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「とりあえずガーデンテラスに移動しませんか。お話ししておきたいことがあるので」
廊下で話し合っていた面々を引き連れ円はガーデンテラスの両開きの扉を開けた。
硝子の館の中心部分は大きく二つの区切りに分かれている。
板張りの床にテーブルと椅子が置かれているのがテラス部分。楕円の上半分が人口芝生の敷かれたガーデン部分だ。
二つのエリアは中間から壁一面に張られた強化硝子によって区切られており、防音機能も備えているため声も届かない。ガーデンとテラスを遮る強化硝子の左端には双方を行き来できる唯一の入り口がある。
頑丈な鉄扉で、テラス側からしか開けることも鍵を掛けることも出来ない。鉄扉には〈0の庭〉と文字が焼き付けられた銅製のプレートが打ち付けられていた。
各々が思い思いの席に着く。円と佐村の二人、司堂と門野と三原の三人、和泉、百瀬、安来、倉内の四人がそれぞれ隣接した席に座った。
どうしてか、いつも佐村とコンビになってしまうのが不思議だった。
白い丸テーブルに、生成り色のクッションが使われたアームチェアは落ち着いた空間によく馴染んでいた。
子供の頃に使っていたのは、もっと重厚な輸入アンティークテーブルと椅子だったが、当時でも随分と古い物だったので、使いものにならなくなり父が交換したのだろう。特注なのか、前よりもテーブルの高さが丁度いいし、こちらの椅子の方がはるかに座り心地がよかった。
天井はテラスの上部は覆われているが、人口芝生の敷かれたガーデン部分には、磨り硝子を通した夏にしては柔らかい陽光が差し込んでいる。
「それで、話というのは?」
三原に頷いて、円は口を開いた。
「マイクロバスの運転手の島津さんが言っていたんですが、三日前……丁度私が父と最後の電話をした日ですね、父の客人を名乗る顔も性別もわからない人間をバスに乗せたみたいなんです。状況的に見て、今一番怪しいのはその人物かと」
「どうしてそんな重大な話を今さらするんだよ」
司堂の荒々しい声に内心おどおどしながら、円は申し訳なさに俯いた。
「すみません、まさかこんなことになってるなんて思いもいなくて、その時は軽く受け取ってしまったんです」
「あの、円ちゃんを責めても事態はよくならないと思います。とりあえず落ち着いて状況を整理してみませんか?」
「そうだよ、安来ちゃんの言う通り! 仲間割れはやめよう? 推理小説とかだと、こうやって仲違いさせることが犯人の目的だったりするもん!」
安来と倉内が助け舟を出してくれたおかげで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ気がした。
「まず、島津が乗せたその客人ってのが、そもそも手紙の差出人なのか、それとも犯人なのかってことだな。今の時点では何を言っても憶測の域を出ない問題のような気もするが」
「探偵が八人もいるのに情けないね」
三原の言葉に、落ち込んだ様子の倉内がテーブルの上で無意味にネイルを弄っている。
「探偵ってのは普通、人死にの事件なんかに巻き込まれたりしない」
佐村の発言はもっともで、ここにいるすべての人間が他殺体など見たこともないはずだ。
「神無木さんの前でこんな話をするのは気が引けるが……」
和泉は前置きしてから、口元の前で手を組む。落ち着いた低い声が、さらに低くなったように思う。和泉も古くからの友人の変わり果てた姿を見て、ショックを受けているに違いない。
「操君と薫子さんの遺体は、死後最低でも二、三日は経っていたように思うんだが、どうだろうか。室内にはぱっと見た限りエアコンが設置されていなかったし、なぜか窓が開けられていたせいでカラスや蝿に食い荒らされていた。晴天であればこの辺りは日中二八度度近くまで気温が上がるようだ。室内でも外の空気が流れ込めば二十六、七度にはなる日もあっただろう。じっくりと見る気にはなれなかったが、腐敗の進行状況から見ても、ほぼ間違いない見識だと思う。それを考えると円君が最後に電話を受けたすぐ後に殺害されたとみていいだろうね」
