3-7
円が佐村の部屋へ確認をしに行き、自室へ帰って来た直後に時計を確認すると時刻は午前十時八分だった。前回、円の番が終わった時間が七時十一分だったため、前回より少しだけ早く順番が回って来たことになる。計算すると大体一人分の確認が飛ばされたような間隔だ。なぜ数分間の時間短縮が生じたのだろうか。
もしかしたら、たまたま二の間から四の間にかけての三人が、あらかじめドアで待機していて順調に回っただけかもしれない。
円は自分の腹が空腹に喘いでいることに気付く。そういえば前に食事をしてからどれくらいの時間が経っているのか思い出せない。これではまずいと思い、持って来た栄養バーをかじりながら、ペットボトルの水で喉の奥に流し込んだ。
館へ来てまだ二日目だ。ここに滞在する予定は明日までだが、円達が帰らないことを不審に思って誰かが警察に連絡をしてくれるのは早くてもそれ以降、つまり後二日近くは耐えなければならないということになる。
生存確認の見回りは順調に進んでいるようなので、このままいけば無事に乗り切れるのではないかという希望が見えて来た。
暇潰しになるだろうと考えて持って来た文庫本に目を通すが、まったく頭に入って来ない。佐村に出されたヒントという名の難問の方が気になって読書という心境ではなかった。
佐村は何かに気付いているようだが、まだ犯人の特定には至っていないようだ。
それよりも百キロを超える女性を開かずの間へ運ぶなど、中程度の重さの荷物すら満足に持ち上げられない円には絶対に不可能なのだが、佐村は「あの部屋でなら可能だった」と言った。まるで難解なクイズでも出された気分だ。答えが気になるが佐村は現時点では絶対に教えてくれないだろう。
佐村はこのメンバーの中で信用出来る人物は円だけだと言っていた。犯人の特定が完了した時点で、佐村は自ら円に真相を話してくれるに違いない。
その時だった。廊下に悲鳴、というより、雄叫びのようなものが響き渡ったのは。
慌てて外に飛び出すと、佐村が左側の廊下へ走って行く姿が見えた。円が後に続くと、声に驚いて出て来たらしい門野も少し離れて後ろから走ってくる。司堂も恐らく上側の道を通って和泉の方へ向かっているだろう。
丁度八の間の前を通過する時、遅れて部屋から顔を出した安来と目が合った。「何があったの?」そう訴える安来の目は不安に揺れていた。
十の間から和泉が這い出してくるのが見えた。腰を抜かしているようで、口元をわなわなと震わせながら部屋の中を指差している。
真っ先に中を覗いた司堂の口元から「う……」と声が漏れた。円も恐る恐る中を覗いてみるが、和泉の室内には何もない。
「バ、バスルームに」
和泉の声にバスルームを覗くと、そこには切断された人間の遺体が散乱していた。
タイルの上に無造作に投げ出された左手首には金の腕時計がはまっている。ここへ来た初日に、三原がなくしたと言っていたデジタル腕時計に間違いなかった。一体いつの間に見付けたのだろうか。
浴槽の中に転がっていたのは頭部で、血の気を失い別人のように見えるが、髪型や様相から三原以外の何者でもないことが分かる。
「あんたが、やったのか?」
腰を抜かしている和泉を見下ろして司堂が冷めた声を出す。和泉は目を見開いて、耳を疑っているようだった。
「自作自演だろ。そもそもおかしいんだよ。初日に腐乱死体を見ても、ほとんど顔色を変えなかったあんたが、なんで三原の遺体にこれほどまで取り乱してんだ。演技じゃないのか、それも」
「そうよね……言われてみればおかしいわ」
司堂の意見に門野も賛同するが、そこに割って入ったのは佐村だ。佐村はいつでも弱い立場の人間を庇っているような気がする。
「どうしても和泉を犯人に仕立て上げたいようだが、今重要なのはそこじゃないだろ。三原さんが、いつ殺されたのかだ」
三原の無残な遺体を見たというのに、意外にも佐村の様子は落ち着いていて冷静だ。恩人を殺された怒りが、佐村を逆に犯人を狩る冷徹な狩人に仕立てたのかもしれなかった。
佐村の目は、一言の偽りも許さないというように、隙無く全員に向けられている。
「俺達は司堂が提案した三時間ルールを守ってそれぞれの生存確認をしていたはずだ。ところがどこかでずれが生じていた。和泉、三原さんの死体を発見した前後を詳しく話せるか」
和泉は依然として床に尻もちをついた格好のまま、佐村の問いに力なく頷いて返した。まだ呆けているようで、和泉がいつも有していた毅然とした雰囲気は欠片もない。
「私の順番になったので司堂君に声を掛けに行ったんだ。しかし中からなかなか返事がないもので、二の間のドアの前で五分くらいは待っていたと思う。それからノックの返事を確認して自分の部屋へ戻ったら入口のドアとバスルームのドアが開きっぱなしになっていて、後はご存じの通りだ」
