白花との約束(1)
「ここは、一体?」
気が付いた時には、何もない、ただ真っ白な場所にいた。
あまりにも何もないので、一度ここを離れてしまったら自分が今立っている場所さえ見失ってしまいそうだ。目印を探そうにもあるのは一面の白。リリィは思わずぎゅっと拳を握りしめた。
大聖女に呼びかけようとして、ふと考え込む。大聖女は、リリィにあるべき場所に還れと言っていた。リリィにとってのあるべき場所というのはどこなのだろう。初めは、神殿かと思っていたが、わざわざ神殿からリリィを追い出したのは大聖女だ。もちろんリリィを父や継母たちの手から逃がす意味もあったのだろうが、そのためだけに知らずの森を選んだとは思えない。遠くに逃がすという意味であれば、いっそ他国に追放することだって選べたのだから。
(まあ、無防備に他国へ追放したら、人買いにさらわれて娼館に売り飛ばされるのが関の山だったのでしょうけれど)
知らずの森は、大聖女――黒の魔女――にとって特別な場所であるらしい。彼女と森の番人は、ともにこの世界のために天から降りてきた家族や仲間とも言える存在。大聖女にとって特別な相手のお膝元にわざわざリリィを送り出したということは、単なる偶然ではなかったはずだ。
何よりリリィが白狼たちと共に過ごしたあの日々は、実母が生きていた頃ですら感じたことのない穏やかなものだった。それならばリリィが帰るべき場所は。呼びかけるべき相手はきっと。
「聖獣さま! どちらにいらっしゃいますか!」
柔らかく温かいあのふわふわの毛皮をした生き物に呼びかける。知らずの森に辿り着いてから、片時も離れず隣にいてくれた優しい白狼。聖獣には、不思議なほどの安心感がある。それはいつの間にか、リリィにとって白狼の隣が自分の場所だと認識してしまっていたほど。
眠り続ける森の番人にだって、他人という感覚はわかなかった。白狼の主人だからという理由ではない。出会った時から、リリィは森の番人のことが他人とはとても思えなかった。白狼を大切にすることと、森の番人を大切にすることは同じことだったのだ。
神殿で暮らしていた時でさえ、大聖女の役に立ちたい、恩返しをしたいという気持ちばかりが先走っていた。聖女見習いという立場には確かにやりがいがあったけれど、それはそうしなければ自分の居場所を失ってしまうというどこか強迫観念めいた身の捧げ方だった。誰かのために力を奮い続けるために生きていたと言ってもいい。日々の暮らしの中に自分自身の幸せというものは織り込まれてはいなかったような気がするのだ。
考えないようにしていたけれど、リリィの胸の奥底には、眠っている間に世界が終わってしまったらいいのに、なんて物騒な願いが眠っている。そんな思いがあることが恐ろしくて、認めたくなくて、リリィは余計に聖女見習いとして正しい生き方を貫き続けようとしていた。
そうしなければ「普通」ではいられなくなってしまうから。この世界にあるべきではない、「おかしい」「変わった」人間としてみなされてしまうから。
どこにいても余所者として浮いていたリリィに、憧れだった普通の家族を、普通の生活を与えてくれた白狼。ただそこにいることを許される安心感を、リリィは白狼の隣で初めて知ったのだ。
他者の愛し方と他者からの愛され方。それは、継母と一緒になってリリィを邪魔者扱いしてきた実の父にも、あまりに早く亡くなってしまった実の母にも教わりそこねた。喜びを教えてくれた存在を、リリィはもう二度と失いたくなどない。
だから必死に呼びかけるのだ。ようやっと見つけた大切な存在が、てのひらから零れ落ちてしまわないように。けれど返事はない。聖獣を探す自身の声は、白い世界に吸い込まれていく。どんな音も雪が吸収してしまうように。
