めっきとガラス玉の願い(2)
「何を言っているんだい?」
「今さら取り繕う必要なんてないでしょう。屋敷にいた頃は、ずっとあなたのことを優柔不断だけれど、優しいひとだと思っていたのです。いいえ、屋敷にいた頃だけではありません。私は神殿を出て、この森で暮らし始めるまでずっと、あなたのことをそう認識していたのです」
「今は違うの?」
「全然違うことに気が付きましたわ」
「リリィは酷いなあ。まるで俺が極悪人みたいな言い方だ」
「目的のためには手段を選ばないひとだということは理解しておりますもの」
リリィがよどみなく答えれば、アッシュの笑みが消えていく。いや、消えたのではない。そもそも彼の目元も口元もただ意味もなく孤を描いていただけ。記号的に笑っていると判断していたが、実のところ彼はそもそも笑ってなどいなかったという方が正しいのだろう。
「ねえ、リリィ。どうしてそんな風に思ったの? もしかしたら君と離れてから、君の大切さに遅まきながら気が付いただけかもしれないじゃないか」
「それはあり得ません」
「断言できる根拠なんてあるの? 君との婚約を解消する前も、エリンジウムと婚約してからも、俺が君のことを気にかけていたのは事実だろう?」
家族中から爪弾きにされていたリリィのことを、確かにアッシュは気にしてくれていた。むしろアッシュがリリィを無視しないからこそ、両親や異母妹がリリィに嫌味を言っていた可能性だってあるくらいだ。その癖、自分には何ら恥じるところはないとでもいうように、アッシュは小首を傾げている。
「この森に来てから、森の番人の代理人としてたくさんの人々の話を聞いてまいりました。不思議なほどに恋のお悩みが多かったのですけれど、そのおかげで気が付いたこともございます。具体的には彼らとあなたの違いです」
「ふうん、何が違うのかな?」
「彼らの目にはね、恋焦がれる相手への熱があるのです。愛しい、恋しい、寂しい、悲しい。心が温まるなどという生易しいものではありません。見ているだけの私が苦しくなるような、火傷をしてしまいそうなほどの熱を孕んでいます。ですが、あなたにはそんな熱量はない。ここまで熱心に私との結婚を望んでいるはずなのに、あなたが私を見る目はひどく冷たいものなのです」
アッシュは忙しなく何度も足を組み替えている。彼にしてみれば、当てが外れたのだろう。確かにかつてのリリィほど孤独であれば、アッシュが手を差し伸べたなら思わずその手を取ってしまったかもしれない。婚約当初からいずれ離れる相手だと距離をとっていたとはいえ、それでもまともに会話をできる相手として認識するくらいには彼女は愛情に飢えていたのだから。
けれど今のリリィはひとりぼっちではない。誰にも繋がっていなかったはずの手は、ふわふわの毛皮を持つ白い狼の背中を撫でている。そして反対側の手の先には、眠っているはずなのにすっかりリリィと家族めいた関係を築いている森の番人が眠っているのだ。
(この家で聖獣さまや番人さまと穏やかに暮らしていなかったなら。あるいは番人さまの代理人として、誰かの役に立つ幸せを知らなかったなら。私はこの男に乞われたことに何らかの意味を見出して、すがりついてしまっていたかもしれないわね)
でも今ならわかるのだ。アッシュはリリィのことを愛してはいない。家族として大切にすら思っていない。それどころかむしろ。
「自分で言うのも嫌になってしまいますが、あなた、私のことが嫌いでしょう?」
リリィの問いかけに、アッシュはゆっくりと瞬きをした。日頃から貼り付けていた笑みが消えているからこそよくわかる。彼は継母や実父よりも冷たく鋭い目つきでリリィをにらんでいた。ただただリリィを邪魔だという感情を隠しもしていない。
「そっかあ。バレちゃったなら仕方がないね。それじゃあリリィ、俺と結婚して。それからエリンジウムのために死んでくれないか」
直後、アッシュから放たれた強烈な一言に、さすがのリリィも息を呑んだ。
***
知らずの森で遭遇したあの見知らぬ騎士のような、強い魔術の波動をぶつけられたわけではない。けれどそれにもかかわらずリリィの死を願ったアッシュの発言が、伊達や酔狂などではなく、確かに本気であることにリリィは指先が冷えていく。死を望まれているにもかかわらず予告なしで殺されなかったのは、きっと温情ではない。殺す必要がないのではなく、殺してはいけないのだろう。今この瞬間は。
