろしいのですか?」
二ヶ月ぶりに見る大橋先生は少し痩せていた。服装こそパリっとしているが表情には精彩がなく、どこか陰があった。僕はあまりよろしくない状況だと直感的に思った。
「まぁね。今日はお別れを言いに来たんだ。俺はこの大学をでるよ」
「それは……」
おめでとう、というわけにもいかず。かと言って散々迷惑かけられた身としてはご苦労様でした、とも言いにくい。
「来年度からはまた神明大学の講師に戻ることになった」
「近藤教授にはもう?」
「いや、まだなんだ。辞表を渡すつもりできたのに教授室にいやしない。諦めて総務部に渡しておくさ」
それはまた角が立つでしょう、という言葉が喉元まで出てくる。
「あと、一時間もあれば教授も戻りますよ」
「いや、いいよ。あっても喧嘩するだけだ。短い付き合いだったが、また会おう」
大橋先生はそう言って研究室を出ていった。僕はやれやれと心の中でため息をついた。きっとこの事実を近藤教授が知れば荒れるにちがない。どうせ荒れるなら今日は報告せずに帰ったほうが精神衛生上いいのかもしれない。だが、世の中はそう上手く出来ていなかった。
また、扉を叩く音がした。僕は大橋先生が戻ってきたのかと思って慌てて扉を開いた。そこには髪の毛をツンツンと逆立てた髪型の男子生徒が立っていた。僕は彼を見たことがない。
「なにか?」
僕が訊ねると彼は「卒論なんですけど近藤先生が松戸先生に見てもらえって」と無表情に言った。彼が差し出した卒論の束を受け取ると僕は研究室の中に彼を招き入れた。適当な椅子に腰をかけさせると僕は自分のデスクに座って大雑把に彼の卒論を読んだ。
内容は目の前が真っ暗になりそうなものだった。
彼にとって幸いなことはこれが近藤教授の目に入らなかったこと。僕にとっての不幸はこれを直さなければならない、ということだった。卒論の提出期限まであと七日。とても実験はできない。質問紙調査を解析するのが限界だ。
「えっと君は」
「竹崎です」
「竹崎君、あと四日遅く来てくれたほうが良かった」
僕が言うと彼は嬉しそうに微笑んだ。彼は自分の論文の出来が良いと判断されたと思ったのだろう。
「自分でもよく書けた、と思うんです」
「そう。レポートならこれでいいんだけど今回は論文なんだ。感想を書かれても評価はされないよ」
「でも先生、いまあと四日遅く来ても良いっていったじゃないですか?」
「それはあと四日あとなら完成を諦めて留年を進められるってことだよ」
竹崎はこちらが見ていても可哀想なくらいに狼狽した。僕は彼をなだめすかすと訂正点と質問紙を急いで作るように指示をした。しかし、彼はメモひとつ取らずにいるので「記憶できるの?」とこちらから訊ねた。彼は僕がおかしいことを言ったかのように目を丸くして「提出しに来ただけだったんで、筆記用具持ってないです」と応じた。
僕は異星人を眺めるような気持ちで、デスクのうえにあったメモ用紙に指示内容を書き出して彼に渡した。
「最低でも明後日までに質問紙は作成すること。記憶と学習の講義で配布、回収するよ。部数は六十枚あればいい」
そのまま僕のそばに立ったまま退出しないのでなぜかと思っていると彼はおもむろに口を開いた。
「その日、バイトなんです」
「休みなさい。卒業とバイトどっちが重要?」
「……卒業です」
彼はなぜかふてくされた様子で研究室を出て行った。毎年、ひとりふたりは出る光景ではあるが慣れるものではない。こういうことの積み重ねがパワハラの化身というべき近藤教授を生み出したのではないかと疑ってしまう。
竹崎が去ったころには時間は十七時を大きく過ぎていた外は真っ暗だった。
僕は窓際に近づくと雪がどれほど積もっているかと窓を開けた。中庭を見下ろすと植込みがこんもりと丸い曲線を描いた白いオブジェになっている。昼間に用務員さんが凍結防止剤を撒いていたようだがこの雪では意味を成さないのだろう。
