52 戦い
ノマを馬車に残し、エルナとクロスは馬車を降りた。
「……クロスは残っておいてよ。護衛の意味がないじゃない」
「それこそ、お前が残るべきだ。あちらから見ればお前はただの婚約者。お前のみを降ろすわけにはいかん。なに、今は武器の保有を禁じられているわけではないからな。矢や一本や二本、叩き落とす程度、造作ない」
互いに視線を帝国の馬車から外すことなく、正面を向き口のみを動かす。クロスは軽く腰に差した剣をなでた。キアローレではないが、クロスの愛刀の一つだ。
エルナはほんの一瞬それを見て、「……護衛しがいがないやつだな」と、つまらなそうにぼやく。
帝国の馬車もゆっくりと止まった。
「万一の際は、ノマを。こちらは問題ないから」
「ああ」
扉が開く。姿を現したのは、帝国の王だ。
——皇帝、リゴベルト・ジャン・アルバルル。
リゴベルトは黒い外套を揺らし、悠々とこちらに向かう。その後ろを転がるように弟、ランシェロが続いた。
「あ、兄上、それ以上はっ!」
ランシェロが引き止め、リゴベルトは不愉快そうに眉をひそめたが、その場に止まる。
「……さて、なんの用か? 帝国の王よ」
「なに、あの場だけでは少々話足りんとは思わなかったか?」
「いいや、十分過ぎるほどであったと感じたがな」
「そう言わずに少し付き合え。今も古臭い神話の中に生きる王よ」
会話をするには離れすぎていると思う距離を、クロスとリゴベルトは互いに声を張り合い話す。
ピリピリと空気さえも粟立つように感じる。エルナは立場的にクロスの一歩後ろに立つしかないことが、とてもはがゆい。
「……付き合えと言われたところで調停役も、秘書官すらもおらん。これでは話すこともままならんではないか」
「そやつらがおらんからこそ、できる話もあろう」
「何を——」
「竜だ」
リゴベルトは強く言葉を被せる。エルナは目を見開いた。
「古臭い過去を生きる貴様らには不要な力だ。俺が正しく使用してやろう。さあ、こちらに竜を——」
伸ばした手が、突如、赤く散る。
——切り裂かれた。
絹を裂くような悲鳴が響き渡る。ランシェロが腰を抜かし、「襲撃、襲撃ですッ!」とわけもわからず誰かが叫ぶ。リゴベルトが切り裂かれたのだ。帝国の手の者ではない。ましてやウィズレインでも。
黒尽くめの敵が、次々と崖の反対側、鬱蒼とした森の中から飛び降りるように向かいくる。互いに護衛の数を減らしている中での襲撃だった。もはや乱戦状態だ。エルナもドレスを引き裂き、襲いくる敵の腹へと正確に蹴りをお見舞いする。誰も令嬢らしからぬエルナの動きなど目に留めてもいない。
「——クロスッ!」
「問題ない」
短い言葉のみで成立する。背中合わせとなり、状況を把握した。
どこの手の者か、倒してもきりがない。馬車は数少ない護衛に守られている。このまま血路を開き、逃亡することは可能だろうが——。
(……残念ながら、帝国を見捨てるわけにはいかないな。クロスもそう判断しているはず)
ウィズレインの手先であったと勘違いされては困る。
腕を切られたはずのリゴベルトは反対の手にて悠々と剣を持ち、一人、二人と次々に屠っている。
敵の動きを見て判断する。狙われているのは、間違いなくあちらだろう。
「なあ、クロス。敵の狙いはリゴベルトだ。……ところで先程馬車で、帝国に貸しを作っておくに越したことはない、と言っていたよね」
「……それがどうした」
「乱戦の中で混乱したご令嬢が、うっかり帝国のもとに行き、たまたまかばう形になって、偶然あちらの命を救う——なんて、借りとしては大きすぎるものと思わないか?」
「エルナお前、まさか……」
「行けと、言ってくれ」
私はあなたの矛だ、と。
囁くような声が、願うようにクロスの耳へと届く。
「……必ず、無事に戻れ」
返答はいらない。——エルナは駆けた。人の目にも見えぬほどの速さで、他者の死角を理解し拳を振るい、花のようにドレスを揺らす。即座にリゴベルトのもとへ躍り出る。嘘くさい悲鳴を口から漏らし、転けるふりをしてさらに一人昏倒させた。
(……殺すな)
リゴベルトが、剣を振るう。間近で血しぶきが噴き上がり、エルナの顔を赤く染める。
(……殺すな……ッ!)
