56 神話の中に生きる者
「あんまり採りすぎたくはなかったから気を使ったけど、ちょうどいい数になったかな」
袋から魚を出して布の上に並べ、ついでに持っていた他の布で自身の足を再度丁寧に拭く。濡れた布は木の枝にかけて乾かしておけばいい。カイルが持たせてくれた布袋には、カカミなりの防災用具がたんまりと入っている。
「…………」
衣服を正し、魚の前に座る。目を瞑ってしばし口を閉じた。
ぱっと目をあけ、淀むことない手つきで魚の処理を行う。串を通し、焚き火の準備。燃やす枝と落ち葉はすでに集めてある。エルナは袋の中から、カカミセットを取り出した。手のひらサイズよりも小さくて、蓋を開けてフリントホイールと命名された、歯車のような小さなでっぱりを回すと火花が散る。カカミが作った簡易の着火装置だが、今は火花が散るのみで、火が燃え出るわけではない。
『小型の道具でも火を生み出すことができたら便利だなと思って作ったんだけど、この間、王都が燃えたばかりだからね。ちょっと、まだ気が進まなくって、調整ができていないというか。未完成品なんだけど、外側の使い勝手だけでも確認してみて』
——ごめんね、使うよ。そう心の中のカカミに伝えた。
未完成品だと話していた着火装置からは、小さな赤い火が躍るように燃え上がる。
エルナの本来の力は魔封じの指輪で抑えられている。ウィズレインの地に近づくことで、少しずつ綻びが出き、火花を燃やす程度ならば可能となった。しかし燃やす火花がなければ、どうすることもできない。
魚を焼いて、ため息をつく。
もふもふした精霊たちは、焚き火に手を向けてほんわりと嬉しそうな顔をしていた。毛皮を焦がさないでくれよと心の中で呟く。エルナも彼らの隣に座り込み、じわじわと魚が焼けるのを待ったが、そうだと疑問を尋ねてみることにした。
「……ねえ。さっき、あいつが帝国には精霊が存在しないって言ってたけど、そんなことある?」
マールズのように特殊な地を除き、精霊とはどこにでもいるものだと思っていた。お伽噺とまで言われてしまい、実はとても困惑している。
『帝国にでもどこにでも、精霊はいるでごんす』
『あったりまえっす~』
なので、二匹の精霊に肯定されると知らずにほっとしていた。
「じゃあなんでリゴベルトはあんなことを……?」
『帝国のやつらは精霊の存在を端から信じてないんすよ。精霊は存在を信じて、そこにいることを認めて初めて力を貸してくれやすからねぇ。言葉には魔力が宿り、語ることは力になるでやんす。語らぬということは、存在しないことと同じってことっすぅ』
流暢に話すフェレットであるが、そもそもこいつは何者なのかという疑問に行き着いた。よくわからない精霊が増えすぎて、そろそろエルナには対処ができない。ちなみに最初にやってきた意味がわからない精霊とは、もちろんハムスター精霊である。
フェレットはエルナの視線に気づいたのか、二本の足ですらりと長い体を立たせてむふん、と胸を張った。
『おいらは見てわかる通り、上位精霊っす。この近くによく遊びに来てるっす。そしたらパイセンの気配を感じたので、思わず飛んできちゃったっす!』
見ても全然わからないし、焚き火が温かいのでエルナとハムスター精霊はフェレットを無視して両手を火に向けている。
『ふむ~~~ん。ヴィドラスト山で出会った高貴なる精霊……と、いう意味でぜひ、おいらのことはヴィドラと呼んでくれっす!』
「ヴァイドとかぶるし別にフェレちゃんでよくない」
『フェレでいいでがんす』
『フェレーット!』
まさかそれはショックの鳴き声なのだろうか。フェレットの精霊、もといフェレは短い手足を広げて立ち、天を見上げている。しばらくそのままでいたかと思うと、よいしょと座り込んで一緒に焚き火で温まった。
『帝国で精霊は存在する、なんて言ったら異端者扱いらしいっすよ。魔族に対してもそうっす。太古の昔から、魔族と精霊は敵対関係っすからねえ。片方の存在を認めないのなら、もう片方もいないってことっすよ』
「ふうん……。そういう意味だったか……」
——そう言わずに、少し付き合え。今も古臭い神話の中に生きる王よ。
魔族は存在しない、そして精霊もいないとなれば、ウィズレイン王国の建国の物語から嘘くさく感じることだろう。
勇者ヴァイドは誰もが恐れるはずの火竜エルナルフィアを仲間とし、宝剣キアローレを片手に魔族に果敢に挑んだ。これはウィズレイン王国建国の礎となる物語だ。もちろん、色々と盛っているところも多いので、お伽噺であると鼻で笑われてしまうと、その通りであると返答するしかないのだが。
「……ウィズレイン王国だってもとは帝国の一部なんだけどな」
長い年月は、いつしか人々の心を変えてしまったのだろう。
(帝国が圧倒的な強さを誇る理由……それは広大な国土と、武器と兵力を保有していることにある。けれどその強さの一番の理由は、飢饉に悩まされることのない豊作の大地にあると聞いた……)
ブラウニー夫人の授業で得た知識だ。どれほど強く、人の数が多かろうと食料がなければ人は生きてはいけない。他国の力を必要とせず、自国の生産のみで成り立つということは、それだけで驚異的な存在だ。
けれど、それほど広大で豊かな土地となれば、きっと多くの精霊たちがいるはずだ。
かの地に存在する精霊たちは、存在を知られずにただひっそりと生きているのだろう。
それは——想像すると、少し寂しい。
『デリシャスハムハム。デリシャスハムハム』