***
途方に暮れるリリィの前に、真っ赤な薔薇の花びらがひらひらと舞い落ちてきた。そっと手を伸ばし花弁に触れると、きらきらと粉砂糖のように崩れ落ちてしまう。それでも薔薇の花弁は後から後から降り注いできた。まるでヘンゼルとグレーテルを導く白い小石のようだ。リリィの数歩先を誘うように舞い続ける薔薇の花びら。真っ白な世界の中で、そこだけは確かに温度を感じる色をしている。
(ついてこいということかしらね)
そもそも突然訳の分からない世界に入り込んでしまったのだ。この上さらに不思議な事態に遭遇しても、おかしくもなんともない。意を決して前に進みはじめれば、くらくらとするほどの甘い香りに包まれた。
(お菓子の家があったなら、完全に私を罠にかける気なのでしょう)
けれど、辺りに魔女が潜む家は出てこない。代わりにひらひらと舞い降りてきていた薔薇の花びらは、指先で触れれば溶けてしまうチョコレートの薔薇へと姿を変えている。あまりにも美しくて奇妙な光景だ。
口に放り込みたくなるような香りを前にして我慢できているのは、さすがによく知らないものをうかつに食べる危険性を認知しているからだ。それをわかっていてもなお、つい手を伸ばしてしまいたくなるのが、チョコレートの恐ろしさなのだろう。ああ、そういえばこのお菓子は、白狼もお気に入りの王都の逸品に似ているような気がする。そうリリィが考えた時だ。
「聖獣さま!」
リリィは真っ白な雪花に埋もれたまま眠る白狼に駆け寄った。一瞬、最悪の状況が頭をよぎったリリィが白狼を抱き抱えたところで、視界はぐにゃりと歪んだ。両腕の中の白狼の姿がぶれる。
(嘘、どうして……)
リリィが小さく震える手で、そっと白狼を撫でた。どうしてか眠り続けている知らずの森の番人が倒れているように見えてしまうのだ。思い切り頭を振り、強く目をつぶった後に確認をすれば、目の前にいるのはやはり白狼だ。けれど先ほどの番人の姿が目の錯覚だとは、リリィにはどうしても思えなかった。
(それに、森の番人さまの姿がどこか少し違っていらっしゃったような?)
どこがどう違うのかとは言えないが、妙な違和感を覚え首を傾げたリリィは、白狼の姿がどんどん薄くなっていることに気が付いて、今度こそ絶叫した。涙が頬を伝う。
「置いて行かないでください! 私をひとりにしないで!」
ずっと昔に同じような言葉を叫んだような気がした。もうあんな思いはたくさんだ。聖獣を失いたくない。その一心でリリィは、聖獣に覆いかぶさる。まるで自分の身体の内側にあれば、少しでも消えてしまうまでの時間を稼げると頑なに信じているかのように。涙を流し続ける彼女の目の前に、真っ白な菫が咲きこぼれる。
咲き誇る菫は、ひとりでに腕輪が編みあがっていく。腕輪は、かつて存在した銀の腕輪の代わりのようにすっぽりとリリィの腕におさまった。リリィが目を見張ると同時に、きらめく腕輪の輝きは強くなる。
(これは)
魔力を大量に含んだ腕輪は、故郷の魔導具の解呪――アッシュとエリンジウムの助け――になったはずだ。それならば、この菫の花の腕輪を媒介として、白狼の、あるいは森の番人の力にはすることはできないだろうか。
腕輪を外すべきか一瞬悩み、リリィはそのまま白狼にしがみついたままを選ぶ。騎士たちの治療や、魔獣退治の剣の浄化などで、魔力の扱いには慣れているつもりだ。意識して白い菫から白狼へと魔力を流しこんでいった。
そこでふとリリィは気が付いた。あまりにも魔力の移行がスムーズすぎる。魔力はそれぞれ個人によって異なる型をしている。馴染ませやすい魔力の持ち主もいれば、反発してしまう魔力の持ち主だっているのだ。それを聖女見習いとして働いていたリリィは身に染みて理解していた。
けれど白狼には、簡単に魔力が吸いこまれていく。それはまるで自分自身に魔力を巡らせるのと同じくらいの自然さ。つい制御が甘くなり、勢い余って自身の魔力をごっそりと移してしまった。一気に魔力が抜けたことで頭が痛む。思わず額を押さえたとき、脳裏を知らないはずの光景がよぎった。
「ああ、思い出しました。あの時の約束を」
リリィは白狼を抱き、ぼんやりと真っ白な世界の天を見上げた。




