白花との約束(3)
『まったく。おかしな魔力の流れがあると思っていたが。こちらを呼びつけたのはそなたか?』
『?』
唐突に目線が高くなる。先ほどまで簡易結界に覆われながら地面に倒れ込んでいたが、今は見知らぬ声の主に抱えられているらしい。四肢の感覚もあいまいな中で、リリィは涙でぐちゃぐちゃになった顔で相手を見上げた。雪のように真っ白な麗人がリリィのことを抱き上げている。
『なぜ泣いている? 身体が痛いのか?』
『私なんかをかばったせいで、お母さまが死んでしまった。私のことを守る必要なんてなかったのに』
『親であれば、子どもは守るものであろう?』
『私は、お母さまが望んで産んだ子どもではないもの。大事じゃない私のために、どうしてお母さまは魔術なんて使ってしまったの』
(お母さまが自分と騎士団長さまを守る防護結界を張っていれば、ふたりだけでも助かったかもしれないのに)
本当はリリィだってとっくに知っていた。リリィの母は、騎士団長と結婚する予定だったのだ。それをリリィの父方の祖母、リリィの母にとっての姑が無理を言って息子の妻にしたのである。それは領内ではあまりにも有名な話。幼いリリィの耳に入らないように母は苦心していたようだが、何せひとの口に戸はたてられない。
『奥さまは、お気の毒ね。結婚式直前に無理矢理破談させられたのでしょう? その癖、大切にしてもらえないなんて』
『決して逃げ出さないように屋敷に閉じ込め孕ませる。子どもが生まれれば用済みとばかりに一切顧みられない。お子を身ごもらなければ、子どもができないことを理由に離縁を申し立てられたでしょうに』
『あらそれはどうかしら。あの旦那さまじゃあ、領地の運営なんてできないと思うわ。結局、奥さまが離縁してもらうことは難しかったのではないの。結局、お飾りの妻として働かされたに違いないわ』
屋敷の中では、おしゃべりなすずめたちがあちらこちらでさえずっている。リリィにはわからないと思っているのか。それともリリィが事情をわかったところで、どうでもいいと思っているのか。子どもだって、悪意には気が付くというのに。
『そう考えると、騎士団長さまって一途よねえ。嫁をとることもなく、いまだにお仕えしていらっしゃるのだから』
『お相手を見つけたところで、旦那さまからねちねち言われて、痛くもない腹を探られることになるだけですもの。お相手のことを考えれば、結婚しないという結論に至ったのかもしれないわよ。それに騎士団長さまが旦那さまの嫌味を引き受けているからこそ、奥さまは無駄な嫌がらせをされずに済んでいるわけで』
『本当にお気の毒な奥さまと騎士団長さま』
リリィはいろんなことを知っていたから、できるだけいい子でいられるようにしていた。父には母と自分以外に大切な家族がいて、それは世間一般的には正しくない行いらしい。けれど母は、この屋敷で当主の奥方として領地を守っていかねばならないのだという。
何もかもがいびつな自分の家族。それならば、自分は少しでも正しい令嬢にならなくては。せめて後ろ暗いところなく、前を向き、誰にとっても恥ずかしくない令嬢でいなくては。そうして必死に令嬢らしくあろうと日々を生きていて、リリィは今、母を失い、自分もまた死にかけている。
『こんなところまでひとを呼びつけたのだ。願いを言うがいい。対価は必要だが、たいていのことは叶えてやろう』
願いを叶えてくれるなんて、この方はお伽噺に出てくる黒の魔女さまみたい。けれど目の前の麗人は、黒とは真逆の色をしている。ぼうっとしたまま固まっていると、子どもの相手に慣れていないのか、どこかぶっきらぼうに麗人は言った。
『もしや、痛みで口がきけないのか?』
リリィは静かに首を横に振る。あんまりな出来事が立て続けに起きていて、考えがうまくまとまらないだけだ。確かにとっさに「助けてほしい」と願ったのはリリィ自身だけれども、具体的に何を願えばこの惨状をどうにかできるのか、想像もつかない。
それに、「正しい令嬢」であるために頑張ってきたところで、結局何もかもが無駄になってしまったのだ。リリィがない知恵をしぼって何か願いを口にしたところで、うまくいくとも思えなかった。だから、リリィは最期の最後に自分を守ってくれた母を頼ることにした。
『お母さまの願いを叶えてほしいです』
『そなたの母の願いか? お前は母の願いを知っているのか?』
『わかりません。わからないものは、叶えられないのですか?』
『死んでしまったものを生き返らせることはできぬ。だが、最期の望みを知ることはできなくはない』
