53 ハムじゅらあああああ!
「…………」
「…………」
エルナとリゴベルトは変わらず堂々と胸を張ったまま睨み合い、しばらくそのまま無言でいた。
リゴベルトは眉間の皺をさらに増やし、虫か何かを見るような目でエルナを見下ろし、エルナはわずかに口元に笑みをのせるほどの涼し気な顔で、腰に片手を当てている。多分、一瞬クロスが乗り移っていた。クロスっぽい雰囲気だなと我ながら思った後で、ぽちゃんっ……と川で魚が跳ねる音がする。
リゴベルトは肯定も、否定もしないが、多分まあ、エルナの提案を呑んでくれたのだろう。それはいい、それはいいのだが――。
やっぱりちょっと、まずくないか? とエルナは気づき始めていた。
(……私って、ウィズレイン王国、国王の婚約者だよな? というか、婚約者って一般的にクロス以外の男と二人きりになっていいのだろうか……? 絶対よくないな、よくないぞ。心の中のブラウニー夫人が、『まぁ~! 何をお考えでいらっしゃるの!』と悲鳴を上げているぞ……!? 緊急事態とはいえ、しかも相手は他国の王だぞ……!?)
やばいな、やばいぞ、絶対によくないぞこれは、とエルナはだらだらと冷や汗どころか顔面から汗が流れてくる。というか、さっきから口調を間違えている。心が竜に引きずられると、うっかり人間の礼儀などどうでもいいのでは? と考えてしまう自分はぜったいよくない。
『エルナ様はとても呑み込みがよくいらっしゃいますが、ときおり……そう、ときおり、ぼかんっ、と爆発なさるときがございますね』
お気をつけくださいませ、と優雅に微笑むブラウニー夫人の言葉を、今更ながらに思い出した。
どうかもっと早く思い出したかった。
「……? なんだ。今更怖気づいたのか?」
「いえ、そうではなく……」
「ふん、なんの覚悟もなくほざくとはな。やはりウィズレイン王国の王妃とは、この程度か」
「はい? 王妃ではなく婚約者ですが」
「……クロスガルド王が、妻と言ってはいなかったか?」
クロス、こんなところで話をさらにややこしくしないでくれ、と婚約者(相棒)に恨めしい気持ちを飛ばした。多分今頃クロスは盛大なくしゃみをしていることだろう。
「それは……なんというか、まあ、理由はあるような、まったくないような……」
と、まで説明したとき、エルナのドレスのひだに隠れるようにつけられていたポケットの中身がなぜか震えた。不思議に思い触ると、カイルが贈ってくれた『とっても小さいけれど、見かけよりもずっとたくさん入る』という、魔機術でできた布袋が入っていた。
そうだ、そういえばこんなところに入れていたんだった、と思い出して袋を確認する。表面はしっとりと濡れているが、中は大丈夫だろうか。布袋はぶるぶるっとさらに大きく震える。
「うわっ」
『ハム、じゅらァーーーーーー!!!!!』
すっぽーんっ! と少量の水と一緒に、ハムスター精霊が飛び出した。
「え、うそ、ええ!? こんなところに入っていたの!?」
馬車に乗っているときから姿が見当たらないと思ったら、まさかこんなところに忍んでいたとは、とエルナは驚き両手のひらの上にハムスター精霊を見せた。ハムスター精霊はすべて状況を理解しているらしく、普通のハムのふりをすべく、けれどもエルナに想いを伝えんとばかりに、二本足で立ち、ババッ、シュパパパッ! とかっこいいポーズを繰り返し続けた。
「奇妙な鳴き声と動きをするハムスターだな……」と、リゴベルトはこれまた嫌そうな顔をしているが。
仮にも婚約者が他国の男と二人きり、という現状に、これはよろしくはないぞと不安を抱いていたエルナだったが、ハムスター精霊の奇天烈な動きを見ていると、なんだか大丈夫な気がしていた。二人きりではなく、二人と一匹なので、ギリギリセーフにならないだろうか。
「ペットを連れてくるとは、まったく悠長なことだ……。それと、おいお前」
「はい?」
「そのドレスの裾は、なんとかならぬのか」
呆れたような顔で指を下に向けられたので、はて、なんとか……と、見下ろすと、エルナのドレスは大きく引き裂かれ、風が吹く度に白い足が丸見えになっている。動きやすいように自分から引き裂いたので、まあそれはそうだろうな、という程度の感想しか出てこない。
「なんとかと言われましても……」
これがもし相手がクロスならば、見るなと全力で顔を赤くしただろうが、相手は敵国の王である。エルナの胸にはなんの羞恥も浮かばず、心は無風に近い。あえていうのなら、まあ淑女的ではないな、しまったなという程度の感想だった。
「動きやすいので、森の中を歩くにはちょうどいいのではないでしょうか」
そうあっけらかんと話すエルナに、リゴベルトは深いため息を落とした。一体なんなんだ、と言いたい。そろそろため息が終わった、と思ったら、またエルナの顔を見て再度深めに息を吐いた。
だから本当に、なんだというのか。
「……あっ。どうにかできそうです。少しお待ちいただけますか」
持っていた布袋を持ち上げ、ぱっと笑みを浮かべる。
こんなことになろうとは想像もできなかったが、まったく、カイルには感謝しかない。
「おそらくこちらです。しばらくはまっすぐ、うん。間違いない」
精霊を視る目を使い、彼らの動きを逐一話す。木の幹に手をかけ、段々と弾んだ声を出すエルナは、現在メイドのお仕着せに腕を通していた。もちろんウィズレイン城のものである。
いつもの癖で着替えとして持ってきていたのだが、『まさか絶対絶対、着ちゃ駄目に決まっているでしょう!』とノマに怒られ荷物の底に沈めていた服だ。
カイルから、『とっても小さいけれど、見かけよりもずっとたくさん入る』袋をもらったときに、どれだけ入るか確認した際に入れたままにしていた服である。水も入ってしまったからか若干濡れてはいるが、もとのドレスよりもずっとマシだ。
動きやすいし、さらにやはりこっちの方がしっくりくる。頭の上に乗っているハムスター精霊も、心持ち嬉しそうな顔をしていた。
「さあ、こっちです、行きましょう!」




