2-7
六の間前の廊下に直接腰をおろし、輪になって話し合うことになった。皆の嘔吐物で汚れたガーデンテラスには戻る気にはなれない、と門野が嫌悪を露わに言ったからだ。
しばらくは誰も口を開かなかった。時たましゃくり上げる倉内の静かな嗚咽だけが耳に届く。
普段の門野だったら「うるさい」の一言でも口にしそうだが、今はそんな意気もなくしている。憔悴し切った顔は幾分老けて見えた。
「……誰よ、毒を入れたのは」
虚ろな目をした門野が怨嗟を吐き出すかのように言った。
「ちょっと、私達の誰かがやったって言うの?」
倉内は顔を上げ、赤く腫れた目で門野を見る。本当にその可能性を考えていなかったのだとしたら、彼女はよほどのお人好しか愚か者かのどちらかだ。かくいう円も、門野の言葉で初めてそういう可能性があることに気付いたのだが。
「でも、犯人は自分も含めて全員に毒を盛ったんですか? もし全員と心中するつもりだったのなら、たとえばここに来るためのバスを乗っ取って渓谷に突っ込むとかの方が確実だったと思うんですけど」
円の発言に、皆は思案顔になった。それ以外にも吊り橋を全員で渡っている時に爆破すればよかったし、爆弾を持っているのなら館に全員が足を踏み入れてから一網打尽にすることも出来たはずだ。しかし犯人はそれをしなかった。
司堂はじろりと三原を睨み据える。
「一人は演技だったのさ。あんたが毒を入れたんじゃないのか? えらく麻恵さんに入れ込んでたみたいだしな。手に入らないと思い知って、いっそ殺してやろうとか思ったんだろ」
三原の顔は怒りに歪み、司堂の胸倉を掴み上げたが「三原さん」という佐村の制止の声で渋々手を引っ込めた。
三原がまだ門野を諦めていないことはガーデンテラスでの行動を見ても明らかだが、司堂が口にした理由で毒を入れたとは思えない。
それに、百瀬の最後を看取った時の三原の絶望に満ちた顔が演技だったとは円には思えないのだ。
「仲間割れなどしている暇があったら、まずは状況を整理する方が先決だと思うが、どうだろうね?」
和泉が落ち着き払った口調で場を満たす険悪な空気を払った。
「和泉さんの言う通りです。まず、ガーデンテラスでの一連の流れを整理しましょう」
円は六の間へと駆け込み、バッグの中からメモ帳とシャープペンを取り出して廊下へ戻った。皆の輪の中に戻り、声に出して全員の確認を取りながらメモ帳に出来事を時系列通りに書きこんでいく。
「まず、全員とも荷物を各部屋に置いた後、廊下で会話している和泉さんと三原さんに気付き、三の間前の廊下に集まりましたよね。和泉さんと三原さんの会話の内容は、百瀬さんがお二人のバッグを間違えて、和泉さんのバッグの方に三原さんの私物を入れてしまったことに関してです。司堂さんと百瀬さんに窃盗疑惑が掛かり、気分を害した司堂さんは少しの間、外で煙草を吸ってくると言い一人だけ場を離れました」
全員の表情を窺う。誰も意見する者はいなかったので円はそのまま続ける。
「司堂さんはすぐに戻って来て、全員でガーデンテラスに向かった。私の両親の死に関して気になることを皆で話し合いましたが、有用な手掛かりに行き着くこともなく話題は少しずつ別の方向にずれていきました。テラスの中はとても蒸し暑く、私が館近くに湧水があることを提案すると、三原さんと安来さんが率先して水汲みの役目を買って出てくれた」
「おかしいと思ったんだよな」
言葉を吐き捨てたのは司堂だ。その目は暗い光を宿して三原に向けられている。
「百瀬に荷物を押し付けるような男が、面倒くさい水汲みなんかに名乗りを上げるか?」
「比較的元気なのは俺しかいないと思ったから手をあげたまでだ」
「そう、元気だったよな。館に着いて早々腐乱死体を見たってのにな。あれを見ても大して動じないことが、そもそもおかしいって言ってんだよ。神無木夫妻を殺ったのも、あんたなんじゃないのか?」
「お前!」
「今は話の途中だよ、二人とも。喧嘩をするなら話が済んだ後にしてもらいたい」
和泉はいつでも冷静だ。おそらくこの中で一番の年長者である和泉の言葉には力がある。
三原と司堂は不服そうな顔をしながらも、互いから視線を外して黙り込んだ。
