変異種
意識を失っていたのはほんの少しだったと思う。なぜなら受けた衝撃で涙が滲む目を開いたその視界の先に塔の中心部に向かって走り去る赤髪の女が見えたからだ。
「桜ちゃん…」
何故俺がそんなに短い時間で覚醒したのか。それにはもちろん理由がある。
俺が意識を失った直後。桜ちゃんの俺を気遣う思いとあまりにも強烈な憤怒の感情がかつてないほどに強力な『共感』で伝わってきたからである。
それは下手をすれば赤髪の女に受けた衝撃すら上回るほどの一撃で瞬時に俺の意識をたたき起こした。だが,俺を人事不省の状態から救ってくれたその思いは徐々に弱くなりつつあった。俺から遠ざかっていくのだ。
俺はズキズキと痛む後頭部を押さえながらゆっくりと立ち上がると自分の腰回りに視線を向ける。
「魔石が入ったポーチと桜ちゃん…か」
その事実を認識したと同時に腹の底から怒りの泡沫がぶくぶくと湧き上がってくる。
魔石だけならまだいい。お金やら錬成やら惜しいとは思うが無くてもなんとかなる。300%くらい良い人補正を自分にかければ『何か事情があったんだろう。見逃してやるか』と思ってやらないこともなかった。
だが…俺の桜を誘拐したことだけは断固として許すわけにはいかない。どこに逃げてどこに隠れようと追いかけて見つけ出しこの世に産まれたことを後悔させてやる!
ふらつく頭を怒りで無理矢理リセット。一度大剣を腰に戻し一気に走り出す。アレは今角を曲がったところまだ追える。
蛍さん達に声をかけてから行きたいところだがこれ以上離されるのはマズいし,大声を出せば追われてることに気づかれる。
アレは俺がこんなにも早く目が覚めていることにまだ気づいていないはずだ。
だから蛍さんに『問題発生』『追う』『救出優先』だけを強く念じる。
『ちょっと待てソウジロウ!こっちも魔物は今片付いた。合流するべきだ!』
『否』
それでは間に合わない逃げ切られてしまえば桜は帰って来ないかもしれない。それだけは駄目だ。
『…ソウジロウ何があった?』
『裏切り』『桜』『誘拐』
通じるかどうか分からないが立て続けに念じる。
『うむ…分かった。私の問いに肯定か否定で返せ』
『肯定』
『フレイが裏切ったのだな』
『肯定』
『そして桜を盗まれた』
『肯定』
『ならば焦らずとも一度塔から出てから』
『否定!』
それは駄目だ。嫌な予感がする。今ここで桜ちゃんを見失えば二度と会えない。そんな確信がある。
『我らも追うのは駄目なのか』
『肯定』
『ならばこいつらを外に放り出してからならいいのか』
それならもちろん『肯定』だ。
『…分かった。確かにここまで来て見捨てるのも後味が悪い。こいつらを引きずってでも速攻で外に放り出してから我らも追う。
それまでは無理をするな。いいなソウジロウ』
『肯定』だ。目の届く範囲に桜がいてくれるならこんなに焦りはしない。
そして,そろそろ蛍さんとの共感も距離が離れてきたせいか感度が悪くなってきている。逆に桜との共感は強くなっているようだ。桜が自分の通った道の形をイメージで伝えてくれるのでアレにミスリードされることもない。
共感が強くなっているということは歩法を駆使した俺の全力疾走がアレの逃げる速度よりも速いということ。絶対に追いつく!
