60 フェレーット!?
エルナは鉱山の壁面をぽかんと見つめていた。ついさっきまで、クロスと会話をしていたというのが嘘みたいだ。
「魔機術……すっごいな。これは便利というか、便利すぎるというか……ねえ、大丈夫?」
エルナが問いかけた先には、黒いぼろ布が蹲っている。布の端は煤けているし、もそもそごそごそしているし、間違いなくボロ布なのだが人間だった。
「ぜひゅー、ぜひゅー、ぜひゅー、うううう、魔機術しんどいむりむり精霊術との掛け合わせとかむりむり人間ができることじゃないむりむり」
「おおーい……ちょっと休む……? 水とか持ってこようか……?」
「おおおおおやめくださあい!」
黒いローブを被った陰気な男が顔を上げる。彼こそウィズレイン王国が鉱山へと派遣した優秀な精霊術師である。
「おおおお俺なんかがエルナルフィア様の手ずから水をいただくなんてことがあれば、あまりの衝撃に爆ぜて死にますぅうう!」
「…………」
『どんな人を派遣したの?』と以前にエルナがクロスに、問いかけたとき、『精霊術師の腕としてはなんの問題もない。精霊術師の腕は』と二度繰り返された理由がなんとなくなかった。この精霊術師、なぜだかとても自己評価が低い。
なんで水を上げただけで人が爆ぜねばならないんだ、とエルナは無言で男を見つめる。
背が低いように見えるのは、猫背が体に染み付いているからだ。顔立ちはそこそこ整っているのに、常に眉は八の字で泣き出しそうだし、さらに目の下の隈はとてもひどい。まだ二十代そこそこにだろうに、ぐっすりと寝てほしい。
ケトックと名乗った精霊術師は、部屋で休んでいたエルナのもとを訪れ、街と繋がる魔機術が置かれているこの場所へと案内してくれた。リゴベルトにも声をかけたのだが、返事もなかった。多分起きていたくせに。
ハムスター精霊とフェレを仲良くエルナの両肩に乗せ、ケトックに道案内してもらったわけだが、途中、ケトックはただでさえ不健康そうな顔をさらに青白くさせて、
『あなた様は、何者でいらっしゃいますか……?』
と、涙ながらに伝えてきた。
ケトックの目には、エルナの周囲に楽しげに泳ぐ精霊たちの姿が目に映っていたのだ。特にこちらから何を伝えたわけではないのだが、『城にいるときエルナルフィア様の生まれ変わりが来たと、精霊たちから耳にしましたけどもしや……!?』やら、『え? そうなの? 本物? うそやっぱり? ああああどうしようどうしようどうしよう』やら、周囲の精霊と話して一人納得してしまい、なぜかよぼよぼと、持っていた杖をついて移動していた。優秀な精霊術師であることは十分に理解したが、大丈夫だろうか。
「エルナルフィア様……申し訳ございません、自分の力ではこれ以上、街と通信を繋ぐことができず……」
「あの、一応言うけど、私はエルナルフィアじゃなくてエルナだよ」
「ご承知ィ!」
ぜえはあしすぎてケトックの口調がおかしくなっている。なんだかどうでもよくなってきた。
しばらくの間ケトックが落ち着くように見守っていると、「はあ……」とケトックは長いため息をついた。
「……どうかした?」
「いえ、本当に……美しいなと」
ケトックはまるで愛しいものを見るかのようにエルナを見た。けれども違う。エルナではない。エルナの周囲を祝福するかのように笑い、舞い落ちる精霊たちを、ケトックは見ている。
この人は本当に精霊が好きなんだな、と不思議な気持ちになってしまった。エルナの視線に気がついたのか、ケトックは少し決まりが悪そうに頬をかき、ぽそぽそと話す。
「俺は……本当に、精霊様のお力をお借りせねば、何もできない存在なので……まあ、あれです。精霊術師など、みんなそうです。精霊様の下僕です」
にっこり笑って、どぎついことを言っている。いやそんなことはないと思うが。
「それにしても、やはりエルナルフィア様……いや、エルナ様ほどになると、契約していらっしゃる精霊様も、違うんですね……」
「え?」
肩に乗っているのはハムスター精霊とフェレだ。ケトックは両手を握りしめるように合わせて、きらきらとした瞳を二匹に向けている。『違うといえばたしかに普通の精霊とは違うかな?』とエルナが改めて感じていたところ、二匹はふんふんと鼻を鳴らした。
