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第二百八話 逃走

西方方面軍の拠点は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎとなっていた。


「お父様!!」


扉を乱暴に開け放って部屋へ飛び込んだリズの視界に、ぐったりとしたまま血の海へ横たわる父の姿が映り込んだ。


デルヒの傍らでは、若い将校やアリアの父、グレイ・バートンが焦りの表情を浮かべたまま治癒を試みている。緊急事態ゆえ、兵士の誰かが総司令であるグレイや他の軍団長へ急を知らせたのだろう。


「グ、グレイ様、父の容態は……!?」


リズが治癒魔法を発動しているグレイの隣へ強引に割り込む。


「リズか……久しいな」


「容態は!?」


「……心臓を半分吹き飛ばされている。かろうじて息があるのも奇跡だ」


リズは弾けるように父の胸元へ目を向けた。分厚くたくましかった父の胸にはぽっかりと穴があき、いまだ出血も続いている。


「そ、そんな……! どうして……お父様……!」


今にも泣きだしそうなリズの隣で、グレイが治癒魔法の出力をさらに高める。二人の若い将校も同様に出力を上げた。


「く……! やはりダメか……!」


こめかみに蜘蛛の巣のような血管を浮かび上がらせながら、グレイは唇を噛んだ。いてもたってもいられず、リズも治癒魔法を発動させる。が──


「ど、どうしてですの……!? 治癒魔法が……!」


真祖に限りなく近い血族のリズと、古くから真祖を支えてきた名門バートン家の当主、さらに若輩とはいえ軍団長を任されるほどの将校が揃って治癒魔法を施しているにもかかわらず、デルヒの傷が治癒する兆しはいっこうになかった。


「何かが、おかしい……! こんなこと、通常はありえん……!」


そうこうしているうちに、デルヒの呼吸はさらに弱々しくなり、顔色もますます悪くなっていった。


「あ、ああ……お父様……お父様……!!」


リズの瞳から涙がこぼれ落ちる。


「く……こうなったら、仕方がない……!」


「グ、グレイ様……? いったい何を……?」


グレイが治癒魔法をやめたことに、リズは唖然とした表情を浮かべる。


「まだ……デルヒを失うわけにはいかん。『石化(ペトリフィケーション)』」


デルヒの体が光に包まれたかと思うと、瞬く間に全身が石化した。グレイが大きく息を吐く。


「治癒魔法が効かない以上、このまま時間が経つのは危険だ。少なくとも石化させていれば、その間デルヒの時は止まる」


「な、なるほど……」


ひとまず最悪の事態は免れたことに、リズは少し安堵した。が、まだ大きな謎が残っている。


「……グレイ様。父を襲撃したのは……カグラだと聞きましたが、何かの間違いですわよね?」


それに答えたのはグレイではなかった。


「犯人はカグラで間違いありません! くそっ、あいつ……! デルヒ将軍から受けた恩を仇で返しやがって……!」


声を荒げたのは、グレイとともにデルヒへ治癒魔法をかけていた将校の一人だった。長身でやや目つきが悪い若き将校は、カグラへの敵意をあらわにしながら言葉を絞り出した。


「グレイ様、彼は?」


「南方方面軍の指揮をとっているメビウスだ」


「南方方面軍……ヘルガお兄様が指揮していた軍ですわよね」


「ああ。ヘルガ様がご当主様とともにこちらを離れることになったとき、臨時の軍団長として任命されたんだ」


「なるほど……。で、あなた。カグラが犯人である証拠はありますの?」


「は、はい! 朝方、カグラがデルヒ将軍の部屋へ入っていくのを見た兵士がいます。それに、慌てた様子で拠点から逃げ去るところも目撃されています」


メビウスをじっと見つめながら、リズは考えを巡らせた。


たしかに、状況から考えるとカグラが怪しいと言わざるを得ませんわ。しかし……何故あの子がお父様を?


昨夜、あの子の言葉の端々からは父への信頼と尊敬の念がたしかに感じられましたわ。あれほど父を敬愛していたカグラが、何故……?