「三原さんと安来さんが水汲みに言っている間、私は全員分のグラスを廊下の棚から取り出してテーブルの上に並べました。埃を気にして司堂さんがグラスを念入りにシャツで拭き取っていたのを覚えいます。それから三原さん達が戻って来て、安来さんが皆のグラスに湧水を注いでくれました。よほど美味しかったのか、百瀬さんだけ何回もお代わりしていたのが印象的です。その頃、多分ですが全員が体の異変に気付いていたんじゃないでしょうか。眩暈、吐き気、動悸、脂汗……。皆が同じ症状を訴えて床に崩れ落ちました。一番症状が重かったのは百瀬さんです。百瀬さんは特に集中して看護を受けたにも関わらず、一人だけ回復せずに午後五時二十分頃息を引き取った。これが一連の流れです。間違いはないですか?」
全員に確認すると頷きが返って来た。円はメモ帳のページを捲り、次のまっさらな紙の上に『考え得る問題点』と書いた。
「先ほどの流れの中で気になることがあれば、順番にお願いします。全部メモしていきますので」
円が言うと、まず倉内が手をあげた。
「水差しとグラスって、ずっとこの館に置いてあったんだよね? あの棚って誰でも開けられるものでしょ? だとしたら犯人はあらかじめ毒を塗っておいたんじゃないかな。つまり外部犯の犯行ってこと」
「水差しの方は水を汲む前に何度も洗ったぞ。安来の嬢ちゃんに衛生上の指摘を受けてな」
「私もしっかりと見てました。三原さんは底の方まで丁寧に水で流していましたよ」
「じゃあ、グラスの方に毒が塗ってあったのかなぁ?」
「さっきも言われてたけど、俺はグラスを服の袖でこれでもかっていうくらい念入りに拭いてる。毒が塗ってあったとしても俺のだけはあれで落ちていたはずだ」
「あの、私の意見を言ってもいいでしょうか?」
製薬会社を営んでいた祖父と父を持つ円は、浅いながらもそれなりに薬や毒に関する知識を持っていた。そのため今の会話がとてもおかしな方向に向いているということが円には分かるのだ。
「何かにあらかじめ塗布しておくことで効果を発揮する毒って、ものすごく強力なものしか存在しないんですよね。事前にグラスに塗っておいて効果を発揮する毒だったら、全員助かっていないと思います。でも亡くなったのは百瀬さんだけだった」
「さすが製薬会社の社長の娘さんだねー。じゃあさ、よく使われる青酸カリとかは駄目?」
倉内が可愛らしく小首を傾げる。こんな状況で可愛さをアピールしても誰も見ている余裕などないと思うのだが。
「あれは空気に触れると殺人には使えないくらいに効果が薄れますし、そもそも症状が違います」
「じゃあ、なんの毒なの?」
「そこまではわかりません。私はそれほど毒に詳しいわけじゃないので……」
うーん、と倉内は首をひねったが、それを見ていた門野が聞えよがしに笑い捨てた。
「そんなこと分かり切ってるじゃないの。水に毒が入ってたのよ。現に水汲みに行った二人は一番症状が軽かったみたいだし、三杯も水を飲んだ百瀬だけが死んだっていう状況にも納得がいくわ」
どうにも司堂と門野の二人は、内部犯のしわざだと決め付けたいらしい。今は仲間割れをしている時ではないというのに、やたらと争いの種を撒きたがる。
「ちょっと思考が短絡的すぎやしないか。もし俺と安来の嬢ちゃんが共犯だったとして、二人揃って元気なままじゃ誰がどう見たって怪しいだろ。俺が犯人なら皆と一緒に体調不良を訴える演技をするけどな、まず間違いなく」
「それもそうだね。それに私は見ていたが、三原君が百瀬君に対して行っていた処置は、懸命で適切だったように思う。毒を盛って殺したい相手を必死に助けようとするだろうか」
和泉の助け舟もあって、門野は不満顔のまま押し黙った。正直なところ司堂と門野のコンビにはしばらく発言を控えてもらいたいところだ。この二人が何かを喋るたびに場の空気が緊張する。
「だったら倉内さんが配ったお菓子に毒が入っていたんじゃないの。百瀬は喜んで食べていたでしょう」
いかにも名案といった風に吐き出された門野の言葉に、倉内は目を見開いて口元をわなわなと震わせた。
「未歩、そんなことしないもん! それにあのお菓子は未歩が一番いっぱい食べたんだから!」
