62 しあわせは、笑顔とともに
空を、飛んでいる。
ひゅうひゅうと耳元で鳴る風の音を聞く度に、エルナは少しだけ泣き出してしまいそうになる。青く、真っ青な海を潜るように沈み、また通り抜ける。人々の営みはとてもちっぽけで、こんもりとした緑の山が、まるで畑の中に野菜を植えているようで可愛らしい。
エルナはクロスの背に腕を回し、空を飛んだ。――一匹の、鉄の竜に跨がって。
「まだまだ試作中の魔機術とのことだ。飛ぶ時間にも限度がある。あと一度きり程度ならば、とカイルは言っていたな。今回がその一度。もうこの竜は飛ぶことはない」
「そっか。……でも、すごいな。……ああ、すごいなあ」
もう味わうことはないだろうと、幾度も夢に見た光景を、エルナは瞳に焼き付ける。
遠い地平線の彼方へと流れ行く白い雲の力強さ。
幾重にも重ねた青の輝き。小さな森や、街のすべてを。
唐突に、視界が滲んだ。それをごまかそうとして、クロスの背に額をつける。
「……ん?」
優しげに聞こえた声は、きっと何もかもを見透かしている。
でも、それ以上尋ねることはない。
アルバルル帝国との騒動は終結し、改めて送られたマールズの兵とともにエルナたちは下山した。ランシェロ――リゴベルト皇帝の弟は会話もすでに困難な状態ではあったが、こぼれ出る言葉から、家族のすべてをリゴベルトに殺されたと思い込み、自分もいつ殺されるのかと恐怖していたということがわかった。
そのことを知ったリゴベルトは何も話すこともなかったが、目を見開き、そしてわずかに唇を噛み締め、自身の行動の結果をゆっくりと理解するような、悔いているような、そんな顔をしているようにエルナには思えた。互いの道は交わらないとエルナはリゴベルトに伝えたが、もしかするとこれから彼が変わることもあるのかもしれない。
想定外の事件と、その後始末のためにエルナたちはマールズ国への滞在の延長を余儀なくされたが、いつまでもこうしてはいられない。明日、エルナたちはウィズレインに帰国する。その前にと、カイルからの申し出がありエルナたちは、空を飛んでいた。
「アルバルル帝国と、私たちは、もう揉めることなく生きていくことができるんだろうか……」
「さてな。人は変わる。国もそうだ。必ずなんてものは、存在しないだろう。……それに此度の結果、帝国のみが関わっていたわけではあるまい。使節団を名乗り、偽りの情報を与えた者。そして兵を操っていた者がいる。逆鱗を破壊した程度では、竜は生まれぬ。俺はその竜を見てはおらぬが、逆鱗を砕いたことで守りを薄くし、悪しき魂を乗り移らせたのだろうとケトックが語っていた」
鉱山は崩れはしたが、もとは竜の骨でできていた場所だ。少し形が変わろうとそれほど大きな問題はなく、日当たりがよくなったことでそこに住む精霊たちは喜んでいるらしい。
『精霊が嬉しいことが、俺が一番嬉しいことです』
と、ケトックはうっとりしていた。それはそうと、『話にあった雇用条件と全然違いますが!? ゆったりまったり精霊と遊べばいいだけとか聞いていたのに、こんな怖いことあるなんて聞いてませんが!?』とクロスに嘆いてはいたが。
リゴベルトに、竜の話を聞かせ、『影』と呼ばれていた赤目の者は、いつの間にか姿を消していたという。『影』が何者であるのか。言葉にせずとも想像はできたが、今はクロスは言わない。
「……心配をかけさせるなとは言わん。無茶をするなとも。だたしそれをするのなら、俺の前でのみにしてくれ」
「ちょっと疲れてたんだよ……ごめん」
額をまたこすりつける。生きると決めたはずなのに、ふとしたときに足を踏み違えそうになるときがある。エルナは死ぬためではなく、生きるために生まれ変わったのだから。
もう、一匹で死に場所を探していた竜ではない。
クロスの背を強く抱きしめ、俯いたまま、ふうと息を吐き出す。ごしごし額をくっつけた後で、「ぷはっ」と顔を上げた。それから今度は頬を当てるようにもう一回くっつく。
「生きていなきゃ、ウィズレインを守ることができないからね! 今は、この景色を楽しむ! ようし、クロス、もっと向こうまで行ってくれ! ああ、楽しいなぁ!……本当に、楽しい……。嬉しいな……」
「はしゃぐ嫁がとてもとても愛らしい。顔を見ることができることが、不満で仕方がないくらいだ……。エルナ、すまないがキスをしても?」
「顔を見られないのに、なんでできると思ったの……。危ないから。あなたはちゃんと手綱を持っていて。せめて地上に降りてから言って」