『手下になるっす?』
『ひまわりの種持ってこいハム』
「やめなさい、やめなさい」
ケトックなら本当にひまわり畑を探しに行きそうで怖い。ひまわりを育てるところから始めそうだ。というか、「行かなくていいんですか?」とばかりにすでに綺麗な目でこっちを見ている。
「うん……ケトック。この二匹のことはとりあえず気にしなくていいから。……さっきの魔機術をもう一度使うのは難しいんだよね?」
「はい……俺の体力も必要ですが、この場所にある特殊な魔力を溜めなければならず……。あ、でももうすぐ使節団が来るらしいので、その人たちと一緒にお帰りになれば安心だと思います」
「そっか。うん、他の人にも聞いた。帰るのは私だけじゃないから、そうしようかな」
本人曰く、もう十分に回復したと言っているリゴベルトだが、実際のところはわからない。まさかエルナが担いで下山するわけにはいかないだろう。エルナは問題ないが、向こうは威厳というものも必要だろう。それにどうやらリゴベルトはこの山に嫌われているらしいので、万全を期したいところだ。
「改めてお部屋にご案内します。先程までの場所は、普段は兵士が詰めているところなので……あんな部屋を陛下の未来の奥方に使わせるわけにはいかないです」
「そこまで気にしなくてもいいけど……まあ、一人で部屋を使うことができるなら、それに越したことはないかな」
互いに意識を失っていた間ならともかく、他国の皇帝と同室を使うというのは世間体が悪すぎる。だというのにマールズの兵士に案内された理由は、おそらくあちらも半信半疑だったのだろう。ケトックと会うことで、エルナはやっと身元の証明ができたというわけだ。
「……綺麗だね」
ケトックの背に続きながら、エルナはふと呟いた。
ぽちょん、ぴしょん、ぽちょん……。エルナが歩いているのは鉱山の中だ。近くからも、遠くからも、静かな水音が絶えず響く。普通なら鉱山といえば土色をした壁を歩くのだろうが、ここは銀色。壁も、天井もまるでクリスタルのように輝き、氷の城を歩いているようだ。
「はい。過去にこの山に住んでいたという、竜の骨がもとになって作られた鉱山ですから。いうなれば、私達は竜の腹の中にいるということです」
「腹の中か……」
星の輝きをまとった天井を見上げると、氷柱のような形の石を伝ってふくふくと水の玉が膨らんでいく。あるときを境に水はぱっと弾けるように落ちて、また水の玉を作る。水が弾けた際に見せるきらめきが、鉱山全体を宝石のように見せているようだ。
エルナの口から、純粋な、感想が漏れた。
「……うん。すごいな」
「とはいえ、その腹の中に部屋を作ってしまっているので……いわば、肋骨の隙間にぽん、と部屋を押し込んじゃったというわけで……不敬というかなんというか、いいのかなぁ、ともととなった竜の心情を心配してます」
「大丈夫だよ。ここの竜は人好きだったようだから、きっと許してくれる」
エルナとリゴベルトが眠っていた部屋の周囲は木の板で覆われていた。たしかにこのきらめきを四六時中感じていたらおかしくなってしまいそうだ。ヴィドラスト山は精霊に守られているため周囲は切り開きづらく、鉱山の中に部屋を作るしかなかったんだろう。
森を通り抜けたときにわずかに出会った過去の竜の姿を思い出し、堪えきれなかった笑みがエルナの口の端に残る。
「……愛が伝わりますね」
「は?」
何を言っているんだと素っ頓狂な声を出してしまったが、ケトックはにこにこ嬉しそうな顔をしている。冗談でもなんでもなく、本気で言っているようだ。『愛が伝わる』というのが、『ここの竜は人好きだった』というエルナの言葉にかかっていると理解した後で、なんだか毒気を抜かれる人間だな、と呆れたような顔をしてしまう。
「……あなたは変な人だねぇ」
「いやあ、エルナ様ほどでは……。竜の生まれ変わりにお会いするだなんて初めてですよ……」
言われてみればそうなので、これ以上の会話を深堀りするのはやめておくことにした。肩に乗っているハムスター精霊とフェレが全力で頷いている。二匹になった分、行動が激しい。