「……まあ。想像していたよりも、ずっと悪い答えですね」
「どんな答えが返ってくると思っていたの?」
「領地運営をさせるために、『お飾りの妻』という立ち位置を私に与えようとしているのかと思っておりました。でもそれならば私をさらって、地下室にでも閉じ込めて働かせればいいだけでしょう?」
「あははは。そんな酷いことなんてしないさ。大丈夫、俺も一緒に死ぬから安心していいよ」
「あなたがエリンジウムを見る目は、私とあの子を天秤にかけて悩んだ末に仕方なく選び取ったようなものではありませんでした。今思えば恋心を抑えつけた見せかけだけ穏やかな目をしていたのでしょう。本当に好きな相手と一緒になれたというのに、まったく一体何をおっしゃっているのやら」
好きでもないどころか憎んでいる女との無理心中に、何の意味があるというのだろう。震える手で白狼の背中を撫でていれば、白狼の方から自分からリリィのてのひらに顔をこすりつけてきた。濡れた鼻の感触に、命の温かさを実感する。
「それはもちろん、我が愛しのエリンジウムのためさ」
「彼女のために、どうして私たちが一緒に死なねばならないのです」
「君は自分ばかりが不幸だと思い込んでいる。この世界には、君よりも辛く苦しい人生を歩んでいるひとがたくさんいるというのに。それが俺にはひどく腹立たしくてたまらない」
「それはつまり、エリンジウムが私より不幸だおっしゃるのですね。それならば、余計に理解できません。あの子は私の代わりに、領内のすべてを手に入れたはずです。欲しい物を手に入れたのなら、それなりの責任というものが生じてくるのは当然でしょう」
女当主となれば裁量権は大きくなるが、それに合わせて責任は大きくなる。まさか父や継母の振る舞いから、領内の税収は自由に使い、仕事はリリィに押し付ければいいと学んでしまったのだろうか。それでも、やはりリリィがアッシュと死ぬという結論に至るのは理解できない。次期当主夫妻が死ぬ必要があるなんて、それぞれの首を差し出さないといけないようなよほどのことが起きた時くらいのものだ。そこまで考えて、リリィは背筋が凍る。
「次期当主……あるいは現当主の首がともに必要になるようなことが起きたとでも?」
「正確に言えば文字通り、贄にしなければならないような事態が進行中というほうが正しいかな?」
「どういうことです?」
「君は覚えているかい。以前に起きた領内での魔獣の大量発生のことを」
「ええ、もちろん」
「あれはね、自然発生したものじゃなかったんだよ」
「何ですって?」
「あれは、現当主が命じた魔術の失敗によるものだ」
魔獣の大量発生は偶然ではなく、父が引き起こしたものだった? それでは、母は……。喉が締め付けられて声が出なくなってしまいそうなところを、リリィは必死で絞り出す。
「エリンジウムはどうしてここに来ないのです? それほどの事態だというのに、あなたがここへ来るなんておかしな話ではありませんか」
「エリンジウムはすでに一度、黒の魔女に願いを叶えてもらっているそうだよ。そのせいで、森の番人には頼ることができないらしい」
それはありうる話だ。以前に知らずの森にやってきた客人も、似たようなことを言われて閉口していた。一体いつの間にエリンジウムが黒の魔女に出会っていたのだろう。もしかしたら、エリンジウムがリリィに対しての態度を変えたことにも、何かしら関係があるのだろうか。無言を貫くリリィに、アッシュは熱心に語り掛ける。
「さあ、リリィ。俺たちは贄になるんだ。御父上たちもね。あのひとたちも、術式の解除のために必要な媒介だからね」
「魔術にお詳しいのですね」
「エリンジウムの役に立てるように勉強したんだ。現場には、魔術式がいまだに残っている。解呪が成功すれば万々歳。失敗しても、当主夫妻と次期当主夫妻がその身を投げうって失敗という形になれば、国だって動いてくれるはずだ」
「……嫌だと言ったら?」
「君は拒まない。いや、拒めないよ。だって君がその役目を引き受けなかったとしたら、君の御母上が命がけで守った領地は災厄に見舞われて滅亡することになるんだから」
思い出せないはずの悲鳴と辺り一面を染める紅が脳裏をよぎる。今度こそ、リリィは言葉を失った。




