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佐村はそこで一旦言葉を区切り、はっきりと言い切った。
「――神無木操」
思考が追い付かずに、円は佐村と和泉の顔を二度見してしまった。
「何を言ってるんですか佐村さん。和泉さんは私のお父さんじゃありませんよ」
「最初に会った時、雰囲気が似てると思わなかったか?」
「たしかに思いましたけど……父は腫れぼったい一重でしたし、太ってますし、和泉さんとは正反対のイメージです」
「一重なんて簡単に二重に出来る時代だぞ。太っていたって? 痩せればいい。お前は一年間父親の顔も見ていないって言っていたよな。それだけあれば人間は変われる。それに同じ家に住んでいて、お前だけが避けていた状態で都合よく一年間も顔を合わせずにいるなんてことが可能だと思うか? 相手も故意に避けていたんだよ、お前に現在の姿を見られないようにな。家政婦には、娘をびっくりさせたいから私が痩せたことは内緒にしておいてくれ、とでも言って口止めしておいたんだろ。人のいい嘉川ならそれで簡単に言いくるめられる」
「でも……そうだ! 父は重度の蜂蜜アレルギーなんです。和泉さんは私達の目の前で蜂蜜を大量に入れて紅茶を飲んでいたじゃないですか。父なら、完全にアナフィラキシーショックで死んでいる量です」
「それなんだが、神無木操は蜂蜜アレルギーなんかじゃないぜ」
「私の方が父に詳しいです。父は確かに蜂蜜を食べて重篤な症状を引き起こしました」
「そうだな。それでその蜂蜜は"なんの花から作られた蜂蜜"だったのか覚えているか?」
「え、いえ……そこまでは」
「食物アレルギーにも色々あるが、神無木の話を聞いた時に腑に落ちない点があった。蜂蜜で数日間の入院が必要なほどの重病者という話はあんまり聞いたことがなかったからな。食物アレルギーの中で特に重篤な症状を引き起こす食品は七品目。その中に蜂蜜は入っていない」
「食物アレルギーには個人差があります。人参で死んでしまう人だっているんですよ」
「神無木操があのカフェを選んだのは、神無木円の中の父親と和泉の像を完全に引き離すためだった。カフェMielでキャベツや桜の蜂蜜があると知った時のことを覚えているな?」
「はい。花を付ける植物ならなんでも蜂蜜がとれるのかなって……」
「あ……」安来が何かに気付いたように声をあげた。
「安来、頼んでいたものを持って来たか?」
「はい、これですよね」
安来が佐村に手渡したものは、五百ミリリットルのペットボトルだった。ラベルの文字を読んで、円ははっとする。
「神無木操、あんたにはこれが飲めるか?」
佐村が和泉源に差し出したものは――蕎麦茶だった。
和泉は蕎麦茶を受け取って、それから蓋を開け、中身を床に零した。
「無理だよな。なぜならあんたは、重度の蕎麦アレルギーだからだ。――そう。神無木操が過去にアレルギーを引き起こした蜂蜜は、蕎麦の花から採取されたものだったんだよ」
和泉は困ったように笑って、それからまっすぐに佐村の目を見据えた。
「確かに私は蕎麦アレルギーだが、それが私が神無木操君であることと犯人であることの証明にはならないんじゃないかな?」
佐村が深い溜息を吐き出す。呆れとも、疲労とも取れる長い嘆息だった。
「ところで、いま何時になった?」
顔を上げた佐村が突然言う。円も安来も門野も腕時計を見に付けていない。スマホも部屋に置いて来てしまった。
和泉が自身の腕時計を確認し「午後九時三十二分時分だね」と答えた。
佐村はにやりと笑う。自分のスマホと、三原から借りて来た腕時計を取り出して、したり顔で和泉に突き付けた。
「こっちが正確な時間だ。なんなら安来や門野のスマホも確認するか?」
