氷の聖女
大学という施設は広く大きい。少なくとも公平の通う国立大学はそうだった。山の中を切り拓いて作られた土地の主のような顔をして構える建物。10000人以上の学生が在籍しているのだから、それだけ巨大であるのは当然である。ただし、ここでいう『巨大』とは、あくまでも人間のスケールでの話だ。
ガンズ・マリアは手のひらを自分のすぐ目の前で開いた。遠近法を利用して、視界の中で大学の校舎をその手に収め、きゅっと握る。その手の中で命がはじけ飛ぶのを想い、高揚で拳が震えた。
「リアルじゃあなくてよかったなあ?」
なんて。口元を歪ませて、校舎に『聖剣』を向ける。
「さあ。始めようか」
次の瞬間、『聖剣』から放たれた一撃が校舎を凍結させた。その氷もバラバラに砕ける。続けて『聖剣』を天に掲げた。先ほどと同じように放たれた一撃は天へと昇り、頂点で止まって、マリアび向かって降りてくる。その身体も凍り付いて砕け散った。後に残るものは、冷たく透き通った残骸だけ。
瞬間移動の力を持つ冷気を利用して、校舎ごと人間世界を離れたのである。
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公平は黒板にチョークを走らせていた。分野にもよるが、大学生の数学は数字などという具体的なものを使うことは少ない。抽象的な記号を用いて一般的な議論をすることが目的だからだ。
「Yは増加過程。そしてZ=M+Y。こいつはドゥーブ分解ですから定理(12.11.b)からZは劣マルチンゲールとなります。これでこの定理は証明できました。では次……」
と。公平の手が止まった。咄嗟に窓の向こう側を見る。担当の教授は不思議そうにしていた。田中はうつらうつらと舟をこいでいて気付いていない。
「……なんだ」
「どうかしましたか?公平くん?」
「外が」
「え?」
言われるままに教授は窓の向こう側を見て、『あれ』と呟いた。景色がまるっきり変わっている。大学は山中にあるとは言え、ある程度雪は溶けているはずだった。窓の向こうから見える景色は真っ白な雪原である。本来なら見えていたはずの山も消えていた。
「一体何が……?」
教授は窓に近付いていく。同時に公平はその背後に歩み寄る。心の奥底で謝った。教授の首元に軽く手刀を叩きこみ、眠らせる。田中はもう既に眠りに落ちていた。これで心おきなく外へ出られる。
走りながら先ほどのことを思い返す。公平は景色の変化よりも先にある事に気付いていた。魔法とは違う何らかの力──即ち異連鎖の力が発動したということである。本来であれば公平では探知することはできないはずの力だ。それを感じ取ることが出来たということは。
(コイツはきっと、俺を誘っているんだ)
階段を駆け下りて、校舎を飛び出す。感覚に誤りが無ければ、必ずここに──。
「……お前は」
「お。出てきた」
どこまでも果てしなく広がる雪原に見覚えのある銀髪の少女がいた。黒いパーカーにジーンズ。寒そうな恰好に見えるのに、当の彼女は平気そうな顔である。一人だけ春空の下にいるみたいだった。ファミレスで見かけた女子高生である。
「お前は。あの時の……?」
「おう。覚えてたか」
「いや……ちょっと待てよ」
一つだけ決定的に違う部分がある。あの時とは違って彼女からはキャンバスも魔力も感じ取れないということだ。理由を考えながらファミレスでの出来事を思い返す。
「……そうだ。元々クラスメートの性格が変わったって話だったよな」
この異連鎖の女が最初から女子高生をやっていたとは思えない。だが彼女は確かに田中の友人である家庭教師の加藤の生徒のクラスメートである女子高生として振舞っていた。性格以外の部分で変化があったとは聞いていない。
「まさか……。お前、人間世界の女の子に成り代わっていたのか?」
少女はにやっと笑って口を開いた。
「さあ?」
その態度が答えであると判断した。雪の地面を蹴って、『断罪の剣』を手に少女に迫る。彼女は大きく飛び下がって公平の一閃を避けた。地面がひび割れて、雪が舞い上がる。
「てめえ逃げてんじゃねえぞ!」
「……あ?逃げるだと?虫けらの分際で調子に乗るなよコラ」
空中を舞う少女は公平を睨みながら胸元に手を当て、唱える。
「『──聖剣起動──』」
「やっぱり『聖技』の……!」
彼女は公平に『聖剣』を向けた。透き通って輝くそれは、剣と呼ぶには歪な形をしていた。くの字をしたそれには刃などついていない。手のひらサイズの持ち手。そこから90度折れ曲がって標的に向かって伸びる穴の開いた筒──。
「な……。何が聖剣だ!どう見てもそれ銃じゃねえか!」
「うるせえ死ね!」
少女は引き金に指をかけた。『聖剣』から高速で氷の弾が放たれる。公平は咄嗟にそれを躱した。弾丸が命中した箇所は急激に冷やされ、凍結する。彼の頬を冷や汗が伝う。
「形なんかなんだっていいんだよ!」
着地した少女は更に『聖剣』から氷の弾丸を撃つ。公平は慌てて校舎から離れるように逃げだした。
「逃げてんじゃねえぞコラ!」
「俺は逃げてもいいんだよ!」
「ざっけんな!」
再び氷の弾丸が撃ち込まれる。公平は炎の壁を創り出した。
(氷は熱に弱いもんな!)
