黒き魔女の待ちびと(2)
外が雨のせいか薄暗かった部屋の中が、さらに暗くなった。代わりにもともと部屋に備え付けられていたものとは異なる灯りがともされる。ひとつ、ふたつ、みっつ。色鮮やかな灯りが増えると同時に、壁と天井一面に現れたのは影絵の星空だ。星空からきらきらとした光の束が大地に降り立つと、そこに深き森が生まれ出る。そこで影絵が語り始めたのは、この王国の成り立ちだった。
この世界を創られた神は争いごとを繰り返す世界を見て、御使いを各地に遣わすことにした。大陸のあちこちに遣わされた御使いは、もちろんリリィたちの住むこの地へもやってきた。当時は国ではなく、ほんの小さな集落の集まりだったらしいが。
ふわふわの魔力の塊だった彼らは、効率よく土地を守るために「白」と「黒」の二手に分かれることにした。「白」は魔力濃度の濃い場所に根城となる森を作った。ここは天界とのやり取りが容易で、あちこちを飛び回る魔力の片割れの声も聞き取りやすかったからだ。雪のように真っ白な花を咲かせた森の中で、それは満足そうに静かに暮らしていた。
「黒」は各地に魔力を注ぎ、土地を豊かにし、人間たちの手助けを直接行った。人間への興味がより強かったからお互いにとってそれぞれの役割は都合が良かったのだ。夜の空を渡り、「黒」はどこまでも遠くへ進み、たくさんの人間の話を聞いた。ところがある日、「黒」は人間に捕まった。捕獲されたという意味ではない。
神の御使いを小鳥のように閉じ込められる者などいないのだ。常に動き続ける御使いが足を止めるのは、本人が望んだ時だけ。役割を負った御使いを縛ることなどできないはずだった。けれどそこに例外が現れる。それこそが、初代国王となる男、ジェットだった。どこまでもまっすぐで美しい男は、自分と同じ色を持つ「黒」を追い求めた。
『ああ、女神よ。どうぞ、わたしから声をかける無礼をお詫びください』
『女神などではない。神の遣いだ』
『申し訳ありません。神を愚弄するつもりはなかったのです。美しい夜の女王』
『夜の女王、だと?』
『はい。あなたの姿はいかようにも変わることを存じております。あなたの姿はひとつに囚われない。けれどわたしには、あなたが夜の女王、威風堂々と咲き誇る黒のダリアに思えるのです。ああ、美しきダリアの君。どうぞあなたに我が名を捧げることをお許しください』
『何を言うかと思えば。だが、それもまた面白いかもしれぬな』
そこで「黒」は気が付いた。自分がいつの間にか、「ダリア」と呼ばれる夜のように美しい女の姿となっていることに。どことなく天上の神に似ているように思うのは、自分たちが神の魔力から産まれたものだからだろうか。好き勝手に話していた男の言葉は、あるいは「白」と「黒」の本質を突いていたのかもしれない。
『姿が……。そうか、お前の言葉を承諾したと世界に認識されたのだな。では、あやつはどうなった?』
『ご家族がいらっしゃるのですか?』
『家族なのか、あれは? 共にこの地に降り立った片割れではあるが』
『ああ、なるほど。おふたりは、双子なのですね』
『何がなるほどなのかはわからぬが、これはおかしなことになった。夜の女王という名称はよせ。国の王になる予定の人間に「女王」と呼ばれてはややこしい』
『仰せのままに』
男はどこか陶然とした顔で、黒髪の美女となったダリアの前にひざまずき手の甲に口づける。妖艶な美女へと姿を変えた「黒」からことのあらましを伝えられた「白」は、大慌てで自身のことを「森の番人」だと名乗り始めたようだった。
双子扱いで彼女とよく似た美貌を与えられたことでさえ業腹だというのに、この上「夜の女王」やら「黒の魔女」など、こっぱずかしい通り名をつけられるなどまっぴらごめんだと思ったらしい。
『森の番人殿はいまだに引きこもりかい?』
