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「門野は円が薫子の娘であることに気付かなかったみたいだが。とにかく、その出来事があってから円と巴は家から出られなくなった。それでも巴が勉強だけはしたいと言うから、巴のために家庭教師を雇ったのだ。募集を見てやって来たという安来さんは、物腰が優しく人嫌いの巴も気に入ったようだったので、恋愛問題は持ち込まないという条件で雇うことにした。ところが彼女は巴に思わせぶりな態度を取り、巴の気持ちをもてあそんだ」
「私、そんなことしてません……!」
「……そうだね。今となってはその言葉も信じられるが、少し前まで私は君と佐村君という人間を信用することが出来なかった。ここに来て初めて、二人が円にとって害のない人間だということが分かったけれどね。安来さんに想いを告げたが断られた巴は、自殺未遂事件を起こした。円がすぐに気付かなければ死んでいただろう。巴は完全に塞ぎ込んで、笑うことの出来ない人間になってしまった。円と巴を守りたいと思う母の強い愛だったんだろうな。私が心配していた薫子は意外にも気丈で、二人の心の支えになっていた。たびたび二人に声を掛けては少し外出しないかと家の外へ連れ出し、どうでもいいものを買い込んで帰ってきた。懐かしいな。このまま二人も薫子も、傷付いた心が癒えて、普通の家庭になれればいいと淡い期待を抱いていたよ。一年前、その思いは残酷にも潰えたがね。一人の女性が運転する乗用車が、交差点に突っ込み、巴を轢き殺した。薫子と、円の目の前でな。薫子はついに狂ってしまった。円を巴と呼び、彼女の中から今目の前にいる円が消えてしまったのだ。巴と呼ばれるたびに歪む円の顔が可哀想で見ていられなかった。だから俺は可能な限り円と薫子を会わせないように配慮した。俺は考えたよ。この不幸は誰が生み出したものだ? どこで狂った? なぜ、俺達はこんなにも不幸に見舞われなくてはならない? 神のせいではない。神などこの世界には存在しないのだからな。人だ。人間が、人間を不幸にする。ここはそういう世界だ。俺は調べた。俺達を不幸にした人間達のことを、隅々までな。巴を轢き殺した女はとある議員と不倫関係にあった。その議員の妻が司堂に不倫調査の依頼をしていたのさ。司堂とその女自身が不倫関係にありながらな。成功報酬に大金を約束されていた司堂の執拗な追尾で、議員と不倫していた女は過剰に神経を働かせるようになり、あの事故の当日も何かから逃げるように車に乗り込み、急発進させて交差点に突っ込んだらしい。警察の調べでは事故の原因を掴むことは出来なかった。議員が都合の悪い事実をもみ消したからさ。不倫していた事実も、妻が探偵を使っていた事実も、闇の中に放り込まれた。なぜこんなことが起こると思う。人間が人間を統治する世界だからだ。だったら間違いを正し、大切なものを守るのも人間である自分しかいないだろう」
神無木操は狂ってしまったかのように、両手を広げて天を仰いだ。その目にわずかな喜びが漂っているのを円は見逃さなかった。神無木操は狂ってなどいない。彼は確信犯だ。正常なままで、自分のしていることが完全に正しいと信じ込んでいる。
「薫子のことは今でも愛している。しかしもう壊れてしまって元には戻れない妻は、このままでは俺の可愛い円を追い詰めるだけの存在になってしまう。円に新たな不幸を振りかける存在だ。そんな存在を許しておくことは出来ない。薫子を殺すことを考えた時、それなら神無木家に不幸をまき散らした連中に復讐してやろうと考えた。俺は一年かけて準備を進めた。俺達を不幸に陥れた人間達を世界から排除するための準備を。別の探偵を使い、門野や他の人間の過去、性格、癖、嗜好、趣味、何から何まで完璧に調べ上げたよ。そしてこの館を使った殺人計画を進めて行った。心労で体重が激減した俺はすでに別人だったが、円に正体がばれないよう目を整形し、髭も剃り、髪型も変えて別人になり替わった。万一、島津が俺の変貌ぶりを円に教えてしまうとも限らない。そのため島津には『円を驚かせたいから、内緒にしておいてくれ』と一言伝えておいた。あれは実直で言い付けを守る男だったから主人の言うことは絶対だと思っていたに違いない。幸いにもそこから計画が破綻することはなかったよ」
殺人鬼、神無木操の顔には清々しい表情が浮かんでいる。
「金儲けの話がある、と持ち掛けると、倉内松利はすぐに飛びついて来た。奴は前科者になってから外出する時はいつもサングラスにマスクを付けていたから、特に俺から言うことは付け加える程度だったよ。俺が書いた書状を渡し、帽子とコートで変装をして島津に書状を見せ、喋らずに硝子の館まで来てほしいと、約束を取り付けた。硝子の館に隠された宝を山分けするのに、顔を誰かに見られては不都合があるだろうと言葉を添えると、松利はなんの疑いもなく俺の言う通りに動いた。薫子と松利の首を絞めて殺し、松利に俺の服を着せた。指が首に食い込む感覚がまだ手に残っているようだよ。髪型を円の記憶の中にある一年前の俺と同じように整えた。今の気温なら円が来る頃には死体は判別が出来ないくらいに腐敗するだろうが、念を入れて部屋の窓を開け放っておいた。ここは動物の肉の味を好むカラスが多い。食い荒らしてくれればそれだけ計画は完璧に近付く。吊り橋に爆弾を仕掛け、それから円に電話を掛け、通話を切った。優しい円なら必ず八人を連れて俺を助けに来てくれる。そこに心配はいらなかった。通話を終えた後、電話線も切っておいた。これで、ここに来た面々を閉じ込めることが出来る。俺は渓流を、用意していたゴムボートで下り、急いで東京へ帰った。そしてそこから俺は和泉源という人間に成り替わったんだ」
聞き慣れた父の声で、魔物が囁いているような気がした。目の前にいるのは、もはや円の知る神無木操とは別の生き物だった。




