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0の庭  作者: 七星ドミノ
19/53

2-6

 状況を整理するためにこの場に集まったというのに、先ほどから関係のない話ばかりで状況に何も進捗がないことに気付いた。多分他の面々も気付いているのだろうが、誰もそれを指摘する人間はいない。


 一番の理由は、今ここにいるメンバーのほとんどが、互いを信用していないという点だ。


 信頼がないから、重要な情報ほど相手に流したくない。そんな心理が働いているのだと思う。


 たとえば、こういう関係に陥りやすい人間が故意にこの場に集められたのだとしたら……先ほどからの醜い仲間割れも犯人の意図するところなのかもしれなかった。


「さっきは、庇ってくれてありがとね、安来ちゃん」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、倉内は隣に座る安来に微笑みかける。門野に小馬鹿にされた時のことを言っているのだろう。


 照れ隠しなのか安来は曖昧に笑って返してから「それにしても本当に暑いね、ここ」と、手で顔を煽ぐ動作をした。色付いた頬は汗で湿って、そこはかとない妖艶さを醸し出していた。


 清楚なイメージの安来を一瞬でもそんな風に見てしまった自分が嫌で、円は慌てて彼女から目を逸らした。


 それにしても確かに暑い。磨り硝子越しとはいえ、真夏の太陽はやはり侮れない。大腿と椅子の間で汗が湿っている。自分でも気付かない内に相当追い詰められているのか、軽度の眩暈すら覚えた。調子が優れないのは、両親のあんな姿を見たせいだ。


「何か冷たい物でも飲みたくなりますな」


 辛抱強そうな和泉ですら、頬を赤くして額に浮いた汗をハンカチで拭っている。


 司堂はこの暑さでかなりいらついているようで、例の貧乏揺すりを始めた。かつかつと踵が床を叩く音がテラスに響き渡る。


「無理だろ、冷蔵庫がないんじゃ。持って来た飲み物だってとっくにぬるくなってる」


「あの、水でよければ冷たいものがありますけど。この館のすぐ近くに湧水があるんです。そこは夏もすごく冷たい水が湧き出てますし、持参した飲み物を浸けておけば冷やすこともできますよ」


「ちょっとぉ、それ早く言おうよ円ちゃん! 誰が汲みに行く?」


 思いの外、乗り気の倉内に気圧されていると「ジャンケン?」と安来が言った。


「そんな必要ないさ。俺が行ってくる。どうやらこの中で一番元気がいいのは俺みたいだからな。万一犯人が襲って来たら返り討ちにしてやるぜ」


 立ち上がった三原は柄シャツから覗いた腕に力瘤を作って見せた。暑苦しいのでやめてください、とは言えなかった。


「それなら私も行きます。少し気分が悪いので外の空気も吸いたいですし」


 続いて立ち上がったのは安来だ。そういえばこの二人は腐乱死体を見ても、あまり取り乱さなかった。


「今は単独行動は避けた方がいいと思うんです。喧嘩は苦手ですけど、何かあった時に騒ぐことくらいは出来ますし」


 喧嘩が得意であることをアピールしていた三原は苦笑したが、安来の申し出を有難く受けていた。


 水を汲むものはないかと聞かれたので円は三原と安来を連れてテラスを出た。五の間の前に置かれたアンティーク棚から硝子製の水差しを取り出して三原に手渡す。


「高価そうだな。割らないように気を付けるよ」


「大丈夫ですよ。私が見張ってます」


 三原と安来は冗談を言いながら玄関口の方へ歩いて行った。館の脇を流れる小川はここに来るまでに二人も目にしていただろうから、流れを遡れば湧水の源泉に容易に辿り着くだろう。円は同じ棚から人数分のグラスを取り出してテラスに運んだ。


「それ、洗わなくて大丈夫なのか?」


 司堂は見るからに嫌そうな顔で円とグラスを交互に見ている。


「棚の中に入っていたので埃は積もってませんよ」


 司堂は眉をしかめグラスを手に取る。ふーっと息を吹きかけた後、シャツの袖で念入りに内側まで拭き取っていた。


 佐村の目の前にグラスを置くと、腕組みしたまましばらく眺めて佐村がいちゃもんを付けて来た。


「おい、埃が入ってるぞ、換えろ」


 こちらが返事をする前に、問答無用で佐村は円のグラスと入れ換えた。


 埃なんて入るはずがないのに、と思いながら円は渋々佐村の要求通りに任せた。元から話の通じる男ではないことは分かっている。


 しばらくすると水汲み組が戻って来て「俺が汲んでも美味くないだろうから、安来の嬢ちゃんに頼むかな」という三原の提案で、安来が皆のグラスに水を注いで回った。


 研ぎ澄まされた冷水は、冷たいものに飢えていた体にあっという間に吸収されていく。百瀬はここに来るまでに他のメンバーよりも運動量が多かったせいか、お代わりして水を三杯飲み干した。


