61 変わらぬ道を叫ぶ者たち
「これは、とてもよいお話です」
一人の老人がぱち、ぱちと手を合わせる。いいや、老人ではなく、若者かもしれない。男だろうか、女だろうか。そんなことすらもわからない。深く被ったフードの向こう側から見える目は、爛々と赤く輝いている。
「殺しますよぉ、殺しますよぉ、あなたがたの王は、いつかあなたを殺します!」
芝居ぶった仕草で、赤目は細い指を向ける。
「……はい。この言葉で、アルバルル皇帝の弟君は落ちました。恐怖で縛り付けられている者は、別の恐怖であっさりと傾くものです。はい、はい。貴族の方々にも、わずかながらに囁かせていただきました……。ウィズレインには竜がいると伝えれば、皇帝も興味を持たれましたな。簡単なものです」
ふむ、ふむ、ふむ、と暗い空間を歩く。腰に手を回してゆっくりと歩く様は、やはり老人のように見える。しかし、張りがある声は若々しい。
「皇帝が私のことを信用していない、ということはもちろんわかっておりました。なれば、直接向かうであろうと。なんと簡単なこと。……あの皇帝は自分自身以外、なんの信用もしておらんのです。可哀想なことに……」
憐れむように虚空を見上げ、悲しげに口元を歪める。
が、すぐににこりと柔らかく微笑む表情が、フードの下で覗く。
「ウィズレインは炎の海に。アルバルルは血に沈め。マールズは……おっと。見えてきましたな」
親指と人差し指をつけ丸をつくり、それを赤い瞳の周囲にぴたりとつける。
「おお、おお腕のいい精霊術師なのですなあ。上手に竜の逆鱗を隠していらっしゃる……残念ながら、私の方が一枚上手なようですがねぇ」
赤目の視界に、剣を持った兵士たちが映る。誰もが操られたように鉱山を進む。
その先にあるのは、大きな玉だ。真珠のような、けれども大人が一抱えするほどの大きさがある。
兵士が、剣を振り下ろす——。
「ほれ、かあんっ!」
赤目も拳を振り下ろした。
赤目の他には誰もいない空間だ。しんとして、音の一つもない。なんの反応もない。
「……さて、どうでしょうかな?」
ぽつりと呟く。誰に向けてか顔を動かし、唇を歪ませる。
「アセドナの神に辿り着く者は……はたしておりますかな?」
***
『パイセン……あのう、聞いてもいいっすか?』
ちょこちょこと、フェレが地面を歩いている。人間たちは前に並び、襲いくる者たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げとフェレから見ても恐ろしい。しっぽがぷるっと震えてしまいそうだ。
『ごんす?』
ハムスター精霊は人間に助太刀しようというのか、ひまわりの種をしゃっしゃと振りかぶる練習を繰り返し、二本の足でてちてちと速歩きしている。そんなものがなんの役に立つんだとフェレは思ったが、先輩相手なので口を閉ざす。
「あのう……パイセンは、いつまであの人間の側にいるっすか……? 戻って、くるんすよね……?」
「…………」
てちてち、とハムスター精霊は歩く。フェレは不安そうにハムスターの顔を覗く。
いくら待っても、返事はない。ひくひくと動くだけのヒゲを見つめて、フェレは悲しげに顔を下に向ける。破壊の音が、近づいてくる。
「お、お願いしまあす、精霊さまぁ!」
ハムスター精霊たちの会話など知らず、ケトックは杖を振りかざした。
その瞬間、幾何学的な模様が彼の前に弾け、輝く光が爆発する。侵入した兵士たちが不可視の壁にぶつかり昏倒した。山登りに適さないためか、鎧を着ていないことが向こうの敗因かもしれない。エルナたちの攻撃力に比べ、向こうの防御力は圧倒的に低い。
「予告通り、爆ぜましたよエルナ様! どうでしょう!?」
「私と話したら爆ぜちゃうって、そういう意味だったの……? うーん、やっぱり私が知ってる精霊術とは全然違う……」