更に走る速度を上げるべく意識を集中しながら立て続けに幾つかの角を曲がるとようやくアレの後ろ姿が見える。
おそらくアレは俺を昏倒させた以上蛍さんやシスティナが俺を置いて追いかけてくることはないと思っていたのだろう。それ自体は正解だ。きっと2人なら気を失った俺を置いて動くことはなかった。
だが,アレは俺と桜の絆を知らなかった。桜をただの刀としか思っていなかった。それがアレの命取りだ。
今は逃げ切ったとは思っているのか悠長に立ち止まり魔物を警戒しているところだった。やっと追いついた。
しかし周囲を警戒しているのだから当然追ってきた俺にも気づく。
「ひぃ!」
俺の姿に気がついたアレは一瞬驚愕に目を見開き,その後俺の顔を見て恐怖に後ずさった。俺が今どんな表情をしているのかは分からないがよほど怖かったのだろう慌てて踵を返して走り出す。
だがもう遅い。この距離まで近づいている上に,一度0にした速度をこれからまた上げていくアレよりも一瞬たりともスピードを緩めずに走り続けている俺の方が圧倒的に速い。もはやアレに追いつくのは時間の問題だ。
淡々と,確実に,少しずつ,アレを,追い詰める。追い詰めて桜を取り戻す。それだけを考えながらひたすら走る。
「いひぃ!いやっ!く,くるな!」
そんな俺の姿を振り返って確認するたびにアレの恐慌状態が酷くなっていく。後悔するくらいなら余計なことをしなければいい。悪いことをして悪人になる覚悟があるならば,失敗した時に殺されるかもしれないという覚悟も同時にしておけと言いたい。
がむしゃらに逃げ回るアレはもはや道など考えていないとにかく全力で走り,行く手に魔物を見つけたらすぐに進路を変え曲がる。敵が弱い魔物ならばあえて突破をはかりすぐ後ろに迫っていた俺に魔物を押しつけることすらした。
4階層辺りの探索者がスルーして単独突破出来る程度の魔物なら大剣の一振りで弾き飛ばせばそれでもうこっちを追って来られない。
そして大剣一振り分程度の減速では俺を振り切れない。
「ひ…く,来るな!こ,来ないでくれ…」
とうとう俺はアレを追い詰めていた。ただ不思議なのは両側こそ通路の壁だがアレの後ろにはまだ空間が開けている。逃げようと思えばまだもう少しは逃げられたはずなのにそこに見えない壁があるかのように通路の区画の先に行こうとしない。
どっちにしろ俺には関係はないが。ゆっくりと大剣を鞘から抜く。
「や…やめろ。やめてくれ…それ以上近寄るなら」
ソイツは震える手で右手に持ったポーチと左手に持った桜を見比べた後,ゆっくりとポーチを持ち上げた。
「こ,これを後ろに投げる」
…意味が分からない。後ろに投げられたところでコイツを斬り捨てて桜ちゃんを取り返したらゆっくり拾いに行けばいいだけだ。
そう考えた俺は更に一歩前に出る。
「ば!なななんでこんなことに…こ,これさえ!…これだけあれば!私は解放される!そうすればあ,アルだって…」
…訳あり,か。恐慌状態直前でうわごとのように漏らした呟きが聞こえてしまった。
確かにおかしいと思ってはいた。人間的に護衛をする相手が釣り合っていない。もちろんお金の為に嫌な相手に付き従うことはあり得るだろう。
だが…ほんの少し遠目から見ただけだが,なんというかそんな感じではなかった。『仕方なく従う』のではなく『逆らえないから従っている』。
今になって思えばそんな雰囲気だった気がする。
…仕方がない。ちゃんと桜とポーチを返してくれるようなら話を聞いてやるか。
俺の悪人の基準はただ単に悪いことをしたというだけじゃない。
生きるために,助けるために,守るためにやれることをやれるだけやり尽くし最後の最後にやむを得なくなり悪事に手を染めてしまう人だっているかもしれない。
そういう人達すら一括して悪人だとしてしまうのは俺の本意じゃない。もちろんだからと言って1人1人話を聞いていちいち判断するような無駄なことをする気もない。
結局のところ俺が自分の目で見てどう判断するか。それだけが唯一絶対の基準だ。そのかわり自分が判断したことに責任を持つ覚悟はある。
とにかくまずは桜を返してもらってからの話だ。その旨を伝えようと更に一歩近づき桜を返せば話を聞いてやると伝えるか。
