ハーレムって本来は主人公がちやほやされたいからではなく、読者も含めて誰も不幸にしないようにした結果なってしまうものじゃないかな
さて、なろうのチーレムだとヒロインが主人公の惚れるのはちゃんとした恋愛というより、様式美による主人公のトロフィー的な意味合いか、ただ単にキャバ嬢のようにちやほやするだけ要員になってしまっている面が強いきはします。
ただ、おそらく本来は”とある魔術の禁書目録”のように主人公が毎回命がけのトラブルに巻き込まれ、その原因の美少女を命がけで助けていたら、助けた美少女所に好かれてハーレムっぽくなっていた。
ということで本来のハーレムというのは主人公はヒロインを誰も見捨てない、誰も不幸にしないということを頑張った結果なんじゃないかなーと思ったりします。
まあ、困ってる老人とか男は助けないのかい? という話になるとそうしても作者も嬉しくないし、読者も嬉しがらないというのはあるのでしょう。
今現在私が書いている”元始末屋と元王女は愛の力で異世界の侵略から世界を救う”と言う作品では主人公たちはおっさんも助けたりしていますが、困っているから助けるだけだと動機が弱い感じにはなりますね。
とはいえ昔は困って居るおばあさんの重い荷物を持ったり道案内したりって普通にやっていた気がするんですが、最近は老人は敵っていうイメージが強い気もしますね。
ただ、ISインフィニット・ストラトスのチョロインズのように、その程度のことでなぜそこまで主人公校にベタぼれするのかよくわからん、というものから、なろうテンプレチーレム的な惚れる過程を省略すぎて、もはや単なる様式美? となってしまっていたりする作品も多かったりするので非難されるのかなーという気がします。
音楽業界でもジャニーズや48グループ、坂グループのように多人数のグループアイドルのほうがその中の誰かが好みに合うだけでいいので全体としてのファン層を増やしやすいでしょうし、艦これやアイマスなどのようなソシャゲでも推しは個人によってかなり違いますから、複数のタイプの違うヒロインを用意するということ自体は無意味ではないとは思うのです。
だれより可愛いぞ森久保ォ! とかね。
が、おそらくギャルゲやソシャゲのようにユーザーが好みのヒロインを能動的に選んで優遇できる媒体はともかく、小説や漫画では最終的な勝ちヒロインは一人で敗けヒロイン支持していたファンが怒るのは、まあ負けたヒロインの支持者が作者に裏切られたと思うからではないでしょう。
まあそうした負けヒロインの救済措置の1つがファンによる二次創作だったりもするわけですけども、エヴァンゲリオン二次創作の時は作者が好きなヒロインの惣流アスカラングレーや綾波レイ、霧島マヤなどの特定ヒロインとのカップリングの話のほうが多かった気がするんですがね。
結局ぼく勉はマルチエンディングになるみたいですし、ニセコイはかなり叩かれていたのもあっておそらく今後はそういう方向に流れていくか、からかい上手の高木さんなどのような一対一ラブコメに収束するのでしょうね。
FF7でストーリーの関係上エアリスが死んで呆然とし、そしてエアリスをどうやっても助ける方法がないとなってからユーザーがなんでこんなストーリーにした!と 怒っていたりするわけですが、FFは2や4などでもパーティメンバーがあっさり死んでいたりしていて、製作者側は味方キャラクターの死というものをちょっと軽く扱いすぎている気がします。
これは艦これアニメで如月がストリー的にはあまり意味のない状況で死んでも非難轟々だったのを考えれば、昔はよくあんなに登場人物をあっさり殺せたよなとすら思います。
艦これやファイヤーエンブレムのようにゲームとして死んだキャラは二度と生き返らないとか、ラングリッサーのようにエンディングでそのつけが来るという制約を設けるのはシステム的にはありだと思いますけども、それを公的なストーリーとして固定してしまうのは受け入れられないユーザーも居るということでしょう。
基本的に魅力的なキャラクターというのはTRPGで言うところのキャラクターシートやゲームでのステータスで示されるような外見や設定ではなく、結局はそのキャラクターの言動や行動を読者や視聴者がどう思うかなわけで、なろうでは異世界人を主人公の引き立て役にしすぎとは言われますが、主人公に対してヒロインなどのその他のキャラというのは基本的には主人公の魅力を引き立てるための装置でもあるわけです。
スレイヤーズでリナと一緒にガウリイかナーガというお馬鹿キャラやらがいるのは、リナというキャラクターの行動を引き立てるためだったりするわけですね。