「湧水って本当に冷たいものなんだね。冷蔵庫で冷やした水みたい」


 安来は一杯の湧水を少しずつ大切に飲んでいる。三原は頷いて、最後にグラスに残った水をぐいっと飲み干した。


「味も普通の水と違うな。なんつーか、透き通った味がする」


 その時だった、倉内が勢いよく席を立ち、仕切り直しのように手を打ち鳴らして大きな声を出す。


「ねえ、気分変えようよ! 落ち込んでたって仕方ないし、助けが来るまで仲良くやろう! ほらお菓子もあるんだよ、食べて食べて!」


 倉内がみんなに配ったのは外国から輸入した個包装の菓子だった。クッキー生地にチョコレートが掛かったもので、チョコレートは溶けてしまっている。和泉と安来、円は有難く菓子を受け取った。少し甘すぎる気もしたが、疲れた体にはこれくらいの方が丁度いい。


 甘いものが好きではない面々は配られたそれを手付かずのまま眺めていたが、意外にも手を伸ばしたのは百瀬だ。


「僕、甘い物好きなんですよ」


 にっこりと笑った顔はやはり白く見える。元々色白だからというのではなく、調子が悪そうだ。あんな死体を見せられては当然だろうが、それにしても今にも倒れてしまいそうで心配になる。


 円が自分でも意外なほど落ち着いているのは、まだ現実を百パーセント受け入れていない証拠なのかもしれない。受け入れてしまった時、自分は発狂してしまうのではないか。そんな気さえする。


 先ほどから吐き気がぶり返しているのは、少しずつ現実を飲み込み始めているからだろうか。眩暈は、つい先刻より酷くなって来ている気がする。ベッドに横になった方がいいのかもしれないが、犯人がうろついている可能性のある館で一人きりになるのは心細かった。


 ちらりと佐村に視線を送る。まさか彼に一緒にいてくれないかとも頼めない。一緒にいれば犯人は返り討ちにしてくれそうだが、彼と二人では間が持たない。それならまだ門野に懇願した方がましだ。


 考えてみるとどちらも究極の選択すぎて、円は即座に却下した。


 こうして椅子に座ってしばらく休んでいれば症状も落ち着くだろう。円は湧水を喉の奥に流し込んで、軽く睡眠を取るつもりで目を閉じた。


 眼球の奥がぐるぐると回る。気持ち悪い。ついさっき口にした洋菓子が胃の中で暴れ回っているみたいに、吐き気が喉元まで競り上がって来た。気を抜くと戻してしまいそうだ。全身の毛穴からべた付く嫌な汗が滲み出て、いわゆる脂汗というものなのだと自分でもわかった。


 その時ようやく円は自分の様子がおかしいことに気付いた。目を開けようとして、目蓋がひどく重く感じ、このまま閉じたままでいようか迷った時だ。うぼぇえっ、と妙な音が聞こえ、円はやっと目を開けた。テーブルに上半身を覆い被せるような格好で盛大に嘔吐していたのは百瀬だった。


 大丈夫ですか。そう言って百瀬に駆け寄ろうとして、円は足が思うように動かせずその場に崩れ落ちた。ひどい眩暈と吐き気だ。動悸がして、床に両手を突いた円は、荒い呼吸を繰り返すので精一杯だった。やっとのことで視線を巡らすと、円と同じ症状がほぼ全員に出ているようだった。その中で安来と三原だけが、自分の足でしっかりと立ち、呆然とした様子で床に這いつくばる面々を見ていた。


 心臓が内側から叩かれているように脈打つ。なんだこれは。


〈毒〉という言葉が円の脳裏をよぎる。


「おい、吐け……!」


 なんの前触れもなく、隣の佐村が円の口の中に指を突っ込んで来た。彼も円と同じことを考えたのだろう。状況から考えて自分達は毒を飲まされた。それならば消化器に入り込んだ毒を吐いてしまうのが一番だ。佐村の指に刺激され、胃の中のものが、ぐんっと上がって来る。汚いとか、恥ずかしいとか、そんなことを気にしている場合ではなかった。


「大丈夫か、百瀬君、吐くんだ……!」


 和泉は自分も嘔吐した後、一番症状の重そうな百瀬の背中をさすり、それから佐村の真似をして彼の口の中に指を突っ込んだ。百瀬は何度か吐いたが、まだ荒い呼吸を繰り返している。症状が改善しているようには見えなかった。