それに関しては誰も異論はないらしい。
ふと百瀬に視線をやると、椅子に全身を預けて半分眠っているようだった。腐乱死体を目の当たりにした精神的ダメージに加え、五人分の荷物を運ばされた上に、吊り橋までの距離を往復しているのでよほど疲れたのだろう。
椅子の丸みを帯びた背もたれに首まで預けて目を閉じている。その顔はガーデンの天井から差し込む光に照らされて驚くほど白い。
「大丈夫ですか」と声を掛けようかと思ったが、百瀬の本性が見え隠れした顔を思い出してやめた。
百瀬はなぜか円のことを嫌っているような印象を受けるし、それは円の勘違いではないだろう。疲れている時に嫌いな人間に話し掛けられたらよけいに疲労が募るかもしれない。
「例の手紙は持って来たか?」
「父の友人を名乗る人からの手紙ですよね? 一応持って来ました」
テーブルの上に置くと、佐村は封筒から手紙を取り出して目を通す。何か思うところでもあったのだろうか。
なんの特徴もない白い便せんには、筆圧の濃いボールペンの文字が綺麗に並んでいる。印刷文字のような四角張った規則正しい筆跡だ。特に気になった点もなかったらしく、佐村はすぐに手紙を返して来た。
「それにしても暑いよね……。クーラーちゃんときいてるのかな。なんか頭がくらくらする」
倉内は少しずつダメージが癒えて来たらしく、汗と涙で溶けかけていた化粧を直しながら文句を言った。
「すみません。この館って全室エアコンが設置されてないんです。代わりにファンがあるんですけど、駄目ですか?」
円の発言に対し倉内は絶叫した。いや、吠えた。
「ねえ、死んじゃうよ!? 死ぬでしょ、それ! ファンって暑い空気かき混ぜてるだけのやつじゃん!」
「祖父が便利な機械類を異常に嫌ったもので、冷蔵庫とかテレビもないんです、ここ」
「先に言ってよぉ……!」
倉内はまた泣きそうになった。先に言っていたとしても倉内が百万円を見す見す逃したとも思えないが。
情けない声を出す倉内に門野が蔑むような視線を向けた。
「こんな状況でよく化粧なんか直していられるわね。まあ、しょっちゅう運命の男に出会っては、相手のプライベートまで嗅ぎまわって結局撃沈してるんだから笑えるけど。男を見付けるために探偵になったようなものなんでしょ、あなた?」
門野のいらいらの捌け口に倉内が選ばれてしまっただけのことだろうが、それにしても言葉を選ばない人間だ。
門野の無神経な厳しさには、さすがの円も腹立たしさを覚える。
かたんっと椅子を引いた安来が立ち上がり、珍しく吊り上った目で門野を見据える。
「そんな噂話持ち出したりして、プライベートを嗅ぎまわっているのはどちらですか? ご自分だって詮索されたくない過去があるんじゃないですか?」
言われて門野の顔が怒りに歪む。美人だと思っていたが、今の表情は鬼女のように見えた。
「動物殺しの女探偵が、生意気なこと言ってるんじゃないわよ」
すかさず門野が言い返すと、安来はわずかに気圧された表情を浮かべた。門野に賛同する形で追い打ちを掛けたのは司堂だ。
「安来探偵事務所に依頼した動物は、死体で見付かるって一時期有名だったしな」
安来は俯いて、震える拳を握りしめたまま、反論する意気もなくしたのか、黙って席に着いた。
場の気まずい沈黙を破ったのは「あー、そういえば」という百瀬の声だった。百瀬が気怠そうに椅子の背もたれから頭をあげて門野を見る。
「どっかの誰かさんが他県に住んでる頃、ママ友同士のいじめで一人を自殺未遂に追い込んだって噂、前に父さんに聞いたことあるなあ。知りたきゃもっと詳しく話してもいいけど?」
それが事実はどうかは、門野の引き攣った顔を見れば大体想像がつく。知られたくない過去を暴露された門野は怒りのやり場に困ってテーブルに思い切り拳を叩き付けた。
百瀬にしてみれば、安来の肩を持って彼女の好感度稼ぎがしたかっただけなのだろうが、もう一人、ここには女の好感度を稼ぎたい男がいるのだ。三原は百瀬に苦笑を向ける。
「棚上げはよくないぞ、百瀬。お前だって綺麗なだけの過去を持ってるわけじゃないだろうに。高校時代にやんちゃが過ぎたようじゃないか?」
