脳は主語を理解しないから呪詛や愚痴や嫉妬の思いも言葉も文字も結局自分を一番傷つけるんだよ
さて、前に書いたエッセイで”人間の脳は主語を理解できない”ということを書きました。
ここでは小説の中に書かれている作中人物が発した”すごい”とか”好きだ”といった心地よい言葉をその作中の小説の人物に対して発したものではなく読み手に対して発したものと脳は捉えてしまうと書きました。
ではその反対のネガティブな言葉に対してはどうなのでしょう。
もちろんポジティブな言葉でもネガティブな言葉でも脳は主語を理解できないので脳は自分へ向けられた言葉と勘違いします。
前にも書いたことですが厳密に言えば主語を理解できないのは大脳古皮質で大脳基底核や大脳辺縁系に於ける快・不快に対しての情報処理に対してです。
「古い脳」は、性欲・食欲・その他の欲に基づいた生存本能に直結した情報をやり取りして、生理的な快・不快を仕分け、肉体に反射的行動をとらせるはたらきをします。
「情動行動は生存のための適応行動である」のですが例えば炎に対して”危険”という判断をすれば炎から遠ざかろうとするのが情動行動です。
それに対して炎をうまく用いれば役に立つと判断するのが大脳新皮質です。
この情動行動は「扁桃体」という脳の部位が要になって起こります。
扁桃体は、何かしらの感覚の入力があると、その感覚が自分の生命の維持にとって有益(快の情動)なのか、有害(不快の情動)なのか、どちらでもないのかという選別を行いそれを伝達します。
この選別によって、快の情動ならば「接近」や「獲得」の行動、不快の情動ならば「回避」や「逃避」、「攻撃」の行動が起こります。
ここでは他人からの好意や害意などの区別を処理するわけなのですが、これに関してそういった判断をする脳は主語を理解しないというのが問題になってきます。
つまり自分ではなく他人に対する愚痴や悪口を聞いたり、自分が他人に対していった愚痴や悪口もすべてて脳は自分に対しての害意と判断してしまうのです。
他人の悪口をきくことでは、自分ではない他の誰かに対しての悪口なども脳は自分への害意だと判断します。
また自分が他人に対して”死ねばいいのに”と言ったり、心のなかで思ったりすることでも自分に対して害意を向けている、つまり自分に死ねばいいのにというのと同じなのです。
もちろん人間ですからつい怒りにかられたり愚痴をこぼしたりしてしまうものですが、なるべくそういった思いを抱いたり、口にしたり、文字を読んだりしないほうが脳にとってはストレスが掛かりません。
逆にストレスが掛かるとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが体内に放出されます。
このホルモンは主にストレスと低血糖に反応して分泌され、体内のタンパク質をアミノ酸に分解してそれを肝臓へ送り肝臓でいったんグリコーゲンに変化させ、それをブドウ糖に合成することで血糖値を上昇させて瞬発的な行動を取れるようにしますが、そのときには筋肉だけでなく海馬などの脳の細胞や免疫細胞も均等にアミノ酸に分解します。
ストレス過剰で鬱病や免疫が低下して癌になるのはこのコレチゾールの働きによるものです。
言葉のナイフと言うのは他人にではなく自分にもっとも深く突き刺さるものなのだと考えれば仏教における中道が苦行と快楽のいずれでもない状態を保つことであることを考えると仏教はホルモンのコントロールこそが悟りだと知っていたのではなかろうかと思うのです。
そして自分の思いどおりにならないということが苦悩になるのならば、自分の思い通りなど何一つにならないのが当たり前ということを受け入れてしまうのが一番いいのだろうね。