 三原と安来の二人だけが軽度のようで、半分体を引きずりながらではあるものの、必死で皆の看病に当たっていた。三原は門野につきっきりで、彼女の背中をさすっている。こんな時まで、まだ門野を諦めていない三原の執念には恐れ入った。


 ガーデンテラスは暑すぎるということで、全員が廊下に移動し、しばらくの間そこで横になっていることにした。それぞれが目の届かない自室に行くのは危険と判断してのことだ。症状の重い百瀬だけは五の間のベッドの上に運び込まれた。全員が五の間を見張れる廊下にいたため、百瀬が犯人に襲われる心配はない。


 涼しい廊下で横になっていたら、時間の経過と共に症状が少しずつ落ち着いて来た。


「今、何時ですか」


 湧水で絞ったハンカチで皆の額を拭っていた安来は円のか細い声に気付き「五時を少し過ぎたところだよ。気にしなくていいから寝ていて」と優しい声で答えた。


「百瀬さんは」


「今、三原さんが見てくれているけど……」


 最後の方は言葉を詰まらせる。容態が芳しくないのだ。百瀬に対して好感を抱いていたわけではない。むしろ円に対して冷たく、二面性のある彼に対して負の感情の方を強く持っていたかもしれない。それでも、何かの縁で知り合った人間が死んでしまうかもしれないと思うと怖くて仕方がなかった。


「おい、誰か来てくれ! 百瀬が!」


 五の間から、雄叫びのような三原の声が聞こえた。弾かれたように顔を上げた安来が、五の間に駆け込んで行く。円は自分も何かの役に立てるかもしれないと、大分楽になった体を起こし五の間の入り口に向かった。


 ベッドの上では百瀬の体に三原が馬乗りになっていた。一瞬何をしているのかと思ったが、波打つベッドを見て百瀬が酷い痙攣を起こしているのだとすぐにわかった。百瀬の口には白い布が詰め込まれている。舌を噛み千切らないように三原が咄嗟に処置したのだろう。三原が必死に押さえ付けるが、百瀬の体はベッドの上でのたうった。


 円が手伝おうと五の間に足を踏み入れた時だ。百瀬は白目を剥き、全身が引き攣ったように強張った後、途端に四肢を弛緩させた。時たま思い出したように指先がびくんっと跳ねるが、それも次第に弱くなって行く。


 部屋の中に、しんと沈黙が落ちた。


「百瀬……?」


 ついに完全に動かなくなった百瀬に、全身汗だくの三原が声を掛ける。反応はない。ベッドからだらりと垂れさがった百瀬の右腕は、やはり白磁のように白かった。


「おい、百瀬……!」


 三原が動かなくなった百瀬の両肩を掴み揺する。見開かれた百瀬の眼は、ぐるりと回転して白目を剥いたままで、百瀬の体がすでに生命活動を終えていることは誰が見ても明らかだった。部屋に備え付けの時計は、午後五時二十分を指していた。


「ねえ、どうしたのよ」


 いつの間にか、五の間の入り口に寄り掛かっていたのは門野だ。門野はベッドの上に横たわる百瀬を見て目を見開く。


「まさか、死んだの……?」


 三原も、安来も、円も、俯いて歯を食いしばることしか出来なかった。握りしめられた三原の拳は、何かを堪えるように震えている。


「嘘でしょ……ちょっと、生きてんでしょ、もも」


 ベッドの近くまで歩いて来た門野は、凄惨な最期を迎えた百瀬の遺体を間近に見て言葉を失った。ベッドの周囲は吐瀉物で汚れ、その中心にはどろんと濁った白目を見せる百瀬が、ぴくりとも動かずに横たわっている。後はただ朽ちて行くだけの存在となった百瀬を見て、門野はその場に力なく座り込んだ。


 このままでは三日の内に腐敗が進んでしまうということで、百瀬の遺体は容態が回復した和泉と三原に運ばれて十一の間に移されることになった。皆が見守る中、十一の間に百瀬は安置された。


 中はカラスと蝿と蛆が犇めいていて、扉を閉じた後も廊下までカラスの耳障りな鳴き声が聞こえてくる。まるで百瀬の体を供物としてカラス達に差し出してしまった気がして、どうしようもない遣り切れなさが襲う。


 皆の顔は暗く沈んでいた。その中で佐村だけが、平然とした顔をしていた。少なくとも円の目には佐村が精神的にダメージを負っているようには見えなかった。


 希薄な関係とはいえ顔見知りが死んだというのに、こうも自然に振る舞えるものだろうか。


 円の視線に気付くこともなく、佐村は何か気になることでもあるのか十一の間の扉を最後まで見据えていた。


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