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騎士は、誰もが憧れる名誉職。
たしかゼンは、国立競技場で毎年行われる国王主催の武道大会で三年連続優勝しているはずだ。
公爵家の婚約者という重要な立場だからこそ、そんな凄い人物であるゼンについて貰えていたのだ。
もう地位も権力も無くなったリリアとはお別れのはず。
なのに国一番の剣の使い手―――その名誉の称号として贈られた騎士の称号を、返還したと彼は言う。
「なにを、考えているの! 貴方そんなに考えなしの馬鹿だった!? 今すぐ王城に戻って謝って来なさい! 名誉も職も放り出して、何をするつもりなの!」
「貴方に着いて行こうかと」
「はぁ!? ふざけてるの!? ばかばかばか!!!」
「……先ほどから口が悪いですね」
「もう貴族じゃないからいいのよ! ねぇ、私はゼンが戦っているところを直接みたことが無いからよく分からないけれど、望めば王城で王族付騎士だって出来るくらいの実力なのでしょう? もったいないわよ」
「いえ。騎士の地位に未練はありません」
「……どうしたの。一体どうして」
元々おしゃべりが上手くなくて寡黙でよく分からない男だったけれど、今回はそれに輪をかけて意味が分からない。
ゼンほどの剣の腕と地位を得るために、どれだけの努力が必要だったかなんて想像もつかない。
でも違う分野で努力し続けてきたリリアは、簡単に手放していい易いものではないとだけは知っていたから、怒ったのだ。
「わっ……!」
大きく風が吹いて、リリアの髪を揺らす。
髪が乱れないように彼に繋がれていた手をとっさに離して頭を押さえた。
高い位置で風に揺れる木の葉と枝から、開いた戸の向こう側に視線を戻したリリアは、また驚きに目を見開く。
地面に、ゼンが跪いていたのだ。
「ちょ、なに? どうしたの?」
思わず馬車を駆け下りて、彼の前に立って屈んで顔を覗きこもうとしたリリアに、地面にひざまずいたままの彼が何かを差し出す。
「剣を」
「はい?」
「私の剣を、貴方に捧げさせてください」
両手で恭しく差し出されたのは、ゼンが常に持ち歩いていた、彼の家に代々受け継がれていると聞いたことがある剣だ。
口を開けて呆然と固まるリリアの前で、ゼンはずいっと更に剣をリリアの方に向けて来る。
これを取ってくれと言う意思表示なのだろう。
「騎士としてでも、御者としてでもいい。貴方の剣と盾になって、貴方を守りたい。傍においてください。我が主、リリア様」
「ま、まって、なに……これ」
「貴方が国から出て行くというのなら俺も一緒に、着いて行かせてください」
「ば、ば、ば、馬鹿じゃないの?」
こんな展開、想像していなかった。
自分に剣をささげてくれる騎士がいるなんて。
家族も婚約者も、何年も同じ学舎で過ごした友人たちも、みんなに見捨てられたような存在に、まさかこんな。
正直に言えば嬉しかった。でも……
(でも、未来のない私に彼を巻き込むわけには……)
そう思ったリリアの考えは、読まれていたらしい。
眦を剣呑に細めて、ゼンは指摘する。
「リリア様。国境を出た後に死ぬおつもりでしょう」
「っ…………」
息をのんだリリアは、視線を彷徨わせた。
図星だったのだ。
「メイに言った行くあてがあると言うのは、彼女を安心させるための嘘ですね」
「それ……は、だ、だって……貴族として生まれ育った娘を、少しまとまったお金を渡しただけで放り出すということは、そういうことなのよ」
リリアは洗濯も掃除もしたことがない。
髪だって結えないし、お風呂や着替えを手伝いなしで一人でしたのさえ、投獄されていた牢の中でが初めてだったのだ。
労働階級の世界を何も知らない。
何も出来ないリリアは、お金を稼げるようなことも出来る気がしない。
それはリリアを放り出した人たちはよくよく分かっていて、その上で捨てたのだ。
「これはつまり、見えないところで死ねと言う事なのよ」
国境までの馬車だけを用意すると言うことは、すなわち国の向こう側でのたれ死ねと、そういうことなのだ。
リリアは諦めを込めた小さな笑いを鼻から吐いた。
しかし、目の前のゼンは笑うことなど許してくれず、真面目な顔を向けて、真剣な声で言う。
「駄目です」
「……」
「生きないと、駄目です」
リリアの黒い瞳が揺れる。
こんなに強く、自分が生きることを望んでくれる人がいる。
嬉しかった。
――――でも。
「そんなの……どうやって? 何のために? もう、生きる意味は何もないのに。エドワードさまは、何をどう頑張ったって私を愛してはくださらないのにっ……!」
