第二百六話 辛辣
神族だからと言って、何をしても許されるわけではない。それも、数多の神族から選ばれた神族評議会のメンバーならなおさらだ──
正座したまま微動だにしない女は、そっと目を開くと視線を下へ向けた。眼下に広がるのは、かすかに細波立つ湖。
じっと湖面を見つめる女の脳裏に、先日開催された神族評議会での一幕が蘇る。
「……ほんと、忌々しい女ですわ」
復讐の女神、デランジェが苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
物理世界への過度な干渉に加え、評議会をも軽視する不遜な態度。慈愛の女神、サディの言動は明らかに問題だ。
「やはり、あのとき手にかけておくべきだったかしら」
ふう、と小さく息を吐いたそのとき──
「デランジェ様、今よろしいでしょうか?」
どこからともなく声が聞こえ、デランジェは静かに湖面の上に立った。
「ええ。お入りなさいな」
デランジェが指をパチンと弾くと、足元に広がっていた湖が跡形もなく姿を消した。湖は彼女が創りだしていた幻影である。
もとに戻った真っ白な空間、その一角がぐにゃりと歪み、一人の小柄な女性が姿を現した。女神デランジェの御使い、アベルである。
「何かありましたの?」
「ええと……その……」
「はっきり仰いなさいな。まあ、口に出さずとも大方のことはわかりますけれど」
「あう……すみません。また失敗しちゃいました……」
「でしょうね」
デランジェにジトっとした目を向けられたアベルは、肩をすくめて小さくなった。
「まあ、神代なんかであの女をどうこうできるとは私も思っていませんわ」
「えと、だったら何故……?」
「警告も兼ねた嫌がらせですわ。ま、ついでにあの女を痛めつけられたら最高の気分でしたが」
再びじろりと視線を向けられ、アベルはごくりと喉を鳴らした。
「これ以上、あの女に好き勝手させるわけにはいきませんの。しばらくはドールを差し向けつつ、動向を見張っておくように」
「は、はい!」
アベルは慌てて腰を折ると、逃げるようにその場から姿を消した。
──まさか、久方ぶりの再会がこのようなところになるとは、思いもよりませんでしたわ。
用意された椅子に腰を下ろしたまま、リズは質素な造りの室内へ視線を這わせた。彼女が今いるのは、戦場に設けられた西方方面軍の拠点、その一室である。
戦闘がひと段落ついたタイミングで、リズは旧知の兵士にここへ案内された。彼女の父であるデルヒにも、ことの次第を報告済みとのこと。
「何となく……緊張しますわね」
父の顔を思い浮かべ、リズは小さくため息をついた。
なんせ約千年ぶりの再会なんですもの。しかも、国を飛び出す前にいろいろやらかしていますし。はぁ……ここまで来たはいいものの、ちょっと気が重くなってきましたわ。
と、そんなことを考えていると──
簡素な扉が開く音が室内に響いた。リズが椅子に座ったまま背後を振り返る。そこに立っていたのは、紛れもない実の父、デルヒ・ライア・コアブレイドだった。
「お父様……」
リズがやや緊張した面持ちで椅子から立ち上がる。一方、デルヒはかすかに険しい表情でリズを一瞥すると、部屋の奥に設置してある執務机へと一直線に向かい、ドッカと椅子へ腰を下ろした。その様子を見たリズも再び腰を下ろす。
デルヒは腕組みをしたまま、リズをじっと見やった。一言も発せず、ただただ黙ったまま娘へ視線を向け続ける。
「あ、あの……お父さ──」
「いったい何をしにきた」
娘の言葉を遮るようにデルヒが口を開く。千年ぶりに再会した娘への第一声とは思えぬ辛辣な言葉に、リズの顔が思わず強張った。
「自分勝手な考えで国を捨て出て行った者が、今さら何をしに来たと聞いているのだ」
「……」
「それに、報告では戦闘継続中の戦場へ臨場し、敵へ攻撃を加えたそうではないか」
「そ、それは……!」
「お前はあの頃とまったく変わっていない……。その場の感情で行動を起こし、これみよがしに力を行使しようとする。千年も経つのに何も成長していない、子どものままだ」
デルヒが冷たく言い放つ。一方、リズは父の口から放たれる辛辣すぎる言葉に最初こそ戸惑ったものの、やがて怒りの感情がふつふつと湧き上がり始めた。
「だいたいお前は──」
「もう結構ですの」
首を小さく左右に振りながら立ち上がったリズは、父に刺すような視線を向けた。
「……お姉様からも言われたので里帰りのつもりで戻ってきましたが、どうやら間違いのようでしたわ」
吐き捨てるように言い放ったリズは、そのまま踵を返し部屋の扉へと向かった。
「……待ちなさい、リズ」
「何故ですの? 自分勝手で感情を抑制できない、親不孝者な娘はさっさと姿を消しますわ」
冷たい声色で言葉を紡ぐ娘の後ろ姿を見つめながら、デルヒは顔をしかめた。
「リズ」
「ですから、何ですの?」
「……もう、今日の戦闘は終わった。じきに日も暮れる。部屋を用意させるから、今夜は泊まっていきなさい」
「……愚かな娘の顔など、もう見たくもないのでは?」
「そんなこと……言っておらん」
リズはかすかにため息をつくとわずかな時間天井を見上げ、父のほうを振り返りもせず部屋をあとにした。
後ろ手に部屋の扉を閉めたリズは、大袈裟なくらい大きなため息をついた。
ああ、腹が立ちますわ。昔のことをあんなにもネチネチと。お父様のほうこそまったく成長なされていないのでは? 娘に対して大人げなさすぎませんこと?
