45 眠るその人へと
「エルナ、今日のあなたの服はこちらです」
朝起きて、唐突にノマから渡されたのは、なんとも見覚えのある服である。「……なんで?」と、問いかけても、「コモンワルド様から、言い付かっていますから」と、ノマはつん、と顔を上に向けて答えてくれない。
「今日の予定は……?」
「ぜーんぶ、ないわ! いえ、やっぱり一個だけあるわ。これを運ぶことです!」
どしっと突きつけるように渡されたお盆を持って、エルナはとぼとぼと城の回廊を歩いた。足元ではハムスター精霊がエルナと並んでとったとったと走っている。
「……失礼、します」
こんこんこん、と三回ノックする。
行け、と言われたから来た。それだけだけれど、妙に緊張していた。
ここに来ることを選んだのは、自分だ。
『入れ』
扉越しのくぐもった声にさえも緊張する。エルナはゆっくりと息を吸い込み、ぴたりと動きを止める。ゆるゆると息を吐き出した後で扉をあけた。
クロスがいた。執務室の机に腰をもたれてぴらぴらと紙の束を確認している。ちらりと視線を上げ、こちらを見た。はた、とクロスは固まったと思うと自身の狼狽を隠すように、ふっ、と小さく肩で笑う。
「どうした。珍しい格好をしている。……いや、むしろ今までが珍しかったか?」
「ノマが、この服を来て、クロスに菓子を届けてくれって言ったんだよ。……コモンワルドさんからだって」
エルナは頬を膨らませて、ぷい、とそっぽを向いた。ここ最近はクロスの婚約者らしくきちんとしたドレスばかりを着ていたが、今日はメイドのお仕着せと、白いシニヨンキャップを被っている。
「そうか。……少し休憩するか」
持っていた資料を机の上に起き、クロスはソファに座り込んだ。エルナは盆を持ったまましばらくクロスを見下ろしていたが、座れ、とばかりに、クロスがソファのクッションを叩く。ここまで来たのだからと、盆はテーブルの上に置いて、観念して座り込んでしまった。
ハムスター精霊は、今日は随分静かだった。てちてちとエルナの足元に移動して、ソファに登って、ふひいとばかりに短いしっぽを投げ出すようにお腹を丸見せにして座っている。
「コモンワルドが持っていけということは……ん、やはりそうか。コモンワルドの奴め、また腕を上げたな」
銀の盆の蓋をあけると、そこには色とりどりの丸いお菓子が置かれていた。クッキーにしては色鮮やかで、分厚く見える。さらに間にはなんらかのクリームが挟まれている……?
「マカロンだ」
「まひゃろん」
「違うな、マカロンだ」
なぜだか菓子のことになると思考が鈍くなる自分が憎い。クロスが冷静に言い直した。
「この、マカロンの丸い膨らみを作るのは至難の業と聞く。見ろ、エルナ。素晴らしい楕円だ」
「素晴らしい楕円って……っていうかもしかして、話の流れからコモンワルドさんのお手製なの……?」
「知らんのか。コモンワルドの趣味は髭の手入れと菓子作りだぞ? さあ食え。食せ」
「知らないよ。今更そんなことを言われても驚くしかないよ。いいって、私はいいって、う、う、ううう」
誘惑に抗うことができずに、クロスの手ずからマカロンを食してしまった。薄ピンク色の可愛らしい外見の間は、赤いジャムが挟まっている。ラズベリーだろうか?