困ったものだと思って窓を締めようとしたときに中庭の真ん中に変な物を見た。
それは人の形をしていた。
いや、人だった。僕は慌てて研究室を出た階段を飛び降りるように駆け下りると中庭に倒れている人に駆け寄った。その顔にも服装にも見覚えがある近藤教授だ。首元に手を当てるが脈はおろか体温さえも感じることはできなかった。
僕はすぐに警察に電話しようと思った。だが、雪のうえに残った足跡をみて愕然とした。中庭には僕と教授の足跡しかない。つまり、ここは開かれた密室なのだ。このまま警察を呼べばどうなるか。それは火を見るよりも明らかだった。
「どうすれば……」
呆然とする頭で呟いた言葉が終わらぬときだった。頭上でまばゆい光が塊になった。そして、その中から奇抜な服装の女性が現れた。彼女はふりふりのミニスカートに真冬の寒さなど感じないというくらい挑発的に胸元のあいたレオタードに似た服装だった。
「あなたのお困りを解決! 恋と熱情の戦士マジカル✩アリア登場なのデス」
彼女は僕を見るとそう自己紹介をした。
「さ、とっとヤるデス。恋と情熱のマジカルステッキ『ポール・ミシェル』で原子も残らぬようにするデス」
監獄映画で看守が警棒を手のなかで弄ぶようにステッキを構えた彼女は笑った。それは魔法少女のそれではない。圧倒的な悪役の雰囲気だった。
「待ってくれ。もっと穏便な方法はないのか」
「ないデス。そもそも死体が消滅すれば孝介センセーもハッピー。私も面倒がなくてハッピーなんデスよ」
「魔法の力で犯人を見つけるとかはないの?」
僕が訊ねるとマジカル✩アリアは少し悩んでから「あー、なくはないですけど」と露骨に面倒臭そうな顔をした。僕は思う。こんな顔をする奴が魔法少女を名乗っていいのかと。
「ええ? やります?」
「やろうよ。そっちのほうが僕の心の平穏が保てそうだ」
「……メンド」
思っていることがダダ漏れになっている魔法少女は、僕に聞こえる舌打ちを繰り返した。そして、仕方ないと言わんばかりのやる気のない様子でステッキを構えた。
「マジカル・ベンサム・パノプティコン!」
ステッキが赤色に輝くと周囲の全てにサーチライトのような光が走っていく。その光は五秒ほどで収まると気の抜けた電子音が響いた。そして、ステッキから昔の電子辞書のような乾いた人工音声が犯人を告げた。
『オオハシ・ナオト』
「えー、孝介センセーじゃないんだー」
やる気がなさすぎるのか彼女は語尾に『デス』をつけることを忘れていた。
「だから、僕は殺していないって言っているだろ。あと語尾!」
僕が指摘すると彼女は目を大きく開いて驚いた。だが、それさえもなかったかのように彼女だが表情を切り替えると鮮やかに微笑んだ。だが、僕には聞こえていた。彼女が小声で「スポンサーかよ。うるさいなぁ」と漏らしたことを。あとづけで可愛らしくポーズをとってみせたが彼女はもういろいろ遅い。
「大橋先生はどうやって教授を殺したのかな?」
「私に聞かれてもわからないデス。ポール・ミシェルは犯人を教えてくれるだけデスよ。動機も方法もなにも分からないのデス」
どうだ、とばかりに胸を張ってみせる彼女を僕は殴りたいと思った。だが、そんなことをすれば教授ではなく僕が素粒子にまで分解されかねない。
「ポンコツ過ぎる」
「だから、死体を消すようにいったんデス」
口を尖らせて彼女が文句をあらわにする。
あたりを見渡してみるが教授の死体がある中庭の真ん中までは雪が降り積もっている。そこには足跡をつけずに歩けるような場所はない。教授の足跡をじっくり見つめるが、同じ場所を二度歩いたような形跡はない。
