50 リゴベルト・ジャン・アルバルル
クルッシュメントの領主館の一室にて、その日は迎えられることとなった。
事前の通告通り、参加は王族と最低限のみ。婚約者であるエルナが立席することは、すでに伝えている。武器の持ち込みは禁止としたため、護衛の騎士すらおらず、エルナ、クロスともに魔封じの指輪をつけられている。
一度指輪を着用すると、精霊術や魔術を使用できなくなる仕組みを持つ。今回は自国の国境に入るまでは外れないように設定され、中立国からの代表として、カイルが確認した。帝国側の人間も、同じようにはめているはずだ。
指輪をはめることはエルナにとっても痛手だが、それでも通常の人間よりも高い身体能力を持っている。武器の持ち込みすらも禁じられたこの場は、むしろエルナの独壇場ともいえるだろう。
——もし、帝国のやつらが手出しをしてきたら、遠慮なくボコってやる。
こちらから手を出せば大問題だが、反対ならなんの問題もない。顔の原型がわからないくらいにやってやろうじゃないか……と、と密かに誓っているエルナだが、そんなことはおくびにも出さず、清楚な装いと顔つきで場に着席している。
円座のような大きなテーブルに着席しているのはエルナ。そして隣にクロスが。筆記のための使用人が部屋の端に数名おり、立会人としてカイルとクルッシュメントの領主がそれぞれ緊張した面持ちで入り口近くに待機している。
エルナたちの正面には——赤髪の青年がいた。
アルバルル帝国国王、リゴベルト・ジャン・アルバルルである。
堂々とした佇まいはこの場の主が自身であることを指し示しているかのようだ。
恵まれた体格は一分の隙なく鍛えられており、見る者を釘付けにするほどの整った容貌ではあるが、その表情からは獰猛さを隠せていない。いや、隠す気もないのだろう。髪色は、燃えるような炎の色。ウィズレインの公爵、ハルバーンも赤髪であるが、リゴベルトの純粋たる赤と比べると、オレンジがかった朱色といえる。
「さて、さっさと話し合おうではないか」
リゴベルトは快活に笑いながら、鋭く瞳を細める。肌に突き刺さるようなこの感覚。間違いなく、こちらに殺意を向けている。
リゴベルトの隣では、中肉中背の男が、「兄さん、今日は謝罪に来たんだろう……?」と虫が鳴くような声で囁いているのが聞こえた。アルバルル帝国の皇族は、リゴベルトと、そしてその弟のみを残して死に絶えたということは、のちにエルナも知ったことだ。
つまりは隣の男がリゴベルトの弟ということだろう。
(ふん。殺意を向けて話の主導を持とうとしているのか? 必死なことだ……とはいえ、私はある程度反応した方がいいよな?)
本日は虫も殺せないような、重いものはフォーク以外に持ったことがないような深窓のご令嬢と思われる必要がある。まさかクロスの最強の護衛としてこの場にいることを知られるわけにはいかない。
「ううっ……」
(こんな感じでいいのだろうか……)
くらっとちょっと意識を失ってみた。「だ、大丈夫ですか!?」と、即座にリゴベルトの弟が反応していたので、多分問題ないだろう。我ながら嘘くさすぎるのでは……と恥ずかしさもあるが、全力で挑まねばなるまい。視線の端に映るクロスの顔が、無表情なのに何か語っているような気がしたのは、多分エルナの被害妄想だろう。
でもカイルは、エルナの行動を見て間違いなく妙な顔をしていた。
「え、ええ……。失礼しました。まだ、長旅から回復していなくて……」
「すまないな。私の婚約者は、少々気が弱いのだ」
涼やかな顔でクロスが微笑んだ。
どこがだ、とやっぱりカイルからの視線を感じる。
「そうでございますよね、我がアルバルルのために、お二方とも、大変な旅路を……。私はアルバルル皇帝の弟、ランシェロ・ジャン・アルバルルと申します。この度は、本当に多大なご迷惑をおかげいたしました……!」
ぺこぺこと頭を下げる弟を、リゴベルトはつまらなさそうな目で見下ろしている。随分腰が低い、とこちらが気後れしてしまいそうだ。
(……どうしてこうも弟に発言を許している? ブラウニー夫人の話では、『血の皇帝』と噂されるほどだと聞いてるけど。噂は、やはり噂ということ?)
