3-2
全員が円の部屋に集まった。少し狭いが、ガーデンテラスに行こうと言ったら門野が拒否を示したのだ。安来のお蔭で随分と綺麗になったものの、一度は悲惨な状態となった場所を避けたいと思う心理は分からなくもない。
女性陣は主にベッドの縁に腰掛け、男性陣は立ったままか、絨毯の上にそのまま腰を下ろした。円は小机とセットで置かれていた背もたれのない丸椅子を引いて腰掛ける。佐村腕組をし、玄関近くの壁に立ったまま背を預けていた。どうやら思案する時の佐村の癖らしかった。
「まずはアリバイ確認からだな。実は和泉さんと倉内の嬢ちゃんが一の間から出て来たのを偶然見ちまってな。『騙してたのね!』とかいう声が聞こえたんでドアを開けて外を確認したんだ。部屋の時計を確認したら午後九時十分くらいだった。つまりその時間、倉内の嬢ちゃんはまだ生きていたってことだ。気になったのは、いつも和泉さんにべったりだった嬢ちゃんが妙に素っ気ない感じだったことくらいだな」
「ああ、いや。彼女にあることを伝えたら振られてしまってね」
「あること、ってのは?」
「彼女は私のことを独身だと思っていたようなんだよ。たまたまそのような話になって正直に話したら、騙していたのか、と怒り出してしまって……。私は鈍いものでね、彼女がそういう目で私のことを見ていたのだと、その時初めて気付いたんだ。お恥ずかしい話だが」
あれだけの猛アピールに気付かないとなると表彰ものの鈍感だ。和泉はそつのない完璧な紳士に見えたが、やはり神は二物を与えずという言葉は真理なのかもしれない。
既婚者のようだが、それまでに訪れた出会いも本人が気付かなかっただけで何度もあったことだろう。
「知りたいのは犯行が行われた可能性のある午後九時十分以降から、皆が集まるまでの時間……何時だったかな」
「午前零時十六分ですね」
三原が皆の顔を窺ったので円が口を挟む。
「間違いないかい?」
「間違いありません。しっかりとスマホで時間を確認したので確実です」
「了解。それじゃあ、まず俺からだ。俺は和泉さんと倉内の嬢ちゃんが喧嘩別れして歩き去って行くのを確認した後、自室に引っ込んでずっと一人だった。持って来たメモ帳に事件の流れを書き込んで整理していたんだが、途中で眠りこけちまってな。後は皆が呼びにくるまで夢の中だったよ。つまり俺はアリバイを実証出来ないってわけだ」
「それならば私も似たようなものだよ。十二時頃に声を掛けられるまで、ずっと部屋で愛読書の『宝島』を読んでいたからね。証人は自分以外にいない」
「俺もずっと部屋にいたが、証人はなしだ」
「お前も眠っていたのか?」
三原の問いに佐村は迷いなく首を横に振る。
「いや。スマホでAI相手に国取りゲームやってました」
場の空気が白けたことに佐村自身は気付いているだろうか。気付いていたとしても平気で我が道を行く男ではあるが、殺人が起きた館でスマホゲームに耽る余裕はどうしたら生まれて来るのだ。
「私は、やっぱり証人なしですね。部屋でずっと寝てました。午後十一時五十分に目が覚めて、安来さんが倉内さんを探し回っているところに合流しました」
円の発言に安来が相槌を打つ。不安なのか、倉内のことを思っているのか、彼女の目はまだわずかに潤んでいた。
「私の場合は少し前からお話しますね。ガーデンテラスの掃除が済んだ後、午後八時頃に未歩さんにミュージックプレイヤーを借りに彼女の部屋まで行きました。未歩さんはお菓子を食べながらプレイヤーを快く貸してくれたんです。ここに来てから気分が沈み込むことが多かったので、自分の部屋でいつもより大音量でポップミュージックを掛けていました。午後九時半くらいだったかな。一度未歩さんが私の部屋までやって来て、少しお話したんです。多分五分くらいだったと思いますが、さっきの、和泉さんに、その……騙されたという話を愚痴っていました。その時にプレイヤーを返そうとしたら、眠る前までに返してくれればいいと言われたので、午後十一時四十分くらいに、彼女の部屋にプレイヤーを返しに行ったんです。後は皆さんの知っての通りです」
「つまり午後九時三十五分くらいまでは倉内の嬢ちゃんは生きていたってことか」
三原が口にした情報を円はメモに書き留めて行く。時間の記憶力はいいが、それ以外の物事は普通に忘れて行ってしまうからだ。