たとえ、敵の一人であろうとも。
——甘ったるい心情だとはわかっている。戦場において、なんの意味もなさない思想であることも。そして前世、竜であったときに、どれほどの人を殺した口で吐くのかと。
理解しても、願わずにはいられない。
エルナが拳を振るう度に、ひと一人の命が救われるのではないかと。
「女、貴様……ッ!」
リゴベルトの剣と、敵の間に滑り込んだ。
あちらからすれば、混乱した愚かな女が転がり込んだように見えただろう。唸るようにリゴベルトは叫んだが、やはり顔色は悪い。切られたのは利き腕だったのか、剣の握りが浅い。
「きゃっ!」
下手くそな悲鳴を上げるふりをして、敵に体ごとぶつかる。と、見せかけてリゴベルトの死角から敵に掌底を放つ。エルナの小さな体でぶつかったところで、相手はふらつきもしないので仕方ない。リゴベルトの剣から敵を守り、さらに敵からリゴベルトを守る。
エルナがすべきことはこの二つ。
(無茶は……百も承知の上ッ!)
混戦、混乱――慣れない動きに、自身の息も荒くなる。
とうとうリゴベルトが剣を落とした。敵が拾う前にと両手で拾い上げる。この剣をリゴベルトに渡すべきか、否か。一瞬の迷いが敗因だった。
吹き飛ばされた一人の兵士の体が、座り込むエルナに強かに打ち付けられた。目の前が回る。揺れる。剣は、固く抱きしめたままだ。けれどもそれ以外の体は動かない――。
しまった、と。
エルナはただの思考一つを残して体を揺らめかせ、ゆらりと崖下に向かう。
「——エルナッ!」
遠く、相棒の声が聞こえた。
崖の下は、川だ。死にはしないと伝えたいところだが、少しだけ自信がない。なんせ水は苦手なのだ。これはヘマを打ったなと、頭から真っ逆さまに落下しながら考えた。
ゆっくりと、目を閉じる。暗い世界の中で、音だけが聞こえる。激しい川の音が近づく。もう、耳元にすぐそこだ。まあ、どうにかなるだろう。
どうか心配しないでくれと、最後に聞こえた相棒の声をエルナが思い出したとき、誰かに抱きしめられた。硬い、男の体だ。大きな手のひらが、そっと頭に添えられる。
「…………クロス?」
エルナは小さく呟き、そのまま薄暗い闇の中に意識を落とした。
なぜだか体中が冷えていた。服どころか髪までびしょびしょに濡れている。なのに体の上には黒く重たい布が置かれている。
「ふえ……へくちゅんっ」
じゃりじゃりとした小石の上に寝そべっていた体を起こして、なんだここはと辺りを見回す。まったく覚えがない――と、言いたいところだが覚えしかない。
「そういえば、私、崖から真っ逆さまに落ちたんだっけ……なんとまあ」
しくじった、と頭が痛くなってくる。いや、実際に痛い。
「……ずきずきする」
竜の身体能力はあれど、エルナの体の耐久力は普通の人間と同じだ。いや、ただの十七歳の小娘なのだから、むしろ平均以下といってもいいかもしれない。無茶なことをしたな、と我ながら呆れてしまうが、目立った外傷はないようだ。起き上がると水が滴るほどにびしょ濡れだが。
「……というか、この布、なんだ?」
腰を起こして自分の体にかかっていた布を改めて確認する。
いや、これは布というよりも、服。それも、どこかで見覚えがあるような――。
「やっと起きたか。いつまで眠り続けるつもりかと呆れていたところだ」
「おわあっ」
背後から話しかけられて、エルナはぎょっと振り返った。
なぜかそこには帝国の王がいた。
リゴベルトの赤髪からもひたひたと水が滴り、服も全身をびっしょりと濡らしたまま、流木の上に腰掛けている。
「貴様が持っているのは俺の外套だ。いつまで抱きしめている」
「え……うわっ、ほんとだ!」
慌てて外套から距離を置いた。アルバルル帝国との会談中、嫌というほど目にしたリゴベルトの外套である。ちょっとだけ嫌そうな顔つきで両手で、さらにできる限り遠くに外套を離したエルナを見て、リゴベルトは無言で睨んだ。