未歩の洋服にはチョコレートを拭った痕跡がところどころに残っている。確かに彼女は袋の中身を一人で食べきる勢いだった。
「ナンセンスな推論だね。あの菓子は食べない人間の方が多かったじゃないか。そうだろう?」
ここでも和泉は穏やかに場を収める。油断すれば仲間割れに走る人間が多い中で、和泉のような中立を守ってくれる人材は貴重だ。
「情報を整理した結果、一番有力なのは神無木円の犯人説じゃないか?」
司堂の突飛な発言に円は目を丸くした。まさか自分に飛び火して来るとは思っていなかったのだ。
「八人をこの館に集めたのは神無木円、君だ。君なら館に来て事前に抜かりなく準備も出来ただろ。そもそもグラスを用意したのも君だし、さっきの毒の話だって製薬会社社長の娘の肩書があればそれらしく聞こえるしな。やっぱりグラスに毒が塗ってあって、毒の塗られていないものを自分で引いたんじゃないのか?」
「そんな……」
助けを求めて皆の顔を見ると、わずかに疑いの混じったいくつもの目が自分に向けられていることに気付いた。存在しない架空の毒を前提に犯人扱いされては堪ったものではないが、この状況で何を言っても円の言い逃れだと思われてしまうだろう。
どうしたものかと考えていると「やれやれ」と呆れた声が割って入って来た。今までずっと黙っていた佐村だった。
「そういうことを必ず誰かが言い出すと思ってたが、お前は本当に期待を裏切らない男だな、司堂?」
「なんだよ、佐村。反論出来るなら言ってみろよ」
「神無木円は確かに自分自身でグラスを選んだが、その直後に俺がいちゃもんを付けてグラスを交換してるんだよ。つまりさっきのお前の推理はなんの意味もないただの戯言だ」
あの時、佐村がグラスの交換を強要して来たのは、こうなった時のための布石だった。この場に八人を集めた円が疑われた時、堂々と庇える口実を作っておいてくれたのだ。
司堂は二の句が継げずに黙り込んだ。
「こういうのはどうでしょうか? やはり外部犯の犯行で、犯人は私達が水汲みに行った川の上流から毒を流した……それなら説明が付きませんか?」
「なるほど、水を他の奴より多く飲んだ百瀬に強い症状が出たのも頷けるな」
「閃いたところ悪いが、それはないぜ」
安来と三原の会話を佐村が一蹴した。
「なぜ言い切れる?」
「湧水は綺麗でしたか?」
「は? あ、ああ。透明で、綺麗だった。だからなんだ?」
「湧水を好むのは人間だけじゃないんでね。湧水の周囲っていうのは色んな生き物が集まるもんでしょ。綺麗な水を好む小魚や、今じゃあまり見なくなった沢蟹とか。人間を死に至らしめるほどの毒を上流から流したんだとしたら、三原さん達が水に浮いた生き物の死体に気付いていたはずだ。もしそうだった場合、のんきに水を汲んで皆のところに持ってくるわけもない」
「そういえば、小さな蟹がいるって三原さんとお話ししたんでしたよね、あの時。私、初めて沢蟹というものを目にして感動しました」
三原はぐうの音も出ない、といった様子で腕組みしたまま口を横一文字に引き結んだ。
「話が振り出しに戻っただけじゃないの」
「振り出しといえば、吊り橋は誰がどうやって爆破したんだ?」
門野と司堂の口からまともな発言が飛び出したので円は安堵する。
「あの時、一の間から最後に和泉さんが出て来ました。それからしばらくして爆発音が遠くから聞こえましたよね」
その時のことを思い出しながら安来が言うと、和泉は頷いた。
「どうにもあの部屋が気になってね。他の部屋にはない違和感を感じたんだ。何かと聞かれるとわからないのだが」
「それは置いておくとして、爆発音の直後に調べた和泉さんは起爆装置らしきものは何も持っていなかったぜ」
三原の様子は和泉を庇っているという風でもなかった。佐村達の目がある所で調べただろうから真実と受け取っていいだろう。
「やっぱり、外部犯?」
倉内は丸い顎に人差し指を押し当てて首を傾げている。
先ほどガーデンテラスで不調を訴えた者の中に演技をしている人間がいるようには思えなかった。脂汗は演技で都合よく出せるものではない。
外部犯だと考えれば、円の両親を殺害し、吊り橋を爆破するにも大して苦労はしなかったはずだが、それだとやはり百瀬殺害の説明が付かなくなる。