「ひぃぃぃぃぃ!いやだいやだぁぁぁ!」
だが俺が何かを言うより早く一歩を踏み出したことでフレイが恐怖の奇声を上げた。
しまった!まずは声をかけ,もう殺すつもりはないことを伝えてから近寄るべきだった。ぎりぎりのところで恐怖に耐えていたフレイの最後の堤防を迂闊な一歩が破壊してしまったらしい。
「待て!」
俺の叫びも虚しくフレイは桜を投げ捨ていままで頑なに行くのを拒んでいた奥へと駆けだしていた。
内心で舌打ちしながらも取りあえず桜を素早く拾って再会を喜ぶ間もなく後を追いかけ…ん?別に追いかけなくてもいいのか。
錯乱してだが桜を置いていったなら無理に後を追わなくてもいい。魔石は惜しいと言えば惜しいが皆がいればいずれ同程度は稼げるはず。なぜフレイがこんなことをしたのかという疑問は残るが敢えて追いかけていって問い詰めるまでの必要性は感じない。
走って遠ざかるフレイの後ろ姿見てまあいいかと思い始めた俺の視界に信じられないモノが映る。
そうか…フレイがあれほど侵入を躊躇っていた理由はこれだったのか。
走るフレイの頭越しに見える2階層へと続く階段。そしてその前に横たわる巨体。
「階層主…」
『ドラゴマンティス(??階層) ランク:階層主』
なんだこれ。なんで階層が表記されてないんだ。なんだよランク階層主って。こいつまさか…変異種?階層主の変異種!
しかも前にここまで来た探索者達によれば最低でも10階層レベルの階層主だと言っていた。それの変異種ともなれば…やばいどうやっても勝てるビジョンが浮かばない。
フレイは…いた!錯乱しながらここと一番近い別の通路へ向かって走っている。
このままならなんとか通路へ逃げられるか?そっちはまだ高階層の魔物達を狩ってないはずだからその通路の先が安全である可能性はかなり低いと思うがあの階層主と戦うよりはまだましだろう。
そんなことを考えていると侵入者に反応したのか階層主が動き出した。
「…でかい」
のそりとした動きで立ち上がった階層主の姿は異様だった。少なくともあっちにいた時小説でも漫画でもこんなモンスターは見たことがない。
全身は緑色の鱗に包まれたその体躯はどう少なく見積もっても全高4メートルを超える。ごつい後ろ足2本で立っているその姿は一見恐竜のようにも見えるがなによりも違うのはその前足だった。
階層主の前足はまさにマンティス。身体の半分ほどにも達するような蟷螂チックな鎌を備えていた。その鎌も緑の鱗に覆われ,鎌の内側には固そうな棘が幾本もあり肘にあたる部分にも杭のような棘がある。
顔は完全にドラゴン顔であり,獰猛な牙の数々は十分攻撃手段になりそうだ。
階層主の異様に戦慄しフレイの追跡を完全に諦めようかと判断しかけて戻ろうかと思った時俺は見てしまった。
同じように階層主の異様に気が付いて腰を抜かし,座り込んでしまったフレイ・ハウを見てしまった。
「馬鹿!止まるな!動け!走れ!」
俺が叫ぶがぼろぼろと恐怖の涙を流しながら子供のようにいやいやをするのが精一杯のようだ。確かにこれを見るとトォル達が至近距離でこの階層主と遭遇した時に全てを諦めてしまった気持ちも分からなくもない。今のフレイもおそらく同じ状態なのだろう。
階層主の顔がゆっくりと回されフレイを捉える。
「ひ!」
フレイは短い悲鳴を上げるがそれでも立ち上がることが出来ない。おそらくバクゥがしたような荒療治でもなければ動き出すきっかけを作れないのだろう。
どうする!どうする!どうする?
頭の中でそれだけがリフレインしている。助けに行く?馬鹿な!自殺行為もいいところだ。蛍さんとシスティナがいたって正直勝ち目はないかもしれないのに俺一人で足手纏いを抱えながら戦えるような相手じゃない。
階層主は巨体の割に静かでなめらかな動きでフレイに向かって歩を進める。その距離は10メートルも離れていない。このまま見ていればフレイは確実に殺されるだろう。
「あぁ!くそ!」
フレイの首が階層主の鎌でとばされるシーンを幻視した俺は盛大な舌打ちをしながら1刀1剣を抜いて階層主の領域内へ走り出していた。