「あ、すみません……」
失礼が過ぎた。というか、崖から落ちる最中、誰かに抱きしめられた……ような気がするのだが。まさか、とぎょっとして再度リゴベルトに顔を向けると、あちらは眉間の皺を無駄に深くする。不機嫌そうな顔は標準装備なのかもしれない。
「貴様は己の国の馬車もわからんのか? 馬鹿が飛び出してきたせいでいい迷惑だ」
「…………」
帝国に恩を売って貸しを作るつもりが、むしろマイナスになっているような気がする。いやそんなことはない。多少なりとも役に立っていたはずだ。
「まあ、馬鹿者がいたせいで敵も動きづらくはあったようだが」
ほらね、と顔には出さずに、心の中でむふんと胸を張る。
「結局こんなところに落ちおって。馬鹿だ。いや貴様は阿呆だ。馬と鹿以下だろう」
「…………」
リゴベルトは深いため息をついて、濡れた赤髪をかきあげている。水も滴るなんとやら、という言葉を思い浮かんだが、エルナは深く口を閉じたままじっとりとした視線を向けた。
元竜だし人間だから、馬でも鹿でもどっちでもない。絶対に違う……と、ぎゅむむむ、とさらに唇を閉じ持ち、自前の負けん気を発揮しそうになっていたところ、リゴベルトの動きを見てはたと気づく。
「……あなた、怪我は!」
リゴベルトの右腕は襲撃者に引き裂かれていたはずだ。無理をして利き腕とは逆の手で剣を振り回していたから、危うさが先立っているように見えた。だからこそ、エルナはリゴベルトのもとに駆けたし、剣の確保を優先した。戦場で敵に武器を取られるなど、殺してくれと言っているようなものだ。
「……あんなもの、かすり傷のうちにも入らぬ」
どうやら堂々とした嘘をつかれているようだが、リゴベルトの腰につけられた剣帯にはエルナが守った剣が差し込まれているし、二の腕につけられた傷は服を破き簡易の包帯を作って処置をし終えているようだ。包帯からは赤い血がわずかに滲んでいたが、これ以上問い詰めても無駄だろう。
それにしても、傷をつけられた身であれほどの大立ち回りをしていたと思うと、人のことはいえないが少々化け物じみている男だ。川に全身を叩きつけられる形で落ちたはずが、腕以外の怪我は見当たらない。エルナを案じた精霊たちがひっそり助けてくれたのかと思いきや、精霊たちは遠くから怯えるようにリゴベルトを窺っている。
(妙な感じだな……)
そう思いながら、エルナは改めて周囲を確認した。エルナが横たわっていたのは、川のすぐそこだ。崖を削り作られた川は、ちょうどなだらかになっている。ここまで流れ着いたのだろうか、と考えてさらに遠くを注視してみると、大きな滝が見えた。飛沫を上げる音が聞こえてきそうなほどに、遠目からでも大きな滝なことがわかる。……まさかあそこから流れてきたのか。
これでは戻ることは難しそうだが――最後に、エルナの名を呼んだ相棒を思い出す。
(……大丈夫だ)
クロスが持つエルナルフィアの鱗と、エルナ自身は繋がっている。
こちらが無事であることはクロスも理解しているはずだ。残念ながらキアローレから離れすぎているせいか、加護が薄く、転移までは行うことはできなさそうだが、クロスの位置との距離はうっすらとわかる。エルナがそうということは、クロスも同じに違いない。
無事に戻れと約束したのだ。約束を違えるわけにはいかない。
今は持たないガラスの鱗を握りしめるように、エルナは強く拳を握った。するとリゴベルトは立ち上がり、どこかに行こうとする。
「え? どこに行く気……? 待って!」
慌ててエルナも外套を持ったまま立ち上がる。動く度にドレスが水から滴り落ち不快だったが、気になどしていられない。
「怪我をしているのに勝手に動かない方がいい。まずは場所を把握してから――」
