白花との約束(4)
腕の中にいたはずの白狼の頭を撫でる。見た目はふわふわのもこもこのままなのに、感触はすっかり変わってしまっていた。どこかごつごつとした身体は、自分と同じ人型のもの。ゆっくりと目を閉じもう一度まぶたを開いてみれば、そこに森の番人が横たわっていた。けれど年老いていたはずのその姿は、かつてリリィを助けてくれた麗人の姿にまで若返っている。そもそもこちらが、彼の本来の姿なのだろう。
(聖獣さまは、森の番人さまの分身のようなものなのでしょう)
魔力の非常に高い魔獣の中には、己の分身体を作ることができる種族がいる。並みの魔術師には不可能だが、同じことができるのではないかと実験を繰り返している魔術師は多いらしい。森の番人が神に近いと自ら名乗っていたことを考えれば、何かしらのトラブルが起きた際に、逃げ道として白狼の姿を作り上げていてもおかしくはない。
ただリリィには、あの大災害を一瞬にして沈めたほどの森の番人が眠りにつくほどの事態とは一体何なのか、想像もつかなかったが。リリィは十分に魔力が行き渡ったことを確認すると、森の番人をそっとゆり動かす。
「どうぞ目を覚ましてくださいませ」
「リリィ? ここは? なぜそんな顔をしている?」
「詳しいことはわかりません。大聖女さま……黒の魔女さまにお会いした際に、真っ暗闇に吸い込まれてしまって」
何度か目を瞬かせたあと、麗人は小さくため息を吐いた。どうやら彼には、何やら心当たりがあるらしい。先ほどまで何もない真っ白な空間に見えていたはずが、いつの間にやら周囲は馴染みのある知らずの森である。ただ雪に覆われているはずの知らずの森は、すっかり様変わりしていた。暖かな春の光に照らされた大地は柔らかな緑に覆われ、あちらこちらに白花が咲き誇っている。
「知らずの森の雪が溶けている……」
「ここはもともと知らずの森ではなく、冬知らずの森だったからな。そうなるであろうな」
「あんな風に雪に覆われていたのにですか?」
「この世界に降りてきてからもずっと、感情を知らなかったのだ。己の世界には、何もなかった。永遠の凪だから、冬知らずの森は一年中、何の変化も起きなかったのだ。だがそなたに出会ってから、たくさんの感情を覚えた。わざわざひとの真似事をする黒の魔女のことを笑っていたが、あやつよりもよほど自分の方が感情を持て余した。あげく、森は冬の中で時を止め、本体も眠りについてしまった。小分けにしておいた魔力に白狼の姿で自我を移すので精一杯になるとは」
「私のせいで、そんな」
「何もかも己の未熟さゆえ。まあ、その状態で魔術を立て続けに行使すればこのような事態にも陥る。まさに自業自得だな」
リリィは思わぬ真実に目を丸くするより他になかった。慌てて頭を下げる。
「本当に申し訳ありません」
「よい。こちらが望んでやったことなのだ。そもそも、人間の愛情というものに興味があったのは事実なのだ」
「それは、どうして?」
「名前を得た後の黒の魔女は、感情が大量にあふれてくるようになると捌ききれなくなった分を勝手に預けてくるようになったのだ。あやつを見ていると悪くなさそうに思えた。感情と力が制御できなくなったあげく、急激に肉体が老化してしまった時には驚いたが」
「やはり聖獣のお姿は、緊急避難用だったのですね」
納得したようにうなずいたリリィに向かって、森の番人は悪戯ぽく目を細めた。
「初めに預かったそなたの感情は、胸が痛くなるものが多かった。それでも、その中にいくつも柔らかい、ふわふわしたものが混じっていた時には安心したものだ。とはいえまさかそのイメージによって、白狼になってしまうとは思わなかったがな」
「そうなのですか!」
「まあイメージが動物で助かった。さすがにしゃべる毛布やらぬいぐるみでは、そなたも怪しんだであろう?」
どうだと言わんばかりに片目をつぶった番人の両手を、そっとリリィは握りしめた。もしかしたら番人は、リリィが帰ってきて来るのを楽しみに待っていてくれたのかもしれない。それなのにリリィは大聖女の絵姿を見て、あの時の出来事を思い出した気になっていた。思い出したのは一部分だけ。そして勘違いしたまま、リリィは大聖女に傾倒してしまったのだ。
「長い間、ひとりぼっちにしてしまって申し訳ありません」
「そなたが忘れてしまってもかまわないと言ったはずだ」
「でも、とても寂しかったのでしょう?」
「……」
「本当にごめんなさい」
「そなたは温かいな」
そのままぎゅっと抱きしめられる。かつて救いの手を差し伸べられた時と同じくらい、あるいはそれ以上に安心するのはなぜなのか。大聖女――黒の魔女――もあまり素直ではない。片割れである彼もまた、本心はなかなか口に出さないような気がする。それならば、白狼の分までリリィが素直になればいい。それだけだ。
リリィが出会った頃のように半べそで森の番人に抱き着けば、彼は困った顔でわしわしと大仰にリリィの頭を撫でた。今も昔も変わらない扱いを嬉しく思いつつ、少しだけ不満を感じる。その理由に首をひねっていたリリィは、ぽんと手を叩いてみせた。
「急にどうしたのだ?」
「いえ、もうひとつ大事なことを思い出しまして」
「一体、何だ」
「私、あの時の対価をまだお支払いしていません」
リリィは確かに「助けて」と願い、「母の最期の願いを叶える」という形で森の番人に望みを叶えてもらった。魔獣を一掃し、負傷者を癒し、死んだ者も安らかな姿で見送ることができている。その上、幼いリリィが心を病むことがないように、重荷となる感情や記憶を預かっていてくれていた。記憶を取り戻したリリィがそれらを受け止めることができているのは、心と身体が成長するまでの猶予期間を森の番人が設けてくれていたからだ。大盤振る舞いと言っても過言ではないが、それに見合う対価をリリィは払った覚えがない。
「もう既に受け取っている」
「一体、何を? まさか預かった記憶や感情が対価として、あてがわれたのですか? けれど、私はそれらを取り戻してしまっています」
「そういう考え方もできる。実際、記憶や感情を追体験させてもらったことは非常に有益だった。だが、違う。対価は、別のものだ」
「一体、何を?」
「そなたは、共に在ることを願った。さらに、名を与えてくれた。幼子の戯言につけ込むのはいかがなものかと思っていたが、成人したそなたが選んだのであればかまわぬであろう?」
「ば、番人さま? 少し、お顔が近いです!」
「家族なのであれば、問題あるまい」
「で、ですが」
「そもそも、とっくの昔にこの身はそなたの物になっているが。ひとならざる身をそなたがその手で縛り付けたのだ。責任は取ってもらうぞ」
「もう雪は降りません。あなたに寂しい想いはさせません」
真剣な目で見つめるリリィの力強い言葉に、森の番人が満足そうにうなずく。足元では、そこかしこからまた白花がさきこぼれていた。
「共に見る雪は嫌いではないぞ。ところでリリィ、先ほどからなぜわざわざ距離をとろうとする?」
「ですから、距離が近いです」
「聖獣の姿の時には共寝をした仲ではないか。それに、せっかくそなたが名付けてくれたのだから名前を呼んでくれ」
「ううう、そんな期待に満ちた目で見ないでください」
「リリィ?」
「ア、アルバスさま……」
「家族になると自分から言った癖に、何を恥ずかしがることがある」
アルバスは麗しい顔で少しばかり獰猛な微笑みを浮かべた後、ご機嫌なまま喉を鳴らしてみせた。