「実際に襲撃現場を目撃した者はいないが……ここから逃げたのも事実だ」


「それは、そうですが……」


グレイの言葉にリズがかすかに目を伏せる。


「きっと、リズ様がお戻りになったことで、デルヒ将軍の寵愛を失うと焦ったんです! 嫉妬の感情にも駆られ、衝動的に襲撃したのかもしれません!」


「……治癒魔法が効かないのは、どう説明するつもりですの?」


「そ、それは分かりませんが……。も、もしかすると悪魔族と通じていたのでは……! 治癒魔法が効かないような、呪いを駆使した可能性も……!」


「メビウス、お前がカグラを嫌っているのはよく知っているが、あまりにも憶測がすぎるぞ」


軍総司令であるグレイからジロリと睨まれ、メビウスはバツが悪そうに顔を伏せた。


「まあ、いずれにしてもカグラが何かしらの事情を知ってるのは間違いないだろう。カグラには捜索隊を差し向けるとして、こっちはこっちで戦争のことも考えねばならん」


グレイが迫力ある目つきで、室内にいる将校や兵士へぐるりと視線を巡らせる。


「この騒ぎで兵が浮き足立っているかもしれん。メビウスとヴァニラはすぐ拠点へ戻り、統制を強めよ。すでに噂が広がっているかもしれんが、箝口令を徹底しろ。軍議はそれからだ」


メビウスとヴァニラ、二名の若き将校は「はっ」と短く返事をすると、リズにも軽く頭を下げて部屋を出て行った。


「メビウスという将校、随分カグラを嫌っていますのね」


「……カグラはああいう性格だからな。メビウスやヴァニラとは犬猿の仲だ。名門出身でなく元は戦災孤児、しかも女ということもあり、軍内部にはカグラのことを疎ましく思っている者は少なくない」


「そうでしたのね……」


小さく息を吐いたリズは石化した父のそばへしゃがみ込むと、そっとその顔へ手を添えた。手に伝わるひんやりとした質感。


父を助けるためにも、まずはカグラに話を聞かなければいけない。でも、彼女はいったいどこへ? 


ねえ、カグラ。お父様をこんな目に遭わせたのは、本当にあなたですの? あんなに父のことを慕っていた様子のあなたが、心臓を半分以上吹き飛ばすようなことをしましたの?


