第二章「停滞」(三)
一九四三年九月二五日 ハワイ・オワフ島
「フ〜ン、変わった人ね」
「ああ、けど切れ者だ。その証拠に、日本側の公報でグループ・フリートの新しい人事が発表されたんだが、何と彼は先任参謀。つまり、参謀長に次ぐ日本艦隊のブレーンになったんだ」
ロバート・アンダーソンは、目の前のシックなイブニングドレスに身を包んだ女性に、勢い込むような調子で答えを返した。
「じゃあ、あなたと同じような立場じゃないの?」
「ああ、そうだ。けどステイツと日本とじゃ組織の形式はともかく内実が違う。ステイツや欧州一般はトップダウンだけど、日本はボトムアップだ」
「へぇ、じゃあ一介のカーネルが日本海軍の軍事力を操ることもできるんだ。それはスゴイかも」
アンダーソンの前の女性は、さも感心という風に答えたが。
内実はそうでもないらしい事には彼も気付いていた。
「ご免よアリス、他国の軍人の事ばかり話して。けど、ボクにとっての彼は友、そう友人に間違いないんだ」
「分かってる。同僚の事ですら、滅多に嬉しそうに話さないものね。けど、ほんの少し話しただけなんでしょう。しかも顔もロクに確認できないシアターで」
アリスと呼ばれた女性は、寛容さと容赦のなさを声にもにじませ同時にぶつけてくる。
彼女はアンダーソンの婚約者で、三〇半ばにさしかかった見た目青年実業家な外見のアンダーソンに、ようやく身を固める決意をさせた女性だった。
今は少しばかり悪態を付いているが、アンダーソンの会話に平然と付いてくるだけの知性と教養を持っており、今まで婚期を逃していた。
彼女も実年齢はもう三〇才が見えている。
もっとも、二人とも見た目が若いので共に五歳は若く見え、お互いに見栄えのいい外見と品性の持ち主なので、トワイライトのワイキキ海岸に遊びに来た富裕層のカップルにも見えた。
アリスは外見を裏切らない品のある仕草で、手に持ったワイングラスをゆっくりと回しながら、アンダーソンの言葉を待った。
彼女が待たねばならなかったのは、彼がスーツの内ポケットから何かの紙を取り出していたからだ。
「顔はよく覚えているよ。日本人らしくない外見だったからね。それにホラ、昨日郵便で彼から返事が届いたんだ。見てご覧」
ゆっくりと差し出された封筒を受け取ると、中の便せんはかなり豪快な英文で返事が書かれていた。
内容は、アンダーソンの出世を祝い、自身の近況を書いたごくありきたりなものだった。
アリスが読めない文字もあったが、そこだけは英文と一緒に差出人の名前が母国語で書かれていたためだ。
そして手紙を出した時、もう一つの紙が出てきた。
印画紙だった。
「あ、写真」
アリスが手に取ると、大判の写真には金城一家勢揃いの姿が映っていた。
婚約者の言う通り、民族衣装を着た中年と思われる東洋人の男は、アメリカ人から見ても大柄な部類の体格で彫りの深い顔立ちのため、ハワイでもよく見かける日本人らしく見えなかった。
だが、彼女の関心をひいたのは、他のところにあった。
「幸せそうなご家族ね」
「だろ、ボクの親近感を強めさせた大きな一因なんだ」
「ボク達もこんな家庭を作りたいね、とでも言い出しそうね」
「言って欲しいかい?」
「ええ、何度でも聞いてあげる。けど、奥さんはどうされたのかしら? まさか写真を撮ったから映ってなかったりして」
アリスが心底不思議そうに言うと、アンダーソンは一瞬怪訝な顔をしたがすぐに破顔した。
「ジローの隣にいる髪をアップした民族衣装の女性が奥さんだよ。手紙にも書いているよ」
「え、娘さんかと思った。日本人の見た目って分かりにくいわ。それに、小さな少女が水兵なのも驚き」
「ハハハ、違うよ。そのセーラードレスは、日本では普通の女学生の制服にも使われているんだよ。それに男の学生も、詰め襟の軍服を模しているんだ」
婚約者の言葉にアンダーソンは再び笑顔となった。文化の違いはかくも深いものだと内心思いながら、今夜は彼女のために日本文化の講義へと雪崩れ込む事になった。