バラバラ死体を見てショックを受けているものの、和泉は犯人を押し付けられそうな状況であっても、大袈裟に取り乱したりはしない。
佐村はバスルームを覗き込み、三原の首を指差した。
「首の切断面が火傷の痕を隠すように切られている。多分ここに違法改造した高威力のスタンガンでも押し当てたんだろ。気絶か即死か、いずれにしても数分間は動けなかったはずだ」
佐村は切り離された三原の手の関節に触れる。
「死後硬直が始まっているということは、死後数時間は経っている証拠だ。数時間というと丁度三時間ルール……七時付近の見回りに被る時間だぞ。その時間に三原さんが死んでいたとすると、司堂の呼び掛けに返事をし、七時少し過ぎに門野を呼びに行ったのは誰だ?」
皆の視線が司堂と門野の交互に向けられる。佐村は狼狽する司堂を見据えて、いつもより低い声を出した。
「司堂、中から三原さんの返事はあったのか?」
「あったよ! ちゃんとノックが返って来た!」
「門野、本当は三原さんが呼びに来たなんてのは嘘じゃないのか?」
「その時間には本当に三原が来たのよ! 部屋を覗き込もうとしているみたいで、気持ち悪かったわ!」
力説する門野が嘘を言っているようには、少なくとも円の目には見えなかった。
「状況的に考えて、和泉が犯人だと考えるのが一番有力だろ。だってバスルームから死体が見つかったんだぞ」
「早計過ぎる気もするが? 三原さんが感電させられたとすると門野が自慢していたスタンガンが使われた可能性もある」
「私が犯人だって言うの!? しかも私の護身用のスタンガンじゃ人は気絶もさせられないし殺せないわよ! 無論改造なんてしてないわ。なんなら試してみる?」
「じゃあ、和泉が犯人だと言い切れる、れっきとした証拠をあげられるか?」
「三原は三時間ルールの最中に死んでるんだろ。その時間だったら皆が部屋に閉じ籠ってたんだし、犯人はうろついてたって誰にも見咎められることはなかった」
「そうだな。お前が提唱した三時間ルールのせいで、犯人が自由に活動できる時間が生じてしまったよな」
「俺のせいだって言うのかよ!?」
佐村ははっきりとは宣言せずに肩をすくめてみせた。
「あの……犯人は自由に動けたっていう話ですけど、そんな短い時間で人間を切断することなんて可能なんでしょうか」
安来がおずおずと前に進み出る。円もその点が腑に落ちなかった。よくテレビなどで見る犯人は、死体を切断するのにノコギリなどを用いて大変な苦労をしているからだ。
「ノコギリなんて使わなくたって、メスが一本あれば非力な女でも簡単に切断出来るぜ? 骨の繋ぎ目――関節部分を狙ってメスを入れてやればいいだけだ。現に切断面を見てみろ。綺麗なもんだろ。ノコギリだったらこうはいかない」
「だったら身体検査をすればいいんじゃないの? メスなんて私は持ってないわよ」
「無駄だろ。証拠になる物を犯人がいつまでも持っているわけがない」
力む門野を佐村は一言で黙らせた。
司堂と門野が共犯で三原を殺したと考えるのが今のところ一番納得のいく推理だ。部屋割り的にもこの二人はこれまでの犯行がしやすい位置にいた。倉内を運ぶことも、二人掛かりでならどうにでもなったかもしれない。
しかしそれを発言するだけの勇気を円は持っていなかった。言わねば和泉が容疑を着せられてしまうと分かっていても、開きかけた口を閉じることしか出来ない。
うじうじしながら佐村を見やった。午前九時半に司堂が門野の部屋から出てきた場面を佐村も一緒に目撃している。その時のことを話しに出さないということは彼には何か考えがあるのだろう。
それに三時間ルールを破って会話をしていたのは円達も同じで、下手に何かを言えば自分達の足を掬われかねない。ここは慎重に、佐村の判断に委ねようと思った。
その場にゆっくりと立ち上がり、若干落ち着きを取り戻したらしい和泉が言う。
「今の私には、自分の身の潔白を証明する手段がない。犯人だと疑う人がいるのならば、どこかに閉じ込めてもらっても結構だ。それで皆の気が済むのならね」
「和泉さん、そんな……」
安来は眉根を下げるが、和泉は彼女の言葉の続きを手で制した。
「ガーデンはどうだろうか? あそこは強化硝子で出来ていると言っていたね。唯一の出入り口である鉄扉はガーデンテラス側からしか施錠も開錠も出来ないのだろう? テラスからずっと容疑者である私を見張っていられるし、私からは絶対に手を出せない。閉じ込めるには打って付けの場所に思うのだが」
「和泉さん、本気で言ってるんですか?」
「もちろん本気だ。私は自分が犯人ではないと証明出来るのならどこにでも喜んで飛び込む所存だよ」
円の問いに和泉は背筋を伸ばして答える。彼の目に迷いはなかった。
ひとまず和泉を容疑者に仕立てることが出来て、さぞ満足だろう。恨みの視線を司堂の方へ向けると、彼の顔には引き攣った笑みが浮かんでいた。まさか、この状況を狙っていた?