母の願いが何なのか。リリィにはわからない。けれど、母の望みが叶えられるならば、自分が生き残ってしまったことへの償いにはなるような気がした。
***
きらきらと銀花が空から舞い落ちる。暴れていたはずの魔獣はぱたりと倒れ込み、うめき声をあげていた騎士たちの怪我が消えた。血にまみれていた母もまた、生前の美しさを取り戻したらしい。小さく震えながら周囲を見回していたリリィは、唐突にぎゅっと抱きしめられた。母とは異なる見知らぬ麗人のはずなのに、ふわふわの毛布にくるまれたかのように暖かい。
『どうして、抱きしめてくれるのですか?』
『それが、そなたの母の願いだからだ』
『抱きしめることが? 魔獣を倒して、みんなの怪我を治してくれたのに?』
『「リリィが幸せに暮らせますように」、それがそなたの母の願いだ』
『嘘よ。そんな願い、叶えられるはずがない』
呼吸の仕方を忘れてしまったようで、胸が苦しくなる。ひゅうひゅうとおかしな音が口からこぼれるのは、泣きすぎたせいだろうか。これから誕生日の度に、母の命日を迎えることになってしまうのに。毎年、自分がいたせいで母は死んだのだと突きつけられるのに。自分を憎む父親の元で幸せになんてなれるはずがない。
『誰も私を必要となんてしていないもの』
『必要とされたいのか?』
『ここにいてもいいよって、言ってほしいの。どこにいても、誰と何を話せばよいのかわからないの。お母さまとだけは普通に話ができたけれど、お母さまは私とお話なんてしたくなかったかもしれないわ』
そこでリリィの目に溜まっていた涙がそっとぬぐわれた。綺麗な指先はひんやりとしていて、腫れぼったいリリィのまぶたを冷やしてくれる。じくじくとしていた胸の痛みが、ぼんやりと和らいでいく。瞳が零れ落ちてしまうのではないかと思うほど流れていた涙も止まった。どこか、世界がなんとなく遠くなったような気がする。寂しさも、苦しさも、膜を隔てたような違和感と、どことなく安心する少しばかりの静けさ。
『あれ?』
『いくつかの記憶と感情を、預かることにした。人間として必要なものだが、今のそなたには重過ぎる。大きくなったら返してやろう』
『大きくなったら?』
大きなてのひらに頬を撫でられて、リリィは妙にくすぐったくなった。このひとの側なら、きっと大丈夫。そんな安心感を覚えたのは、母以外では初めてだったから。離れがたくて、リリィは貴族令嬢にあるまじき振る舞いだとわかっていながら麗人の腕にすがりついた。
『行っちゃやだ。ずっと一緒にいて』
『そなたはまだ幼い。人間としての生き方を身に付けぬまま、勝手に連れ去ることはできぬ。我々と人間とでは、生きる上での理が異なるのだから』
それは結局のところ、リリィのことを「要らない」という意味ではないのだろうか。考え込むリリィの頭を、麗人が優しく撫でた。
『適当に言い含めるための方便ではない。大人になっても、そなたが共に暮らすことを望むのであれば歓迎しよう』
『本当に?』
『ならば、約束の証を与えておこう。いずれ、今回の魔術に使われた魔導具の完全浄化、術式の解呪を行う時に必要になるであろうしな』
そうして渡されたのが、先日までリリィの腕に嵌められていた銀の腕輪だった。自分の物であって、自分の物ではない。「預かりもの」だと考えると、うっかり失くしてしまった時が怖い。リリィのことを嫌う父親は、見たこともない高価な魔導具が娘の手元にあることを許さないだろうから。
『それはそなたの魔力を貯めるための特別製。必要な時が来るまで外れないのだから、他人が奪うことなどできようはずもない』
『それなら、大丈夫なのかな』
少しだけ安堵し、小さく息を吐く。腕に嵌められた腕輪に触れるのと、眠気が襲ってくるのは同時だった。麗人の姿がわずかに揺らぐ。このまま消えてしまうつもりだ。それを敏感に感じ取って、リリィは必死にすがりつく。
『名前を、名前を教えてください! あなたのことも約束のこともちゃんと思い出せるように!』
『気に病む必要はない。忘れたままの方が幸せなこともある』
『それは私が嫌なのです! それに、忘れられてしまうのはとっても寂しいことだから』
『……しようのない子どもだ。教えてやりたいのはやまやまだが、名前はない。他者から与えられて初めて縛られるのでな』
『黒の魔女というのは』
『それはただの通り名だ』
『じゃあ「アルバス」と呼んでもいいですか? 真っ白な雪のように綺麗だから。私の名前もリリィだから、白仲間ですね』
麗人が驚いたように目を丸くし、そしてはにかんだように微笑んだ。そこでかつてのリリィは意識を失い、数日間眠り続けた後、母の葬儀に出ることになったのである。