しかし彼女は、金城家と日本に関する会話の終わり際に、厳しさをにじませた瞳を向けつつ言い切った。
「けどキンジョーて男性、あなたの敵になるかもしれない人なのよね」と。
アリスの言った通り、冬宮殿での講和会議以後の日米関係は、良好から再び遠ざかりつつあった。
しかし、第二次世界大戦終了から2年ほどの間の方が、ここ十数年の中では例外と言うべきだった。
日米は再び対立のレールに戻っただけ、というのが日米双方を含めた多くの識者の見解だった。
違ってたのは、第二次世界大戦勃発からたった四年で激変してしまった世界情勢の方で、日米の間に横たわっていた諸問題はほとんど何も解決されていなかったからだ。
もっとも、日本の方では政府首脳から床屋のオヤジ至るまでが、激変した世界情勢のおかげで暗雲がすべて吹き払われたと考え、今は東京五輪に向けて日本人すべてが団結しようという平和ムードが溢れていた。
アメリカ市民も、世界中で起こった大戦争が祖国に何ら被害をもたらす事なく、また若者が戦地に赴くこともなく終わったと、楽天的な空気が強かった。
しかし世界情勢の変化は、アメリカという国家、政府にとっては都合の良い事はほとんど何もなかった。
アメリカとしては、自らの国益のためにも最低でも日本からアジアの扉を開かせねばならないはずなのに、扉は閉じたまま丈夫になる一方で、扉の向こうの日本の敷地ばかりが広がっていた。
にも関わらず、アメリカの外交的選択肢は限られるようになっていた。
欧州はすでに手を出すことは不可能だった。
新たなローマ帝国となったナチスドイツは、政治的にも付け入りがたかった。
イギリスも当面は経済面以外でアメリカを必要としていない。
アクシズ各国やフランスなど寝返った形の国々も同列だ。
欧州ではヒトラーこそが新たなシーザーなのであり、アメリカは異端に過ぎなかった。
いっぽうアジアでは、自らの外交の稚拙と包囲する諸外国により追いつめられつつあったはずの日本が、一発逆転で一人我が世の春を謳歌していた。
今やアメリカ以外で日本包囲を行おうとする国もなく、アメリカ自身も市民の声によって包囲の手を弛めなければならなかった。
おかげで日本は、すべての近隣勢力に勝利したと有頂天だった。
それに延期されていた東京五輪開催を再び認めさせ、五輪開催での国内景気の拡大でそれまでの不景気と戦後恐慌を乗り切ろうとしている姿勢からしてルーズベルトの気に入らなかった。
しかも日本は、内実はともかく東南アジア各地ではアジアの先達、解放者として大きく外交得点を稼いでいる。
その上、東南アジアを手にし欧州とも妥協した日本に、通商・資源制裁も以前ほど通じない。
故にアメリカの中枢に位置する人々は考え、攻撃的な者たちは同じ結論に至った。
このまま手をこまねいていては、欧州ばかりかアジア、チャイナすらステイツは長期的に失ってしまう。
強引な手を使ってでも、アジアだけでも手にしなければならない。
ドイツが次の戦争の準備を整える前に、アジア・太平洋だけでも自らの勢力圏に組み入れなければ、ステイツに未来はない、と。
そうした恐怖にも似た心理が行動に現れたのが、アンダーソン達が会食を楽しんでいる数日前の十一月三日に、ルーズベルト大統領の炉端放送として発表された言葉だった。
ルーズベルトの対日批判の再開は、最初は小さなものだった。
せいぜい、日本の繁栄と成功に対するひがみややっかみ程度にしか思われなかったぐらいだ。
しかし大統領の言葉は新聞の社説などにも少しずつ影響を与えるようになり、わずか二ヶ月で日本に対する大きなネガティブキャンペーンへと変化していた。
日本に対するネガティブキャンペーンは、日本が影響下に置いた東南アジアで資源や農作物を搾取し、国共内戦へ日本が強く関与しすぎているという主旨が主軸となった。
また、1944年にアメリカ自らが独立させるとしたフィリピンで、反政府民衆ゲリラを日本が影から支援しているとも非難した。