「本当にいいんだな?」
佐村が和泉に確認を取る。
「構わないよ。そこなら私自身の身を守ることにもなりそうだしね。ただ自分の荷物は持って行っても構わないだろうか? 飲食物や、暇潰しの本などが入っているのでね」
「点検させてもらっても?」
「もちろんだとも」
佐村は外ポケットまで念入りに和泉の荷物を調べたが、凶器になるようなものや、犯行に使われた形跡のあるもの、怪しいものは何も入っていなかった。
佐村はガーデンに円でも知らない抜け道がないかどうか確認したいと言って見て回り、それから銅像にも手の甲を打ち付けて音を確認していた。前半分はカンカンという少し重い音で、後ろ半分は空洞のような軽い音がする。
「こいつの中身はなんだ?」
「さぁ。小さい時からそういう音がしますよ。祖父がいなくなった時に警察が調べてるはずですが、特に何かがあったという話は聞いてません」
「そうか」
和泉は人工芝生の敷かれたガーデンに入れられ、それから全員が立会いのもと、しっかりと鉄扉に施錠が掛けられる。天井の磨り硝子から差し込む日は幸いにも弱い。真夏には珍しい静かな雨が降っていた。時刻は午前十一時だ。
鉄扉の鍵は、引っ掛けてあった椅子を外したひとつの丸テーブルの上に置かれ、それから和泉を見張る順番が決められた。
佐村、司堂、門野、安来、円、の順番で一時間ごとに交代する。二人同時に見張りに付くという提案を佐村がしたのだが、門野が拒んだ。
「嫌よ、誰が犯人かしっかり分かっていないのに。……司堂さんと組ませてもらえるならいいけれど」
「それは今のところ一番避けたい組み合わせなんでね。理由は聞かなくても分かるだろ」
佐村はそう言って二人態勢で見張りに付く案自体を引っ込めた。
皆、疲れ切っていた。佐村ですら顔にはわずかな疲労が滲んでるように見える。それでも彼は一番最初の見張りの役割を自ら買って出た。
ガーデンテラスに和泉と佐村の二人を残して各々の部屋へ戻るが、円はなぜか佐村との距離が開くことを心細いと感じた。ガーデンテラスの入り口で一度だけ振り返ると、和泉が運び込んだ揺り椅子に腰掛けた佐村と目が合った。彼は片手で猫を追い払うように、しっし、と円を邪魔者扱いする仕草をしてみせた。
それはきっと佐村の気遣いなのだ。少しでも早く円を休ませてやろう、という余計なお世話だ。円は、少しでも多く佐村の隣で安心感を得ていたいというのに。そんなことは口が裂けても言えない円は、大人しく部屋に戻るしかなかった。
午後三時。安来に呼ばれて円が見張りに立つ番が来た。強化硝子越しに置かれた揺り椅子が、すっかり見張り番の席になっていた。
テーブルの上には鉄扉の鍵が置いてある。揺り椅子に腰掛けて、静かな雨の音を聞きながらぼーっとしていたら、いつの間にか少しだけ舟を漕いでいたようだ。こんこんと音がしてはっと目を覚ますと、和泉が四時を示す自分の腕時計を指差して「交代の時間ではないのかな」と口ぱくで伝えて来た。
律儀な人だ。自分が見張られる立場だというのに見張りに気を遣うなんて。
なんだか申し訳ない気持ちになりながら、円は佐村を呼びに行った。