「ねえ、最近ハムをつけておけばなんでもいいって思ってない?」
ハムスター精霊が焼き魚をはふはふ美味しそうにかじっていた。さらにどこから取り出したのかデザートのひまわりの種を取り出し、『ベリーデリシャス!』と叫んでいる。
「ま、精霊からすれば、そんなことどうでもいいことか……」
『おいらも食うっすう! 食うっすう!』
「はいはい。どうぞどうぞ」
最近、少し人寄りの思考をしすぎかもしれない。
うーん……と、エルナは目を瞑って、腕を組んで考える。お前は人だと、もう竜ではないのだと話し腕を引く男の姿を思い出して、くつくつと笑いがこみ上げてくる。
(うん。好きなだけ、私の腕を引いてくれ……クロス)
それは愛しい男の名だ。竜の鱗で繋がっているとはいえ、こちらを案じているに違いない。
よし、とエルナは焼けた魚をもりもりと口にする。いただいた命に丁寧に礼を伝え、今度は別の木陰で休んでいるリゴベルトの様子を窺う。
(考えてみれば、こんな機会はそうそうないことだ……)
一国の王と、腹を割って話せる機会など、今後いつあるというのか。
こうして関わってみると、リゴベルトは人づてで聞いた噂よりも、話し合うことができる男のように感じた。とはいえ、心を許す気は毛頭ないが、対話が可能ならばそれに越したことはない。
「焚き火の確認をお願いしてもいい?」
精霊二匹に確認すると、彼らはしゅぱっと短い手で敬礼する。何かあれば教えてくれるくらいのことはできるだろう。
さて、とエルナはリゴベルトのもとへ向かった。リゴベルトは木の下であぐらをかいて座り込み、じっと魚を見下ろしていた。もちろん生のままである。この皇帝は、何をやっているんだろう。
ぐおおおおおおおお。
また獣のような腹の音が、リゴベルトから鳴り響いた。
「…………」
「…………」
リゴベルトはむんず、と魚を鷲掴む。そしてそのまま口を開き——いや待て。
「こら! あっちに焚き火があるから! 変な意地を張るな! 人間のくせに生で食べてどうする! 腹を壊すぞ!?」
「ふん……。そんなものを用意して、毒を仕込んだものとすり替える気か? 毒ならば体に慣らしている。残念ながら無駄なことだ」
「残念なのはあなたの行動だよ! というかさっきからずっとそうしてたのか!? 声くらいかけてくれ!」
なるほど意固地な男だ。助けを求めるのがよほど苦手と見える。
焼けた魚を持ってきて食すリゴベルトを横目で見ながら、エルナは、はあ、とこっそり短い息を吐き出した。
重ねて感じる。やせ我慢が得意な男は、こんなときはとても面倒だ、と。
「ねえ。食べながらでいいから聞いてほしい。あなたは精霊の存在がお伽噺だと言ったけれど、実際に存在するんだよ。いいや別に信じてくれなくてもいい。あなたのいうとおりに、精霊を視る目を持つという意味は、ただの自然のあり方を把握しているだけと、そう捉えてくれても構わないから」
必要なのは事実ではなく、結果そのものだ。
エルナが迷いの森を踏破できるという、結果だけを見てくれればいい。
「だから、私を信じてついて来てくれないか? だいたい、こんなところに来てどうするつもりだったんだ。水の音に向かって来たとはわかるけど……」
「……この沢は、ヴィドラスト山から流れている。ならば、沢にそって森を登れば鉱山にたどり着くはずだ」
「……無茶苦茶な」
理屈としてはわかる。が、鉱山まではまだ距離がある。途中どんな道があるかわからない。それこそ崖のようになっている場所もあるかもしれないし、沢の近くはぬめっていて、足を滑らせやすい。体力が万全なときならばともかく、自殺行為としか思えない。
「お願いだ。恩を売りたいだけで、こう言っているわけではないから。私はあなたに毒を盛ることはないし、必ず弟君のところに送り届けると誓う。私は、ただの一人とて人の死を見たくないんだ」
リゴベルトの返事は、なかった。
その横顔を見れば、何を考えているか薄々想像はできる。
エルナを無視して、自分自身の力で鉱山を目指そうとしているのだろう。
「……あなたは、少しちぐはぐだな。人の命をなんとも思わないかと思えば、私を助けようとするし、精霊を信じていないというのに、竜の力を求めるという」
どうせエルナの言葉を聞きもしないのだ。なんの意味もない呟きだった。
けれど、リゴベルトはぴたりと動きを止めた。食べ終えた魚の骨を投げ捨てる。
「竜は、力だ」
「……え?」
「俺は、力がほしい。ただ望み、欲している。いや、手に入れるべきだろう?」
リゴベルトは立ち上がり、熱を持った瞳でエルナを見下ろす。黒く濁った、ヴァイドと少しだけ似た色の瞳で。
「——すべての力は、我が帝国が手に入れるべきだ」
当たり前のこととして、彼は話した。
そのことに一片の疑問すらも持たず、決まり事を諳んじただけという、感情すらも伴っていな声のままで。
「……何を」
お前は、何を言っているのだと困惑の感情がエルナの眉根に表れる。
しかし、はたと気づいた。リゴベルトの焦点はどこか合わず、エルナではなく、どこか遠くを見つめている。黒い瞳が泥のように濁り、ゆるりと体の力を失う。
「……おいっ!?」
くずおれそうな男の体躯をエルナは抱え、声を張り上げた。
リゴベルトの額がエルナの肩につく。意識がない人間の体というものは、じんと重たく感じるものだ。リゴベルトの腕の傷に巻かれた布が、じわりと赤黒く染まっていく。ひたひたと流れた血が、リゴベルトの指先を這い、一滴、ぽとりと落ちた。




