46 ずっと一緒に
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大勢の人々の声が、いまだに耳に響いているかのようだ。
国民への婚約発表を終えたエルナは、髪飾りもドレスもそのままにクロスの執務室にてぐってりとソファに埋もれていた。
「……疲れた」
「そうか? 楽しんでいるように見えたがな」
「そりゃあ……。ちょっとだけエルナルフィアだったときのことを思い出したから。しっぽを振って、喜ばせて……でも、気持ちの上でやっぱり疲れた。とても疲れた」
「はっはっは。存分に休め休め」
ソファーに埋もれているエルナと違って、クロスは泰然と笑い、机に腰掛けながら書類の束に目を落としている。クロスはこんなときにでも報告書と格闘しているらしい。ソファーの肘掛け越しにエルナはじっとりとクロスに目を向けてしまう。こんなに余裕ぶっているのは、体力の差というよりも王族としてのキャリアの差なのだろうか……?
「……ん?」
エルナに視線に気づき、クロスもちらりとこちらを見た。
そのときの笑い顔が、これまたたいそう優しい。くすぐったい気持ちをごまかすように、エルナはあえて眉間に皺を作る。
「なんだ? どうしたんだ」とクロスがまた笑い、エルナの頭の上ではハムスター精霊が『照れてるだけでごんす』と余計なことを言ったので、しめておいた。『ふぎゅぎゅんっ』
「…………」
「…………?」
クロスは口元に笑みをたたえたまま、書類を机の上に置いた。そして机にもたれたまま、ちょいちょいと手でエルナを呼ぶ。はて、とエルナは首を傾げたが、呼ばれるままに起き上がりクロスの前に移動する。このときハムスター精霊は素早くすべてを察知し、部屋の外に逃げ出した。
クロスは眼前にいるエルナに手を伸ばし、エルナの耳たぶをくすぐるように触った。
「……ひえっ……」
「婚約発表は終えたが、まだお前との部屋は別にすべきか?」
「け、結婚まで、別々って言ったけど……」
「そうか。ならば仕方ない……が。今回、お前とは長く会うことができなかったからな。お前の考えは尊重したいが、こちらも相当に我慢を強いられた。この程度ならいいだろう」
言う間にクロスの手はエルナの首の後ろへと置かれている。少し押された程度で、エルナとクロスの影がわずかにつき、また離れる。と思えばまたくっつく。微かな息継ぎの音が時折聞こえ、何度目かもわからないほどにそれは繰り返され、自身も嫌ではないことを知っていたから、最後にはエルナから進んで行った。
もどかしいほどにゆっくりと唇を離すと、ふ、と小さくクロスは笑った。
「……ん?」
くるり、と視点が反転する。
「え?」
なぜだかクロスに押し倒され、クロスの肩越しに見える天井を何度も瞬き確認する。
「ぎゃ」
クロスの手がおかしなところに移動し、「な、な、な」と、エルナはばたばたと暴れた。しばらくの間互いに無言の攻防が続いた。
最後に一つ、口元にキスをされて。
「んっ……ぷはっ。いい加減に、しろッ!!!!!!」
「うむ。嫌なら逃げ出すと思ったのだが、案外できたな」
竜の全力の一発を腹に受けたとも思えぬほどに、クロスは涼やかな顔で腕を組んでいた。
本当は死ぬほど痛いのだろうが、そうは見せない。我慢をする胆力があるといえば聞こえはいいのだけれど、やせ我慢が得意なだけである。
エルナは胡乱な瞳でクロスを睨み、よれたドレスを直した。ふざけてんのかこいつ、という気分である。気配を読んだハムスター精霊は颯爽と戻ってきて、エルナの頭の上に登っていた。
——こんこんこん。
執務室の扉が叩かれたので、「入れ」とクロスが返事をする。
やってきたのはコモンワルド、ブラウニー夫人。そしてなぜかノマの三人だ。
「ヴァイド様、失礼致します……ん? 何かございましたかな?」
「気にするな。どうかしたか?」
「はい。ご婚約の発表をされ、お疲れのところ大変申し訳ございませんが、改めまして少しばかり挨拶ができましたらと……」
コモンワルドの後ろのブラウニー夫人が、優雅に挨拶をする。そしてノマはなぜかカチンコチンに緊張している。
「夫人か。久しいな。お前には我が姉も世話になったものだ」
「もったいないお言葉でございます、陛下……」
ブラウニー夫人は、クロスの姉の世話係でもあったと聞く。
自身の知らない話になんとなく気まずい思いのままエルナが視線をそらそうとすると、ブラウニー夫人はエルナに顔を向けて、にっこりと笑った。
「エルナ様におかれましても、とても熱心なお方で……。お伝えするこちらも、ついつい熱が入ってしまいました。この度はご婚約、まことにおめでとうございます。父ともども、不肖ながらいつ何時ともお力になれればと存じます」
「そんな……こちらこそ、ありがとうございました」
夫人との授業は、一旦は終了ということになっている。しかしまだまだ勉強不足であることは認識しているので、また機会を見つけてお願いしたいとエルナはひっそりと考えていた。
