めっきとガラス玉の願い(3)
「さあ、俺の手を取ってくれるよね?」
ごく自然に手を差し出されて、けれどリリィは首を横に振った。握られることのなかったてのひらが、所在投げに宙に浮かんでいる。
「……できません」
「リリィ?」
「そんな条件は呑めないと言っているのです」
柔らかく微笑みながら、リリィははっきりと拒絶した。みるみるうちに、アッシュの顔が赤く染まっていく。差し出されていたてのひらが、拳の形に変わった。
「お前は、領地も領民も見捨てるのか!」
「私は貴族籍を既に抜け、神殿もまた追放されております。貴族でもなく、聖女の端くれですらない私には、背負えないのです。そして神殿から追放された者が、再び貴族に戻ることはありえません」
「なんと無責任な」
「真に責任を負うべきは父と義母、そしてエリンジウムなのです。あなたの恋心は素晴らしいとは思いますが……。どうぞお引き取りくださいませ」
母が守った領地は確かにリリィの故郷ではあるけれど、異母妹の代わりに命を捧げるほどの思い入れはない。むしろ今は、この知らずの森こそがリリィの生きていく場所だ。実家にいられず、神殿を追放されたからこそ出会うことのできた安住の地。そういう意味では、エリンジウムに感謝すべきなのかもしれない。
「ああ、エリンジウムにはよろしくお伝えくださいませ。あなたが私を追放してくれたおかげで、私は幸せを手に入れることができましたと」
「ふざけるな」
「最愛のひととともに最期を迎えるというのも、ある意味幸せなことかもしれませんよ」
「俺よりもエリンジウムに愛されたお前が何を言う!」
あの子が自分を愛している? 目の前の美しい男よりも? リリィが思わず首を傾げてしまうと、アッシュが拳を振り上げた。魔術攻撃ですらない、ただの暴力。反応できずに痛みを覚悟した瞬間、アッシュが吹き飛んだ。毛を逆立てた白狼が、リリィを庇うようにして唸り声をあげている。漏れ出した魔力の濃さに圧倒された。
「リリィ、怪我はないか?」
「ありがとうございます。おかげさまで、なんともありません。聖獣さまは?」
「大丈夫だ。……知らずの森に来ることができた人間は客人だが、番人やそれに連なる代理人を害そうとしたのであれば話は別だ。この男を排除する」
「……聖獣さま、お待ちくださいませ」
魔力のこもった衝撃波で内臓をやられたのか、口元から血を垂らしつつもアッシュは立ち上がろうとした。彼は瞳をぎらつかせながら、リリィを睨みつけている。その色の強さに臆することなく、リリィもまた目の前の男を見据えた。今まで何を言われても俯いたり、困ったような顔で流したりしていたリリィからは、考えられない行動だ。
「エリンジウムのことが好きだったのなら、最初からあの子の婚約者になればよかったでしょうに。財産目当てで私の婚約者になり、秋波を送られてから異母妹に乗り換えたあげく、血が半分繋がっているだけの異母姉に悋気を抱くなんてみっともないにもほどがあります」
「彼女が望まなければ、誰がお前なんぞと婚約するか」
「……あの子が望んだ?」
リリィは意味が理解できないとばかりに尋ね返した。そんなこともわからないのかと、アッシュはせせら笑う。
「俺は最初から彼女に求婚していたさ。だがエリンジウムの望みは、『あたしを愛しているのなら、お姉さまを愛して』だった。だから仕方なく、お前と婚約したんだ」
「何を言っているのか、意味がわかりません」
「エリンジウムにとって一番大切なものはお前だった。昔からずっと。エリンジウムの苦労も知らないお前のために、彼女が命を散らすなんておかしな話だろう?」
嘘だと否定しかけて慌ててその言葉を飲み込む。エリンジウムの好意を疑うことを、目の前の男はきっと許さない。今度こそ、アッシュは刺し違える覚悟で自分を殺しにやってくる。なぜかそう確証できた。
『姉さま、大好き』
雛鳥のように自分の後ろをついてまわっていた幼い異母妹の姿が脳裏をよぎる。自分をいたぶってやろうとあくどい笑みを浮かべていた義母から産まれたとはとても思えなかった。その愛らしさにほだされて、自分は心から彼女を可愛がっていたのだ。実母を亡くした寂しさなんて忘れてしまうほどに。
『なんて邪魔なのかしら。さっさとこの屋敷から出ていってくださればよろしいのに』
突然の反抗期とは言えないほどの辛辣さで、エリンジウムはリリィへの当たりを強くしたときには驚いたものだ。けれど、「なぜ」よりも「やはり」と納得してしまったくらいには、リリィも疲れていた。あの豹変ぶりに違和感を覚えていたら、もっとよりよい方向に進むことはできていたのだろうか。少しばかり考え、そっとかぶりを振る。今さらだ。
エリンジウムの行動の意味と理由を聞きたいとは思えなかった。聞いてしまえば、きっとリリィはすべてを許さなくてはいけなくなる。今はまだ、許せない。
「それならば、あの子も私を信用するべきだったのです。私に黙ってすべてを背負い込むのではなく、ふたりでどうすればよいのかを考えるべきでした」
「エリンジウムがどんな気持ちで過ごしてきたかわからないのか!」
「でも、あなたにも私がどんな気持ちで過ごしてきたかなんてわからないでしょう?」
祈るように両手を組む。そっと白狼が寄り添う中、リリィは薄く微笑んだ。
***
「聖獣さま、森の番人さまの代理人である私は、自分のために魔術を行使することができるのでしょうか」
