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体は疲れ切っているのに眠れなくて、持って来た家族の写真を見ていた、その時。ノックの音がしてベッドの上に飛び起きた。誰だろう。時計を確認すると午前九時。まだ門野が来る時間ではない。
返事をせずに相手の出方を窺っていると「神無木」という声がした。今の声は佐村だ。なぜ彼は時間外に円の部屋を訪れたのだろう。心臓が脈打つ。声は扉を開けることを要求している。もしも佐村が犯人だったらどうする?
円は頭を左右に振って、その考えを追い出した。佐村は犯人ではない。何度も円を助けてくれた彼を疑うなんて恥ずべき行為だ。
「話がある。開けてくれ」
円は後ろ手に武器になりそうな硝子細工を隠し持ってドアの前に立つ。彼を疑っているわけではないのだ。これは女性として当たり前の自己防衛意識に他ならない。という言い訳を自分に言い聞かせながら扉を開けた。
佐村は腕組みをして立っていた。
「俺が犯人だったら死んでるな、お前」
「犯人なんですか?」
「いや?」
そう言って佐村はずかずかと部屋の中に入り込み、扉を閉めるように指示してから勝手に椅子に腰掛けて足を組んだ。
「とりあえず、その手に隠し持っている物騒なものを置け」
隠し持っていたのだが、ばれていたらしい。円はガラス細工の女神像を元あった机の上に戻した。
「どうしたんですか、ルールを守らないと疑われますよ」
「お前しか信用出来る人間がいない」
お前しかいない、という言葉に少しだけ心臓が早くなるが、努めて平然を装い「三原さんは?」と聞き返した。
「あの人が本当のところ何を考えてんのか、俺にはよく分かっちゃいない。対してお前は単純だ。考えが透けて見える」
酷い言われようだ。そんなことで信用されても嬉しくもなんともないのだが。
「事件のことをずっと考えていたんだが、今ひとつ解決に繋がる要素が不足していてな。お前の意見を聞いてみたかった」
「私の素人意見なんて役に立たないと思いますけど」
「それは俺が決める」
人の部屋に押し掛けて来ておいて、この尊大な態度はなんなのだ。納得いかないながらも一応は信頼されていることに関しては悪い気はしない。円は佐村に向かい合う形でベッドの縁に腰掛けた。
「まず、百瀬の件に関して聞きたいことがある。運動量に比例して体に回りやすくなる毒なんていうのは存在するか?」
「毒にそんなに詳しいわけではないのでなんとも……ただ毒を摂取した後に動き回れば体に毒素が回る時間は早まると思いますよ。当たり前ですが」
「そうか。なら触っただけで死ぬ毒なんてのは?」
「有名どころでは青酸カリですかね。経皮吸入っていって、皮膚から吸収されてしまう毒がありますよ。だけど、経口吸入よりは症状は軽めに出ると思います。それに百瀬さんや私達に現れた症状は青酸カリとは違いますしね」
「じゃあ、なんの毒だと思う?」
「だから私は毒博士ではないので……ヒ素が近いかなとは思ったんですけど」
「百瀬や俺達に使われた毒はヒ素じゃないと前に断言していたよな」
「はい。ヒ素だったらなんらかの症状が出た状態からの自然回復はほぼあり得ません。じゃあなんの毒だったんだって聞かれたら私にもさっぱりなんです」
「わかった。百瀬の件はここまででいい。次だ。菓子に油性ペンかなんかでラクガキしたことはあるか?」
何を唐突にと思ったが、事件に関係があると佐村が考えているようだったので、真面目に答える。
「あります。子供の頃よく母のお菓子作りを手伝わされたので。でも有毒な油性ペンなんて使いませんよ。フードペンっていうものがあるんです。食べ物に字や絵を描くために開発された食べても無害なペンです」
「ああ、なるほど」
円の答えを聞いて、佐村は何か合点がいったようだ。
「何に関係があるのか教えてくれてもいいじゃないですか」
「はっきり言ってお前だけは犯人じゃないと確信している。だからこそ、知らない方がいい。生半可に真相に近付いたら、犯人に目を付けられて殺されかねないからな」
「でも気になります。少しだけ何がわかったのかヒントをください」
「百キロ超えの人間を開かずの間まで運ぶのは、あの部屋だったら可能だった。女でも、非力なお前でもな。ついでに倉内未歩が背後の犯人に気付かなかったのは"見えていなかったから"だ」
「見えていなかったって……だって鏡の前で殺されてたんですよ?」
「ヒントだけだと言ったはずだぞ」
そういえば、と佐村は言った。
「前にお前の父親はひどい蜂蜜アレルギーだと言っていたな」
「あ、はい。私が七歳くらいの時だったかな。父が知り合いからもらったパンケーキと蜂蜜のセットを家族全員で食べたことがあったんです。その時に父が突然苦しみ出して、椅子からずり落ちました。冷静だった母がすぐに救急車を呼んだおかげで一命は取り留めましたが、かなり重篤な状態で数日間入院したんです。私も弟も幼かったので余計な心配を掛けたくなかったんでしょうね。母に聞いても父がどうして倒れたのかなかなか教えてもらえなくて……私と弟は独自に色々と調べました。それで蜂蜜がいけなかったんじゃないかって父に詰め寄ったら、やっぱりそうだったみたいで。それから父が蜂蜜入りの食べ物を口にしないように、弟と共同戦線を張っていつも見張っていたんですよ」
「いい父親だったか?」
「そうですね……父は不器用な人でした。愛情を注ぐのが下手だったんだと思います。クリスマスやお正月は一緒には過ごした思い出がほとんどありませんが、ただ私達の誕生日だけはどんなに忙しい時でも時間を取ってくれるような人でした。私がほしかったのは、特別な一日じゃなくて、有り触れていてもいいから、普通に一緒にいられる時間だったんですけど……結局父に伝えられないままになっちゃいましたね」
いつの間にか、円の頬を涙が伝っていた。
「すみません……色々と思い出してしまって」
「そろそろ部屋に戻る」
こういう時に下手な慰めの言葉を口にしないのが、佐村哲という男の優しさなのだなと円は思った。上辺だけでも優しくされたら泣き止めなくなっていただろう。
ぐすっと鼻を啜って、円は佐村を見送るために腰を上げた。佐村は部屋のドアを開けたが、すぐにドアの影に隠れるようにして外の様子を窺い始めた。
「何か」
「しっ」
円も佐村と同じ方をドアの隙間から覗き見た。
この位置からだと見えづらいが、門野の部屋から司堂が出てくるところだった。シャワーを浴びた後のように司堂の髪の毛が濡れている。
とてもいけないものを見てしまったようで気まずい。司堂はそのまま二の間の方へと足早に去って行った。シャツが肌蹴て覗いた首には黒色のチョーカーのような首飾りをはめていた。普段はシャツに隠れて見えなかったが、ずっと着けていたものなのかもしれない。
二人は円達が見ていたことには気付いていないようだった。
「あの二人どうも最初から怪しいと思ってたんだ。何か隠してやがるな」
「そういえば、皆さんに依頼をした次の日、司堂さんと門野さんがファミレスで会っているところを見ましたよ。司堂さんが取り出した書類みたいなものに、門野さんが目を通してペンを走らせていました。あと門野さんが何か細長い箱をプレゼントしていましたよ」
「へぇ」
佐村は興味深げな返事をして自室へと戻って行った。
時刻は午前の九時半だ。あと三十分ほどで再び見回りの時間がやってくる。