「なぜ俺が、いちいちお前ごときに伺いを立てねばならんのだ」
「なぜって……。うわっ」
リゴベルトはエルナが持つ外套をひったくる。唐突に手元があいて、すうすうする。
「なぜって……」
背を向けて消えていくリゴベルトは、川に沿って戻る算段なのだろうが、先には滝があり、越えたところで人の体で崖を登り切ることができるとは思えない。魔封じの指輪をつけられている現状では精霊術は愚か、魔術もまともに使用することができない。
いや、待て。
先ほどから周囲では精霊たちが恐ろしそうにリゴベルトの様子を窺っている。
――マールズ国は自然豊かとまではいえずとも、精霊が好む森はそこかしこに点在している。しかしそこに精霊はいない。なぜなら、多くはヴィドラスト山周辺の森に生息しているからだ。
いないはずの精霊が、この場にいる。
「……ここは、ヴィドラスト山の近くなのか」
ヴィドラスト山の麓には、迷いの森がある。
精霊術以外の者が足を踏み入れれば、すぐに精霊に迷わされ、追い返されてしまう。
けれど、エルナなら。
通り抜けた風が、誘うように木々の葉を揺らす。ざあざあと、まるで雨のような音を立てて鬱蒼と茂る森を鳴らし、そしてあっという間に消えてしまう。精霊たちが、ちょこん、と可愛らしい頭を覗かせている。
水の精霊、木の精霊、土の精霊……。火の精霊はあまり見当たらないが、精霊たちはエルナに顔を見せて、その度に嬉しそうににっこり笑顔を作る。ぷりゅりゅる、るるるにゅ。何を言っているのかはわからないが、こっちにおいでと、そう話しているように感じる。
「私は、ここがどこか、わかる!」
エルナの口が、勝手に叫んでいた。
リゴベルトは歩みを止め、じれったいほどにゆっくりと振り返る。
「……どういう意味だ」
「正確な場所を理解しているわけじゃないけれど……ここはヴィドラスト山近くだ。それはあなたもわかっているだろう。川を辿って、元の場所に行き着くのは無理だ。滝も、崖もあるし、おそらく馬車ももう、私たちが落ちた場所から移動しているだろう」
エルナは鱗を通じてクロスの動きを理解しているが、そのことを伝えるわけにはいかない。崖に落ちた人間を、いつまでも同じ場所で待つ愚か者はいないだろう。救出、もしくは捜索するために移動していると考えるのはしごく一般的だ。非常事態であることから、魔封じの指輪を外すためにクルッシュメントの街に戻っているかもしれない。
「ならばヴィドラスト山へ進むしかない。ヴィドラスト山にはウィズレインから派遣された精霊術師がいる! 私なら、この迷いの森を通り抜けることができる!」
精霊術師ならば、伝書魔術を飛ばすことができる。ウィズレイン、帝国へと自身の位置を知らせる上では適切な対処だ。
実のところ、エルナはこの場に留まっているだけでいい。そうすれば、いつかはクロスが迎えに来る。もちろんエルナとてのうのうと迎えを待つ気は毛頭ないが、リゴベルトを見失っては面倒だ。ならば、同じとする目的を作ればいい。
「……女。もしその口からでまかせを吐いているというのなら、覚悟はできているのか?」
「覚悟? さあ、なんのこと? 不要なものを背負うほど、この身は軽くはないんだけどね」
互いに立ちふさがるように、睨み合うように向き合う。リゴベルトの高い背をエルナは見上げ、まるで自身のちっぽけさを感じてしまう。――けれど。一瞬の強い風が、エルナのドレスをみるまに持ち上げ、アプリコット色の髪を揺らす。
ゆらめく炎のように赤く翻るドレスは、エルナの決意の表れのようだ。
(……必ず)
じゃらん、しゃらんと音が鳴る。
竜の鱗が、自身の心の内で伝えるように、咆哮を上げ、熱く身を滾らせる。
(必ず、こいつに借りというものを、作らせてやる!)