事実日本は、東南アジアからタダ同然で資源や農作物を手に入れていた。
現地の政府作りや教育、技術指導などにも「日本人なりに」貢献していたが、アメリカの論陣に対して強く反発したくてもできなかったのも事実だった。
しかし、それ以上にアメリカ国内でまき起こった反日世論を、最初アクシズのすべてが軽視していた。
ドイツ宣伝省はアメリカが仕掛けた一種の扇動政治に気付いていたかもしれないが、少なくとも日本の近衛内閣はまったく憂慮していなかった。
しょせんは、バスに乗り遅れた者のやっかみに過ぎないと。
だが、ルーズベルトの言葉は、新聞に煽られ市民が政府を煽るという形で急速にエスカレートした。
そしてすべての悪行を行っているのが、視野狭窄な日本軍国主義者のファシストであり、彼らこそが依然としてアジア混乱の元凶であると断じる。
さらに日本の行動が改善されなければ、日米関係を考え直すと通達するに至った。
その間、赤色戦争終了からわずか四ヶ月だった。
これには、さすがの日本政府も驚いた。
自分たちアクシズの圧倒的勝利で、もうアメリカが文句を言える国際状況でないと思っていただけに、驚きと恐怖そして理不尽な怒りは大きなものだった。
しかも日本政府としては、五輪開催を契機にすべての国との国際関係を健全化しようとしていただけに、感情的反動も大きかった。
対米協調派は、しきりに近衛首相を融和外交に動かそうとしたが、いまだ圧倒的と言ってよい勢力を持つ親独派は、外交圧力の強化こそがアメリカ封じ込めに効果的だと強気の姿勢を示した。
今は日本こそが世界の主軸なのである、と。
近衛内閣は、けっきょく彼らなりの協調方法で事態を打開しようとした。
すべてのアクシズ諸国に、同盟国としての行動を求めたのだ。
近衛首相としても、親独派の強硬論はともかく、とにかくアメリカを政治的に押さえ付け五輪開催に持ち込めば、しばらくはアメリカも動けないとの読みがあった。
日米の動きに対してドイツは、アメリカを政治的に抑えるのは利点があると考え、早くも年内には欧州諸国すべてに働きかけアメリカへの外交圧力を強化した。
アクシズ寄りだが独自路線に近いイギリスは、当面は日本を支持するが、アメリカとも関係を続けるという相変わらずのダブルスタンダードで、万が一日米が戦った場合どちらが勝利しても自らの不利にならないように動いた。
日本は、瞬く間に政治的に追いつめられていくアメリカを眺めつつも、抑止力としての軍事力整備だけは怠りなかった。
やはりアメリカが怖かったのだ。
43年の暮れから、海軍と海上航空戦力の整備が急速に進められ、陸軍では動員解除が進んでいた師団の一部を再び動員体制へと戻した。
特に対英国戦で開始されていた海軍整備計画の完成が急がれた。
いっぽう、自らの行動により政治的手段の限られたアメリカ政府だが、現政府にはなにより時間がなかった。
ルーズベルトが大統領四選を果たすためには、四四年十一月までに巨大な外交的な成果が必要不可欠となっていたからだ。
そして今の外交的窮地を短期間で打開して劇的な外交的成果を上げるには、アメリカの軍事力が何をできるかを示すか、日本の軍事力に痛烈な打撃を与え、アメリカ市民に祖国の勝利を見せ、日本に外交的譲歩を引き出させるしかないとされた。
そして、アメリカの攻撃的な動きを加速、拡大させる事件が同時期に起きる。
国共内戦の再燃だ。
支那では、日本軍の行動が鈍り始めた四〇年末頃より国共内戦が事実上再開されていた。
日本軍が、対インド作戦のため支那派遣軍の兵力を一部引き上げ、空白地帯を作ったのが原因だった。
国民党、共産党の双方が日本軍が撤退した地域の支配権を競い合い、支那事変勃発の時の日本軍より簡単に戦端を開いた。
しかも、ニュルンベルグ会議で日本と国民党が停戦に合意して国共合作が政治的にも崩れ、日本軍が全面撤退し始めた事で本格的に再燃する。
