黒き魔女の待ちびと(1)
アッシュを追い返して以来、白狼は目を覚まさなくなった。柔らかな身体は、冬眠中の動物と同様に体温が下がってしまっている。それでも生きていると主張するように、白狼はわずかに胸を上下に動かしていた。いまだ目覚めることのない番人に、長い眠りに落ちてしまった聖獣をそっとなでると、リリィは部屋の中を見渡した。
話し相手のいない家は、なぜだか妙に広く感じる。ひとりで過ごすことには、慣れているつもりだった。むしろ実家の家族や、神殿の高位貴族の令嬢など、かかわりあいになれば面倒なだけの相手も多くて、ひとりでいることは心穏やかに暮らすために必要な方法でもあったはずなのに。
「おはようございます。森の番人さま、聖獣さま。今日は雨のようですよ」
リリィは知らずの森に来てから何かにつけて番人に声をかけるようにしている。眠り続ける対象に白狼が加わってからもそれはかわらない。もちろん番人からも、白狼からも返事はない。それでもリリィは、朝になれば寝台から番人と聖獣を居間に連れてくるようにしている。白狼といた頃は番人のためだったけれど、今はリリィ自身のためだ。番人を乗せた揺り椅子が少しばかりきしんだ。
(さびしがりやもここに極まれりね)
腕輪を外したせいだろうか、ここしばらくは妙に魔力が身体にみなぎり、疲れにくくなっていることだけは幸いだった。何せ普通に過ごしていても、魔力があふれ出すほど。多少身体強化を使ったところで何の影響もないので、女の細腕でも意識のない森の番人や聖獣を抱えることが可能なのだ。
(これだけの魔力があれば、聖女としての能力が頭打ちだと悩む必要はなかったのでしょうね)
試しにてのひらに力を込めてみれば、神殿にいた頃の感覚では魔術の規模が大きくなりすぎるだろうことに気が付く。思っていた以上に、あの腕輪はリリィの魔力を吸い上げていたようだ。
確かに白狼いわく、リリィ本人を生贄として捧げるのと同じ効果が腕輪にはあったらしい。見習い聖女と同等の魔力を溜め込んだ魔導具。一体いつから自分はあの腕輪をしていたのか。
(お母さまの形見? でも、お母さまがあの腕輪をつけていた記憶はないし……)
何も思い出せないまま、リリィは小さくかぶりを振った。ここしばらく晴れ間が続いていた知らずの森だったが、今日はずっと雨が降っている。雨音に交じって、つんざくような雷鳴がとどろき始めた。窓の外を確認してみたかったが、激しい雨のせいで何も見えないままだ。濡れることを厭うたのか、窓の隙間から入り込んだ小さな黒い蜘蛛が慌てて天井へと登っていく。
白狼が教えてくれなかった腕輪の秘密。白狼と神殿の関係。大聖女と黒の魔女の繋がり。大聖女に会えたなら、直接尋ねることもできるのだろうか。
「もしも、大聖女さまが黒の魔女だったとして。私が願いを叶えてほしいと祈りを捧げたら、すべてを教えていただけるのかしら」
迷子のようななんとも心細い気持ちになり、白狼のお腹に顔を埋めてみる。大丈夫だと、心配いらないと白狼に言って欲しかった。かたんと小さな音がしてはっと顔をあげる。テーブルの上の陶器を落としかけているのだろうか。けれど、リリィの目に入ったのはテーブルから落ちかける陶器ではなかった。
「このまま思い出してくれないかと思っていたのだけれど。ようやっと頼る気になったようね?」
にこりと微笑みながらお行儀悪くテーブルに頬杖をついていたのは、黒髪の美女。神殿で見慣れた服装ではなく、なんとも艶やかな黒いドレスを身に着けている大聖女だった。
***
「だ、大聖女さま? 一体どうしてここに?」
「あら、自分で呼んでおいてもう忘れてしまったの?」
「私が大聖女さまを呼んだ……もしかして、先ほどの独り言のことでしょうか」
