黒き魔女の待ちびと(3)
「それで、その初代国王陛下はいまだお戻りにならないと」
「ええ、その通りよ」
影絵を食い入るように見つめていたリリィとは対照的に、大聖女は黙々と食事を食べ進めていた。あんなに細い身体のどこにこれだけの料理が入るのだろう。首を傾げるリリィに大聖女は当然のような顔をして、「わたくしが一番最初に知った感情は、『美味しい』だったわ」とうそぶいた。
「あの、大聖女さま。大聖女さまの願い事は、『探してほしい』でも『連れてきてほしい』でもないのですよね。初代国王陛下とお会いになりたくないのでしょうか?」
「会いたいだとか、会いたくないだとかの話ではないの」
「ええと、それはどういう意味でしょう?」
「なぜ会いに来ないのかが理解できないのよ」
心の底からわからないと言いたげに、美女はこてんと小首を傾げてみせる。大聖女として見慣れた彼女よりも、さらに蠱惑的な姿。きっと今の彼女は、大聖女よりも黒の魔女という名の方がしっくりくる。それでも、リリィはあえて大聖女と呼び続けたかった。彼女にとっては、幼い頃からの心の支えだったから。そんなリリィの心など気にすることもなく、大聖女は手にしたフォークを指揮棒のように振りながらこともなげに言い放った。
「あの男、わたくしが好きで好きでたまらないのよ。地獄に落ちても意地でも這い上がってきそうなものなのに、どこをほっつき歩いているのかしら?」
「大聖女さま、先ほど影絵で紡がれた物語では初代国王陛下の恋情を理解されていらっしゃらなかったようでしたが」
「ええ。でも今は違うわ。わたくし、それなりに学んだのよ。それなのに、あの男ときたらいつまで経っても会いに来ないではないの。待ち合わせに遅れるにしても限度というものがあるのではないかしら」
大聖女は頬に手を当てつつ、指折り数え始めた。そういえば、黒の魔女は恋物語を集めるのが好きだと聞いたことがある。歌劇や小説だけではなく、恋愛にまつわる願い事を多く叶えているのも黒の魔女だったはずだ。それにまつわる対価もかなり不可思議なものだったはずだ。そして大聖女として神殿で活動を行えば、おのずと人間の感情を学ぶ機会は多く訪れたのだろう。神殿ほど生と死に触れる場所もないのだから。
「大聖女さま。もしかしたらなのですが」
「何かしら」
「お相手の方の転生先が、人間ではない可能性もあるのではありませんか?」
「虫とかね。まあ、人間に転生する可能性よりもそれ以外の生き物に転生する可能性の方が高いのは事実だわ」
そこで、リリィは思い出す。かつて知らずの森を訪れた客人であるバイオレットのことを。彼女が持つ指輪の記憶を覗いた時に出てきた生き物はとても印象的だった。黒の魔女の命を受けて、前世のモラドの手伝いをしていたのは見惚れるほどに美しい黒鹿毛の馬。モラドと一緒に崖の下に落ちていったあの馬はもしや……。
「わたくし、人間でなければ、会いに来るなと言った覚えはないのだけれど」
「大聖女さまの元をお訪ねしているからこそ、大聖女さまの愛馬となっていたのではありませんか?」
「愛馬ねえ。懐いたような懐いていなかったような微妙な距離感だったわ。そもそもの出会いもなんとも残念なものでね。ちょうど水浴びをしている最中に見つけたから、そのまま抱き着いてみたのだけれど。悲鳴を上げて逃げられてしまったの」
「大聖女さま、それはさすがに名乗り出ないかと」
「美女の裸体なんてご褒美でしょうに。きゃあなんて言うのよ、笑ってしまうわ。その後も乗馬するだけで妙に喜ぶし」
「なんと申し上げてよいかわかりません……」
唐突に暴露される情けない実態に、リリィは少しばかり相手の男が可哀想になった。そう、例え大聖女に愛を誓ったにもかかわらず、側妃を召し抱え、子どもを産ませるような男だったとしても。大聖女の感覚は、どうしても人間とはズレている。言葉数の少ない聖獣の方が、よほどリリィの感覚に近いくらいだ。