いや、この男がウィズレインに行った非道を忘れてはいけない。エルナは演技を続けつつ、会話の流れを見守ろうとした。
「——黙れ」
「ヒィッ!」
そのとき、ただ短く告げた男の声に、ランシェロは跳ね上がるほどに怯えた。
それは実の兄を相手にしての反応とは思えぬほどだ。ランシェロは気の毒なほどにガタガタと震え続けている。
「どうしてもついて来たいと言うので、連れてきたのだが。我が弟ながら羽虫のように騒がしいやつだ」
「も、申し訳……」
「アルバルル王。そうせっつかずとも、ゆっくりと話し合えばよいではないか」
「……自国の領土についての論じ合う場というのに、悠長なことだな、クロスガルド王」
「はて。私はそちらの『謝罪のため』と聞き及び、この場を訪れたわけだが?」
リゴベルトの鋭い視線を、クロスは素知らぬ顔で受け流す。泥の中にいるかのような重苦しい沈黙は、さすがのエルナも気分が悪くなるほどだ。唐突に、リゴベルトは哄笑した。そのあまりの様子に、周囲はぎょっとリゴベルトに目を向けたが、クロスの表情は変わらない。
「謝罪か。まあその通りだ。婉曲な物言いは好かん。端的に言おう。我が国にて、くだんの罪を背負うべき者には、すでにしかるべき処置を行った。それで許せ」
こちらが否定するとは、露ほども思わぬ口調だ。
この一言ですべてを終わらせようと、いや、終わると本気で考えているのだろう。
「……罪を背負うべき者、とは?」
クロスは眉をわずかにひそめ、指先でテーブルを叩く。
リゴベルトが話す内容を掴みかねているのはエルナも、カイルたちも同じだ。理解しているのはリゴベルトの弟であるランシェロのみだろうが、彼は青い顔をしたままだった。
「決まっているだろう? 訓練中にそちらの国境を誤って越えた隊長格の者を処分したという意味だ。今頃、首と胴は繋がっておらん。これで話は終わりだ。問題なかろう」
「……まさか、殺したということ……?」
口を出すまい。そう思っていたはずが、震えるような声がエルナの口から漏れ出る。
誤って国境を越えたとリゴベルトは説明したが、まさかそんなわけがない。自身で出兵しろと命じて、そして失敗したと首を切り落とす。
そんなこと、許されるわけがない。
「おっと。少々刺激が強かったか」
怒りに震えるエルナを勘違いしたのか、リゴベルトはせせら笑う。
エルナは強く膝の上の拳を握った。手のひらから、血が滲むほどに。
——耐えろ。
ここは、マールズだ。迷惑をかけるわけにはいかない。
他国には、他国の規範がある。エルナが口を出すわけにはいかない。けれど、けれどこれはあまりにも——。
「そうだな。とても刺激的だ。まさかそこまで非道な行為が行われているとはな」
エルナの肩に、クロスの手が柔らかくかかる。ただの一瞬のことではあったが、赤く染まりかけていたエルナの視界が、波打つように消えて、変化していく。
「非道と言うか! はっはっは! 王として、これは必要な処置だろう。クロスガルド王も、意気地のないことだ。このような場に自身の婚約者を連れてくるほど、俺と向かい合う度胸すらなかったとは面白い」
「いくら笑ってもらっても結構だ。ただし意気地がないなりに言わせてもらおう。そちらの国が処分を行ったところで、こちらになんの利点がある? 貴国の兵がこちらに踏み入った影響は大きい。その点、いかようにして応えてもらえるのだろうか。できることなら誠意を見せていただきたいものだが」
「……何が言いたい? はっきりと言え」
「まあそう言うと思って、こちらも要望をまとめておいた」
クロスはぱちりと指を鳴らす。
使用人の一人が立ち上がり、リゴベルトの前にそっと紙を差し出す。リゴベルトは軽く眉をひそめはしたが、目の前に出された要望書をすぐさま取り上げ、視線のみを移動させ黙読する。
「……結局、金か」
「一番わかりやすい形かと思うが」
リゴベルトは苦虫を噛み潰したような侮蔑的な顔を向けたが、クロスは悠々としたものだ。
謝罪の場として呼び出されたのだから、必要以上に卑屈になる必要はない。
そう話していたのは、この会談が始まる前のクロスだ。
『金が目的ではない。こちらが憤慨しており、それに応じた賠償がきちんと行われたという事実が必要なのだ。万一、帝国がウィズレインに矛を向けるとなれば、同盟国のミュベルタ、またマールズとも敵対するという意味にもなる。それは帝国にとっても多少の面倒には感じるだろう。金で可決できるのなら、向こうもそれに越したことはないはずだ』
それよりも、とクロスは続けていた。
『帝国からすれば、誤って侵入してしまっただけであるため謝罪は不要と、そう主張し続けておけばいい話だったはずだ。だというのに突然手のひらを返した真意。そちらの方が気になるところだな』
おそらく、嫌がらせ以外の目的がある。
王族のみの会談とわざわざ強調し、まるで罠が待ち構えていると思わせぶりな内容を送ることでウィズレイン側が会談を拒否すれば、国境線はあやふやとなり、領土を削る手筈となる。しかしそれ以外にも、クロスがこの場に参加することで、あちらに対しての益もあるのかもしれない。