見上げて見るが研究棟、講義棟との間に人はおろか凶器を吊り下げられるようなワイヤーは張られていない。すごく長い棒のような凶器がないかと辺りを見渡すが、凍結防止剤を撒くときに使ったであろうスコップが講義棟の出入り口に凍結防止剤の袋と並べてあるくらいだ。
だが、スコップの柄の長さは一メートルにもみたない。とても庭の真ん中にいる教授の頭蓋骨を砕くようなリーチはない。
「もう、いいデスか。きれいきれいしてすっきりするのデス」
「待ってくれ。もう少しでいい」
彼女はもう一刻の猶予もない、と言わんばかりでステッキを構えた。僕はそれを阻止しようと彼女の腕をつかもうとした。だが、手は虚空を掴んで僕は何に支えられることなく雪上に倒れ込んだ。足元を見れば雪の一部が氷の板のようになっていた。
「どんくさい。手を貸しましょうか?」
何故か勝ち誇ったような顔で彼女が微笑むので、僕は少しムキになって一人で起き上がった。その様子を彼女は少し楽しそうに見ていた。肩や手についた雪を払うこともせず、文句のひとつでも言おうかと、言葉を考えていると背後から男性の声がした。
「……松戸君、何をしてるんだ? もしかして倒れているのは近藤教授か!」
それは真犯人であるはずの大橋先生だった。彼はわざとらしく驚くと講義棟の出入り口から一メートルの位置から動かなかった。彼は間違いなく気づいているのだ。この雪のうえを歩くと密室が崩れるということを。
「君が殺したのか?」
「いや、殺したのは大橋先生でしょ? 僕はそのおかげでここから動けなくなっているんですけど」
面倒なやりとりをせずに僕が、大橋先生を責めると彼はひどく下卑た顔で笑った。
「なにを言う。中庭には君と教授の足跡しかないじゃないか。俺が教授を殺したというならどうやって足跡をつけずに移動した、というのか」
「そうだそうだ! もう密室とかどうでもいい。死体を完全消滅させて完全犯罪しちゃうのデス」
隣で魔法少女が犯罪丸出しの気勢をあげる。大橋先生は、この闖入者に今更気づいたのか「誰だ君は!?」と叫んだ。服装とか彼女の足跡がない理由とかを追求するべきだと僕は思うのだが、大橋先生はそこには気が回らないらしい。
だが、魔法少女のほうは名を尋ねられたことに満足そうに頷いた。
「問われたのなら仕方ない。私は恋と熱情の戦士マジカル✩アリア登場なのデス」
彼女の手にしているステッキからエフェクトのような色とりどりの光があたりに吹き出す。彼女はそれに反して特に可愛らしいポーズを取ることもなく、腕組みをしたまま大橋先生をゴミをみるような光のない瞳で見つめていた。
「マ、マジカル✩アリアだと!?」
「そうなのです。私たちはすべて知っているのデス! いまなら半殺し。いえ三割殺しくらいで許すのデス」
魔法少女というものはこんなにも暴力的なものだっただろうか。僕はこれが彼女の決めゼリフなのだとしたら彼女のスポンサーとやらはロクでもない会社だと確信した。大橋先生はこの得体の知れない女性が怖いのか後ずさりした。
「う、動くな。そうだ! そうやって足跡を消すつもりなんだろ!」
「はぁ? 私があなたに近づかないとボコれないとでも思ってるんデスか?」
アリアはその場に棒立ちしたままでステッキを握り締めると大橋先生を嘲笑うようににやりと口を緩めた。そして、すぅ、と息を吸い込んむと「ポール・ミシェル!」と叫んだ。叫び声と一緒に振り上げられたステッキは西遊記の如意棒のように勢いよく伸びると大橋先生の顔面へと真っ直ぐに突き進んだ。
前歯が砕ける音と大橋先生が悶絶する声が地獄のように中庭に響いた。ステッキは次の瞬間にはもとの長さに戻っていた。ただ、彼女が大橋先生の唾液がついているであろう先端部を見て「汚い」とつぶやいたのは見なかったことにしようと思う。