まさか大聖女は、自分の一挙手一投足を監視していたのだろうか。確かにどこに追放するのかを事前に指定されている上、白狼はそれなりにいろいろな伝手があったようだ。リリィの情報はすべて神殿に流れていると考えてもおかしくはない。だが。
「でもそれならばどうして、今まで干渉してこなかったのでしょう」
「いくら動向を把握していても、招かれなければ家の中には入れないのよ」
「大聖女さまでもですか?」
「大聖女ではなく、黒の魔女としての約束事に縛られているの。この世界を創った神に近い存在というものも、不便なものね」
「大聖女さま……」
リリィが知りたかったことをさらりと差し出しながら、大聖女はテーブルの上に食事を出現させる。白狼が目を覚まさなくなってから、リリィの食事の量は極端に減っていた。食欲だって全然わかない。それなのに、大聖女と自分の前に温かな食事が並んでいるのを見ると、急にお腹が鳴ってしまうのだから現金なものだ。神殿にいた頃の食事がなんだかんだでとても美味しく感じられたのは、同じ場所に敬愛する大聖女がいたからなのかもしれない。
「毒なんて入っていないわ。どうぞ、召し上がれ」
呆然と固まったままのリリィに向かって、大聖女が小さく肩をすくめた。毒見のつもりなのか勝手に食べ始めた大聖女に、リリィは問いかける。
「大聖女さま、私の祈りに応えてくださったということは、私の願いを叶えてくださるという理解でよいのでしょうか?」
なぜ白狼が眠りについてしまったのか。
なぜ黒の魔女が大聖女を名乗っているのか。
森の番人と神殿はどのような関係にあるのか。
なぜ大聖女は自分たち母娘を助けてくれたのか。
聞きたいことは数え上げればきりがないが、この「なぜ」に回答してもらえるというのだろうか。
緊張で声がひっくり返りそうだ。指先が小さく震えている。どうしても止めることができなくて、リリィはぎゅっとドレスの裾を握りしめた。
リリィが神殿から追放された経緯は、アッシュが話してくれたことから想像がついている。エリンジウムのあの悪女っぷりがすべて自分を守るためのものだったのであれば、大聖女もまた何か利があって、異母妹の芝居に乗ってみせたのだろう。とはいえ、長年の憧れだった大聖女へ自ら話しかけるなど、リリィにはあまりにも畏れ多いことだった。
「お前の願いはわたくしには叶えられない。なぜなら、お前は既に森の番人に願ってしまっているから」
「……聖獣さまもおっしゃっていましたが、やはり私はどこかで森の番人さまに出会っているのですね。それならばなぜ大聖女さまは、わたしの祈りに応じてくださったのですか?」
「逆に考えればいいのよ。わたくしがお前の願いを叶えるのではなく、お前がわたくしの願いを叶えるの。そうすれば、お礼代わりに少しだけ手助けができるかもしれないわ」
さらりととんでもないことを言い出しておきながら、さも当然のように小首を傾げてみせる。その女王然とした振る舞いは、確かにリリィが良く知る大聖女の姿だった。
「叶えられるかどうかはいったん置いておくとして。黒の魔女さまでもあらせられる大聖女さまの望みをお伺いしても良いでしょうか」
「簡単なことよ。わたくし、ひとを待っているの。もうすっかり待ちくたびれてしまったのだけれど、もう少しだけ待つつもりだから、その間だけ一緒にいてくれないかしら」
リリィは目を瞬かせた。「探してほしい」でもなく、「連れてきてほしい」でもない。少なくとも今までの客人とは異なる望み。
「一緒にいるとは?」
「言葉通りの意味よ。わたくしのおしゃべりに付き合ってくれればよいの」
リリィは小さくうなずくと、大聖女の心づくしが用意された席に着いた。