表示されていたのは、午後八時二十八分だ。
「このガーデンテラスには和泉の時計しか存在しなかった。比較するものがない空間で、和泉は自分の時計が狂っていることに気付かなかったんだよ。そう。三原さんの時計が遅れていたんじゃない。和泉の時計が早く進んでいただけだ。和泉は司堂を絞殺した後であることに気付いたかもしれないな。だが、自分の時計が止まっていないことを確認して油断したんだ。時計がそんな風になる原因を知っている人間はいるか?」
誰も答えないので、佐村は話を続けた。
「慢性肩こりに悩まされていた司堂は、門野にもらったあるものを見に付けていた。磁気ネックレスだ。ところが恰好を付けたがる司堂は、デザインが洗練された現在の磁気ネックレスでも、人目に触れることを嫌った。まだ若い男が慢性肩こりに悩まされているなんて恰好が付かないとでも思ったんだろう。あいつはそういう男だった。磁気ネックレスの存在に、和泉も司堂を絞殺した後で初めて気付いたに違いない。司堂の磁気ネックレスに使われていた磁石は、ネオジウムと呼ばれる通常の十倍の磁力を持つものだ。特に磁気に弱いアンティーク時計なんて近付けたら一発で狂うに決まっている。首を締め上げた際に時計が狂ったんだよ。人間を絞殺する場合、数分間首を締め上げ続けなきゃならない。時計が磁気帯びになるには十分な時間だ。俺達八人のことを性格まで事細かに調べ上げていたあんたがなぜそのことを知らなかったのか。それは、門野が司堂に磁気ネックレスを送ったのが七月二十五日にファミレスで会っていた時だったからに他ならない。すでにノーマークだった司堂が新たに身に着けたものの存在をあんたは知らなかったんだよ」
「アンティーク時計は知っての通りとても脆いものだ。犯人に頭を殴られた際に硝子に強打してしまってね、それで狂ったんだろう」
「往生際が悪いな、あんた。おい、円。方位磁石を持っていたよな」
はじめて名前を呼ばれてどきっとする。円は「はい」と答えて方位磁石を佐村に手渡した。硝子の館に向かう際に、久々の場所で迷わないようにと持って来たものだった。
和泉の時計にそれを近付けると、方位磁石の針が大きく振れた。
「これが、時計が磁気帯び状態になっている動かぬ証拠だ。スマホもパソコンも、あんたは磁気を発生させるものは何も持っていない。あんたの時計が最後に正しく動いていた時間を、ここにいる神無木円は秒単位で正確に証言出来るぜ。さて、ずっとガーデンにいたはずのあんたの時計は、一体いつ磁気を帯びたんだろうな。答えてくれるか?」
そこでようやく、和泉は深い溜息を吐き出した。その顔には諦観の笑みが浮かんでいる。
「……完敗だ。円の前では犯人の顔を見られたくなかったんだがな……。完璧に和泉源という人間を生み出せたと思っていたんだが、君の推理力は少し計算外だったよ、佐村君」
その声は、和泉源の低い声とは違い、高い声音だった。わずかにしわがれてはいるが、父、神無木操のものに他ならない。
「俺が一年かけて調べ上げたっていうのに、君はたったの数日で俺という人間を見抜いてしまったというわけか。いや、感服したよ」
「俺達が最初に見た、神無木操だと思っていた腐乱死体は、倉内未歩の父親だよな?」
「そこまで見抜いているとは。ただの探偵にしておくのがもったいないくらいだ」
目の前が暗くなるのを感じた。円は安来に体を支えられなんとかその場に立っているだけで精一杯だった。
あの父が、殺人犯?
百瀬や倉内や三原や司堂や、偽物の自分と、そして母を……?
「お父さん……なんで、こんな。お母さんを殺したのもお父さんなの?」
「そうだよ、円。すべては神無木家に降り掛かった不幸の連鎖を断ち切るのに必要なことだった」
和泉源――いや、神無木操は、落ち着いた様子で事の顛末を語り出した。