「私は別にいいんデスよ。あなたが自分がやりました。もう殺してくださいって泣きつくまで拷問するだけデス。魔法少女である私が、証拠を大切にする? 推理をする? ナンセンス。ありえないんデスよ」
大橋先生は口元を真っ赤に染めながら地べたを這いつくばっていた。彼に彼女のことがどれだけ伝わっているかは僕にはわからない。だが、確実に言えることは僕たちの方が圧倒的に悪者に感じる、ということだ。確かに魔法でこの場に現れた彼女にとって証拠なんて必要ないに違いない。
それどころか。犯人が分かっているなら審議することも要らない。裁きは私刑で十分なのだ。
「待って待って。君がしないなら僕がするから。推理するから待って!」
僕が必死に制止すると彼女は構えていたステッキをおろした。そして「お手並み拝見なのです」と可愛らしく目を細めてみせた。こうしてれば彼女は可愛いのだと思う。だけど、彼女はあまりにピーキーだ。
僕は深呼吸をするともう一度辺りを見渡してみる。
近藤教授の死体に運ばれた様子はない。つまり、教授はこの場で殺されたのだ。だが足跡は教授のものをのぞくとあとからノコノコと駆け寄ってしまった僕のものだけだ。大橋先生は一体どうやって足跡も残さずに教授に近づいたのだろう。
考えがまとまらない。僕は苛立ちを紛らわすように髪を掻きむしった。そのときだった。パラパラと何かが落ちてきた。雪かと思ったそれは溶けることもなく手や衣服に残った。
「ああ、そうか。腹が立つほど単純なことだったんだ」
大橋先生を見ると血まみれの口を押さえたまま地面に座り込んでいた。僕は彼に聞こえるように言った。
「足跡は初めからあったんですね。ただ見えなかっただけで」
「な、なんのことだ。足跡なんてどこにもないだろ」
「いえ、ありますよ。ただ、先生の撒いた大量の凍結防止剤で埋もれてるだけです」
隣にいたアリアが胡散臭そうな顔で僕に訊ねる。
「凍結防止剤なんて撒いたら足跡を隠すどころか溶けちゃうんじゃないデスか?」
「いや、雪を溶かすのは融雪剤。地面にできた水たまりが凍らなくするのが凍結防止剤で二つは別ものなんだ。凍結防止剤は簡単に言えば塩だ。中学の頃に水と食塩水を同時に冷やして氷ができる温度が違うっていう授業はしなかった?」
彼女は首をかしげたので最近の若い子はしない授業なのかもしれない。
「その凍結防止剤を撒いても雪は溶けないんですか?」
「僅かには溶けるけど、劇的な効果はない。凍結防止剤はその性質から雪が降る前に撒かないと効果はない。だけど、大橋先生にとってはそちらのほうが都合が良かった。なぜなら自分の歩いた跡を凍結防止剤で埋めたからだ」
大橋先生はひどく苦しそうな顔で「嘘だ」と僕を睨んだ。
「でも、雪と塩ってぱっと見て区別できないデスか?」
「太陽光のもとならわかるかもしれないけど日が暮れたあと、光量が少ないこういう場所では雪の白と塩の白を弁別するのは難しいだろうね。そうですよね、大橋先生?」
僕の問い掛けに彼は何も答えなかった。だけど、大橋先生は血まみれの口をへの字に曲げたまま何かをうわ言のように呟いて泣いていた。僕は意を決して彼の方へ歩いて行った。また足跡が出来てしまったが謎はない。構わないだろう。
「大橋先生。警察を呼びます」
警察は驚くほど冷静だった。十分ほどで到着すると言われて僕は携帯を胸ポケットにしまい込むと暇になった。さすがに大橋先生とのんきに談笑する気にもなれなかったからだ。
「孝介センセー、良かったデスね。私も魔法で助けた甲斐がありました」
「君は何も考えずに暴力を行使しただけだけどね」
「それが魔法少女デスよ」
そういって彼女は笑った。足元見れば彼女の足跡はひとつも残っていない。これが魔法なのだとしたら彼女なら完全犯罪ができたのではないか。そう考えて顔をあげると彼女の姿はどこにもなくなっていた。