「……そういえば、鉱山というわりには人の姿を見かけないね?」
「ああ、はい。鉱山としての活動はまだ行っていないんです。精霊に俺を覚えてもらっている最中というか、交友を深めているというか。なので基本的にはいるのは見張りの兵士さんだけで、入り口も精霊術で閉ざしています。昨日からはそろそろ使節団が来るかなと入り口の守りを解除してたんですが……そうじゃなきゃエルナ様も鉱山に辿り着いてないです。運がよかったですよ、本当に」
「というか、正規の道で来ないと死ぬほど辛い思いをするはずなんですが、どうやって来たんですか……?」と、ケトックが眉をひそめているが、「そこはまあ色々だよ」と適当にごまかした。
「そっか……。竜の骨の中を掘り進めるわけだもんね。精霊の許しがなきゃ追い出されるか」
「そういうわけです。あとは竜の腹の中ですからね。もちろん逆鱗もありますから、そこも念入りに守りを施している最中です。万一触ってしまったら大変です」
「……逆鱗?」
「逆鱗ですよ?」
はて、と首を傾げるエルナに、さらにケトックが反対に首を傾げる。「だから、逆鱗ですよ……? エルナ様、竜ですよね……?」と、言われてもエルナは自分の鱗の色すら知らなかった女だ。
竜は他の竜と関わることなく生きるので、竜の常識など知るわけない。
「逆鱗というのは、絶対に絶対に触っては駄目な鱗のことです。この鉱山のどこに保管しているのかということは、エルナ様であっても言えません。とても大切なものですからね。探しても無駄ですよ。俺が何重にも守りをかけているので、誰にも見つかりません。ふふふう」
「へぇー……」
「へぇーじゃないですよ、なんで知らないんです!?」
「いやだって……鱗って一枚だけあるってこと? 体中全身鱗なんだからさあ、自分の体なんて見えないし、手が届かないところもあるし、人間だって自分の中にどこか一本抜いちゃだめな毛があるなんて言われても、ええー? ってならない? どれのことだよって」
「ええ……あのう、一つだけ反対になっている鱗とか、そういう」
「知らない。やっぱり見えない場所にあったんじゃない?」
「そういう話ですかねぇ……?」
多分そういう話だろう。うむ、と力強く頷くと、ケトックは諦めたような顔をする。そうした後で、「はわあ……」と夢見心地のようにとろんとした顔をして黒いローブを嬉しそうにひらひら動かした。
「はああ。まさかこんなにエルナ様とお話しさせていただくことになろうとは……。恐れ多すぎて、爆ぜてしまいそうです……」
「……勝手に爆発しないでね。そうだ。部屋に案内してくれるとは言ったけど、やっぱりリゴベルトのところに寄ってもいい? 狸寝入りみたいだったし、傷の具合も確認したい」
「いいですよ。うーん……エルナ様とこちらに来る前にあの方の傷も精霊術で補強しようとしましたが、あんなに精霊術がかかりにくい方はないです。相性が悪すぎて……でも、自力で大半治ってましたね。あの方もなんらかのお生まれ変わりで?」
「多分ただの化け物じゃない?」
エルナがとても適当に答えた後に、二人は道を変え進んでいく。ふと、エルナは耳を澄ました。水の音以外に、大勢の人間の足音が聞こえる。
「……誰か来るな」
「使節団の方ですか? 来たら教えてもらえるように、兵士さんには精霊術を分けておいたんですけどねぇ。見張りの人は今は入り口にいるはずなのに」
ケトックはまだ事態を理解していない。エルナは目を細め、ハムスター精霊とフェレにそっと手を伸ばす。ハムスター精霊はエルナの手が動く前に、さっと地面に飛び降りたが。
「あ。使節団の皆さんですか? すみません、こっちはまだご案内できる場所じゃなくて」
剣を腰に携えた厳しい顔の男たちが次々に鉱山に足を踏み入れる。
あはは、と笑いながらケトックがエルナの前に出る。
「……え?」