「何度見ても魔術と同じ代物としか思えん。ペテンを見せられている気分だ」
「……どなたか俺の活躍を褒めてくれません? やはり俺なんて俺なんて俺なんて……うへ、うへへ……でも精霊様たちと一緒に使う精霊術はとても楽しい……」
「気味が悪いやつだな……。む、やはりこやつらはアルバルルの兵か。しかし、俺の顔を知らんということは……」
倒れた兵士の武器を確認して、リゴベルトは眉をひそめる。
自国の皇帝を相手に、兵士たちはなんのためらいもなく刃を向けていた。
「……誰かに、操られている?」
ぽつりと話したエルナの声に肯定する者は誰もいなかったが、否定する者もいない。
「え」
は、とケトックが顔を上げた。
「……どうかしたの?」
まるで表情が抜け落ちたかのような、信じられないものを見るかのケトックの様子に、エルナは思わず声をかけてしまった。ケトックは、エルナを見ない。ただ呆然と口を開く。
「逆鱗にかけていた、守りが……」
「……逆鱗?」
それはここに来るまでにケトックが話していた、竜の逆鱗のことだろうか。
どうして今、そのことを話しているのだろうとわからない。
からり、と聞こえた音はケトックが手から杖を滑らせた音だ。地面に落ちた杖を拾おうともせず、
「壊れた……」
大地が揺らぐほどの衝撃を感じたのは、そのすぐ後だ。
「……なんだ、これは」
まず反応したのはリゴベルトだ。地面に手をつき、天井を見上げる。氷柱が落ち、水が弾け、精霊たちは悲鳴を上げて逃げ惑っていた。輝くような銀の鉱山が割れるように揺れる。そして割れ目から、空が覗いていた。
ありえないとしか言いようのない光景を目の当たりにして、エルナははっとして小さな精霊たちの手を伸ばす。ハムスター精霊とフェレはエルナの手を駆け上り肩に乗って、ひくひくと鼻を動かし空を見上げる。
「この鉱山は、竜の骨でできています……。その骨が、動いているんです! はやく、鉱山の外に、ひいい!」
「もはや無駄だ。動くな、邪魔だ」
ケトックの上に降り落ちた氷柱をリゴベルトは剣で弾く。
動いている。鉱山が、いいや山が。失われた竜の形へと至る。
——おお、おおお、おおおお……。
荒ぶる竜の鳴き声が、爆風のようにエルナたちに叩きつけられる。
「…………」
エルナはただ、長い髪を風の中で揺らし、竜を見つめていた。
とても、悲しそうに。
「なんで……逆鱗は、隠していたはずなのに……。それに、逆鱗が破壊されたとしても、そこから竜なんて生まれない! なんなんだよ、これは!」
「…………」
無言で腰の剣に手を当て振りかざそうとするリゴベルトを、ケトックが「無理です、やめてください!」と必死に引き留めている。貧弱な精霊術師の力など、なんの意味もないようだったが。
「やめて」
エルナは彼らに目を向けることなく言葉のみで伝えた。
「私がするから。やめて」
「エルナ様……」
竜が鳴く。叫びは大地を揺らし、肌が粟立つ。しかしエルナは、まっすぐに立ったまま竜を見上げた。ゆっくりと右手を上げ、ふうと息を吐き出したが、エルナの指につけられた魔封じの指輪がぴしりと雷のように明滅し、すぐに光は消えてしまう。
「そっか。魔力が封じられてたっけ…」
エルナの膨大な魔力を前にして、封印は破られつつあった。が、わずかに足りない。
『パイセン!? やめるっす!』
指輪を見つめるようにして顔に近づけると、そうっとその手に小さな指が乗る。ひくひく、とピンクの鼻が動いている。
「ありがとう」
柔く、微笑む。
エルナは片手を伸ばした。その細い腕に炎の魔力が渦巻くように包まれる。生きるように炎が躍り、次第にエルナの指先一つに収縮する。膨大な魔力が、小さな指先に集まっている。
「……あんなもの、竜じゃない」
指を向ける。脳天を狙う。