「それよりそんな遅くにプレイヤーを返しに行ったの? 普通もう眠っているって思わないかしら」
供述に気になる部分があったようで、門野が疑いの目で安来を見る。そこは円も少し気になるところではあったが、何か理由があったのだろう。
「未歩さんとはここに来る前から個人的に交流があって、前に彼女が言っていたんです。眠るのはいつも夜中の十二時を過ぎてからだって。その日が終わったことをしっかりと確認してからじゃないと、明日起きるいいことをちゃんとお迎えできないからって言っていました。未歩さんなりのジンクスだったみたいですね」
「それは分かるな」
同じく、げん担ぎやジンクスにこだわりを持つ三原が、納得がいったように肯定する。
「そういうあんたらは該当の時間何をしてたんだ?」
佐村は司堂と門野に交互に視線を投げた。あんたら、と一纏めにした意味が分からず円は答えを求めて、俯いている門野を見やる。
「……私は、午後十一時半まで司堂さんの部屋へ行っていたわ」
「午後の十時半に俺の部屋で会おうって約束してたんだよ」
言いづらそうに口にした司堂は、少し乱れたシャツの襟を直している。首筋にわずかに赤い痣のようなものが見えて、円はようやく意味を悟り顔が熱くなるのを感じた。
二人がただの他人でないことなど承知しているつもりだったが、関係の深さを目の当たりにしてしまうと、なぜだかこちらが気まずい。
他の者達も承知済みだったのか、二人の関係を重く受け止めている人間はいないようだったが、三原だけは例外だった。底の知れない暗さを宿した目で司堂を見詰めている。いつもの、がさつだが良く気の利く兄貴分的な雰囲気は形を潜め、異常な妄執に取りつかれた獣のような顔がそこにはあった。
背筋がぞっとした。本来司堂と門野は相思相愛の関係で一緒にいるのだから、三原の立場で司堂を嫉むのはお門違いだというのに。
「さて、これで全員の証言が取れたわけだが、確固たるアリバイのある人間は一人もいないってわけだ」
佐村の発言に噛み付いたのは司堂だ。
「俺達はお互いのアリバイを立証出来る!」
「仲睦まじいことで。あんまり見せ付けると共犯を疑われるぜ?」
そう取られる可能性は考えていなかったのか、司堂はぐっと言葉を飲み込んで床に拳を叩き付けた。
「とりあえず状況の整理だ。現時点で俺が思い付いた問題点を列挙するから、異論があれば口を挟んでくれ」
いつの間にか皆のまとめ役になっている三原が場を仕切る。その件に関しては誰も反対していないようだった。
「まず、倉内未歩があれだけ忌避していた一の間に出向いた不可解な行動を考えるに、彼女が共犯者によって呼び出され、裏切られて殺されたのではないか、という可能性に行き着いたんだが、どうだろうか?」
「それなら隣室の私か安来さんが怪しいということになるのではないかな。そもそも最初に十の間を選んだのは私だが、後の二人の部屋割りは、倉内さんが決めたも同然だからね。心理的には共犯者の近くにいたいと思うだろうから」
「だとすると、百瀬が死んでからやたらと一人で動き回っていた安来さんは余計に怪しいわよ。ガーデンテラスを随分綺麗に片付けてくれたみたいだけど、そのせいで残っていた証拠まで消えてしまったかもしれない。もっとも、故意にやっていたのなら話は別だけれど」
「そんな……私はそんなつもりじゃ……!」
「異論は認めるが相手を挑発したり陥れたりは無しだ。次に気になった点を言うぞ。すでに生きていないことを前提に話を進めるが、倉内未歩の死体はどこへ消えたのか、だ。見たところ彼女は優に百キロを超えていたと思う。人間の体ってのは特殊な形をしているから、重心がずれて同じ百キロでも鉄アレイを持ち上げる時のように安定しないんだ。力には自信のある俺でも倉内の嬢ちゃんを持ち上げられるかわからない。そんな彼女を犯人はどこかへ運び去った。これについてはどう思う?」
「女性には無理だったんじゃないでしょうか?」
円の発言を司堂が鼻で笑う。
「こっちに犯人像を押し付けるのはやめてくれ。男と女の共犯ならって考えてるんだろ、どうせ? 先に言わせてもらうが、一の間が犯行現場だったなら一番近くの部屋に二人いたよな。俺と麻恵さんがさ。でも俺達はやってない」