「そもそもわたくしに名を捧げたくせに、両の指では足りないほどの側妃を娶った男よ。何人も子どもを産ませているのだもの、今さら女の裸を見て逃げるなんてどうかしているわ」
「おそらく、その点についても思うところがあるはずです。だからこそ、自ら名乗り出ず、大聖女さまの手で見つけてほしいのではないでしょうか?」
「なぜ?」
「今でも自分が必要とされているか、確証が持てないからでしょう」
食べようか食べるまいか悩んでいたフォークが、うっかりと皿の端にぶつかる。きんと耳障りな高い音が響いて、そういえば実家で珍しく一緒に食事をした際に、かちゃかちゃと聞こえる小さな金属音から自身が異物だと責められたような気がしていたことをリリィは思い出していた。
***
リリィには、初代国王陛下の気持ちが少しだけ理解できるのだ。自分が本当にこの場所にいてよいのか、いつも不安になってしまう。ここにいたいのは自分だけで、相手は自分のことを邪魔に思っているのではないかと考えてしまうのだ。
自分に自信があればそもそもそんなことは思わない。あるいは、ここにいてもいいのか尋ねることもできるのかもしれない。けれど不安に駆られて疑心暗鬼になった人間には、そんな行動などとれはしないのだ。
最初は溶け込めるように努力する。けれど浮いていることがわかったなら、あとは静かに流れに身を任せるだけだ。どうせこれ以上頑張ったところでなるようにしかならない。努力したところで、悪い方向にとられてしまうのはもう慣れている。その段階でできることと言ったらこれ以上怖がらずに済むように、できるだけ静かにその場を離れることだけ。大切なひとから離れてひとりになってしまえば、もう傷つかずに済むから。
けれど、この世の理不尽を受け止められないかわいそうな寂しがり屋さんは、耳をふさぐことが下手なのだ。傷つくとわかっていて、周囲の言動を耳をそばだてて拾ってしまう。どんな風に見られているかを確認してしまう。知らなければ心穏やかに暮らせるというのに。
そんな面倒くさいかつての自分を知っているからこそ、リリィはなんとなく初代国王陛下の動きが読めていた。大胆で頑固なくせに、どこか繊細で小心者な初代国王陛下は、大聖女の近くにいるはずなのだ。彼は自分が大聖女を手に入れられないことは受け入れられても、誰かが彼女を手に入れることは許せない人間だ。
「大聖女さま。お待ちになるとおっしゃっていましたが、もしや待ちびとの居場所は既にご存じなのではありませんか?」
「なぜそう思うの?」
「ただの勘です。お声をかけてみられてはいかがでしょう? 今までにも馬以外の形で大聖女さまの近くにいたのでしょうし、本日も初代国王陛下は大聖女さまのお近くに潜んでいるのではないでしょうか」
「本当に世話の焼ける男ね。面倒だわ」
「ですが、そんな方のお帰りをずっとお待ちになっていらっしゃるのですよね?」
「当たり前でしょう? そもそも嫌いな相手ならば、名を捧げられても断るし、つけられた名前も受け取らないわ。気に入らない人間にどうして縛られなければならないの?」
それは裏を返せば、そばにいてやってもいいと思う程度には自分は男のことを気に入っていたのだという大聖女の言葉だ。どこか笑いをこらえたような悪戯な笑みで、彼女は初代国王の名を呼んだ。艶のある甘やかな声が耳をくすぐる。
「ジェット、おかえりなさい」
どんがらがっしゃーん。なぜか部屋中のものをひっくり返すような音が響き渡る。にんまりと大聖女が口角を上げたのを見て、リリィは彼女が求めていた状況が何だったのかをようやっと理解した。




