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いつまでもここにいても仕方がない。円が六の間の鍵を手に取ると、佐村も同じように自室の鍵を取った。
硝子の館は二から十の間までは、どの部屋もまったく同じ作りになっている。一と十一の間だけは、代々神無木家の当主と妻の部屋に割り当てられて来たので他の部屋よりも少し広めに幅が取られているが、基本的な作りは同じだ。
各部屋は小さいながらもバストイレ付きで、もし閉じ込められたとしても蓄えさえあれば困ることはない。
部屋に入る前にスマホで時間を確認すると、午後二時四十五分だった。
ここに来てからそれほど時間が経っていないことに驚く。
部屋に入って左手側にバスルームがある。バスルームの分だけ部屋内に食い込んでいるので、そのせいで出来た隣接スペースにはベッドが置かれている。
揃えられた家具はすべてアンティークで、これはすべて外国旅行が好きだった祖父の趣味によるものだ。
円は暖色の絨毯が敷かれた床に、白と赤のボストンバッグを置く。入りきらずに漏れた缶詰を入れてきたリュックサックは、ベッド脇に寄せて置いた。
壁には円が背伸びしてようやく届く位置に小さな丸窓が三つあるだけなので、室内は薄暗く、陰鬱な雰囲気に映る。
ここの個室の作りは気密性が高い上に換気扇のファンが回りっぱなしだったので、心配していた腐乱臭に悩まされることはなかった。隣室を選んだ和泉と司堂の部屋がどうかはわからないが多分大丈夫だろう。
犯人はなぜ換気を万全にしていったのだろうか。ここに来る人間達に気を遣っていた?
……人殺しをする人間がそんなことを気にするとは思えない。円は先ほど見た光景を思い出して、再び腹の底から込み上げて来るものを必死で押さえ込んで部屋を出た。
硝子の館にはオートロック機能はないため、しっかりと施錠して鍵をポケットにしまう。
この館で皆で集まれる場所といえば、ガーデンテラスしかない。建物全体が楕円型をしている館の中央、ドーナツでいえば空洞に当たる部分にテラスは設けられている。
ガーデンテラスの入り口である両開きの扉は、丁度円に割り当てられた六の間の目の前にあった。
三原が言った通り、まだ円の両親を殺した犯人がうろついている可能性もあるのだ。やはり部屋に閉じ籠ってしまうより、可能な限り全員一緒にいる方が得策に思えた。
この館の構造は至極単純に出来ている。わざわざ場所を教えに行かなくとも、自然と中央に集まって来るだろうとは思ったが、安全確認の意味も込めて円は二の間から順番に声掛けをして行こうと考えた。しかし皆、不安だったのは同じようで、荷物を部屋に置いて早々に廊下に顔を出している者がほとんどだった。
三の間の前には三原と和泉がいて、二人で何かを話している。
「どうやら百瀬君が間違えて私の荷物の中に入れてしまったみたいでね」
言いながら和泉は金色のブレスレットやらネックレスを三原に手渡した。さすがに百瀬も、あれだけの荷物を一度に持たされてこき使われれば、混乱と疲労で似たバックに物を入れてしまっても仕方がないだろう。
丁度廊下に出て来た司堂と百瀬も、和泉達の会話が気になったらしく立ち止まって話を聞き始めた。
「あれ? 和泉さん、時計はなかったか? 金色のデジタル時計なんだが」
「いや、私の荷物の中に入っていたのは確かにそれで全部だが……」
「困ったな、大事なもんなのに。……盗まれたか?」
三原の発言に、その場の空気がわずかに緊張するのを感じた。
「悪いが人のものを盗むほど金には困ってないのでね」
立場的に真っ先に疑われて当然の和泉だが、彼は見たところ三原よりも金を持っている印象だ。今している格好も、僻地に着てくるスーツにしては上等すぎる気もする。
「私よりも金に困っている人間がいるようだが」
和泉が銀縁の眼鏡越しに冷たい視線を向けたのは、話の成り行きを見守っていた司堂だった。
館に着いた直後の騒動の時ならば、誰にでも盗むことは可能だったかもしれない。わざわざ司堂に矛先を向けたのは、バスの中で倉内に恥をかかせた腹癒せだろうか。
「俺がやったって証拠はあるのかよ、あぁ!? ふざけんな!」
司堂の大声が廊下に響き渡り、何事かと反対側に部屋を取ったメンバーまで集まって来た。三原はこういった騒ぎが好きな性質なのか、どこか楽しそうだ。