感情がぐちゃぐちゃになるのを感じながら、リズはそっと涙をこぼした。



──木漏れ日が差し込む森のなか、金髪の少女を背に乗せた銀毛の獣が駆けてゆく。パールとアルディアスだ。


「アルディアスちゃん、ママは家にいる?」


『妾がパールを学園へ迎えに出るときにはおったと思うが。どうかしたのかえ?』


「んー。明日から連休だからさ、ジェリーちゃんちで泊まり込みの勉強会しないかって誘われてるんだよね」


『ほう。それは楽しそうじゃの』


「うん。ただ、ママが許可してくれるかどうかなんだよね」


ただでさえ過保護なのに、最近のママは余計にパワーアップしてるんだもん。さすがに息が詰まっちゃうよ。


『くっくっ。アンジェリカなら一緒についてきかねんな』


「でしょ? はぁ……」


『まあ、それだけパールのことを大事に思っておるのじゃよ』


「それは分かるけど……」


パールの頬がリスのように膨らんでいるのを想像しながら、アルディアスは走る速度を落とした。前方にはすでにアンジェリカ邸が見えている。


アルディアスの姿を確認した門番のノアが、格子状の門扉を開いた。


「ノアちゃんただいま!」


「おか、えりなさい、パール様、アルディアス様」


腰を折るノアの横を通りすぎて庭内へ入ると、パールはぴょんっとアルディアスの背から飛び降りた。


「今日もありがとうね、アルディアスちゃん!」


『うむ。またあとでな』


元気に玄関へ駆けてゆくパールの背中を眺めながら、アルディアスは自然と目を細めた。



「たっだいまーっ!」


「あら、パール。今日はまっすぐ帰ってきたのね」


玄関扉を開けると、たった今取り込んだばかりであろう大量の洗濯物を胸の前に抱えたアリアが立っていた。


「うん。最近はギルドに楽しそうな依頼も少ないしね」


「そっか。あ、おやつあるけど食べる?」


「うん! あ、お姉ちゃんママいる?」


「お嬢様? それが、ちょっと出かけちゃったのよ」


「へ? どこへ?」


「行き先は言ってなかったんだけど、メグ様から使いの蝙蝠がやってきて、少し慌てた様子で出て行かれたわ」


アリアが頬に手を添えたまま首を傾げる。


「そうなんだ。んー、どうしようかな」


「何かあったの?」


「ジェリーちゃんちでお泊まり勉強会しようって話になってるんだけど。明日から連休だし」


「今夜から?」


「うん。ママがいないんじゃ許可もとれないかぁ……。ま、許可がとれたら行くって言ってあるし、約束してるわけじゃないけど」


残念そうに肩を落とすパールを見て、アリアがくすりと笑みをこぼす。


「別にいいんじゃない? あなた充分に強いんだし。危険な依頼に挑戦するわけでもなくただの勉強会なんだし」


「お姉ちゃん、いいの!?」


「ええ。知らんけど」


ふふっ、と楽しそうに笑みを漏らすアリアに、パールがジト目を向ける。と、そこへ──


「アリア、いいんですか?」


やってきたのは執事のフェルナンデス。どことなく戸惑ったような表情を浮かべている。


「お嬢様は過保護すぎるんですよ。子どもはのびのびと育てないと」


「母親のようなこと言いだしましたね」


今度はフェルナンデスがアリアへジトっとした目を向ける。


「そりゃもう。実質、パールを育てたのは私と言っても過言ではありませんから?」


「まあ、それもあながち間違いではありませんが」


「でしょう?」


「ふふ。つくづく、あなたも随分と変わられましたね。メイド長が今のあなたを見たら、何とおっしゃるでしょうね」


メイド長、と聞いた瞬間、アリアの背筋が瞬時にピンッと伸びた。


「ち、ちょっと、やめてくださいよフェルナンデスさん。怖いこと言わないでくださいっ」


二人の傍らでパールが首を捻る。


「メイド長って?」


「皇城に勤めるメイド、百名近くを執り仕切るトップです。アリアは特に厳しく指導されていましたから」


「へえ……」


パールがちらりとアリアの顔を見やる。アリアの顔色は明らかに悪く、脂汗も滲み出ていた。どうやら相当に怖い人らしい。


「は、はいはい。そんな話は置いておいて、パール。お泊まり勉強会のことはあとから私がお嬢様に伝えておくから」


「う、うん。ありがとうお姉ちゃん」


「すぐに出かける?」


「んー……もうちょっとあとで! あ、出かける前におじい様のところにも行ってくる」


「ご当主様の屋敷? 何かあるの?」


「ちょっと前に、珍しい魔法陣の本を私のために入手したって言ってたから、勉強会で使わせてもらおうかなって」


にぱっと笑うパールのそばで、アリアとフェルナンデスは苦笑いしながら顔を見合わせるのであった。



──アンジェリカ邸からわずかな距離にあるサイファ邸。そのリビングでは、キョウとシーラ、ヘルガの三兄弟が深刻な面持ちで顔を突き合わせていた。


「信じられん……カグラがデルヒを手にかけたなど……」


キョウの眉間に深いシワが刻まれる。


「同感です。が、実際にカグラは拠点から逃走している」


「……」


本国から送られてきた蝙蝠によりもたらされた衝撃の情報。いまだに三人は信じられない気持ちだった。


「リズが里帰りしていたのも驚きだったが……」


「もしかすると……それも関係があるのかもしれませんね」


ヘルガが沈痛な面持ちで口を開く。


「やはり、私は一度本国へ戻ります。詳しい状況も把握したいので」


「そう、だな。父上様には俺たちから伝えておこう」


と、そこへ──


「こんにちはー! おじい様、いますかー!?」


玄関のほうからパールの元気な声が飛び込んできた。三兄弟が慌てた様子でソファから立ち上がり、我先にと玄関へ向かう。


「やあパール、いらっしゃい」


三兄弟の声が見事にハモる。


「こんにちはおじ様! おじい様に本をお借りしようと思って来たんだけど」


「あー……父上様は、調べたいことがあるとかで朝方からいないんだ。でも、お目当ての本は書斎にあると思うよ。さあ、上がって」


慣れた様子で邸内へ上がり込むパールを見て、三兄弟が揃って頰を緩ませる。泣く子も黙る真祖の三兄弟だが、すっかり骨抜きにされていた。


「パール、僕たちは大事な話をしてるから、書斎で本を探しておいで」


「はーい!」


軽やかな足取りで二階への階段を登り、目当ての書斎へと向かう。


「ん?」


廊下を歩いていると、一室の扉が半分開いたままになっているのが視界に入った。


「あそこって、ヘルガおじ様の部屋だよね?」


パールはあたりを少し見まわしたあと、そろーっと室内を覗き込んだ。部屋の床には、大きなバッグに衣装ケース、衣類などが無造作に転がされている。


ヘルガおじ様、旅行にでも行くのかな……? 疑問に感じ首を傾げつつ、パールは書斎へと足を向けた。

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