「すみません、私はそんなつもりで言ったんじゃないんですが」
「つもりがない……便利な免罪符だよ、まったく」
「司堂、そこまでにしておけよ。話が進まない」
佐村のひと睨みで、司堂は簡単に黙ってしまう。佐村に対してかなりの苦手意識を持っているようだ。二人の構図はまるで、佐村という獅子に睨まれたカメレオンのようだと思った。
「喧嘩別れしたと言っていたけど、倉内は和泉さんに相当惚れ込んでいたでしょう? 和泉さんの呼び出しなら一の間であっても喜んで飛んで行ったんじゃないの? やっぱりまだ諦めてなかったのかもしれないわ」
押され気味の司堂を助けるためか、和泉を見ながら門野が、くすんだ赤色のルージュが塗られた唇を動かす。
おずおずと片手をあげたのは安来だ。ここに来てからすっかり自信をなくしてしまったようで、以前にも増して引っ込み思案な性格が際立って見えるようになった。無駄に気の強い門野との対比で、余計にそう見えるだけなのかもしれないが。
「さっき、九時半頃に未歩さんと五分ほど話をしたと言いましたよね。彼女、和泉さんが既婚者だと知って、ものすごくショックを受けていたんです。既婚者は守備外なんだって、とても残念そうに言っていました。和泉さんのことはきっぱり諦めるって。だから和泉さんの呼び出しでは、彼女は一の間に行かなかったと思います」
門野のきつい視線から逃れるように、安来は俯いて目を伏せた。
「なぜ倉内未歩がもっとも忌み嫌っていた一の間が、わざわざ犯行現場に選ばれたのか。それが問題だ。短絡的に考えるなら、一番近い部屋にいたお二人さんか、俺が怪しいってことになる。それとも逆に調査を混乱させるためで、もっとも遠い部屋……佐村が怪しいのかもしれないな」
「本気で言ってんですか、三原さん」
「さて、どうだろうな」
さすがの佐村の眼力も三原には通用しないようで、冗談を口にした三原は涼しい顔をしている。そんな三原の目が、ふいに円に向けられた。口の端が少しだけ持ちあがっているように見えるのは気のせいか。
「俺が現時点でもっとも怪しいと考えているのは、悪いが……円ちゃんだ」
「え……私、ですか?」
自分でも随分と間抜けな声が出たなと思った。それくらい三原の言葉が意外だったのだ。
「そう。事前に吊り橋の爆弾や硝子の館に準備が出来たのは円ちゃんだけだし、ここにメンバーを集めたのも円ちゃんだ。百瀬が死んだ時グラスを用意したのも円ちゃんで、依頼主であれば倉内未歩の呼び出しも容易に行えただろうからな」
反論する言葉が見当たらない。三原が口にした内容には筋が通っていて、自分が犯人ではないと一番よくわかっている円ですら、それしかないじゃないかと思ってしまいそうになる説得力があった。
「こいつには不可能だったと思いますが」
三原の推理に異を唱えたのは佐村だった。
「根拠は?」
反論された三原はどこか嬉しそうだ。まるで佐村のこの言葉を引き出すために、わざと円をやり玉に挙げたようにすら思える。三原の顔に浮かんでいる表情は、そう思わずにはいられない喜びを帯びたものだったからだ。
「大体前に言ったでしょ。グラスは俺に配られた物と交換しているから毒を盛ることは不可能だった。いかにも怪しい依頼が事務所に持ち込まれてからずっと神無木円を見張ってましたが、不審な動きは一切してません。神無木家で働く嘉川という家政婦に聞き込みをしに行ってみれば、神無木円は今回の依頼を思い立つまで一年間、家から一歩も出ていないという証言も取れました。近所の人間も神無木円の姿を丁度それくらい見ていないそうです。事前の準備は不可能だった」
ここへ来る日の前日、嘉川に話を聞きにやって来た人間というのは佐村のことだったのか、と今さら合点がいく。
佐村は最初から円を疑っていたのだ。全員に会いに行く予定に付いて来たのも、円を見張るためだったのだとようやく理解した。ところがそれが功を奏して円の身の潔白を証明することに繋がったわけだ。
「夜、皆が寝静まった時間に車で移動していたのかもしれないぞ?」
「東京からここまで、電車を使わずにですか? 帰る時には食事を毎日三食運んでいた嘉川にばれますね」
「自分は家の中に引っ込んでいて、別の人間を使ったのかもしれない。どうだ?」