剣が、振り下ろされた。ケトックは目を丸くしてその様を見ていた。即座にエルナはケトックのローブを引く。「ぐえっ」首が絞まったことを無視して、そのまま後ろに引き倒す。突如飛び出たメイド服の女を前に、使節団ならぬ奇妙な男たちはぎょっとした顔をする。ケトックに振り下ろされたはずの剣は地面に突き刺さった。エルナはその剣を踏みしめさらに深く埋めたのち、肩に乗ったままであったフェレをむんずと掴み、
『……はうん?』
力一杯、天井に放り投げた。
『フェレーーーーット!?』
飛び上がるフェレを地面から見上げて、『気の毒でごんすなあ……』とハムスター精霊は呟いている。
フェレとハムスター精霊は上位の精霊だ。人に対して姿を見せることもできる。叫びながらぐるんぐるんと天井付近を回る白い謎のフェレットを、男たちはみな一瞬程度には、見上げた。その隙を、エルナは見逃さない。エルナたちの前に立ちふさがったのは、合計、五人。彼らの間を走り抜けるが如く、蹴りと拳を叩きつける。
「はい、おしまい」
ずとずとと音を立てて、くずおれる男たちの姿を、ケトックは尻もちをつきながら眺めていた。いや、目にしてはいたが、多分よくわかっていなかった。
「え? あれ、え?」
きょろきょろと周囲を見回した後で、エルナを見る。地面に突き刺さったままの剣も見る。
「えっ? なんで? っていうか今俺、斬られそうになりました? なりましたよね!? 誰ですかこれ! 使節団じゃないですよ絶対! えっ!? もしくはほんとに使節団で、マールズに殺される感じです!?」
「聞かれても私も知らないけど……」
とりあえず歯向かってきたので、ぼこぼこにしてやっただけで。
「え……、エルナ様、すっご……。やられた一発目でそれ以上にやり返すって……うっわあ、ひゃわあ……こわ……エルナ様が……」
「ものすごい言われようね……?」
頭の上では投げ捨てられたフェレが他の精霊に助けてもらったらしく、精霊たちに支えられつつくったりと力なく気を失っている。ハムスター精霊が『こっちでごんすー』とはたはたと手を振って弟分を迎えていた。
「……それより、鉱山に入ってきたのはあいつらだけじゃないみたい。見張りの兵士は入り口かな……あっ、そういえばリゴベルトは」
エルナが口に手を当て思い出した瞬間、目の前を男がかっ飛んでいく。服装からおそらくエルナが倒した男たちの仲間だろう。人間が吹き飛ばされる姿など中々見ないわけだが、そこから悠然と歩いてきたのはもちろんリゴベルトだ。
「なんだこいつら。ぶっ殺すぞ」
多分寝ているところを襲われてそのまま反撃したんだろう。リゴベルトはずしんと肩に剣をのせて苛立ったように敵を見下ろす。利き腕の怪我も毒も、どうやら完治したらしい。
「……敵であるとしても殺さないで。ここはマールズなのだから、あなたの好きにすべきじゃない。それに目的を知りたい。生け捕りにして」
「ハッ。エルナ。貴様も全員のしているように見えるがな。そちらの方が好き勝手しているのではないか?」
「怖い……ウィズレインに帰りたいよお」
『フェレ……? ここは、どこっす……? 神様のとこっす……?』
『ちゃんと目を覚ますでごんす。ヒマワリの種アタックでがんす。オラオラ』
『ひゃわわわん! パイセン!? ハムパイセンやめてくれっすう!』
はてさて、ここに謎の一団が結成された。
アルバルル帝国、皇帝。ウィズレイン王国、国王の婚約者、そして精霊術師。謎のフェレットとハムスターの精霊である。
「生け捕りは面倒だ。百歩譲って殺しはしないにしても、あちらの人数の方が多い。どうするつもりだ?」
「わかった。こうしよう。殺さない程度に全員ぶっとばす。そして後のことはぶっとばした後に考えるというのはどう?」
「悪くはない。面倒は少ない方がいい」
「よし、決まった。殺さないくらいにぶっとばすのはとても得意だから。人間はすぐ死ぬからね」
「うわあ怖い……怖いけど、負ける気がしない……うえええん! 精霊たちと戯れることができる素敵な職場と聞いたのに!」
ぎゃわあん、とケトックは泣いた。しかしそんなことで許してくれる者たちではもちろんない。
進む。剣を構えて、拳を握りしめて、杖を持って。
ヴィドラスト山は、マールズ最大の危機を迎えていることを、彼らはまだ知らない。




