白花との約束(2)
未曽有の大災害が起きた時のことをリリィはぼんやりとしか覚えていない。それを周囲は幼さゆえだとか、母を亡くしたショックで一時的に記憶があやふやになってしまったと解釈していた。だが、それは違うのだ。知らずの森に来てから、リリィがときどき気になっていた違和感は、かつての真実を少しずつ思い出してきていたからこそ生じていたものだったらしい。
(忘却は罪。無知もまた罪ではあるけれど)
エリンジウムとアッシュは、現当主夫婦が引き起こした魔獣の大量発生について今なお断片的な事実しか理解していない。魔導具を利用して領内で違法な魔力注入を行った結果、魔獣が大量発生したこと。そして魔導具の浄化のために大量の魔力――リリィの命――が必要だったことは、確かに事実である。けれど、真実はもっと残酷だ。
そもそもあの日、どうして魔術師ではないリリィが母や騎士団と共に魔獣討伐の最前線にいたのか。それは、現当主夫婦がリリィとリリィの母を贄として、大量の魔導具を用いて大規模魔術を組み上げていたから。
リリィの誕生日など祝ったことのない父親が、絶対にこの日に家族だけで誕生日を祝おうと提案してきたときから、何かおかしいと子どもながらに考えていた。もしかしたら、母もまた父からのありえない言葉に警戒をして、毒消しなどの魔導具の準備などは行っていたのかもしれない。騎士団を隣室ではなく、部屋の隅に見せつけるように待機させていたのもよく考えてみれば、父へ圧力をかけていたのかもしれなかった。
結局のところ術が発動すると同時に、リリィと母は空間を越えて召喚され、魔獣の群れのただなかに放り出されてしまったのだけれど。リリィの父にしてみれば愛してなどいない邪魔な妻子を贄として魔術を発動させ、領内の大地を豊かにし、真実の愛で結ばれた相手と本当の家族となれる。完璧な一石三鳥の計画だったわけだ。
父の術式が完璧で、土地へ魔力が正しく注入されていたならば、リリィたち母娘はたちどころに魔力へと分解されて、髪の一筋さえ残らなかっただろう。けれど、何がいけなかったのか魔術は失敗した。そしてそれゆえに、リリィは命の危機を前に抗うことができたのである。
けれど、自分が術式発動の要にされていたことがショックで記憶を失ったわけではないこともまた、リリィは思い出していた。もともと父が自分たち母娘に関心がないどころか、憎しみを覚えていることを彼女はよく知っていたのだ。何が何だか理解できない状況だったけれど、もしやあの現象は実の父親の手によって仕掛けられていたものかと魔獣の群れの中で把握するくらいには、父への距離は遠い。幼いながらも悲しいほど達観していた彼女の心を壊れそうなほど揺さぶったのは、唯一彼女に肉親としての情けを向けてくれた実の母だった。
『あなたを巻き込んでしまってごめんなさい』
身体中が痛む中、優しい声が聞こえた。こんな時でも、母の声はいつだって柔らかい。母が近くにいてくれるなら、きっと大丈夫。どんなことがあっても怖くない。母親に渡されていた護身用のお守りが、簡易結界を展開してくれている。母か騎士団長が助けに来てくれるまでの間、この結界の中でじっとしていればいい。
(お母さま、私は大丈夫よ)
返事をしようとして、はたと気が付いた。母は、自分に向かって話してなんていないということに。ゆっくりと目を開ければ、霞んだ視界の向こう側で、リリィの母は騎士団長とともに魔獣の返り血を浴びながら笑っていた。怖いだとか、汚いだなんて、ちっとも思わなかった。貴族女性らしく、いつもどこか澄まして微笑んでいるリリィの母が、大口を開けてけらけらと笑っている。その姿は、花吹雪の下で微笑む乙女のように美しかった。
『ねえ、覚えている? 婚約を結んだ時に、一生側にいてくれると約束してくれたでしょう? いろいろあったけれどあなたと共に生き、あなたと共に死ぬことができそうね。だから、わたしはたぶん幸せなのよ』
難しいことはよくわからない。けれど、幼いとはいえ、リリィは貴族令嬢だ。貴族に生まれついた子女の役割は家の利益になること。そしてそのために、婚姻はそれぞれの気持ちではなく、各家々の利益が優先されるものとなる。そして、母の言葉の意味から考えるならば。
(やっぱり私は、いらない子だったのね)
何だか急にすべてが空しくなり、リリィは立っていられなくなる。何かを考えることがもう面倒だったし、身体を動かすのも億劫だった。ありがたいことに、痛みよりも眠気の方が勝っていたから、ここでしばらくじっとしていれば、これ以上傷つく必要もなさそうだ。
みしりと嫌な音がした。お守りから発動している簡易結界に大きなひびが入っている。どうやら、想定以上の負荷がかかっているらしい。そう長くは持ちこたえられないだろうと、魔術の勉強中であるリリィにも何となく理解できた。
(魔獣に生きたまま喰われるのは嫌だな)
けれどそれ以上、そこが崩れることはなかった。うっすらとリリィを守るように簡易結界の上から新たな防御結界が発動している。
(え?)
はっと目線をずらせば、母がリリィに向かって術を発動させていた。母は確かに腕利きの魔術師だ。けれど、いくつもの術式を同時に展開させることはできない。リリィのために防御結界を展開しているということは、母や騎士団長を守る結界は張られていないということになる。むしろ魔獣を前に結界が必要なのは、彼らの方だと言うのに。足手まといな上に、要らない子どもである自分を守って何の意味があるのだろう。
(お母さま、どうして?)
唯一自分を大切にしてくれていた母の最愛は、自分ではないとわかったはずだった。それなのに、どうして母は自分を助けてくれたのか。震えるリリィを守る防御結界の向こう側で、爆音とともに土煙が立ち昇る。
『お母さま!』
(お願い、誰か助けて)
神さまを信じていたわけではなかった。本当に神さまとやらが存在するのであれば、母のように愛するひとと引き裂かれることも、自分のように望まれない子どもが生まれることもないだろう。それでもリリィは祈った。それは、あまりにも無垢で純粋な祈りだった。