リリィの言葉にアッシュが目を見開いた。リリィが代わりに死んでやることはできないが、その代償を和らげることは可能なのではないか。リリィがそう考えた上で白狼に尋ねていることに、瞬時に思い至ったらしい。
(今は許せない。話も聞きたくない。でも、死ねばいいとまでは思えない。……私はやっぱりお母さまに似ているのかもしれないわね)
自分をないがしろにした男の領地を命がけで守った母を思い出し、リリィは口角が上がりそうになるのを堪えた。
リリィが使えるのはごく普通の魔術だけだ。客人たちの願いを叶えることができたのは、白狼のアドバイスがあってこそ。それならば、エリンジウムの命を救うために自分が客人として何か願うことはできないのか。そう尋ねたリリィに、白狼は小さく鼻を鳴らした。
「無理だ。そなたは既に、客人としての権利を行使している」
「私が? 以前に森の番人さまに願いを叶えてもらったことがあると?」
「やはり覚えてはおらぬか」
「申し訳ありません」
「構わぬ。そなたが思い出せないかもしれないという覚悟はしていた。リリィ、腕を出すがいい」
白狼に言われて、おずおずとリリィが腕を差し出す。すると彼女の手首に嵌められた腕輪がほんのりと光り始め、からんと乾いた音を立てて床に滑り落ちた。手首の太さとまったく同じで隙間さえなかったはずなのに、どうして外れたのか。目を丸くしているリリィをよそに、白狼はアッシュに腕輪を拾わせた。
「絶対に外れない腕輪がどうして……?」
戸惑うリリィをよそに、白狼はアッシュに命じた。
「この腕輪は、リリィの魔力を幼い頃からずっと吸い続けてきた。十分に、彼女の身代わりとなる。さっさと持って出ていけ」
「それはつまり、これを持っていけばエリンジウムが死ぬ必要はないということか?」
「そうだ。使い方はお前がもともとリリィにしようとしていたことをこの腕輪に当てはめるだけだ。想像するだけで不愉快だがな」
「……感謝する」
ひざまずき礼を述べる元婚約者を見ながら、リリィは慌てて確認する。アッシュは憑き物が落ちたかのように、すがすがしい表情をしていた。
「待ってください。その腕輪が私の代わりになるとして、それではあなたはどうなるのですか?」
「どうなるも何も、最初の予定通りだよ」
「それでは、あなたは」
「愛するひとを守れるのだ。これ以上、何を望むだろう」
愛するひとと共に死ぬどころか、大嫌いな人間の魔力に染まった腕輪と共に死を迎えることになるというのか。愕然とするリリィを制止するように、白狼が彼女の伸ばしかけたてのひらに顔をこすりつけた。
「リリィが気に病むようだからな、おまけをつけてやろう。貴様なんぞに配慮するなど、業腹なのだがな」
客人に対するものとは思えない物言いを、白狼がすることはとても珍しい。自分のために白狼が怒ってくれている。それだけリリィのことを大事に思ってくれているのだということを見せつけられて、なんだか嬉しいような後ろめたいような不思議な気持ちになる。
「せっかくここまでやって来たのだ。貴様の分も、命以外で贖えるようにしてやろう」
「……先ほど俺は、エリンジウムの命を助けるためにリリィから腕輪を受け取ったところだが」
「あれは貴様の願いに対応する形で渡したものではない。かつてわたしがリリィに与えたものを、わたしの判断で譲ったのだ。貴様の願いは、今から叶えてやるとも」
「俺は森の番人の代理人を侮辱した。それなのに俺を赦し、願いを叶えてくれるのか?」
「赦しではない。施しでもない。これの意味するところは、貴様自身が後から考えてみればよい。何を対価に差し出したのか。どうせすぐにわかる。このような対価の支払い方など、わたしではなく黒の魔女の守備範囲なのだが、仕方なかろう」
目が焼けてしまいそうなほどの白い光が部屋の中に満ちる。ふらつきかけたリリィの身体を、そっと白狼が支えてくれた。その柔らかさと温もりがあまりにも穏やかで手放しがたく、リリィは反射的にぎゅっと白狼を抱きしめる。触れているだけで安らぎを覚えるようになったのは、いつからなのか。自分が白狼の側にいることが当然に思えてしまうのはなぜなのか。リリィが答えを見出す前に、一足早く目のくらみがとれたアッシュが、慌てた声をあげた。
「何も変わった感覚はないが……一体何を対価として支払ったのだ。……まさか!」
「慌てて髪の毛をまさぐらずともよい。はげてはおらぬ」
「男性にとって、命の次に大事なものは髪なのですか。意味がわかりませんね」
こんな状況で確認するのが、髪なのか? 髪の毛くらいで命が助かるならば十分だろうに。だが、エリンジウムを射止めることに必死な若き貴族令息にとっては命よりも大切なものだったようだ。
「リリィ。そんなことを言ってやるな。一見くだらぬように見えて、男にとっては重要なものであることはいろいろと多いのだ」
「白狼さまや、森の番人さまにも、そういうものがあるのですか?」
「わたしのことはどうでもよい」
「リリイ、お前は男心のわからない女だな」
「黙れ。貴様の願いは叶ったのだ。とっとと帰れ。こちらはこれから忙しくなるのだ」
白狼は面倒くさそうに扉を開けると、勢いよく体当たりをしてアッシュを家の外に放り出した。突然現れた人間に驚いたのか、玄関先にいた烏が大慌てで逃げていく。その瞬間、白狼の魔術が発動したのか元婚約者の姿は一瞬にしてかき消えた。




