58 生まれる前から、出直してきて
エルナたちがヴィドラスト山につき、すでに丸一日がたっていた。
大笑いしたのちそのままエルナは意識を失ってしまい、鉱山にいたマールズの人間たちでは状況の判断がつかなかったためだ。本来ならすぐにでもクロスたちに自身の現状を伝える必要があったが、こればかりは仕方ないと思いたい。
なんせ一人はメイドのお仕着せ、もう一人は貴族には違いないが、剣で切りつけられた傷があり、立派な剣を保有している。メイドと騎士のようにしか見えなかったわけだが、なぜかメイドが騎士を背負ってやってきたという、とても奇抜な光景に、対応しろというのは無茶な話だ。
マールズの人間が隣国である帝国の皇帝の顔も、エルナのことも知るわけがないのだ。
「ま、まさかクロスガルド王のご婚約者様と、アルバルル帝国の、皇帝でいらっしゃるとは……」
やっと目を覚ましたエルナを前にして、マールズの兵士は口元を引きつらせていた。
説明した今も、若干信じてもらえていない節がある。これに関しては仕方ないな、と思うしかない。
「ウィズレイン王国から訪れている精霊術師様ですが、今は少し鉱山にはいらっしゃらず……周囲を探索しているとのことですので、もうしばらくお待ちください」
「わかりました」
「では、私は部屋の前で警護をしておりますので。マールズからの使節団も着くはずですから、しばらくはご安静に」
兵士の言葉にエルナは頷き、ベッドの上に座り直す。すぐ側にあるチェストではハムスター精霊とフェレが、オラオラぴしぴしと二匹で拳をぶつけ合って遊んでいた。ストレス発散だろうか。
部屋は宿屋とそう変わらない。普段は兵士たちの寝床として扱われているのだろう。大きなチェストが一つと、食事ができるテーブルと椅子。それから、小さなベッドが二つ。そのうちの一つには大きな足が投げさられるようにはみ出ている。
「……起きた?」
「ああ」
リゴベルトは低い声で返事をして、ベッドに仰向けに転がったまま片腕を確認している。
「鉱山に着いて、丸一日がたってる。私も意識を失っていたから、さっき色々と聞いたところだけど、あなたの傷の処置はもう終わっている。マールズの人に感謝した方がいいね」
なんせ、どこの誰ともわからない人間の手当をしてくれたのだから。
実際、アルバルル帝国の皇帝と知られていれば、逆にどんな対応だったのかは不明だが。血も涙もない皇帝として、リゴベルトは有名だ。
リゴベルトはエルナの言葉に何を言うわけでもなく、ぽすりと右腕をベッドに投げ出す。
「あと、私達の所在をクロス――ウィズレインの人々や、アルバルル、もしくはマールズに伝えてほしいとお願いしといた。ちょうど視察のためにマールズから使節団が来るけど、それよりもウィズレインの精霊術師なら、精霊術でもっと早く伝えることができるから、今は精霊術師を呼び戻してもらってる」
「は、精霊術ねぇ……」
リゴベルトは小さく鼻で笑ったが、それ以上は何も言わない。エルナは自身のベッドの上に座ったまま、ちらりとリゴベルトへ振り返る。
「ちょっとは、信じる気になった?」
ふふん、と自慢げな顔である。精霊のことをお伽噺だの、精霊術と魔術は同じものだの、色々と言われたことに対してやはり少し思うところはあるのだ。
「…………あのような光景を見せられれば、嫌でも多少は理解するわ」
「ふふふん」
エルナが竜と対話をしていたときリゴベルトは意識を失っていたが、季節外れの吹雪の中、エルナの背に乗り山を登ったのだ。あれは現実ではないとわかったのだろう。エルナはさらに嬉しそうな顔をする。
「……それで、体の具合は? 熱は引いたようだけど、食事はテーブルに置いてくれているよ。食べる?」
「何も問題はない。もう少しすれば通常通り動く。食事はいらん」
「そこそこ化け物だねえ……」
多少のやせ我慢はあるだろうが、人間としては驚異的な回復力だな、とエルマは瞬く。
「それはこちらのセリフだ。……お前、何者だ」
「…………」
言われるであろうことはわかっていたので、エルナは無言で微笑む。
上手い返答が思い当たらなかった、というだけでもある。
「……まあいい」
よし、ごまかせたな、とリゴベルトとは反対を向いて、ぐっと拳を握ったときだ。
「お前、エルナ。帝国に来い」
「……はい?」
「あちらと同じ条件で我が国にも引き入れてやろう。肯定以外の返答は許さぬ」
こいつは何を言っているんだ、とエルナはぽかんと口をあける。
「同じ条件って……私が、あなたの婚約者に、いや妻になるということ?」
「それ以外はなかろうが。婚約者というからには、クロスガルド王の手はついておらんだろう。なに、もし手がついた後というのなら、その程度は忘れさせてやる」
冗談か何かかと、エルナはしばらくの間、ベッドに横になったままのリゴベルトと視線を合わせた。瞬き一つせずに、じっとエルナを見つめる姿を見て、そうかとエルナはため息をついた。
呆れたわけではない。きちんとした言葉にすべきだろうと判断しただけだ。
「あなたの行動の裏には、平和を望んでいる心があることは知った。けれど、そのために手段を選ばないというのはいただけないな。私は人が死ぬのが嫌いなんだ。平和じゃなくとも、死なない方がいいと思ってしまう」
「なぜだ。一人、二人が死んだところで、千人が救われるのならばなんの問題もあるまい」
「ないかもしれない。長い目で見れば、あなたの方が正しいだろう。でもこれは譲れない。私とあなたは、一生交わらない」
きっと平行線の関係だ。見えない線が、すっと横切るようにクロスとリゴベルトを分ける。どちらがいいでも、悪いわけでもない。ただ互いに譲ることができない。それだけのことだ。
「それに忘れさせてやると言われてもね……」
エルナはベッドに手を乗せ、わずかにのけぞる。
ふ、と口元が笑っている。
「忘れることなど、できるわけがない」
それができるのなら、とうの昔にそうしていた。
「残念ながら私と、私の夫の絆はそれほどやわではないんだ。どうしてもと言うのなら、生まれる前から、出直してきてもらわないとね」
自然に口から出た言葉には、なんの違和感もない。
見ると、リゴベルトは曖昧な表情のまま眉間の皺を深くしている。
なんだか妙な顔つきだった。
「……どうかしたか?」
「いや、お前は婚約者だろう。クロスガルド王はまた夫ではないと聞いたが、どちらだ?」
「……ん?」
言われてみればそうだし、自分はさんざん妻ではないと言っていた側の立場である。
「…………」
エルナは静かに片手で顔を覆った。
生まれ直したいのはこっちである。とうとう自分までクロスと同じことを言うようになってしまった、とよくわからない後悔をしてしまう。
気まずい空気の中で、ハムスター精霊とフェレが、どすこいどすこい、とぶつかり合って遊んでいた。どすこいハムハム。どすこいフェレフェレ。
***
クロスのもとにエルナがリゴベルトとともに鉱山に辿り着いたという報が届いたのは、それからすぐのことだった。