ほんと、こんなことなら里帰りなんてしなけりゃよかったですわ。
胸の中で怒りをぶちまけ、そしてそっと目を伏せた。と、そのとき──
「あ、あの!」
いきなり声をかけられ、リズの肩が小さく跳ねた。視線を向けた先にいたのは、燃えるような赤い髪の少女。西方方面軍の主力部隊を率いる将軍、カグラだ。
「あなた、先ほどの……」
「カグラです。さっきは助力いただき、ありがとうございました」
「大したことはしていませんわ」
「いえ、ほんとに助かりました」
「余計なことをしてくれた、と父は思っているかもしれませんけどね」
リズが自嘲気味に笑う。
「そ、そんなことは……。あ、ええと。あの、お時間あるなら、少しお話できませんか?」
「? 私と、ですの?」
「はい」
怪訝そうに首を傾げるリズの目をまっすぐ見つめながら、カグラは力強く頷いた。
──はたして正気、いや、本気なのか。恐らくは本気なのだろう。できれば冗談であってほしいのだが。
目の前で楽しげにクルクルと踊り続ける主人を視界に捉えたまま、女は諦めたようにため息をついた。刹那、踊りふけっていた美女がぴたりと動きを止める。
「なによ、リリー? ため息なんかついちゃって」
「……! す、すみません」
女神サディにジト目を向けられ、御使いリリーの頬を冷たいものが伝う。
「何か言いたいことがありそうだけど?」
サディは長いブロンドの髪をかきあげると、音もなくリリーの眼前に近寄りその顔を下から見上げた。
「う……」
「ほらほら、言ってごらんなさいよ」
サディがにっこりと口角を上げる。が、その目の奥はまったく笑っていない。
「や、その……本気なのかな、と」
「私がさっき言ったこと?」
サディが可愛らしく首を傾げる。
「はい。私はサディ様の御使いなので、指示があればもちろん従います。ただ、今回のはちょっと……」
「迷ってる?」
「正直に言えば、そうです。私はともかく、サディ様にとってはあまりよろしくないことなのでは?」
御使いリリーはサディの前に跪くと、まっすぐその瞳を見つめた。
「あーもう、リリーは心配性ね。大丈夫だって。何とかなるって」
サディがあっけらかんと言い放つが、リリーの顔はいまだに晴れない。
「……一線を越えることになりますよ?」
「そうね」
「ただでさえ評議会の方々から目をつけられ、ドールまで差し向けられている状況なのに……」
「だーいじょうぶだって! 私のことなら心配ないから。こっちにはメサもいるんだしさ」
「はぁ……わかりました。くれぐれもお気をつけくださいね」
「うん! リリーこそ、失敗しないようにね?」
「や、これでも貴女様の御使いですからね。失敗なんてするわけないじゃないですか」
「それもそっか」
にぱっと笑みを浮かべるサディに、リリーは若干呆れたような目を向ける。
「では、行ってまいります」
すっくと立ち上がったリリーは、サディに深々と腰を折るとその場から静かに姿を消した。
──全身をバラバラに引き裂かれるかの如き、鋭く強烈な痛み。まさか、この俺があのような小娘に命を脅かされようとは……!
「ぐ……! くそったれ……!」
ラディック王国の国境近く。地上より遥か上空に浮かびながら、ハクエイは痛みと屈辱に顔を歪ませた。
シオンへの嫌がらせ目的でイングリスを襲撃したハクエイだったが、返り討ちに遭い撤退を余儀なくされ今にいたる。
シオンはともかく、あの失敗作のホムンクルスにあれほどまでの力があったとは……! もともとの潜在能力に加え、恐らくはシオンから指導も受けていたのだろう。が。
あの力はいったい何だ? あれは魔法ではなかった。少なくとも俺はあのような力を知らない。まさか、あれもシオンに教わったというのか?
そもそも、シオンは謎ばかりだ。あの女の過去は誰も知らない。悪魔族として特に大きな功績をあげた記録もなければ、名門の生まれというわけでもない。なのに、七禍の方々はあの女を対等に扱っていた。
まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく今は、クソ生意気なシオンとあの失敗作をぶち殺してやりたい。これは悪魔族としての本能だ。
ひとまずは体力と魔力を回復させないといけないが、その暁には……!
まずあの失敗作の小娘をバラバラに切り刻んでやろう。そして、それをシオンの目の前にぶちまけてやる。くくっ……あの女はいったいどんな顔をするだろうか。
「くっくくっ……! くけけっ! 楽しみにしてろよ、シオン……!」
ハクエイが愉快げに呟いた刹那。周囲の温度が急激に低下するのをハクエイはたしかに感じた。足に絡みつきながら這い上がってくる冷気に全身の肌は粟立ち、自然と膝が笑いだす。
とんでもないモノが後ろにいる──
乱れる呼吸を何とか抑えつつ、そーっと背後を振り返る。
「……っ!」
視線の先にいたのは、黒く艶やかな髪を後ろにひっつめた紅い瞳の女。只者ではないことは明らかだった。
禍々しい魔力を纏う妖艶な美女は、槍のようなものを肩に担いだまま、虫でも見るような目をハクエイへ向けた。ただ視線を向けられているだけなのに、ハクエイの呼吸がどんどん荒くなる。
禍々しすぎる魔力にあてられ、気を失いそうになりながらも、ハクエイは何とか言葉を絞り出した。
「な、何者だ……?」
妖艶な美女の細い眉がぴくりと跳ねる。
「……虫けらに名乗る必要はないんだけど、まあいいわ。私はメグ・ブラド・クインシー。真祖よ」