氷の弾丸を溶かす作戦だった。しかし、残念ながら真逆の形で終わってしまった。魔法で発動させた炎の壁が氷に包まれて凍結してしまったのである。
「う、そ……」
炎を凍らせる氷なんて創作でしか見たことが無い。
「そんなもんで防げるものかよ!」
氷の弾丸が更に放たれる。その一撃は氷に包まれた炎の壁に命中し、バラバラに打ち砕いた。
「……うん?」
そこには公平の姿は無かった。氷の残骸がぱらぱらと散っているだけである。
「死んだか?……いや!」
彼女は『聖剣』を手にした右腕を上げた。銃身が緋色の刃を受け止める。
「……マジかよ」
炎の壁に隠れて空間の裂け目で離脱。そのまま敵の背後に回り込んで不意打ちを仕掛ける。公平の奇策はいともたやすくいなされてしまった。
「ハッ!甘いんだよざぁーこ!」
もう一方の手を脇から背後に向ける。既に握られたもう一丁の銃が公平を狙う。
「死──」
その瞬間、少女の左肩を光の矢が撃ち抜いた。『なにが』と彼女は正面に目を向ける。彼女の視線の先で、宙に浮かぶ緋色の弓が彼女に矢を向けていた。
先に発動させている『レベル5』で創り出した『未知なる一矢』である。不意打ちが不発に終わった時点で次の手を打っていたのだ。
「ふっ!」
矢の一撃で怯んだ一瞬を公平は見逃さない。両脚で彼女を蹴り飛ばし、よろけた隙に地面を蹴る。通り抜けざまに彼女を『レベル5』で斬りつけ、そのまま弓へ向かって駆け出した。
「くあっ……!」
公平は『未知なる一矢』をつかみ取り、少女に向ける。
「撃つ前に聞いておくぞ。お前は人間世界の女の子に成り代わっているんだろ。ならその子は今どこにいる?」
「……知らねえな」
「……そうかよ」
公平は指を離した。思い切り張られた弦が矢を放つ。これ以上ここで彼女と話しても意味がない。輝く矢が少女を射抜かんと宙を駆ける。
「……なんだよ。殺す気はないのか」
少女はぽつりと呟いた。気絶させるだけのつもりで撃ったことを見抜かれて、心臓が高鳴る。矢が当たる直前に彼女の姿が消えた。周囲をきょろきょろと見回すも彼女姿はない。この雪原には木どころか草の一本も生えていない。校舎以外には姿を隠せられる場所はないし、そこに逃げ込んだ様子もなかった。
「一体どこに……」
「ああ。くだらない。その程度の覚悟の相手だったのかよ」
世界を揺らすような声が響いた。空気の流れが変わる。この感覚を公平は知っている。嫌な予感がして顔を上げる。そこに見える光景に、奥歯を噛み締めた。
「く、そ……」
空いっぱいに彼女の顔が広がっていた。今いる世界を丸ごと見下ろせるくらいの大きさになっているのだ。分かりやすく言うならば、例えば地球よりも巨大なくらいに。
嫌な予感が的中した。空気のうねりが、巨大化したエックスとの特訓に似ていたから気付いたのだろう。だが、気付いたところで手の打ちようもない。
「そこはアタシが創った世界だ。ちょうど星くらいの、手のひらサイズの世界さ」
彼女の声に背後の校舎さえも揺れる。中からざわめきが起こった。学生たちも流石にこの状況に気付いたらしい。公平は少し考えて、ある呪文を唱えた。
「『起動せよ。UTOPIA』」
心を操る魔法。ユートピアの魔法。公平の嫌いな魔法だった。だが今はこれを使うのが一番早い。これ以上他の学生たちをパニックにするよりは、魔法の力で眠ってもらった方がいい。
「後は」
空を睨む。その奥にいる巨大な少女の顔を真っ直ぐに見つめて、『レベル5』の柄を両手で握りしめた。
「死ぬ準備はできたかい?ならこれでお別れだな」
デコピンの構えをとった右手が、公平たちのいる世界に向けられる。このままいけば世界ごと弾き飛ばされて死ぬ。当然のことだが、死ぬ準備なんてまだ出来ていない。
「やってやるよ」
『レベル5』を地面に突き刺し魔力を送り、弓を引く格好を取った。