甘酸っぱい味が食べた瞬間に口の中に広がる。
「…………!?」
「そうか、旨いか」
「外側が、クッキーではない! 口の中で溶けてしまった……!?」
「うんうん、溶けてしまったか」
はっはっは、とクロスは楽しそうに笑っている。そう、本当に楽しそうに。
なんとなく肩身が狭い思いになって、エルナは皿の上にあるマカロンへとまた一つ手を伸ばして、大切に食べた。ごんすごんす、とテーブルに登ってきたハムスター精霊も、チョコレートの色のマカロンを自分の体で抱えるようにして、かかかか、と静かに前歯で食べている。
「うん、うまい」
クロスもぱくりと一つ、口にする。
執務室の窓からは静かに光がこぼれ落ちて、ときおり迷い込んだ精霊が海の中を泳ぐようにくるり、くるりと宙を踊って楽しそうに遊んでいた。何も話していないというのに、どこか心地よくて、わずかにクロスと触れる肩が熱い。
やっぱり、ドレスを着ているよりも、今の方が少し楽だ。
ずっと避けていたくせに、と心の中で呟いてしまう。
「……ブラウニー夫人の授業はどうだ?」
「……えっ?」
「話はコモンワルドを介して聞いている。随分熱心だそうじゃないか。無理はするなと言いたいところだが、熱意があるのはいいことだ」
「別に無理はしてないよ。知らないことを知るのは、結構楽しい」
「マナーの授業を特に褒めていたな。初めてとは思えない出来だそうだな?」
「それは……母さんと」
「……母君と?」
まだ母が生きていた頃。エルナがずっと幼い子どもだった頃。
古いワンピースを着て、お姫様のように遊んだ。スカートの裾を引っ張って、淑女のように挨拶をするふりをしてにっこり笑う。すると、母はもっと嬉しそうに笑った。ぱちぱちと優しく手を叩いて、『とっても可愛い』と微笑んでくれた。
『エルナのお名前をいただいたエルナルフィア様は、淑女の鑑であったそうよ。こんなに可愛い女の子が上手に挨拶をしてくれるだなんて、エルナルフィア様もお喜びになってくれるかしら』
『私はお母さんが喜んでくれて嬉しいけどな。へへへ、もうちょっと練習してみる!』
幼いエルナは母の言葉にご機嫌になって小さな淑女ごっこを楽しんでいたが、よくよく考えると当時からカルツィード家当主の妻と、その娘ローラに目の敵にされていたので、少しでも責められることのないようにと願った親の思いやりだったのかもしれない。
母が死んだ後も、ただの男爵家にもかかわらず、気位だけは高かったカルツィード家の人間たちには、小さなことでいびられた。エルナルフィアとしての記憶を取り戻す前のエルナは、息を殺して、彼らの目につくことがないようにわずかな指先の動き一つですらも意識を向けて生きていたのだ。
懐かしいな、と思うと同時に、まったくどうでもいいことに心血を注いでいたと呆れた気持ちと、昔の自身を気の毒に感じる気持ちが入り混じり、不思議なため息なするりと口から漏れ出てしまう。
「母さんと、ごっこ遊びをしていたの。小さな淑女ごっこ」
「そうか。よい思い出なのだろう。優しい表情をしている」
「そんな」
ぎくりと片手で顔を覆う。たしかに、自身の表情を確認して、ぞっとした。
「……違う」
「……俺はお前の考えを、尊重したい。しかしなぜだ? どうしてそこまで焦っている?」
「焦ってなんか……っ!」
顔を上げ、睨むようにクロスを見上げる。そのつもりだった。けれども彼の瞳に映った自身の顔は、ただ情けない顔をする、ちっぽけな人間が一人いるだけだ。いつの間にか掴んでいたクロスの服を持つ自身の指が震えていた。ただ、柔らかな日差しが窓から降り注いでいる。
きらきらと、しゃらしゃらと。
柔らかな、秋の始まりを告げる日差しが降り落ちる。
「……もう、夏は、過ぎた」
声が、わずかに震えた。クロスの服を、さらに強く掴む。
「夏は、過ぎたんだ……!」
とんっ……と、どこかで小さく、何かが転がる音がする。
小さくて、あっけない。ボールのような何か。
人の体に、振り下ろされる刃が作ったもの。
——夏には、カルツィード男爵や、この非道を知りながらも利権を得ていた者たちはそれ相応の報いを受けることになるだろう。
こう話していたのは、クロスが王であることを諦めようとしていたときだ。
そのときエルナは、『人として生きるのなら、守らなければいけない法というものが存在する』と伝えた。きっとこの言葉に間違いはない。そうだ、エルナはもう人間なのだから。
けれど竜としての過去の自身が、人を殺すなと胸の奥底で叫んでいる。どうして殺したとエルナを責め立て、人としてのエルナの心が、あんなやつらは死んで当然だろうと否定する。
「…………!」
気づけばクロスの胸に、強く額をつけていた。クロスの胸を叩こうとする拳を抑えようと、幾度も彼の服を握りしめて、震えて、荒い息を吐き出す。