『この世界は面白いけれど、人間と個別の交流を図るほどの興味はないそうよ。名前で縛られるなどもってのほかだとか。ひとりは確かに自由だけれど、変化のない生活はつまらないでしょうに』
『そうだね。ダリアは、すごく女性らしくなった』
『お前は随分とわたくしへの物言いが軽くなったわ。かつての騎士然とした美青年はどこへ行ったのかしら』
『わたしは見た目よりも一途な男だよ。これからも一緒にいてくれるかい?』
『ひとりは退屈だもの。一緒にいるのはお前じゃなくてもいいけれど、お前でもかまわないわ』
『これは手厳しいね』
『でもそれをわかった上で、お前は名を捧げたのでしょう?』
年若い美青年は、貫禄のある国王となっていた。王国の誰もが首を垂れる存在。けれどそんな至高の国王は、ただひとりの美女の前にかしずくのだ。
『ダリア、わたしの愛しい夜の女王』
『お前は年をとっても本当に愚かなままね』
『君は時が経つにつれて、ますます女王然としてくるね』
『ええ、「物語」とやらを集めるのはなかなかに面白いわ』
『ならばそろそろわたしのことを、「お前」ではなく「ジェット」と名前で呼んでもよさそうなものだが』
『あら、生意気だこと。百年早くてよ』
国王は寝台の上で横たわっていた。いつまでも変わらぬ美しさを誇る黒の魔女の隣で、国王はすっかり年老いていた。命の灯が消えようとしている。
『君に誓おう。わたしの心は、君だけのものだ』
『わたくしの心は、わたくしだけのものよ?』
『おや、それは少しばかり寂しいね』
『たくさんの妃を持ち、子どもと孫に囲まれて、豊かな国を国民に残して。これ以上、何が欲しいと言うの』
『そうだね。わたしは欲張りすぎたのかもしれないね』
『人生に満足できなかったのかしら』
『本当に欲しい物を手に入れることはできなかったようだ』
黒の魔女は小首を傾げた。彼女にしてみれば、彼は大陸有数の王国を作り上げ、後継者を残し、後顧の憂いなく旅立つことのできる稀有な人物だ。後悔など存在しているようには見えなかった。しかも名前を受け取った代わりに、かなり融通を利かせた形でこの男に協力し続けてきたはずだ。
『必ず君の元に戻ってくるから。どうかそれまで待っていてくれ』
『随分気の長い話だこと。あれだけ他に妃がいて、それでもなおわたくしを正妃にしたかったの? 死ぬまで正妃を娶らなかった頑固さは確かにすごいわ』
男はどこか困ったように眉を寄せた。
『迎えに来るまでわたしひとりを想っていてくれだなんて、口が裂けても言えない。けれどわたしが迎えに来たなら、どうかこの手を取ってほしい』
『いいわよ。って、何よその顔は』
『いや、まさか承諾してもらえるとは思わなくてね。意外だったのだ』
『人間というものは死の間際には相手が心安らかに旅立てるように、壮大な約束をするものなのでしょう?』
『守る気はないということかな?』
『まさか。人間と違って嘘なんてつかなくってよ。お前がこの国に戻ってくるまで、この国で待っててあげる』
『それは楽しみだ』
久しぶりに声を出して笑った男は、その夜に息を引き取った。それから、何十年、何百年の時が過ぎた。かつての王国は少しずつ形と仕組みを変えながら、大きく発展している。黒の魔女、森の番人の名前は、すっかりお伽噺の中に埋もれてしまった。森の番人の元には、それでも時たま訪ねてくる客人がいるらしい。黒の魔女はここしばらく神殿の聖女としての役割に従事していたためか、どうにもその名が薄らいでしまったようだった。
戯れに黒の魔女が作った神殿はすっかり大きく発展していた。もしもジェットが王族に生まれ変わることがなかったとしても、神殿の後ろ盾を得れば再び王座に就くことさえ可能だと思えるほどに。けれど、いまだに初代国王ジェットの生まれ変わりは、大聖女もとい黒の魔女のもとに戻ってはきていなかった。