「ただの抜け殻だ」
——撃ち抜く。
轟音が空気すら引き裂き、炎の魔力が叩き込まれる。
竜が暴れ、崩れ落ちていく。残滓のような魔力が周囲を焼いた。エルナは空色の瞳を、哀れな竜に向ける。
(可愛らしい、目をしていたのにね……)
エルナの脳裏に蘇ったのは、ほんの少しだけの過去の記憶だ。人が好きだったのだろう。精霊を愛していたのだろう。じゃあ、空はどうだったのだろう。飛ぶことは好きだった? 誰かを背に乗せたことはある?……たくさん語らいたかった。けれど、もう遅い。
消えてしまった者を嘆いても、ただ悲しいだけだ。それなら、今を生きた方がずっといい。……これも、多分嘘だ。
会いたくて、会えない。ふと影を見た気がして、何もない場所を追いかける。
きっと一生そうなのだろう。
それでいいと、エルナは思う。
「……お前、何者だ?」
リゴベルトの問いは、二度目だ。エルナは肩に精霊を乗せたまま振り返る。
アプリコット色の長い髪を、風の中で揺らしながら。
「……お前が、竜だったのか」
苦しげにうごめいていた骨は、次第に形を変えていく。ぽかりと空にいくつかの穴をあけて、また静かに輝き始める。あいた穴は、きっと竜の肋骨にできた隙間だ。
「エルナルフィアか」
エルナに向き合い、リゴベルトが問う。すっかり腰を抜かしていたケトックが肩を跳ねさせたが、そんなものは見てすらいない。エルナしか、彼の目には映っていない。
もはや問うたのではなく、確認だった。お前がエルナルフィアなのだろう、と。
「……そうか」
リゴベルトは重たい息を吐き、うなだれた。
彼が何を考えているのか、不思議とエルナには手に取るようにわかる気がした。
「……おそらく、俺はお前に好意を抱いている。もしかすると、このような感情を持つことは今後ないのかもしれんと思うほどには」
「……ふうん、そっか」
「竜の力がほしいと願っている。俺はお前がほしいのだ」
「へえ?」
「しかし、俺たちは交わらぬ」
「そうだね。それは絶対に」
見つめ合う。わかっていたことだ。
このとき、ふとリゴベルトは笑った。何もかもを理解したような。諦めているような。
エルナは遠い日々のことを思い出した。ヴァイドの死を見送ったあの日のことを。
穏やかな顔で、ヴァイドは笑った。エルナは、いいやエルナルフィアは、死した男の躯を抱きしめ、あらん限りに慟哭した。
その日も、精霊たちは泣いていた。
「ならば殺す」
剣に手をかける。男はまるで表情と声が合ってはいない。
ああ、でもきっと、間違ってはいない。
「手に入らぬなら殺す。——死ね」
多分、自分は疲れ切っていたのだろう。
たくさんのことを思い出していた。とてもとても、たくさんのことを。
誰もがエルナよりも先に消えていくから、一回くらい、自分が先にいなくなってもいいかもしれない。ふと、そんなことを考えて、振り下ろされる刃を見て、そっと目を閉じた。
……この、馬鹿者めが。
誰かの声が聞こえる。いつまでたっても、エルナのもとに剣が振り下ろされることはない。
はて、と目をあけると、暖かな色が見えた。金の髪の、雨が降ること願う国の、王様が。
クロスの額を伝う汗が、ぽとりと落ちた。
「この馬鹿者めが! 自分より先に俺に死ねと言ったのは、お前であろう!」
剣を受け止め、クロスは叫ぶ。
エルナはゆるりと瞠目する。
ああそうだ。あなたの骨がほしいのだと、エルナは願った。
愛しい者の骨は私のものなのだと。あなたの骨を抱いて眠るのだと。
「うん。そうだなあ……」
知らぬうちに座り込み、愛しい男の背を見上げ、エルナはくしゃりと顔が歪ませた。
どうしてだろう。いつもエルナはクロスを前にすると、心が少し柔らかくなる。弱くもなり、緩くもなり、崩れてしまいそうになる。クロスはリゴベルトの剣を弾き飛ばす。