「よし、言質は取ったな」
「王様がせこいことを……」
「実は俺にも我慢の限界というものがある。だっはっは。キス程度で満足するというのなら感謝をしてくれんか? 別にそれ以上でも俺はかまわんがな!」
「平然と爽やかに言う言葉ではないね、それは。要検討、ということにしておいて」
それから。エルナたちは無事にウィズレイン王国へと戻り、やきもきと待っていた仲間たちからは熱烈な迎えをされてしまった。エルナも婚約者として忙しい日々を送り、小動物の数はハムスターだけのはずが、最近はフェレットまで増えてしまった。
ある日のことである。メイド用の部屋から、クロスの部屋のすぐ隣へと引っ越したエルナであったが、エルナの部屋にはちゃんとハムスター用の小さなベッドも準備されていた。
『もふもふはすべての味方でごんす! もふもふ! もふもふベッドでがんすう!』
と、嬉しそうにぽよよんぽよよん、と上に、下にと跳ねていたハムスター精霊を見て、「ねえ、あのさあ」と声をかけた。
ハムスター精霊は『はて?』という顔をして、ぽよよん、よん……と、とすりとベッドにお尻をつけて座る。そのふくふくに膨らんだほっぺたの中には、非常食のひまわりの種がたくさん入っていることを、エルナはもちろん知っている。
「鉱山で、魔封じの指輪の封印を、あなたが解いて助けてくれたんだよね……?」
ハムスターはつぶらな瞳をエルナに向けるのみで、ひくひくと鼻とひげが動いていた。
「あなたがただの精霊ではないことを、もちろん私は知っている。でも、フェレが駄目だと止めていたでしょう。……大丈夫なの?」
ウィズレインに帰っても、何も言わないから。
とうとう、エルナは尋ねてしまった。
言いたくないことなのかもしれない。けれど、その心情を察しても、尋ねたいと思う気持ちを抑えられないほどに、エルナにとってこのハムスターはかけがえのない仲間になっていた。
「ねえ……大丈夫、なの?」
そうと言ってほしい。
願うように、すがるように、エルナは問う。ハムスター精霊は、何も答えない。
唐突に、ハムスター精霊はベッドに降りた。チェストの上を、とてとてと四本の足で進む。そしてゆらりと立ち上がった。二本足で立つという、ハムスターとしては違和感のある仕草だが、この精霊にとっては今更なのでエルナも別に突っ込まない。
『ハイヤア! でごんす!』
ハムスター精霊は手を上に向けて、ビシッとポーズをつける。
『ハイヤア、ハイヤア、ハイヤア、ハイヤアでがんすー!』
高速で両手を右に、左に揺らす。さらにくねくねもふもふと足踏みをしている。エルナは驚愕した。あまりにもいつもの光景すぎて。
心配して真面目に問いかけていたのに、いつもの踊りがまさかの返答だった。
変わらぬハム踊りを見続けて、なんだかもういいかな……とエルナが思い始めていたとき、『こういうことでごんす!』と、いい汗を弾いてにっこり笑顔のハムが話す。ちゃんと答えてくれるつもりだったらしい。どういうことか、まったくもってわからないが。
『仲間のピンチを救うために、毎日欠かさず踊りを行い、空に捧げているでがんすよ! いわば、力を溜めているということで、エルナは仲間でごんすから。仲間に何も言わずに、勝手に消えたりなんて絶対しないでがんす!』
「……はは、そっか」
仲間。こんなに嬉しい言葉はあるだろうか。
エルナルフィアが、自身の願い通りに死したとき、多くの精霊が嘆いていた。
その彼らの存在に、きっとエルナルフィアも、少しだけ救われていた。
ハムスター精霊の小さな、ピンク色の手がこちらに向く。エルナも気づくとゆっくりと手を伸ばしていて、エルナの人差し指の上に、ハムスター精霊の手がのっている。
小さな手の先にもふわふわとした毛が生えていて、少しだけくすぐったい。
『これからも……よろしくでごんすよ! エルナ!』
「……うん!」
どうして嬉しいときほど、人は泣き出しそうになってしまうのだろう。
エルナは口元をほころばせ、同時に目尻にきゅうっと力を入れる。
嬉しいときは、笑顔だ。そしたら、向こうから幸せも寄ってくる。
エルナの心の中にいるエルナルフィアも、きっと、今は笑顔に決まっている。
こちらで3章は終了です。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
更新はしばらくお休みしますが、引き続きエルナたちをどうぞよろしくお願い申し上げます!
雨傘ヒョウゴ