その上日本は四二年の夏からソ連戦を始めており、当初段階的撤兵のはずだったものが、年内には自国権益以外からほとんどいなくなっていた。
日本人は在支那邦人すら可能な限り引き上げさせるほどの徹底ぶりで、国共双方に要らぬ期待すら持たせたのもいけなかった。
また、赤色戦争で世界中から袋叩きにされたソヴィエト連邦は、後背から襲いかかってきた日本を牽制するために中国共産党への支援を無理を押して行った。
当然ながら内戦は徐々に共産党優位になっていた。
そして赤色戦争が終了しても内戦は続いていた。
赤色戦争で大損害を受けた日本陸軍は、満州など自らの勢力圏を固めると貝のように閉じこもってしまっていた。
日本軍のいない場所に居住する邦人を、強引に満州や新たな領土となったシベリアに送り込むなどの徹底ぶりだったほどだ。
日本としては、もう支那での戦争などこりごりだったのだ。
だが、支那情勢を故意に曲解した者がいた。
彼らは言った。
日本がアメリカが強く支援していた国民党を共産党に打倒させ、ソ連崩壊により支援者のいなくなった共産党の新たな後援者に自らが座る事で、中国大陸の支配権を得ようとしている、と。
曲がった情報を伝えたのが、何でもいいから大量の援助が欲しい蒋介石率いる中国国民党だった。
真に受けた、受けざるを得なかったのがアメリカであり、ニュルンベルグ会議での停戦合意まで中国支援を強く推し進めていたルーズベルト政権だった。
加えて、ゲリラをしたり親日姿勢のコメントを出すなど混乱を作為的に煽ったのが中国共産党だった。
かくしてアメリカ国内では、俄に巻き起こっていた反日キャンペーンに油を注ぐ格好で、中国の民主主義を救済すべしというキャンペーンが張られた。
共産主義者になり代わり、中国共産党のバックについたとされたヒールの日本をバッシングした。
アメリカのイエロージャーナリズムは、発行部数を競うために煽り文句を強め、偽情報であっても反日世論を煽るものなら喜んで取り上げた。
市民も自分たちが戦うわけではないし、なんだか良いことをしているという気分があるので、黄色い成り上がり者を口で叩くことには大賛成だった。
しかも四年ほど前まで、似たような政治、外交状況だったのだから、真実を疑う者は極めて少数派となっていた。
これに対して日本政府は、お門違いも良いところ、逆に国民党には条約に従い支援していると反論した。
だが、アメリカはすでに政府も聞く耳を持たず、一方的に日本を非難して政治的、軍事的圧力を強めた。
世論が反日燃え上がっている以上、ルーズベルトと民主党の政治的選択肢は限られていた。
自らが火を付けたとは言え、もう日本を叩くしかないのだ。
アメリカ政府も事此処に至って、日本が一度政治的か軍事的に敗北してしまえば、誰も大きな文句は言わないだろうと判断したのだ。
誰もが、そう同盟国のドイツですら、黄色い軍事大国など本当は好きではないのだ、と。
そして狙い澄ましたかのように、上海に駐留していた米艦艇が何者かに撃沈され、証拠として沈没艦の近くにあった日本の爆弾が挙げられた。
これでアメリカの強硬姿勢は強まり、年初にハワイに移動していた太平洋艦隊は、辛うじて就役した新鋭艦を過半数を受け取って訓練を強化。
日本に対する圧力を強めた。
日本側も、様々な手段と方法でアメリカと交渉を重ねつつも、太平洋の防備を強化せざるをえなかった。
日本は親独派ですらある程度はアメリカの国力は理解しており、一度の敗北は今まで得たものすべてを失いかねない敗北だと漠然とながら理解していた。
鳶から鷹に分類されたからと言って、再び鳶に戻ることはもうできない。
大日本帝国は、鷹として飛び続けるしかなかったのだ。
しかし日本の姿勢はアメリカの態度硬化を促進させ、あとはどちらが先に引き金を引くかと言われるようになる。
それは、東京五輪が開催のスケジュールのまま進んだ、一九四四年の春の事だった。