普通に考えるのならば、ウィズレイン王国——国王の暗殺。
もしそれが成功してしまえばウィズレイン王国は幼いフェリオルのみを残すこととなり、無駄に抵抗するよりは帝国の属国となるべきと判断する家臣も多くいるだろう。そうなってしまえば、もう、国の終わりだ。
——そうならないように、私がいる。
エルナは表情と視線をごまかすためにハンカチを口元に当て、すっと目を細める。
クロス自身も武芸に秀でてはいるが、盾は多いに越したことはない。
「……ま、よかろう。この程度、はした金だ」
リゴベルトは軽く片手をひらめかせ、ペンを持ってこさせる。
さらさらと書類に署名する隣では、「まったくそんな、はした金では……」とランシェロが不満そうに呟いていたが、耳にも入っていない様子だ。
「おお。なんと剛毅なことだ。決断が早い」
「いちいち家臣の言葉を聞き入れ判断を遅らせるような、どこかの日和見とは違うのでな」
「ではその剛毅さに甘えて、よければそちらの契約書に一文を付け加えても?」
リゴベルトはペンを止め、クロスの言葉の続きを待つ。
「——ウィズレイン王国の国境を、今後無断なく越えること禁じる、というのはどうか?」
クロスは悠然と足を組み、微笑みは涼やかなほどだ。
あまりにも事もなげに付け加えられたその言葉に、即座に空気は凍りついた。
おいおい、とエルナがハンカチを持つ手にも緊張が走る。いつでも動くことができるように。
「……クッ」
意外なことにも、リゴベルトは笑っていた。大きく肩を震わせ、口元を押さえ落ち着くと、静かに息を吐き出す。
「さてなァ。それは約束はできんな。また兵を誤って行軍させてしまうやもしれん。それこそ、そちらの王都までな」
「あ、兄上……!」
悲鳴のような声を出す弟を無視して、
「ただし一つ、条件次第ではそちらの文言を付け足してもいい」
つい、と一本指を立てる。
「ほう、条件とは?」
「竜を譲れ。——ウィズレイン王国の守護竜、エルナルフィアを」
空気が、凍る。
クロスの口元が、緩やかに弧を作った。
「……さて。なんのことやら。おそらく、そちらは勘違いをしている。俺は長らく婚約者すらもいなかったわけだが、この度愛らしい妻を迎えることとなった。そのことを祝った民が、竜の守護を得ることを祈り、妻を竜の名で呼ぶ者もいる。貴国に竜の名が伝わったとするならば、そのせいだろう」
「まるで準備済みのような、立派な言い訳なことだ」
「疑いがあるのなら、すべてが偽りのように映るものだ」
「その通りだな」
唐突に、リゴベルトは立ち上がった。武器は持っていない。が、油断はならない。
こちらから動くわけにはいかない。しかし一瞬の隙も許されない。エルナがさらに緊張を深めると、リゴベルトはクロスへと足早に歩いた。エルナの目の前——そしてクロスの眼前に、叩きつけるように手のひらを落とす。
「だから、この場に来たのだ。お前を、呼び寄せたのだ」
「……と、いうと?」
「目を見ればわかる。果たして、お前の言葉が事実かどうか」
なるほど、とクロスはリゴベルトを見上げ軽く笑う。
じわりとリゴベルトの距離が近づく。
「目を見れば、わかる……さあ、見せてみろ」
「…………」
クロスはぴくりとも表情を変えることなく、リゴベルトと見つめ合った。いや、見つめるなどという言葉は適切ではない。獣同士が互いに首筋に刃を突き立てようと、距離を測っているような。
クロスは微笑みを絶やさず、そのすべてをいなした。
「……ふん。なるほど」
リゴベルトは顎を引くように笑う。意味深な笑いだった。
「賠償金はそちらの提示する額を、耳を揃えて払おう。国境線の不可侵については却下だ」
自身の名を書いた紙に手を伸ばし、背後に投げ捨てるように渡したそれを、使用人が慌てて受け取る。
「結構。またの機会がないことを願おう」
「話は以上だ。ランシェロ。帰るぞ」
「へ、いや、そんな急に……!」
「さっさとしろ」
言うだけ言って、自身が思うように行動する。これで終わりかとばかりに空気が弛緩したその一瞬のちのことだ。
「……そういえば、そこの婚約者。ん? 妻と言ったか?」
まだ妻ではない、という発言は、さすがにこの空気では憚られた。もとはクロスが言い出したことだが。ここで話をこじれさせるわけにはいかない。
エルナは精一杯おしとやかを気取って、にこりと笑みを浮かべて返事をする。
「……何か?」
「名を聞いていなかったな。言え」
どうしたものか、と逡巡する。カルツィードは、すでに没落した家である。自身の名をごまかしたところで、調べようとすればすぐにわかることだ。ごまかす選択肢は生まれなかった。
「エルナ、と。申します」
「……エルナ?」
片眉をひそめ、訝しんだ顔をしている。が、すぐに鼻で笑う。
「……ふん。竜の名を持つとは大層なことだ。ランシェロ」
「は、はひっ……」
アルバルルの皇帝は、弟を引き連れるようにして颯爽と消えてしまった。
それからどれほどの時間がたったのだろうか。誰も声を発することなく必然と落ちた沈黙の中で、どこからともなく漏れ出た重たいため息は——決して、一人きりではなかった。