夏が過ぎても、秋になっても、クロスがエルナに、彼らの行く末を伝えることはなかった。話したところでエルナを苦しませるだけだとわかっていたからだろう。どれくらいの時間がたったのだろうか。エルナはか細く呼吸を繰り返し、するりとクロスから距離を取った。
「教えて。彼らがどうなったのかを。どうか、あなたの口から」
下を向き自身の額に指をつけ、見かけばかりは落ち着いた声色で話す。けれどもエルナの眉間に刻まれた皺は、彼女の動揺を如実に語っていた。
「……いいのか?」
「うん。私は、聞くべきだ。どうか……教えてくれ」
「わかった。カルツィード家の領地は没収となり、現在は王家の直轄地として管理している。折を見て、人選を行い、その者に領地の管理を任せようと考えている。必要ならば、お前でも」
「それはいい。私にそういった才はないから、ふわさしい者がすべきだと思う。続けて」
「領地内での人身売買、さらに魔の者に関わり魔力がある者たちを売り払った罪は、どう贖えるものではない。カルツィード家当主は斬首となった。妻子は貴族席を剥奪。彼女らは当主が行っていた悪事とは、直接の関わりはないようだったからな。ただし、薄々は気づいてはいたのだろう。嫡女ローラはすでに成人済みであり、自身で判断を行うことができる年齢であることを考慮し、減刑は行われていない。これ以上詳しく伝える必要はないだろうが、もうお前とは一生関わることはない」
淡々とされる説明に、エルナはすべて目を閉じ、受け入れた。
握りしめた拳を、わずかばかりに震わせる。
「……もしかすると、どうして父のように殺さなかったと恨まれているかもしれん。そう思われるだけの判断を、俺は下した。しかし、法は遵守されるべきだ。法を変えるべきときもあるだろうが、自身の私利私欲で行うべきではない」
「死んだ方がマシだったってこと? そんなこと……!」
あるわけがない、と叫ぼうとして、顔が歪む。
そうなのだろうか? わからない。あんなやつらは死ぬべきだ。殺すべきだ。いや生きるべきだ……。何を言えばいいのか、伝えればいいのか、それすらもわからない。
いくらでも心は歪む。曖昧な形のまま、変化をし続ける。こんな自分が、何になるというのだろう。どうやって、生きていけというのだろう。
「……エルナ」
ふいに、エルナの耳に届いたのは驚くほど優しい声だった。
クロスはエルナのアプリコット色の髪を一房持ち上げ、愛しげに触る。
「触っても、いいだろうか」
「……もう触ってる」
「そうだったな」
くっ、とクロスが笑った。
愛しいものを大切に触るように、エルナの髪を持ち上げ、瞳を細める。
下手に触られるよりも、ずっとくすぐったくてそわついてしまう。
「以前にも、話したことがあるが。俺がヴァイドとしての記憶を得たのは、幼い頃のことだ。宝剣キアローレが待つ大樹の下で、愚かしく泣きわめいた……。今のフェリオルよりも幼い頃のことだ」
その話は、前に少しだけ聞いたことがある。
考えてみれば、クロスは自身の心すら出来上がっていない、ただの子どもであった頃に英雄の記憶を呑み込んだことになる。そしてアルバルル帝国の若き王よりも、さらに幼く、少年といって差し支えがないほどに子どもであった頃に、ウィズレインの国王としての剣を引き継いだ。
「あの頃の俺は……それはもう、愚かでなぁ。同じ年の頃ならばフェリオルの方がしっかりしていたであろうよ」
「……そうなの?」
エルナの心の中では、『兄上の方が、ずっとご立派に決まっています!』と叫んでいるフェリオルの姿が見える気がするが、尋ねるとクロスは苦笑した。
「ああ、今もそうだ。お前に支えてもらい、なんとか立っているだけだな。しかし、それでも子どもの頃に比べれば、随分ましになったはずだ。俺は、ゆっくりとクロス(おれ)となった。お前も、そうであればいいと願っている」
するり、とクロスの指先からエルナの髪が落ちる。
水がこぼれ落ちるように、エルナの心の中に、クロスの言葉が入り込んでいく。
——ゆっくりと、自分自身に、変わっていく。
避けていた場所が、もう一つだけある。
知らぬ内に、エルナの足はその場所に向かっていた。
風が、エルナの眼前を吹き抜けていく。服の裾を翻し、青々とした緑の上に置かれた石の墓の前にエルナは立つ。
「自分自身って、なんだろうね……」
きっとクロスの指示なのだろう。墓はよく手入れをされていたが、少しだけ苔むした匂いがする。雨の気配を、わずかに感じた。
墓には、母の名が刻まれている。すっかり小さくなってしまった、母の骨が眠っている。
「……竜は、自身の故郷を愛する。故郷のない竜は、代わりに人を愛し、死ねばその骨を抱きしめ眠る……」
誰に聞かせるわけではなく、ぽつり、ぽつりと言葉を落とす。
母の骨が眠る墓に膝をつき、静かになでる。
「……母さん」
もう、眠っている。返事がないその人へと、話す。
「——ああ。私の故郷は、この国だ」