「そして、ヴァイド様。本日はもう一つご連絡が。本日、エルナ様にお付きになる侍女候補についてですが、私と娘で、先程選抜を行いまして……」
コモンワルドとブラウニー夫人は父子である。侍女候補……そして、この場にノマがいるということは、とエルナが思わず視線を向けると、ノマはむふん、とばかりに胸を張っている。
「エルナ様はご存じかとは思いますが……」
とまでコモンワルドはノマを紹介するように手を向けつつ話したが、まるで飼い主を前にした犬が全力でしっぽを振っているように、ふんふん拳を握って上下させているノマの姿を見て、ぴたりと口を閉じた。
「……ヴァイド様、この者に発言の許可を与えても?」
「許す」
「ノマ、陛下に自己紹介なさい」
「はい! ノーマティニス・ラティフです。ラティフ男爵家の三女で、行儀見習いとして城に仕えておりました」
「……ノマって、本当はもっと長い名前だったの? というか、男爵家の三女? っていうか、私の侍女!?」
「そうよ? 王都近くの貴族は王族の方に倣って、女でもちょっと長い名前にすることも多いのよ。ふふふん。私にも目標があるって言ったでしょ? エルナの侍女になることよ! 陛下のご婚約者ともなれば、侍女の一人や二人は必要だものね。ええ、並み居るライバルたちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……!」
ノマはしゅぱっ、しゅぱっと体を左右に動かし、何かを放り投げるような仕草を繰り返している。
多分、物理的に投げているつもりなのだろう。
「男爵家の三女だから、お城では下っ端のメイドにしかなれなかったけど、実は私、すごいんだから! 礼儀作法は任せてね。こう、しゅっ、しゅっ、しゅっと……!」
「……ノマ?」
コモンワルドの微笑みつつの一声に、ぴたっとノマは動きを止めて即座に屹立した。
そしてとってつけたような笑みをにっこりと顔につけている。
しばらくの間、無言の時間が流れた。
「おかしいですわね……。テストのときは、もっとしっかりしたお嬢さんに見えたのに……」とブラウニー夫人が自身の頬に手を当て囁くように話したのはさておき、笑顔のままぴくりとも動かないノマを見て、くくっ、とクロスがこらえるような忍び笑いが聞こえた。多分、クロスはノマのことを知っているのだろう。エルナの一番近い同僚……いや、友人だからだろうか?
「言って、くれたらよかったのに……」
ぽつりとエルナは呟いてしまう。
正式にクロスの婚約者になったのだから、人の規範に当てはめて普段一緒にいる侍女が必要ということくらいは理解している。けれど、淑女らしい生活をしたことがないのだから、身近にいてくれる人間は馴れ親しんだ友人の方がいいに決まっていた。
男爵家の、それも三女。いくらエルナの友人であったからといっても、エルナの侍女に選ばれるためには、ノマは想像もできないほどの努力を重ねなければいけなかったに違いない。けれど、それもエルナの一声があればもっと違ったはずだ。侍女はノマにしたいのだと、エルナがそう言っていれば。
こんな想像は、ノマにとっては侮辱に他ならないはずなのに。
「それではいけなかったの」
『エルナが街を救ってくれたってことも、もちろんわかってる。本当にありがとう』
ノマにエルナルフィアの生まれ変わりであると話した日のこと。
エルナを、エルナのままとして扱ってくれたあのときと同じように、ノマは真摯な瞳をエルナに向けた。トパーズ色の、まるで実りの秋のような瞳が、きらきらと輝いていた。
「私が、エルナと一緒にいたかったの。だから、頑張ったの」
——知らずに体が動くことなんて、きっと中々ない経験だ。
「えっ、え!?」
エルナに抱きしめられたノマが、驚いたように声を上げてあたふたと手を動かしている。もちろん、力一杯抱きしめてしまうと優しい彼女を壊してしまうから、あちらが嫌なら逃げ出せるくらいの力に押さえている。何も言わず、エルナはノマの胸に顔を埋めた。エルナはノマより小さいので、うつむくように小さくなればあっという間に埋もれてしまう。
「え、あの、エル……じゃなくて、エルナ様……?」
困ったようにノマが呟き、ちらりちらりと周囲を見回す。コモンワルドとヴァイドが、小さく頷いた姿を確認し、きゅっとノマは唇を噛んだ。それから思いっきりエルナを抱きしめた。
「——これからは、私たち、ずっと一緒よ!」
こんなに、幸せな時間があっていいのだろうかと、不思議で、不思議でたまらない。
祝福の鐘の音が鳴るように、精霊たちの笑い声が降り落ちる。
きゃらきゃら、ぱらぱら、きらきらと。
うん、ときっとエルナは返事をした。そうだね、とも答えたのだろう。気づけば漏れ出ていた自分の笑い声に隠れてしまった。
——こうして、エルナはクロスの婚約者として、国内外に知られるようになった。
そしてアルバルル帝国からの書簡がウィズレイン王国へと届いたのは、このひと月後のことである。




