ガンダム、エヴァ、ダリフラは社会の大人と若者との関係の移り変わりをよくうつしているのでしょうね
さて、”シンカリオンとダリフラ、戦えない大人と戦え得る子供の構図は同じだけど内容は正反対?”の感想で子供がロボに乗る→大人と対等の存在になれる(祝福) なったため責任が生じる(呪い)というのが本来の在り方だったという感想がありなるほどと思いました。
ガンダムにおけるニュータイプと言うのは一種の共感性ではありますが、当時の若者は新人類と呼ばれて「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている自分たちとは違う人間」と見なしてしていたようで1980年代半ばに入社してきた当時の新入社員を当時の管理職が、「一風変わった若者 = 新人類」と呼んだわけですけど、会社に入ると無理やりやりたくもないことをさせられるが、すごい能力に目覚めて焼け跡世代である太平洋戦争経験者の管理職に認められれるという願望を反映したものなのでしょうね。
この当時はまだまだ高度経済成長期で社会に順応すれば出世して成功できるという時期でした。
そして、エヴァンゲリオンの時代は住専処理の失敗から続くバブルが弾けたのにそれにうまく対処できない政治家や官僚たちを”だめな大人”として、若者のなんで俺らがそれに巻き込まれなきゃならないのかという気持ちを代弁しているのでしょう。
ダリフラの大人は”生きる上での様々なことに他人が必要だなんて、煩わしい”というセリフがありますが様々な娯楽の普及もあって非婚化と医学の発達で高齢化が進む日本社会を大人、派遣社員として使いすてにされる若者を子供として表してるような気がしますね。
そして本来失敗に関しての責任を取らないといけないはずの責任者が責任を取らずに末端の人間にそれが押し付けられる敗戦後の日本社会自体への皮肉でもある気もします。