「そんなことで怒るなよ、大人げないぜ司堂。だんだんと本性が出て来たみたいじゃないか、なあ。ただのガセだと思ってたが、案外一年前の例の事故に関与してるって噂は当たってるのかもしれないな?」
激昂した司堂が三原に飛び掛かり、もんどりうって二人は床を転がった。馬乗りになった司堂が三原の首を締め上げる。「ぐぇ」と妙な声を出した三原の顔色が見る見る赤く染まって行く。
これはまずい状況なのでは。円が焦っておろおろしていると、迷いなく飛び込んで行ったのは佐村と和泉だ。二人は三原から司堂を引き剥がし、再び手が出せないように壁となって間に立つ。床に尻もちをついた司堂は、ようやく冷静さを取り戻したのか、百瀬に視線を投げて声を荒げた。
「大体、荷物を運んでたのは百瀬なんだから百瀬を真っ先に疑うべきだろ!」
思いもよらぬ火の粉が降りかかって来て、百瀬も焦ったのだろう。「俺はやってねえよ!」とドスの利いた声で司堂を恫喝する。思わず地が出た、といった感じだ。
驚いて百瀬を見ていると視線が合ってしまい「見てんじゃねえよ」と言わんばかりに睨み返された。最初に事務所で会った時のような優しげな面影はなりを潜め、今の百瀬はまるでどこかのゴロツキのようだ。
その場に立ち上がった司堂は苛々したようにポケットに手を突っ込んだ。
「むかつくから、ちょっと外で煙草を吸ってくる」
「危ないわよ。ここで吸えばいいじゃない」
「禁煙してる奴もいるみたいだからエチケットだよ」
心配する門野を振り切って、投げ捨てるように言うと司堂は玄関の方へ歩いて行った。
禁煙している人間とは誰だろうと思い、ふと事務所での灰皿を思い出して百瀬に目をやると、捲られたシャツから覗く腕に小さな四角いシールのようなものが貼ってあることに気付いた。
製薬会社の社長を父に持つ円にとっては見慣れているものだったが、一目見ただけで、皮膚からニコチンを摂取し禁煙を助ける道具だと察したということは司堂も経験者なんだろうか。
それにしても、先ほどの行動を見るにつけ、どうやら司堂という男は自分に都合の悪い情報は、人を排してでも隠し通したいと考えるタイプの人間らしい。
「何を必死に隠したがってるんだろうな、あいつ」
司堂が消えて行った廊下の先に視線を送りながら佐村は両ポケットに手を突っ込む。
「わからないけど、あの人やり方がスマートじゃないって噂、探偵仲間の間じゃ結構有名だよ?」
佐村の言葉が聞こえていたらしい倉内が背後から小声で言った。
三原は場を悪くしてしまった責任を感じるような人間ではない。平気な顔をしてその場に立ち上がった三原は、喉元を撫でながら軽く咳き込む。
「あの腕時計は俺にとっては命と同等の価値があるものなんだ。どこかで見付けたら届けてほしい。相応の謝礼は払うつもりさ。まあ、ここから生きて帰れればの話だが」
三原の言葉にその場の人間、特に女性陣が怯えた表情を浮かべた。そんな中、門野のわずかに震える手が何かを握りしめている。
「門野さん、何を持っているんですか?」
円が場の空気を少しでもましにしようと話題を振ると、門野は「スタンガンよ。見てわからない?」とつっけんどんに答えた。
「そりゃあまた物騒なもんをお持ちで」
三原の嫌味は門野には痛くも痒くもなかったようだ。
「女探偵ならスタンガンのひとつくらい持っていて当然でしょう。仕事内容によっては危険な場面だってある。自分の身を自分で守ろうっていう意識がなければ、この仕事は続けられないわ」
門野は皆から一歩離れた位置の廊下に立ち、この場のすべての人間をまるで敵視しているかのような鋭い目で油断なく視線を配っている。彼女は、犯人がこの中にいるとでも思っているのだろうか。
そういえば、それに関係する事項で皆に伝えておかなければならない重要な話がひとつあることを思い出した。
「皆さん、司堂さんが戻って来たらガーデンテラスに集まりませんか。お話しておきたいことがあるんです」
煙草を吸い終わったのか、頃合いを見計らったかのように司堂が戻って来た。
捲り上げられた司堂のシャツの袖が、わずかに破れている。目ざとく見付けた門野が司堂に駆け寄った。まるで良妻のようだなと思った。
「司堂さん、シャツの袖が破れてるわ」
「ああ、本当だ。別に大したことじゃないよ」
そんな二人のやり取りを、三原は酷く冷めた目で見やっていた。