リリアの人生は、エドワードの隣に立ち、公爵家夫人として生きていく流れにあった。
その流れがふつりと切れてしまえば、どこに行けばいいのかなんてわからない。
どう生きたらいいのか、何を目標にすればいいのか、分からない。それにもう、たくさん神経をすり減らす出来事があって色々と疲れた。
(だからもう、生きるのはいいの。いらない。何もかも終わりたい―――)
そう、思っていたのに。
「―――私が、教えて差し上げます。そして守ります。この剣に誓って、貴方の身も心も健やかである様に守り支えます。貴方の生きる意味になります」
「……ゼン?」
リリアの瞳を縁どるまつげがパチリと瞬いた。
さっきから違和感があったが、出会って五年ほど経つがはじめてなくらい、ゼンが話している。
話している、というだけで驚きなのに内容も信じられないもので、リリアは呆然と彼を見つめた。
リリアの視線の先で、ゼンは生真面目で真っ直ぐに話すのだ。
「私の主。私の愛しい人。私の全て。それがリーリアル様。貴方の死なんて、認められるわけがないでしょう」
「……ど、して」
何を言っているのだろう。
家族も、婚約者も、数年間同じ学者で過ごした学友たちも、誰一人リリアの味方なんてしてくれなかったのに。
もう一人きりになってしまったとばかり思っていたのに、ゼンはどうして何もかもを失った自分にそこまで言ってくれるのだろう。
公爵家の妻として、他の男性にうつつをぬかすわけにはいかなかったから、リリアは一定の距離を保っていた。
必要事項以外、会話だってしたことがなかった。
(ハンカチをくれたときと、シンシアを消そうかという提案をされたあの時が、この一年での唯一のまともな会話だったくらいなのに)
彼にとってもリリアは仕事上の護衛対象でしかない存在なはずだ。
なのに、どうしてそこまで自分を想ってくれるのか。意味が分からなかった。
「私、貴方に何かした? そんな風になるような、なに、か」
「私が一方的に憧れていただけです。公爵夫人となるためにひたむきに努力する姿に。ふさわしい人となるために自らを律し正しくあろうとする潔さに。恰好良いと思ってずっと、見ていました」
「わ、たしは、貴方を見てはいなかったわ」
「えぇ。リリア様の目にはエドワード様しか映っていなかった。でももうあのお方は、貴方の目の映る場所にはいませんから」
ゼンが、嬉しそうに笑う。寡黙で無表情なばかりだと思っていたのに、こんな無邪気な笑い方が出来るなんて――……何だか恥ずかしくなってきた。
わずかに耳元を赤らめるリリアに、ゼンはさらに微笑み目元をやわらげた。
「もうリリア様を縛るものも、窮屈にさせるものも、何もないんです。令嬢らしく、公爵家の妻らしくある必要もない。何もかもを自由にしていい。これから自由に好きなものを好きなだけいくらでも見られる環境を私が作ります。作らせてください。そして出来ればその瞳の隅に、少しで良いので私を映してくださいませんか」
「っ…………」
何もかもを失ってカラカラの空虚になっていた胸の中に、キラキラした光が降り注いだ気がした。
この光を人は希望とでも呼ぶのだろうか。
よく分からないけれど、頬がとてつもなく熱い。
リリアは半分混乱しながら、とにかく何か言わなければと思いついたことを唇から漏らした。
「わっ、私……、その……アマロ湖を見て見たかったの」
「大陸で一番美しい湖と言われるあの?」
「そうよ。絵画で見ただけでも素晴らしいと思ったわ、でも遠いから一生行くのは無理だと思ってた。行って……みたいわ」
死ぬ予定だったのに、終わらせるどころかどこかに行きたいと口走るなんて、自分で自分がよく分からない。
でもゼンは、くしゃりと破顔した。
リリアが未来を考えてくれたことが、とてつもなく嬉しいらしい。
「行きましょう。見たい景色がある場所に、世界のどこにでもお連れしましょう」
「……よろ…しくね」
ふっと肩から力を抜いたリリアは少し口端を上げて、そっとゼンの捧げる剣を受け取った。
手にずっしりとくる剣を鞘から抜き、刀身に口づけを落とす。
主が騎士の永久の忠誠を受け取ったと証明する儀式だ。
「有り難うございます」
「こちらこそ……」
鞘へ刀身を戻して彼の手へと返すと同時に、ゼンはとろけるように幸せそうな笑みを見せてくれるのだった。
リリアが欲しかった昔のエドワードが持っていた温かさと良く似ている、でも質も量も全然違う、それよりもっとずっと優しく心地の良い何かに、触れた気がした。