「怪我人ならば、おとなしく寝ていた方がいいだろうな」
「……っ!」
リゴベルトの腕からは、赤い血が滲み始めている。悔しげに腕を抱え落ちた剣を睨むリゴベルトに、クロスは冷たく金の目を向けた。ただの一瞬。しかし勝負は終わったとばかりに剣を鞘に戻す。
「クロス……どこから来たんだ? まさか……」
鉱山は竜の骨の隙間がぽかりとあいている。ちらちらと覗く空は、随分遠い。
「その通りだ。なあに、空から来るのは得意だろう?」
「……」
「嘘だ。いや、嘘ではない。見てみろ」
クロスが指を差した先を見上げる。
青い空の中に、ぽつりと小さな黒い何かが、泳いでいる。それは。
「竜……?」
震える喉が、やっとのことで言葉を紡いだ。嘘だろう、とそれ以上の言葉を失う。違う、と叫びたくなる。
喜びと、寂しさと、悲しみと、嬉しさと、多くの感情が混じり合い、エルナはただ空を見上げるしかない。
「本物ではないがな。カイルの魔機術でできた、鉄でできた竜だ。短時間ならば空を飛ぶことができるらしい」
「魔機術……。ああ……」
違ったんだ、とよくわからない息が出た。残念なような、それとも安堵するような。
エルナは座り込んだままじっと顔を伏せていたが、クロスはエルナに向かい、手を差し出す。
「嫁のもとに来るのは、夫の義務である。そうだろう?」
返事はしない。代わりにクロスの手を取り、立ち上がる。「んん?」と愛しげな顔をしてエルナの顔を下から覗き込むように窺った。
エルナは、なぜかとても頬を膨らませて、ぶうたれた顔をしていた。
「この……」
「うん? どうかしたか」
「この、浮気者! わ、私以外の竜の背に乗るだなんて……信じられない!」
「う、うわき……?」
「そうだ、浮気だ! これだけは、絶対に許せない! 他に女を見つけるのはいい。まだマシだ! でも、これだけは! わ、私がいくら空を飛べなくなったからといって……信じられないほどの屈辱だ!」
「待て、心情を理解はするが、まさか鉄の竜でもその判断になってしまうのか……!?」
ぼかぼかクロスに拳を向けて、受け止められるを繰り返す。
「……くっ」
その様を見ていたのだろうか。いつの間にか座り込み片手で額を覆っていたリゴベルトが、顔を伏せて大声で笑った。杖を握りしめたまま小さくなっていたケトックはさらに小さくなり、ケトックの足元にはハムスター精霊と、フェレが避難している。
「はっはっは……驚くほどに仲がいいことだ」
「だろう? 残念ながら引き裂けんほどの仲だ」
「肩を抱くな! ついさっき、婚約の解消を考えてたとこだよ……!」
手を弾いて怒るエルナに、「まさかそれほどなのか……?」と衝撃を受けているクロスを無視して、リゴベルトは皮肉げに笑う。
「……わかっている。お前の力が手に入ることがなかろうとも、その力を、帝国に向けることはないのだろうと。貴様らと、俺の道は交わらん。しかし、交わらぬということは、ぶつかり合う必要もないということだろう。アルバルルは、ウィズレインと敵対する必要はない……」
エルナたちに向けた言葉ではなく、自分自身に言い聞かせるように、囁くように話す。
次第にぴたりと話すことをやめた。
ふう、と息を吸い込み、額に当てた手を強く握る。
「過去の行為への、謝罪は行わぬ。公的な場で述べた発言を覆すわけにはいかん。……しかし、俺個人としてここに誓おう。アルバルル帝国は、ウィズレイン王国からの攻撃を受けぬ限り、こちらからは手を出さぬことを誓う。この返答で、かまわぬか」
——ウィズレイン王国の国境を、今後断りなく越えること禁じる、というのはどうか?
マールズが同席する場で、提案された内容だ。
「ああ」
クロスはリゴベルトを見下ろし、薄く口元に笑みをのせる。
「……十分過ぎるほどだ」