「なんのつもりか知らないが、ともあれこれでおしまいだ」
彼女の声に倒れないようにと足に力を籠める。更に魔力を『レベル5』へと。比例するように公平のキャンバスが広がっていく。同時に身体を襲う負荷も強くなった。
「あばよ。虫」
彼女の親指が離れ、中指が発射される。それと同じタイミングで、公平の魔力の全てが『レベル5』へと流れ込んだ。彼のキャンバスが限界まで大きくなる。今だからこそ使える魔法を唱える。
「『流星の一矢』!」
詠唱と共に公平の構えに浮かび上がるようにして、銀河の如く輝く弓矢が姿を現す。倒れてしまいそうな痛みに半ば負けるような形で彼の指は弦を離した。矢は流星のように伸びていって、少女の中指の爪に直撃した。その輝きが星より巨大な彼女の手を跳ね返す。
「ンだと!?」
空を覆う顔は驚嘆の表情を浮かべていた。目の前で起きた出来事だというのに、理解が追い付かない。
「ぐ……あ……!」
そして、これが今の公平の限界だった。星より大きな巨人が、雑に放った適当な一撃を弾くのがやっと。膝を落とし、雪の上に倒れ込む。痛みと疲労のせいで指先一つ動かすことも出来ない。呼吸は酷く荒かった。
「……ははっ!なるほどな。こんなことできる人間はそうそういない。やっぱりアルル=キリルをやったのはテメエだな」
答えることが出来なかった。もうそんな余裕はない。顔を上げると星すら握ってしまえそうな手の平が迫ってきている。校舎から再び悲鳴が聞こえてきた。『UTOPIA』の効果が切れたのである。
「褒めてやるよ。だから特別に教えてやる。アタシの名前はガンズ・マリア。『聖技の連鎖』の聖女サマだ。と、いうわけで。お前は殺す。ここで握りつぶして殺してやる」
「く……!」
マリアの手が、公平のいる世界を掴み、そのまま力を籠めた。彼女の創った世界が、まるで泥団子みたいに握り潰されて、爆ぜる。手を広げて残骸をはたき落し、舌打ちした。
「逃がしちまった」
世界を壊す直前に公平たちの気配が完全に消えた。握り潰した瞬間にはその手の中にはもう彼らはいなかった。誰の仕業かは明白である。マリアは面倒くさそうに頭を掻いた。
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「うう……。あっ!」
「あ、起きた」
目を開けて身体を起こす。大きな緋色の瞳が心配そうに自分を見つめている。ふわふわの布団の中で眠っていたらしい。
「エックス?」
エックスはコクリと頷いた。
「助けるのが遅くなってゴメンね」
「ああ、そうか。でもエックスが助けてくれたんだ。良かったあ……」
「こっちの台詞だよ……」
「……あ、そうだ!」
公平は先ほど戦った聖女・ガンズ・マリアの情報を伝える。恐らく人間世界の女の子と入れ替わっている可能性があるということも。話を聞いたエックスは悲しそうに目を落とした。
「ど、うしたんだよ」
「ボクがそのガンズ・マリアってやつなら、すぐに今の拠点から逃げ出すだろうね」
「だから急いで……」
「キミが目覚めるまでに3時間かかった」
「さ……」
事を終えるのには十分すぎる時間だった。公平はぎゅっと拳を握りしめる。その家の人が口封じに殺されている可能性が頭によぎった。
エックスは顔を落とす公平を数秒間見つめた後、すっと立ち上がった。
「ボクが見てくるよ」
「……場所は。分かるのか?」
「田中クン経由でその加藤クンって子とやり取りして、ガンズ・マリアと入れ替わっている女の子の学校を聞き出す。そこまでいけば後は学校に忍び込んで住所を調べるだけさ」
そう言うとエックスはウインクして人間世界へと向かった。まるでこちらに心配をさせまいと無理に明るく振舞っているようで。しかし今の公平には、そんな彼女を見送る事しかできなかった。