勝ち誇った表情を一瞬で消し、百瀬は舌打ちして押し黙った。
門野は特に三原に対して好感を抱いたという風ではないが、溜飲が下がったようでいつも通りの澄ました顔になった。
探偵と元探偵が八人も揃っていざこざが起きると、情報網を活かした暴露大会に発展するのか、と円は若干の疲れを覚えた。
「醜聞がねえのは、俺と和泉だけか」
空気を読まない発言をしたのは佐村だ。和泉に醜聞がないのは人柄から見ても納得がいく。だが、佐村に悪い噂がないのは本人には言えないが納得いかない。佐村はそこら中で何かをやらかしているようなイメージがある。あの傍若無人な振る舞いでは、ほとんどの行き先で問題を勃発させるだろう。
「私は、地方で探偵業を営んでいたから、噂が届いていなかっただけだろう」
和泉はどこか寂しそうな顔で自分の過去を語った。N県で数年間探偵業をしていただけの彼の過去は、少なくとも今ここにいる人間の誰も知らない。
「ある一人の男性から浮気調査の依頼を請けたんだ。ところが尾行に失敗して、奥さんに私の存在を知られてしまった。結局依頼主の夫婦仲はこじれて、男性が奥さんを殺害するという最悪の結果を辿った。その事件を切っ掛けに私は探偵を辞めたんだよ」
伏せられた和泉の目は遠く過ぎ去りし日に向けられているようだった。
その寂しげな表情が、和泉の傷の深さを物語っている。
なんと声を掛けたらいいのかわからずに円も目を伏せる。しかし、この場にはとことん空気を読まない男がいたのだ。
「やらかしてないのは俺だけってわけだ」
今の和泉の話を聞いて、こんな台詞が平気で口に出来るのは佐村哲という名の歩く無神経だった。
本当にこの男は……。次は何を言うのかと呆れて見ていると、鼻で笑った三原がいたずらっ子のような意地の悪い笑みを浮かべる。
「おい、佐村ぁ、よくそんなことが涼しい顔で言えたもんだな。相手を脅して、あることないこと吐かせるのがお前の常套手段だって話は有名だぞ」
「依頼主を、ぶん殴ったって話も有名だよな。前歯を三本へし折ったんだっけ?」
「他の探偵の仕事を横取りするんだよねぇ?」
三原、司堂、倉内から面白いように悪評が飛び出す。真実かどうかは別として、佐村に目をやると気にした風もなく、むしろ誰の言葉も聞こえていないような態度で飄々としたものだ。彼の羨ましいまでの図太さは一体どのように培われたものなのだろうか。
「綺麗な庭ですね」
佐村一人が槍玉にあげられて叩かれていると思ったのか、安来が不自然なまでの唐突な話題を口にした。
彼女はよく気の利く女性だが、少し他人に気を遣いすぎるきらいがある。円が言えた義理ではないが、安来の生き方は彼女自身が少しずつすり減って行ってしまいそうで、見ていると不安な気持ちになるのだ。
「ゼロの庭っていうんですよ」
皆が脈絡のない安来の話題にどう乗ったらいいのか逡巡していたので、円は鉄扉の銅製プレートを指差して答えた。続いてガーデンの中央を指差す。ガーデンの一番奥には硝子の剣を地面に突き立てた格好の、北欧神話か何かに出て来そうな、屈強な英雄を模した銅像が立っている。
「祖父も父も、あれを〈王の像〉と呼んでいました」
「どこの王様?」
「それと同じ質問を小さい頃に祖父にしたことがあるんですけど、『宝を守るために別の世界からやってきた。でも魂を落っことしてしまって、今あの王様は空っぽの状態なんだよ』としか教えてもらえませんでした。小さい頃の私に意味がわからなくて……というか今になってもよくわからないんですけどね」
祖父が行方不明になった時、警察は館中を捜索した。もちろん中身が半分空洞となっている銅像の中まで念入りに調べたが、祖父はどこからも発見されなかった。
不思議なもので、しっかりと〈死んだ〉姿を確認していなければ、どこかで生きているのではないかという希望に縋っていられる。
過ぎ去った年月を考えると、祖父が生きている可能性は絶望的だ。それでも誰かに「君のおじいさんは死んだ」と言われなければ、まだ円の中で祖父は死んだ扱いにはならないのだった。