三原はまるで佐村との推理合戦を楽しんでいるかのようだった。こんな状況を楽しむなんて円にしてみれば正気の沙汰とは言えない。
「なんの意味があるんです、それに。神無木円が別の人間を使ったのなら、最後までそいつに犯行を任せればいい。一番怪しまれる要素をぶらさげて、ふらふら舞台に出てくる意味がない」
「俺達に恐怖を与えて自分の手で始末したいような深い恨みがあったのかもしれないぞ」
「そんな心当たりがあるんすか、三原さん」
三原の表情がわずかに曇る。三原はすぐに取り繕って「あるわけないだろ。俺は正義のために探偵業をやってるんだからな」と言った。
「とにかく、どう考えても神無木円に犯人を押し付けるには状況的に無理があります。自分の手で一人一人俺達を殺すのが目的なら、こんな大掛かりなことをしなくても、もっと確実で別の方法がいくらでもあった。全員を殺すのが目的だとして、殺しの対象を八人も一ヶ所に集めたら逆に目的を遂行しづらくなるだけだ」
「そりゃそうだ」と三原はあっさりと納得した。その様子を見るにつけ、三原自身も最初から同じ答えを持っていて、あえて佐村の推理を聞くために問題を吹っ掛けたように思える。
「それで、お前はこの一連の事件に関してどう考える?」
「神無木操の友人を名乗る人間からの手紙がどうにも気になってます。あの手紙を神無木円一人に宛てた犯人の意図ってなんでしょうね」
意味が分からないといったように、その場の全員は顔を見合わせてから、再び佐村を見た。
「じゃあもうひとつ質問を。人間が掛かり得る最悪の病ってなんだと思いますか」
誰も答えられない。ただ、円にはその答えがわかった。円も、その病に罹ったことがあり、今現在も完治はしていないからだ。
佐村は気付いている。円が負った傷に。
「――絶望」
佐村は言った。はっきりと。
「自分で自分を殺そうとする病を患った人間に、他者を助けろという指示を出して、その人間が実際に動くかどうかの可能性ってどのくらいだと思います?」
「難しい質問だな……。自殺なんて考えたこともないからわからねえよ」
三原のような人間には、自分で死にたがる人間の心など理解できないだろう。安来の気遣うような目から円は故意に視線を外した。左手首の傷痕にブレスレットの上から触れる。
誰かに憐れんでほしいんじゃない。同情を引きたいわけでも、注目されたいわけでも、心配してほしいわけでも、励ましてほしいわけでもない。
ただ、自分は死のうと思えばいつでも死ねるのだという証明がほしかっただけだ。それさえあれば、だったらもう少し生きてみようという気力が湧いてきた。
大多数の人間が勘違いしている。自殺しようとする人間の心理を。自分を殺したいわけがないだろう。生きていたいのに、死ぬことよりも生きていることの方が怖くて、最後の逃げ場所に手を伸ばそうとしてしまうだけだ。
生きていられるなら、この世界にまだ居場所を作ることを許されるのなら、こんな惨めな姿になっても、まだ手放したくなどないと本心から思っている。絶望という病を患った円達弱者は、心の奥底では「もっと生きていたい」と叫び続けているのだ。その叫びを、自分自身に聞いてもらいたいと願いながら。
両親が死に、弟を失い、大切なものをすべて取り上げられても、円はまだ死にたくなかった。いずれ自分で幕を下ろす人生だったとしても、呼吸することが許されるなら、今はただ何も考えずに空気を吸っていたい。
佐村は気付いたのだろう。傷を負いながらも、円がまだ諦めずにもがき続けようとしていることに。円の叫びに。
殺人犯がいるかもしれない場所で、しっかりと鍵が掛かっているのかを確認し、ドアを開けるには細心の注意を払い、犯人だと疑われれば人並みに焦る。どれも、もうじき死のうとしている人間の行動ではない。
佐村には分かっているのだ。結局円が、生きることを諦め切れない往生際の悪い人間であることが。
円の傷を知りながら、円の本当の心を見抜いてくれた人は、佐村哲が初めてだった。
佐村は人の傷に触れたことに対して一切の謝罪を口にしない。円の傷を全員の前に晒すことで、円の中で変化するものに期待したのかもしれない。
正直、自分の中で何が変わったのかよくわからなかった。だが、皆に知ってもらうことで少しだけ心が軽くなったのは気のせいではない。




